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榮花物語


(落合直文・小中村義象・萩野由之 校『榮花物語』上中下
 日本文学全書13-15編 博文館 上巻 1891.4.16

  月宴      
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月宴

世はじまりて後、この國の御門みかど六十餘代にならせ給ひにけれど、この次第書き盡すべきにあらず。こちよりての事をぞしるすべき。
人王五十九代宇多院
世の中に、宇多の御門と申すおはしましけり。その御門、御子達あまたおはしましける中に、一の御子敦仁あつひとの親王と申しけるぞ、位につかせ給ひけるこそは、醍醐の聖帝と申して、世の中に天の下めでたき例にひき奉るなれ。位につかせ給ひて、三十三年をたもたせ給ひけるに、多くの女御達侍ひ給ひければ、男御子十六人、女御子數多おはしましけり。
その比の太政大臣基經の大臣おとゞと聞えけるは、宇多の御門の御時にうせ給ひけり。中納言長良ながよしと聞えけるは、太政大臣冬嗣ふゆつぐの御太カにぞおはしける、後は贈太政大臣とぞ聞えける、かの御三カにぞおはしける。その基經の大臣うせたまひて、後の御おくりな昭宣公せうせんこうときこえけり。
その基經の大臣、男君四人おはしけり。太カは時平ときこえけり。左大臣までなり給ひて、三十九にてうせ給ひにけり。二カ仲平と聞えけるは、左大臣までなり給ひて、七十一にてうせ給ひにけり。三カ兼平と聞えける、三位までぞおはしける。四カ忠平の大臣ぞ、太政大臣までなり給ひて、多くの年比すぐさせ給ひける。
その基經の大臣の御女の女御の御腹に、醍醐の宮達數多おはしましけり。十一の御子寛明親王と申しける、御門に居させたまひて、十六年おはしまして後におりさせ給ひておはしけるをぞ、朱雀院しゆざくゐんの御門とは申しける。その次同じ女御の御腹の十四の御子、成明の親王と申しける、さし續きて御門に居させたまひにけり。天慶九年四月十三日にぞ居させ給ひける。
朱雀院は、御子達おはしまさゞりけり。唯王女御と聞えける御腹に、えもいはず美しき女御子一所ぞおはしましける。母女御も御子みつにてうせ給ひにしかば、御門われ一所心苦しきものに養ひ奉り給ひける。いかで后にすゑ奉らんと思しけれど、例なきことにて、口惜しくてぞ過させ給ひける。昌子まさこ内親王ないしんわうとぞ聞えさせける。
かくて、今の上の御心ばへあらまほしく、あるべきかぎりおはしましけり。醍醐の聖帝世にめでたくおはしましける。又この御門、堯の子の堯ならぬやうに、大かた御心ばへ雄々しう、氣高く賢うおはしますものから、御才もかぎりなし。和歌のかたにもいみじうしませ給へり。萬になさけあり、物のはえおはしまし、そこらの女御・御息所參り集り給へるを、時あるも時なきも、御志のほどこよなけれど、いさゝかはぢがましげに、いとほしげにもてなしもせさせ給はず、なのめに情ありて、めでたう思しめしわたして、なだらかにおきてさせ給へれば、この女御・御息所達の御中も、いとめやすくびんなき事聞えず、くせ/\しからずなどして、御子うまれ給へるは、さる方に重々しくもてなさせ給ふ。さらねばさべう御もの忌みなどにて、徒然におぼさるゝ日などは、御前に召し出でゝ、碁・雙六うたせ、篇をつかせいしなどりをせさせて御覽じなどまでにぞおはしましければ、皆かたみになさけをかはし、をかしうなんおはしあひける。かく御門の御心のめでたければ、吹く風も枝をならさずなどあればにや、春の花もにほひのどけく、秋の紅葉も枝にとゞまり、いと心のどかなる御有樣なり。
只今の太政大臣にては、基經の大臣の御子、四カ忠平の大臣、御門の御をぢにて、世をまつりごちておはす。その大臣の御子五人ぞおはしける。太カは今の左大臣にて、實ョと聞えて、小野宮といふ所に住み給ふ。二カは右大臣にて、師輔の大臣、九條といふ所に住み給ふ。三カは御有樣おぼつかなし。四カ師氏と聞えける、大納言までぞなり給ひける。五カ師尹の左大臣と聞えて、小一條といふ所に住み給ふ。されば只今は、この太政大臣おほきおとゞの御子ども、やがていとやんごとなき殿ばらにておはする中に、九條の師輔の大臣、いとたはしくおはして、數多の北の方の御腹に、男十一人、女六人ぞおはしける。小野宮の左大臣殿は、男君をのこぎみ三人ばかりぞおはしける。女君もおはしけり。一所は宮腹の具にておはす。さし次は女御にておはしけり。次々さま/〃\にておはす。小一條の師尹の大臣、男子をのこゞ二人、女一所ぞおはしける。男子一人は、はかなうなり給ひにけり。
かくて女御達數多參り給へる中に、九條の師輔の大臣の姫君、あるが中に一の女御にて侍ひ給ふ。又今の御門の御兄弟はらからの、重明しげあきらの式部卿の宮の御女、女御にておはす。又同じ御兄弟の、代明の中務の宮御女、麗景殿女御とて侍ひ給ふ。又在衡ありひらの按察大納言の女、按察の御息所とて侍ひ給ふに、一條の師尹の大臣の御女、いみじう美しくて、宣耀殿の女御と聞えさす。又廣幡の中納言廣明の御女、廣幡の御息所とておはす。さてもこの御かた/〃\、皆御子うまれ給へるもあり。御子うまれ給はぬ御息所達も數多侍ひたまふ。まこと元方民部卿の女も參り給へり。
年比、東宮もかくて再びうせ給ひぬるに、春宮かく居させ給はぬに、こゝら侍ひ給ふ御かた/〃\、あやしう心もとなく、御子生れ給はざりけるほどに、九條殿の女御、たゞにもおはしまさで、めでたしとのゝしりしかど、女御子にて、いと本意なきほどに、たひらかにてだにおはしまさでうせさせ給ひぬるに、元方の御息所、たゞならぬ事のよし申してまかで給ひぬれば、もし男御子をのこみこ生れ給へるものならば、又なうめでたかるべきことに、世の人申し思したるに、一の御子生れ給へるものかな、あなめでたいみじとのゝしりたり。内おりも御劔みはかしよりはじめて、例の御作法の如くどもにてもてなし聞え給ふ。元方の大納言いみじと思したり。東宮はまだ世におはしまさぬほどなり。何の故にか、わが御子春宮に居あやまち給はん(*ママ)と、たのもしく思されけり。いみじう世の中にのゝしる程に、九條殿の女御、たゞにもおはしまさずといふこと、おのづから世に漏り聞ゆれど、元方の大納言、いでさりともさきのこともありきなど聞き思ひけり。おほい殿も九條殿も、いと嬉しう思すほどに、上は世はともあれかうもあれ、一の御子のおはするを、嬉しくたのもしきことに思しめす、ことわりなり。
天曆三年忠平薨
かゝる程に、太政大臣殿、月比なやましく思したりつるに、天曆三年八月十四日うせさせ給ひぬ。この三十六年大臣の位にておはしましけるを、御年今年ぞ七十になり給ひにける。左右の大臣達も、いとまだめでたくたのもしき御有樣なり。御門踈からぬ御なからひにて、萬かた/〃\の御事もめでたくて過ぎもていきて、女御も御服にて出で給ひぬ。心のどかに慈悲の御心廣く、世をたもたせ給へれば、世の人いみじくをしみ申す。後の謚貞信公と申しけり。
つぎ/\の御有樣、哀にめでたくて過ぎもていく。世の中のことを、實ョの左大臣仕う奉り給ふ。九條殿二の人にておはすれど、猶一くるしき二とぞ人に思ひ聞えさせためる。
天曆四年冷泉院誕生
かゝる程に年も返りぬれば、天曆四年五月二十四日に、九條殿の女御、男御子産み奉り給ひつ。内よりはいつしか御劔もてまゐり、大かた御有樣心ことにめでたし。世のおぼえ殊に騷ぎのゝしりたり。元方の大納言かくと聞くに、胸塞がる心ちして、物をだにもくはずなりにけり。いといみじくあさましき事をもしあやまちつべかめるかな。物思ひ盡きぬ胸をやみつゝ、病つきぬる心地して、同じくは今はいかで疾く死なんとのみ思ふぞ、けしからぬ心なりや。九條殿には、御産屋うぶやのほどの儀式有樣など、まねびやらんかたなし。大臣の御心のうち思ひやるに、さばかりめでたきことありなんや。小野宮の大臣も、一の御子よりは、これは嬉しく思さるべし。御門の御心のうちにも、萬思ひなくあひかなはせ給へるやうに、めでたう思されけり。
冷泉立坊
はかなう御五十日いかなども過ぎもていきて、生れ給ひて三月といふに、七月二十三日に東宮にたゝせ給ひぬ。九條殿は、大臣のうせ給ひにしを、返すがへす口惜しく思されて、得いみあへずしほたれ給ひぬ。一の御子の母女御の、湯水をだに參らで沈みてぞ臥し給へる、いみじくゆゝしきまでにぞ聞ゆる。はかなくて年月も過ぎて、この御方々、我も/\劣らじまけじと、皆たゞならずおはして、御子達いと數多出で來集り給ひぬ。按察の御息所、男三の宮、女三の宮産み奉り給ひつ。又この九條殿の女御、男四五うまれ給ひぬ。又宣耀殿女御、男六八の宮うまれ給へりけれど、六宮ははかなくなり給ひにけり。八宮ぞ無事たひらかにておはしける。麗景殿の女御、男七宮、女六宮うまれ給ひにけり。式部卿の宮の女御、女四宮ぞ産み奉り給へりける。廣幡御息所、女五宮うまれ給へり。按察の御息所、男九の宮うまれ給ひなどして、又九條殿の女御、女七九十の宮など、數多さし續きうまれさせ給ひて、猶この御有樣世に勝れさせ給へり。かくいふほどに、大かた男宮九人、女宮十人ぞおはしける。この御中にも、廣幡の御息所ぞ怪しう心ことに、心ばせあるさまに御門思しめいたりける。内よりかくなん、
あふさかも はてはゆきゝの 關もゐず 尋ねてとひこ きなばかへさじ
といふ歌を、同じやうにかゝせ給ひて、御方々に奉らせ給ひけるに、この御返事を、方々さま/〃\に申させ給ひけるに、廣幡の御息所は、たき物をぞまゐらせ給ひたりける。さればこそ猶心ことに見ゆれと思し召しけり。いとさこそなくとも、いづれの御方とかや、いみじくしたてゝ參り給へりけるはしも、なこその關もあらまほしくぞ思されける。御おぼえも日比に劣りにけりとぞ聞え侍りし。
宣耀殿の女御は、いみじう美しげにおはしましければ、御門も我私物にぞ、いみじう思ひ聞え給へりける。御門箏の御琴をぞいみじう遊ばしける。この宣耀殿の女御にならはさせ給ひければ、いとうつくしう彈きとり給へりけるを、女御の御兄弟の濟時の少將、常に御前に出でつゝ、さりげなう聞えける程に、いみじうよく彈きとり給へりければ、上いみじう興ぜさせ給ひて、召し出しつゝヘへさせ給ひて、後々は御遊のをり/\は、まづ召し出でゝ、いみじき上手にてぞものし給ひける。
この殿ばらの御心樣ども、同じ御兄弟なれど、さま/〃\心々にぞおはしける。小野の宮の大臣は、歌をいみじくよませ給ふ。すき/〃\しきものから、奧深く煩しき御心にぞおはしける。九條の大臣は、おいらかに知るしらぬわかず、心廣くなどして、月比ありて參りたる人をも、只今ありつるやうに、けにくゝもてなさせ給はずなどして、いと心安げに思しおきてためれば、大殿の人々、多くはこの九條殿にぞ集りける。小一條の師尹の大臣は、知るしらぬほどの疎さむつまじさも、思し思さぬほどのけぢめさやかになどして、くせ/〃\しうぞ思しおきてたりける。そのほどさま/〃\をかしうなんありける。
天コ二年安子立后
東宮やう/\およずけさせ給ひけるまゝに、いみじう美しうおはしますにつけても、九條殿の御おぼえいみじうめでたし。又四五の宮さへおはしますぞめでたきや。かゝるほどに、天コ二年七月二十七日にぞ、九條殿の女御、后にたゝせ給ふ。藤原の安子と申して、今は中宮と聞えさす。
高明中宮大夫
中宮大夫には、御門の御兄弟の高明の親王と聞えさせし、今は源氏にて、例人になりておはするぞなり給ひにける。つぎ/\の宮づかさども、心ことに撰びなさせ給ふ。九條殿の御氣色、世にあるかひありてめでたし。小野の宮の大臣、女御の御事を口惜しく思したり。小野の宮の大臣の御太カ、少將にて、敦敏とていとおぼえありておはせし、一とせうせ給ひにしぞかし。その御思ひにて、いみじく戀ひしのび給ひけるを、あづまの方より、人かの少將の君にとて、馬を奉りければ、見給ひて、大臣よみ給ひける、
まだ知らぬ 人もありけり 東路に われもゆきてぞ 住むべかりける
この殿、大かた歌を好み給ひければ、今の御門この方に深くおはしまして、をり/\には、この大臣ゥ共にぞよみかはさせ給ひける。
萬葉集撰の事
昔、高野の女帝の御代、天平勝寳五年には、左大臣橘卿ゥ兄・ゥ卿大夫等集りて、萬葉集を撰ばせたまふ。

        
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