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保暦間記 

小瀬道甫
(『』   
【割注】(*入力者注記)

                             

保歴(*ママ)間記 

小瀬道甫 刊
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義經は右の生捕大路を渡さんに、若平家の殘黨等いかなる事を仕出す事もやあらんとて、軍勢に仰て前後左右を打圍ませらる。此人々都を出給て僅に中一年なれば、目出かりし事も今の樣に覺て哀なり。世のありさまの定なさ、盛者必衰と云ながら袖をしぼらぬ人はなし。内大臣をば大路を渡して後は、判官の宿所に推こめ奉り、建禮門院は東山吉田の邊へ入れまいらせけり。さしも物うかりし旅舩の御住居も今は戀くぞ思食しける。同廿七日に頼朝卿を從二位に任ぜらる。偏に内大臣追罰の御恩賞とぞ聞へし。今夜内侍所をば温明殿に入れまいらせ、三夜の御神樂執行せ給ふ。平大納言は秘書など入つる櫃を判官に奪れて、此中の文ども若披露あらば他人も多く亡ひ我身の上もをぼつかなしと思はれければ、義經にちなんで彼櫃を乞取て則燒捨らる。而して國穩に民豊にして徃還の煩もなし。九郎判官程のいみじき人あらじと院の御氣色も能く、世の人も多思付けり。され共頼朝卿は時忠の縁者に成られし事心得ず。院の御氣色能も又以不審也と思召れけり。是偏に梶原が讒言とぞ聞へける。五月七日、義經内大臣父子を具足し給ひて關東へ下向せらる。宗盛卿仰られけるは、父子の命を申請てたび候へ。何なる山林にも籠て後生菩提を祈らんと涙を流て仰ければ、義經きこしめされ、何にもして父子の御命をば勲功の賞に申替て助奉り見候べしとぞ申されける。同十六日、鎌倉に下著あれ共、源二位殿見參もなく比企藤四郎能員を以て事の由を申されけるに、内大臣居直り畏てぞ聞給ふ。此形勢を見まいらせ、關東の侍も多は此人の恩を蒙しかば哀を催すばかりなり。義經の御事も梶原かねて讒し申たりしかば、頼朝卿御對面もましまさで、六月九日、大臣殿を相具しつゝ已に上洛し給ひけり。本三位中將も今度上洛せらる。同廿一日、近江國篠原に著。同廿二日の朝より右衛門督を別の所にをき奉れば、今を限の命と互に思給ひつゝ、此十七年が程片時も離れざりつる物をとて歎給ふぞ哀なる。判官はさる人にて、大原の本性上人を請じて善知識となし、目出く教化申されけるに、則宗盛念佛をとなへ切られ給へば、右衛門督清宗も切れ給ひけり。同廿三日に宗盛父子の首を大路を渡して獄門に懸らるべしと義經宣ひければ、諸卿評定有て申されけるは、三公以上の首を渡して懸らるゝ事其例なし。就中此仁和寺先帝に近く仕へて萬機の政を司りし人の首を渡されん事いわれなしと申されけれ共、義經重て宣けるは、義朝が首を渡して懸られし上は當家の面目不可過之由を頻に仰られしかば、遂に獄門に懸られにけり。見る人數をつくしけり。本三位中將は南都へ渡されけるを、大衆請取て東大寺・興福寺のつゐかき(*築垣)を引廻し、又武士の手へ還しければ、即請取て木津河にて切奉り、同大路を渡して懸られけり。平家の重恩受つるものをとて涙を流す人も多し。父入道の惡行世に超たりしかば、寔も佛神三寳にもはなたれ、上一人より下萬人に及まで怨みを受し人の末なればかゝる報もありけりと因果の道理も知られたり。同七月、平家悉く滅し畢て國家萬歳を歌ひ、萬民安堵の思を成す處に、同九日、大地震有て内裏仙洞并に堂塔佛閣破れぬれば、主上鳳輦にめされて池上の舩に浮ばせ給ふ。君さへ如此をはしければ、洛中洛外の人々庭上に月を見て家の中に住する人はなかりけり。然れ共、程歴ぬれば頓て本の如くにして靜まりける。是偏に十善帝王・公卿・殿上人おゝく波底に沈給ひ、三公以上の首を大路を渡して懸られしかば、かゝる怨念の故にやよりけんとぞ申す人もをはしける。八月十四日、改元有て文治元年(*1185)と號し、同く除目あつて源氏六人受領めさるれば、義經は伊豫國を給り、院の御厩の別當に成給ひ、關東より侍十人付られて京都の守護に置給ふ。義經内々は此度平家を亡す事、偏に義經が功にてありければ、京都より西をば相計ふべしとこそあるべきに、只伊豫國一國を申與らるゝ事更に不心得儀とは思召けれ共、曽て言葉には出し給はず。又八月廿八日、建禮門院御在所に御幸成りしが、聞しより猶物さびしく、幽なる御すまい申も愚にぞをはしける。其後平大納言時忠以下僧俗流罪せられける。同十月、九郎判官と鎌倉の源二位殿と中惡ふりて(*惡ふなりてカ)土佐房昌俊と云者を忍び上せ、義經を夜打にせんと仕けれどもかなはずして生捕れ、六條河原にて切れけり。此事關東に聞へて、北條四郎時政大將軍にて大勢上と聞へしかば、義經院の御所に參て申されけるは、臣罪なしといへ共義經討るべしと聞へ候。都に候はゞ君の御ためもいかゞ、人の惱に成べく候。先西國の方へ罷下候て罪なき由を申ひらき度こそ存候へ。鎭西の者共義經に相隨べき旨の院宣を給り候はゞやと申されければ、法皇思召わづらはせ給けるを、義經是に候ては又都の煩たるべしと申所を、御感有て出さるべしと諸卿頻に申されける程に、院宣を成し少も人の惱もなくして都を出て、渡部の邊まで下向し給ひしが、難風吹て海上も叶はず。一年平家追討の時西國發向の事思合するに、其因果はや廻り來りぬと不思議也し事共多かりき。爰に多田の源氏等頼朝公の思はるゝ所も有とて追懸責戰ふ。義經無勢也ければ、心計は武けれ共力なく、散々に成て吉野山へ入給ひぬ。角て三河守範頼も義經討手に上られけるが、九郎がまねすなと頼朝に云はれて、今度は留て左右申されけれ共、終に是も生害に及き。寔に平家追罰の報とぞ申ける。同十月、頼朝卿勝長壽院を造て供養せらる。導師は公顯僧正也。其後頼朝卿北條四郎時政を使として國々に守護を置き、郡庄に地頭を居へ、惣地頭職を給はらんと奏し申されければ、法皇いまだ日本國に例なき事なればと思召煩はせ給ひけれ共、源二位が望處閣きがたしとて免し給ひけり。平家天下の權を取し時よりも尚まさりてぞ見えける。時政在京して平家の子孫とさへ云ばこと〴〵く尋出し、幼少なるをば水に入老たる人をば切すてけり。小松權亮維盛の子息六代殿も深隱居給へるを尋出しけり。御姿を見奉るに、容顔いみじく最あでやかに御座しければ、鄙のゑびすの心にも無限いたはりて兎角日を送りける處に、母上此事を歎つゝ雄の文覺上人へ參り給ふて、わりなき事を頼み給ふもよしなきわざと思ひしかども、上人より外に頼母布人なきなんど聞及候へば偏に御憐を頼をわしますとかきくどかせ給へば、上人いとゞ頼母布心も強く慈悲なる人なれば、鎌倉へ下向して源二位殿に申請候べし。其間相かまへて討し給ふなと奉行所へ堅くたのめをきてぞ下けるが、其後いなやの事も聞へざりければ、預人六代殿を具して、十二月六日都を出鎌倉へ下けるに、駿河國千本の松原にして既にきり奉らんとする處に、文覺上人六代殿の免状を以御免如此ぞ。六代殿渡し候へとて、即請取具し奉り上洛す。皆人慈悲第一の文覺坊なりとて、都鄙の感聲いと夥し。爰に小松殿の末子丹後侍從忠房忍て八嶋を落て熊野に御座しれけば(*御座しければ)、平家の人々五百餘人寄集て謀叛を發し、合戰度々有けれ共相叶はずして忠房鎌倉へ取下されて被切けり。義經は吉野の奥、又奈良邊に忍て有けるが入洛し給ひて、文治二年(*1186)春の末に北陸道に懸て奥州へ下向して秀衡を頼て明し暮せしが、文治四年(*1188)陸奥守藤原秀衡入道病死す。頼朝仰けるは、此入道既に死れぬ。然ば義經・泰衡を討ん事は可安とて種々の計略を廻し、文治五年(*1189)四月晦日に秀衡子共に仰て義經を討給ひぬ。頼朝悦て、今は何事か有べき。時日を不可移とて、同七月十九日、頼朝鎌倉を立て奥州へ下向す。先陣畠山次郎平重忠【秩父庄司重能子】、東海道大將は平忠常【千葉介】・藤原知家【八田四郎】等也。北陸道の大將比企藤四郎能員等也。白河關・契惜山所々合戰破て泰衡九月十三日、すゞしくも討死してんげり。其後上總介弘常は泰衡に所縁あるに依て今度奥州へも下らざりければ、頼朝奇恠に思召梶原平三景時に仰て討れけり。建久元年(*1190)正月、大河次郎兼任【泰衡家人】謀叛を起し誅せられ畢ぬ。同比信濃國井上九郎源光盛【掃部助頼家子】叛逆して誅せられぬ。頼朝若して多くの平家を滅し、十善帝王を海中に沈め奉り、或は親族を數多失ひ、いかほどの人だねをか絶すらん。其因果こそ怖しけれ。然れ共一徃の余威にや有けん、今は遠近共に敵對する者一人もなし。吾世を取て未だ上洛もなければとて、建久元年(*1190)庚戌十月既に上洛す。爰に長田庄司平忠致此間は鎌倉に置れたりけるを、美濃國青墓の宿にて切れけり。是は父義朝への孝養にてもや有けん。同十一月七日、京著す。先陣は畠山次郎重忠、後陣は千葉介常胤也。凡關東の侍多分上洛す。其勢三十萬騎と云云。頼朝平治の昔東國へ流罪せられし後は今始て古郷へ還り給へば、樣々のうき難行を思ひ出し給ふ事もあらん。又錦を著給ひし餘勢もたくましく有けめ。御心の内思ひやられて浦山し。まして多くの朝敵を討亡し父祖の耻を雪るのみならず、日本國惣追捕使として上より下に至まで隨はずと云者一人もなければ、さこそ御心の内の悦甚深からん。同九日、正二位して大納言に任ず。十二月一日、右大將を兼て祝し被申事あり。能保卿(*一条能保)・公經卿(*藤原公経)・保家(*藤原保家)等後車せられけり。隨身兼平(*秦兼平)。武士七人甲冑を帶す、但し甲をば不著。前駈十餘人、衛府七人召具す。事寔勢ひ猛にして勇々しかりし事也。然共天道は滿るを闕の事をや思ひ出給けん、兩官共に辞して既に關東へ下向せんとて院の御所に參たりけるに、法皇仰られけるは、朝敵を亡す事其功譬を取んに其比へなし。今は何の望か有けると定まし〳〵けるに、頼朝此上何れの望をはしまさゞりし旨荅せらる。其時御前より物ふりたる袋に入し太刀を出し給ひつゝ、是や見知れる事もや有と仰られければ、跪て奉るに忝くも源氏重代の髭切と申太刀にて御座す。平治の昔、平家のために取れて三十餘年を經て今始て見給ふ。且は君の御志の忝さ、且は昔の事只今のやうに覺へ、涙内に催し候とて三度拜して出られけり。此太刀は一とせ頼朝尾張國にして召取れし時、ある御堂の天井に上げ置玉へるを、大政入道取て持たりき。其後八條の宿所を造り院を入進せて種々の珍寳數を盡して進せられけるに、院の仰に髭切と云太刀の候なる所望の御志ありと仰られければ、入道我家の重寳なりと云共、子細に及ばんやとて悦て進せらる。其時重盛計ぞ聊色替て見えられける。餘人は更に思よる事なし。今こそ兼てより思召るゝ事の有て左もありてんと思合せられて不思議也。同廿九日、頼朝關東へ下向有けり。翌年(*1191)には天下無爲にして國土穩やかなり。同三年(*1192)三月十三日、法皇崩御なる。御追號をば後白河院と申奉る。保元より打つゞき世亂れ、御心安き事もなく、御年をつくし御座き。是祖考・千考無コなりし故、王法もすたれん徴と覺たり。主上幼帝に御坐しければ、如前の攝政【兼實公月輪殿】政を仕給けり。大方は一向關東の任にぞ有ける。同八月、頼朝鶴岡八幡宮に始て放生會を行る。同十一月廿五日、永福寺を造立し供養を遂らる。導師は公顯僧正也。此寺は專ら池の禪尼の孝養とぞ聞へし。誠に平治の亂の時、此尼公の口入に依て助かり給しかば、報荅も其故尤とぞ覺ゑける。同四年(*1193)、頼朝今は天下服せざる所なかりければ、所々の狩なんどものし遊れけり。信濃の御原(*三原)、下時(*下野)の那須野の狩など有けり。其後冨士の奥野の御狩ありし時、伊豆國の住人曽我十郎助成、同五郎時宗と云者あり。其いとこに工藤左衛門尉資經と云し者、助成が親河津の三郎を子細有て討たりしが、其時は彼等幼少にもあり、又資經は頼朝の御氣色もいといみじく、事外にり、人を人ともせず、彼等をも賤見ければ、かた〴〵思ひ立て、建久四年(*1193)五月廿八日、彼狩野の井出の屋形にて資經を助成・時宗討しなり。是偏に威をたくましくし、一身の樂を專にし、義を貴びざるより出で空く亡びけるなり。夫禍福は自取にあらずや。助成・時宗は伊藤入道が孫、朝敵の者の子孫也とて世に無者となりき。然により便宜あらば將軍をも思懸奉んとにや、又のがるまじと思けるにや、將軍の假屋にて二人の者苦戰してんげる。助成は新田四郎が手に懸て討れ、時宗は生捕れて被誅畢ぬ。俗曽我物語と云是なり。同八月、三河守範頼被誅。其故は去冨士の狩場にて大將殿の討れさせ給ひて候と云事鎌倉へ聞へたりけるに、二位殿大に騷て歎かせ給ける。三州鎌倉に留守也けるが、範頼左て候へば御代は何事か候べきとなぐさめ申たりけるを、さては世に心を懸たるかとて疑をなしての事なりき。不便なりし事共なり。頼朝の無道寔に了簡の及所に非ず。同五年(*1194)九月廿二日、南都興福寺供養あり。導師權僧正覺憲、關白兼實公【月輪殿】參詣。凡藤氏の雲客悉參詣あつて執行せらる。是は去治承四年(*1180)炎上ありしを修造せられし也。同六年(*1195)三月十二日、東大寺供養あり。此導師も覺憲、咒願者勝顯、請僧は一千人なり。主上行幸なりしかば、關白已下の人々も皆參詣し給ふ。天も明かに地も輝く計なり。先右大將頼朝供養の惣奉行也ければ、上洛して供養す。頼朝南の大門より入給ひけるに、大衆の中にあやしき者の有けるを召捕て尋らるゝに、平家の侍薩摩中務と云者也。平家の孝養にせんとて君をねらひ奉りつると荅。頼朝是を感じて助んと宣ひけれ共、所望して被切けり。志の至とかう申すに及ばれず。頼朝且在京あつて、六月の末にぞ下向せられける。其後七八の兩年(*1196─1197)は世間無爲なり。同九年(*1198)正月十一日、當今御位を退すべらせ給ひて第一の宮に御位を譲り給ふ。先帝をば後鳥忠@とぞ申ける。同冬、大將殿相摸河の橋供養に出て還らせ給ひけるに、八的が原と云處にて亡されし源氏義廣(*源義広)・義經・行家已下の人々の怨靈現じて將軍に目を見合けり。是を打過給ひけるに、稻村アにて海上に十歳計なる童子の現じ給ひて、汝を此程隨分うらみつるに今こそ見付たれ。我をば誰とか見る。西海にて沈し安コ天皇也とて失給ぬ。其後鎌倉へ入給ひて、則病著給ひしが、明年(*1199)正月【正治元年】十三日終に五十三にして薨じ玉ふ。是を老死と云べからず。偏に平家其外多くの人を失ひ、或親族等を亡せし靈怨因果歴然の責也。古今天の責極り來れば、矢もたても勿論、祈り・加持も不入物也。猛威の人は是を鏡とぞ朝々暮々中に掛て見給ふべし。さて左近衛少將殿【頼家、歳十八】嫡子として彼跡を継給ふ。同四月、雄文覺坊土佐國へ流さる。彼聖に預置れし六代殿出家して山々寺々修行せられけるを、世の末に如何なる事も有べしやとて尋出し、鎌倉へ下し進せて芝と云所にて被誅畢ぬ。さてこそ平家一族は悉亡び果ぬ。同十二月十八日、梶原平三景時多人を讒言せしか共、頼朝寵愛の間は其沙汰なかりしが、頼家は若き人にて思慮なき故にや、生害せらるゝ者多かりければ、諸人連判の訴訟に依て景時鎌倉中を追出されて相摸國一宮に住けるが、尚惡事共聞へて彼在所をも追出さる。景時爰にも相叶ずして落行けるを、同二年(*1200)正月廿日、駿河國橋の邊にて御敵の落行ぞや。出合討とめよとてければ、折節的を射ける場より出合て射ける矢に左の頸の根より舌を射ぬかれて失にけり。義經などを讒しける報ひなるべしと口號みける。故君の情は深かりしか共、二代の時には威衰へ身の上もをぼつかなふ成し故、謀叛を思立。秘に武田兵衛尉有義を大將軍に取立天下をくつがへすべき謀をなす。有義が舎弟伊澤五郎信光(*武田信光)略これを知れり。頼朝の恩賞を深く思ふ故、彼一門を專とす。然間、兄の在所へ押寄見けるに有義逐電せしかば、其城中を改みるに一つのふばこあり。梶原謀叛の契約明白なる状共多く有。又即信光鎌倉へ持參しけるに、事外の御感なり。然して景時一類鎌倉を落行けるを、清見關邊にして廿餘人討れぬ。内裏にも天下御祈として五大尊の法を修せらる。建仁元年(*1201)正月十三日、朝勤行幸の夜、越後國住人城四郎長茂何なる企にや、内裏【二條殿】へ亂入て被誅畢ぬ。不思議なる事也。建仁三年(*1203)七月廿一日頼家【左衛門督、歳廿二】病を受き。此人多く死靈の故にや、大方人の望にも背けるが、病氣日に増夜に重ふせ(*重らせ)給ひければ、八月廿七日、遺跡を長子【一幡君】に譲り、坂より西三十八箇國は舎弟【千幡君】に譲ふれ(*譲られ)給ひけり。爰に執權の人の無コなるを鬼神とがめ給ふにや、又因果の報にや、大臣威あらそひの元こそ出來けれ。比企判官藤原能員【一幡君六歳外祖】、遠江守時政【千幡君十歳外祖】を討、天下の世務を一人して相計はんとする隱謀あり。此事聞へて、九月二日能員を時政の宿所へたばかりよせて差殺し畢ぬ。同六日、一幡君并能員息宗朝以下御所に籠て合戰を催す。義時(*北条義時)・義村(*三浦義村)・朝政(*小山朝政)等を大將として數萬騎の軍兵を差遣し相戰ひ、終に押入御所中に火をかけ能員が一族悉討滅し畢ぬ。剰一幡御前も猛火の中にして空しくならせ給ふ。是を小御所合戰と申す。能々彼を勘へ此を計りみるに、何も因果の徃來より外他事なし。其元天地の化にあり。化者感應なり。同七日、頼家卿出家し給ふ。同十七日、千幡御前元服まし〳〵て實朝と號す。廿二日、仁田四郎忠常【一幡御前乳母】討れけり。同廿七日、實朝【十二歳】にして征軍夷將(*征夷將軍)の宣旨を蒙り給ふ。然るに頼家卿少驗を得、能員をこそ打れめ、目の前にて一幡を討れぬる事無念也。時政を討べしと議して諸人を召處に、同廿九日、伊豆國修禪寺へ移り行ぬ。然して後時政實朝の執權として天下の事執行ひけるに、頼家卿猶御憤つよくなり行由聞へければ、次年【元久元年】(*1204)七月十九日に三十三歳にして修禪寺の浴室の内にて討奉り、時政彌權を恣にぞしたりける。此人の妻牧の女房と申人あり。心たけくれる人也。されば重忠は時政の聟也。又武藏左衛門佐源朝政朝臣も【平賀四郎義信子】時政の聟也けり。朝政は牧の御方腹のむこ也。畠山は二位殿【尼御臺所頼朝後室】義時以下の前腹の聟なるにより、常に不和なりければ、人の讒言も有けるにや、又牧の女房思立事も有けるにや、重忠は弓箭を取て無雙なりし上殊に當將軍守護の人也ければ、此人を先亡さんと思て重忠がいとこ稻毛三郎入道重成法師を語て讒しけるに、終に事積て武藏國二俣河にして、元久二年(*1205)六月廿二日に重忠を討たりける。哀なる事也。

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