公事根源
一条兼良
小中村義象・落合直文・萩野由之
校『十訓抄・公事根源』
(日本文學全書 第廿二編 博文館 1892.2.6)
(解題)
公事根源は、一條禪閤藤原兼良が、二十一歳の時の撰なり。原本には、應永二十九年(*1422年)正月十二日書レ之畢、偏爲二嬰兒一也、外見有レ憚、内大臣と奧書ありとぞ。一説には、この書、一名を公事根源抄ともいひて、足利將軍義量公の所望によりて、兼良公十九歳の時記したるよしいへど、誤なるべし。さて公事とは、朝廷の儀式の事にて、根源とは、其根本濫觴の義なれども、并せて沿革をもしるしたり。凡朝廷儀式の事書きたる書中に、官撰なるは、弘仁の内裏式三卷、貞觀の儀式十卷あり、いづれも漢文にて記す。其後公卿の私撰、つぎ/〃\出で來れる中に、源高明公(醍醐帝の皇子西宮左大臣と稱す)の西宮抄(卷數不定)(*西宮記)、大納言藤原公任卿の北山抄十卷、大江匡房の江家次第廿一卷、さては水戸の光圀卿(*原文「公圀卿」)の禮儀類典五百十卷など、さま/〃\ありて、皆中古の記録文なり。特に類典は、大成の書にて、漏るゝ所なきに近しといへども(*原文「近しいへども」)、得難く讀みがたくして、初學要領を得るに艱む。しかるにこの書は、能く簡要を得て、文も國文にて、いと明に記したれば、殊に有用の書なりとす。凡儀式の次第は、漢文にても國文にても、書くに甚難きものにて、學者の甚困む所なるを、斯くもよく書きとれる手腕のほど、後學の摸範とすべき所多し。文學全書は、從來多く種々の作例となるべき書を集めたれど、儀式の次第を記したるものは、いまだ収めざるにより、今こゝにこれを載せて、記事文中、かゝる一種の文例あることをも知らしむ。
著者兼良公は、關白經嗣公の子にて、家學を受けて、和漢梵(*原文「林/九」)の學に通じ、足利時代において、二人となき博識の人なり。著書甚多く、皆有益の書なり。世に知られたるものには、四書童子訓、日本紀纂疏、元亨釋書注、文明一統記、歌林良材(*歌林良材集)、花鳥餘情(*原文「花鳥除情」)、源氏秘訣、源氏年立、源氏和字訓、古今秘抄、新式今案追加(*連歌新式追加並新式今案)、職原抄(*原文「重編原抄」)、令抄、江次第注、讓位即位御禊(*原文「御〓」一字欠)大嘗會和字抄(*三箇大事=「御譲位事」「御即位事」「御禊行幸事」「大嘗会日事」)、除官雜例、愚見抄、連珠合壁(*連珠合壁集)、東齋隨筆、樵談治要、藤川記、雲居の春、筆のすさび、小夜の寢覺、尺素往來、世諺問答、語園、さてはこの書等なり。その自負も甚強く、自ら謂ふ、余は菅丞相に勝れること三つあり、攝家に生れし事、太政大臣に昇りし事、延喜以後の事を知れる事なりと。早く關白にならんと競望し、足利將軍義勝の母に賴りて、頻にこれを請ひ、遂に近衛房嗣公に辭職せしめて、己これに代れるより、世には誹議せしものもありしといへり。晩年職を辭して薙髪す。時に京師戰亂の區となり、數多の藏書どもは、兵士のために散失せられ、身も京都に居かねて、奈良に屏居し、文明十三年(*1481年)、八十歳にて薨ぜられたり。桃華老人とも、三關老人とも號す。世には後成恩寺殿といふ。子冬良公は、後妙華寺殿といひ、父に亞ぎての學者なり。また關白となる(*原文「なり」)。當時の例、父に相繼ぎて關白となる時は、隱居の父を太閤といふ。太閤(*原文「太關」)薙髪して佛に歸すれば、禪閤といふ。兼良公を一條禪閤といふは、このゆゑなり。
この書の刊本は、古活字本と、慶安二年の刊本とあり。今はもとの不忍文庫本なる古活字本によりて、校訂しつ。註解の書は、元祿七年に、松下見林の著せる公事根源抄集釋三卷あり、よろしきもの(*原文「よろしもの」)なり。標註多くはこれによれり。
公事根源目次
公事根源目次 終
正月
四方拜 一日
四方拜といふ事は、元正の寅の時に、皇屬星(*屬星は北斗の七星なり。子年は貪狼星、丑亥は巨門星、寅戌は祿存星、卯酉は文曲星、辰申は廉貞星、巳未は武曲星、午年は破軍星に當れり。委しくは江家次第に見ゆ。)をとなへ、天地四方山陵を拜し給ひて、年災をも拂ひ、寳祚をも祈り申さるゝ儀にて侍るにや。淸凉殿の東階の前、砌(*砌は階甃、即ち椽にのぼるふみ石なり。)の外に御屏風を建てめぐらし、その中に御座三所(*御座三所は一所は屬星、一所は天地、一所は山陵を拜する料の座なり。)をまうけ、その前に白木の机をおきて、香華燈などをそなへ、此所にして御拜の儀式あり。昔は殿上の侍臣なども、四方拜をばしけるにや、近比は、内裏、仙洞、攝關、大臣家などの外は、さる事もなきなり。この事いつはじまるとも見えず。仁和(*仁和は光孝天皇の年號なり。)五年正月寅の刻に、天地四方、屬星山陵を拜し給ふよし、宇多の御門の御記(*宇多の御門の御記とは寛平御記の事なり。)に載せられたれども、濫觴とは見えず。又皇極天皇、雨を祈りたまふとて、南淵(*南淵は大和國にて多武峯の近所なり。)の河上に行幸ありて、四方を拜し給ひければ、雨五日まで降りけるよし、日本紀に載せられたれば、これなどをやはじめとも申すべからん。その上屬星を拜して災難を除く趣は、天地瑞祥志といふ書に見えたり。
供ズ二御藥ヲ一 同日
これは元三の儀なり。御殿(*御殿は淸凉殿なり。)にて行はる。主上、晝御座に出御なりて、生氣(*生氣は陰陽家にてその年その事をするに善き方角をいふ定なり。さて生氣の方の色の衣を當色とはいふなり。)の色の御衣を、世のつねの御直衣の上に重ねめさる。陪膳の典侍、典藥の頭も、生氣の色を着す。この時、先づ御厨子所の御齒固を供ず。命婦藏人役送して、典侍次第に御前にすう。(*御前にすうの五字一本命婦につくる、今一本によりて改む。)まゐりはてゝ、藥子とて、小女のいまだ嫁せざるを求めて、これを用ゐることあり。屠蘇は小兒より飲む(*屠蘇は小兒より飲むといふ本文は四民月令に見えたり。)といふ本文あれば、そのために小女を撰びて、まづ飲ましむるなるべし。この藥子、鬼の間より進みて、端の几帳のもとにさぶらふ。女官典藥(*原文ルビ「てしやく」)を召して、御藥をもよほす。一獻に、まづ屠蘇を酒に入れて、藥子に飲ましむ。次に銀器に入れて、典藥頭とりて陪膳につたふ。主上座を立たせたまひて、夜御殿(*夜御殿は主上の御寐所にて淸凉殿内の東方にあり。)の南の方より入りたまひて、御塗籠の東の方の戸に向ひて立たせ給へば、陪膳御盞を持ちてまゐらす。これも屠蘇は、東の戸に向ひて飲むよし本文あるにや。次に女官にかへし給へば、これを後取の人に飲ましむ。昔は上戸(*上戸江次第には高戸とあり、唐には大戸といふとぞ。)を撰びて、後取に召しけるとかや。一日は四位、二日は五位、三日は六位の藏人なり。つごもりの日、奉行の藏人、交名を切紙(*交名の切紙は廣一寸八分、高一寸六分なり。委しくは江次第に見えたり。)にしるして、殿上のすみの柱におすなり。さて二獻には、神明白散を供ず。昔は肴を後取の人にたまふことあり。大根をたぶ。女藏人たまはりて、扇にすゑてこれをいだす。元日は人々精進のゆゑなりと、江次第に見えたり。三献に度嶂散(*度嶂散は延喜式に辟嶂山惡氣と見えたり。)を供ず。如此御藥の儀式は三ヶ日あり。第三日は御たうやく(*御たうやくは御膏藥と書けるをカウ藥の名を忌みてタウ藥と呼べるなり。こは千瘡膏といふ膏藥なりといへり。)を奉る。銀器に入れたり。無名指につけて、御額、並に御耳の裏につけらる。右の第四の指をかゞめてつくるなり。これは藥師の印相にて侍るとかや。この御藥の儀式は、五十二代嵯峨天皇(*五十二代嵯峨天皇の八字一本になし。)、弘仁年中に始めらる。一人これを飲みぬれば一家に病なし、一家これを飲みぬれば一里に病なしといふ、めでたき功能侍れば、年のはじめにこれを奉るにや。
供ズ二御節供ヲ一 同日
これも三ヶ日の事なり。寛平二年(*寛平は宇多天皇の年號なり。)(*890年)二月の比、後院の別當善(*別當善一本前當善に作れり。寬平の比嵯峨源氏善といふ人あり。恐くはこの人ならんか。)といふ人に仰せられて、毎節に調進せらる。諸院宮の御節供も、これにおなじ。異なる事は侍らず。
朝賀 同日
これを(*これを一本これはに作れり。)朝拜とも申すなり。辰の時に、天皇大極殿に行幸ありて行はせたまふなり。群臣皆禮朊を着して、さながら御即位の儀式におなじ。内辨などもあり。開門などありて、めしの皷を打たしむれば、群臣列して門に入る。(*門に入る一本門を入るに作れり。而して天子の二字なし。)天子高御座につかせ給へば、兵庫寮鉦をうつ。執翳(*執翳の下一本に褰帳の二字あり。)いでゝ、帳を八字にかゝぐ。近仗(*近仗は近衛の次將をいふ。)警蹕をそうし、圖書主殿香をたく。典儀(*典儀は少納言をいふなり。)再拜をとなふ。群臣この時再拜す。奏賀奏瑞とて、二人のもの庭にすゝみて、祝ひ申すことなり。これは去年のめでたき嘉瑞どものあるを、國々より申せば、それをしるして、今日これを奏するなり。その時群臣再拜す。次に舞蹈すれば、武官萬歳の旗をふるなり。いとめでたき儀式どもなり。神武天皇(*神武天皇の上一本にまたの二字あり。)元年正月一日、橿原の宮に都を建て、(*橿原の宮に都を建て一本に都をの二字なし。今一本に隨ひ補ひつ。)始めて位に即かせたまひける時、宇摩志麻治命、天瑞を奏せらるゝよし、日本紀(*日本紀は舊事紀(*古事記)の誤謬なるべし。この事は舊事紀に見えたる事なればなり。)に見えたり。これなどをや始とも申すべき。又孝德天皇の御宇、大化二年正月一日、御門をがみの事侍るよし、同書に載せたり。これぞ誠の朝拜とは申すべからん。しかるに六十六代一條院、正暦より後はありとも承らず。又記録にも所見なきにや。古は大極殿(*大極殿は聖武天皇天平十四年(*742年)に造り、後冷泉院の御宇に炎上せり。)ありしかばなり。今は小朝拜ばかりにぞなりにける。
小朝拜 同日
この事は、唯臣下として、元日にてあれば、天子を拜し奉るべきよし申しうけて、行へる公事にて侍れば、さして朝廷のためにも侍らず。神事佛事にもあらず。さればこれは私の禮なり。君子に私なしといふ文あり。よろしからざる事とて、延喜の御宇に勅ありて、延喜五年(*905年)より左大臣時平公に仰せて、留めさせ給ひしなり。抑朝拜は、百官悉く拜するといへども、小朝拜は只殿上ばかりなり。百官とひとしからざる故に、私あるに似たりとて、留めさせ給ひしにや。しかるに臣下ども、元正の日君を拜し奉ることを、頻に申し請ひしかば、同十九年(*919年)に、又もとの如く行はれ侍りしなり。(*原文「行はれし侍りしなり。」)その故は、延喜五年に、臣下の拜をば留めさせ給ひしかども、當代の皇子達は、猶拜禮の儀式あり。それ臣子の道は相變るべからず、いかでか臣下の拜のみをば留めらるべきとて、かたく申し請ひしよし、貞信公(*貞信公は忠平なり。)の御記に載せられたり。關白大臣以下皇を拜し奉る儀にて、淸凉殿の東庭に、四位五位六位(*六位の二字一本になし。)にいたるまで、袖をつらねて舞蹈(*舞蹈拾艾抄(*拾芥抄)中末舞蹈事再拜(置笏)立左右左居左右左(取笏小拜)立再拜と見ゆ。)するなるべし。上よりして、仰せらるゝ事にてもなければ、下として、人々祇候のよしを、まづ無名門(*無名門は淸凉殿の南方にあたれり。)の前弓塲殿に立ちつらなりて、上首の人藏人頭を以て奏問す。その後(*その後の下一本には字あり。)御門は出御なりて、小朝拜の儀式は侍るなり。朝拜を略するによりて、小朝拜とは申すにや。されば朝賀ある年は、行はれざる事なんかし。(*「なりかし」または「ならんかし」か。)
元日ノ節會 同日
その儀、小朝拜はてぬれば、内辨の大臣、陣の座
(*陣の座は紫宸殿の軒廊にありて儀式などを評議する所なり。)に着きて事を行ふ。
一上(*一上は左大臣をいふ。)にあらずして、位次の大臣ならば、内辨に候すべきよしを、
職事をもつて仰せらるゝなり。大方よろづの公事を、一上たる人は前をわたすまじきにや。陣の端の座にて、藏人を以て
外任奏(*外任とは諸國の守介等をいふ。さてその奏の事は江次第に委しく見えたり。)をそうす。筥
(*筥は覽筥にて藤葛を以て作れるものなり。)の葢に入れたり。藏人内侍につきて奏問す。これを御覽じて返し給ふ。又諸司奏
(*諸司奏とは諸司より物を奉れるをいふ。白馬節會の所參照すべし。)は、内侍所につくべきよしを奏す。いにしへは、庭に進みて奏しけるとかや。諸司奏とは、七曜の
御暦、
氷樣、
腹赤の奏などの事なり。七曜の御暦をば、中務省より奉る。日月火水木金土、この七曜を注したる世のつねの暦なり。氷樣は宮内省より奉る。去年氷を納めたる所々のやうを、今日節會の次に奏問するなり。厚さ薄さいか程の寸法に侍るなど、こまかに奏して、そのためしとて、近比は石瓦のわれを奉るなり。延喜式にも、
氷池、
風神の祭など侍り。氷の多くゐるは聖代のしるし、氷のゐぬは凶年にて侍れば、氷の御祈とて、大法祕法を行はれしにや。今日もよく氷りて、めでたきよしのためしを奉るなり。昔仁德天皇の御宇六十二年五月に、額田
ノ大中彦皇子、
鬪雞(*鬪雞は大和國山邊郡にあり。)といふ所に獵しに出でたまひて、山にのぼり、野中を見やり給ひしかば、庵を作りたる樣なる所あり。人を遣して見せたまふに、
窟なりと申す。その時、かの山のあたりに侍る人
(*侍る人は鬪雞稻置大山主なり。)を、召して問はせ給ふに、
氷室なりと申す。皇子のいはく、その氷をば、いかやうにして
(*原文「いかにやうして」)納めたるにか。答へて曰く、土を一丈あまり堀
(*ママ)りて、草をそのうへに葺きて、
茅萱(*原文「芽萱」)などを厚くとり敷きて、氷
(*氷一本雪につくれり。)をおきたるに、氷りて、いかなる大旱にも解けず、これを取りて熱月に用ゐるとなん。その時皇子、この氷を仁德の聖の御門に奉らせ給ひければ、
斜ならずに叡感ありしよし、
日本紀などにも載せたり。これ氷を奉りしはじめなり。その後
(*その後の下一本よりの二字あり。)(*原文「この後」)、季冬ごとにこれを納めて、國々所々に、氷室をおかれ侍りしなり。又
腹赤の
贄とて、魚を筑紫より奉るなり。昔はやがて節會などに供じけるにや。腹赤の食樣とて、くひさしたるを、皆取りわたして食ひたり。景行天皇の御宇、筑紫の國宇土の郡長濱
(*宇土の郡長濱は肥後風土記に玉名郡長渚濱と見えたる即ち此處なるべし。)にて、海人これを釣りて奉る。その後聖武天皇の御時、天平十五年正月十四日、太宰府よりこれを奉りける。これよりして、年毎の節會に供ずべきよし、定めおかれたるなり。腹赤とは、ますと申す魚のことなり。この三色
(*三色は七曜御暦氷樣腹赤贄をいふなり。)を奏するを、諸司奏とは申すなるべし。刻限にのぞみて、御門南殿に渡御なりて、御帳の内につかせ給ふ。内辨陣座をたちて、陣の後にて靴をはく。これより先に、諸卿外辨につく。長樂門
(*長樂門は淸凉殿の前なる承明門の東に當れり。)の東の脇なり。これは大内にての事なり。今の代には、
便宜の所に
幄の屋を搆へてつくなり。内辨宜陽殿
(*宜陽殿は日華門の北陣座の南の殿にあり。)の兀子
(*兀子は倚子の如きものなり。)につく。その後謝座
(*謝座は江次第抄に内辨大臣蒙昇殿着座之詔命而先致拜謝之禮也云々と見ゆ。)の儀ありて、階を昇りて堂上の兀子につく。この間の作法進退ぞ、内辨の大事にて、家々の口傳故實など侍ることなめる。開門を仰せて、
舊人二音を
(*二音をのをの字一本にはなし。)めす。大舊人四人
唯稱(*称唯)す。少納言に告げ示せば、少納言諸卿を召す。次第に外辨の上首より進みて、承明門を入りて南庭に列立す。親王の後に大臣、その後に大納言、その後に三位の中納言、その後に四位の宰相立つ。二位の中納言は、大納言の末におめる。三位の宰相は、中納言の末におめる。如此異位重行に立ち定りて後、内辨しきゐん
(*しきいんは江次第抄に諸可昇著堂上所敷之座也引声召之時曰敷尹と見ゆ。)を仰す。しきいん
(*ママ)は敷居なり。堂上に敷きたる座にゐよ、といふ意なるべし。群臣、謝座謝酒昇殿着座す。内辨御膳をもよほす。下殿してこれを仰す。内膳これを供ず。そののちやがて脇の御膳
(*脇の御膳は二の膳の如きものなり。)を供ず。
大底御膳のくさ/〃\その名はあれども、その姿いづれと分きがたし。
(*{羊+占})臍、
饆饠、
餲餬、
桂心(*臍饆饠云々は和名抄に見えたる八種の内なり。桂心は藥名なり。)などのやうのものなり。
餛飩(*餛飩はウドンの如きもの。)索餅(*索餅はサウメンの如きものなりとぞ。)はめぢかきものなれば、誰も見及びたるものにや。三獻の儀あり、二獻に
國栖歌笛を奏す。これは吉野の
國栖人のことなり。應神天皇十九年十月に、吉野の宮に行幸ありし時、國栖人參りて、
一夜酒(*一夜酒は醴酒なり。)を奉りて歌をうたひける。この國栖人、山のこのみをとりて食ひ、又かへる
(*かへるは蝦蟇のことなり。)を煮て、名をば
毛瀰となづけて、
上味
(*上味一本美味に作れり。)ありとて食ひけるとかや。吉野の河
(*吉野の河は國栖川とて今にあり。吉野より五日路ほど奧なりとぞ。)の
上にゐて、嶺けはしく谷深かりける所なれば、路さがしく侍る故に、常に來朝する事叶はずとなん申しける。その後は常に參りて、年魚やうの物を獻りけるとかや。今の國栖の奏とて、歌を謠ひ、笛を吹きならすは、吉野より年の始に參りたるといふ意なり。二獻には、御酒の勅使
(*御酒の勅使は酒を侍從の幄に賜ふ勅使なり。)の儀あり。三獻に
立樂各二曲
(*立樂各二曲後醍醐天皇年中行事立樂あり。日華門より左右樂人春庭樂を奏して馳道に進む。左右二曲萬歳樂地久賀殿長保樂などなり。臨時の勅によりて此比各三曲もあり。大方近來はこの事なし。當代舊に返りて起されたるなりとぞ。)を奏す。その後、宣命の拜などいふことあり。さのみはくだ/\しければ、記すに及ばず。その上いつもの節會なれば、誰もおぼつかなからじ。抑この節會は、天子紫宸殿に渡御なりて、群臣百官に酒をたまひて、宴會ある儀なり。持統天皇四年正月に、公卿を内裏に召して、とよのあかりするとあり。宴會と書きては、とよのあかりとよめり。大方の節會の名にて侍るにや、豐明節會
(*豐明の節會は十一月中辰日なり。)には限るべからず。神武天皇の御宇にも、群臣をつどへて酒を賜ひし事は、日本紀に見えけり。これなどをも、事のおこりとは申すべきか。光仁天皇寳龜四年
(*773年)の春よりは、五位以上にふすま
(*ふすまはフスモの意にて後世の夜具やうのものなり。江次第比には布などの代に紙を賜ふことありしとなり。(*原文「ありしなり」))を賜ひけり。今もさやうの心ちにて、事はてゝ祿を賜ふことあり。
内侍所ノ御供 同日
これは毎月に供ぜらるゝなり。寛平(*寛平は宇多天皇の年號なり。)年中に始めらる。この内侍所と申すは、三種の神器のその一なり。千早振神代の事にや(*事にやは一本に事なりに作れり。)、天照大神の天の磐戸をさして籠り給ひける時、石凝姥と申す神の鑄移し給ふ、日神の御形の鏡なり。これを八咫の鏡となづく。その後地神第三代、天津彦々火瓊々杵尊の、葦原の國の主となり給ひて、天下り給ひし時、天照大神、親ら三種の神寳を授け給ふとて、この御鏡をば我を見るが如くせよ、との給ひしなり。代々の御門、傳へて寶物とし給ひしに、人皇第十代崇神天皇の御時、この御鏡を鑄替へられて、神代より傳りし御鏡をば、伊勢國五十鈴の川上(*五十鈴川は宇治川のことなり。)(*ママ)に崇め申さる。これ即ち今の伊勢皇大神宮なり。さてかの新造の御鏡をば、皇后に遣(*原文「お(一字欠)」)申さる。崇神天皇の御宇には、漸く神威を恐れさせ給ひて、別所(*別所一本別座に作れり。)に安置申さる。温明殿これなり。村上天皇の御宇、天德の燒亡(*天德の燒亡は三年(*959年)九月廿三日庚申の夜なり。)の時に、この御鏡灰の中にありて、更に燒搊する事なかりしよし、御記(*御記は天德の御記なり。)に載せられたり。或説に、神鏡南殿(*南殿は紫宸殿なり。)の櫻の木に飛びかゝりてありしを、小野宮の關白の袖に、移し申され侍りし、といふ説も侍れど、猶村上の御記をぞ、實説とは申すべからん。壽永のみだれに、二位の尼(*二位の尼は淸盛の妻平時子なり。文治元年(*1185年)三月安德天皇を懷き奉りて海に沒しぬ。)先帝を懷き奉りて、わだつみの藻屑となりし時も、この御鏡はことゆゑなく、都へかへり參りけるぞかし。今に至るまで、神宮と等しく崇め申されて、あからさまにも主上は、神宮内侍所の方(*神宮内侍所の方は辰巳の方なり。)をば、御跡にはせられ侍らぬことなり。又同殿に御座ありし時は、主上御髻をはなたれぬことにて、御冠に(*御冠にの下に一本は字なり。)あなをあけ、絲を通して結はれけるにや、主上の御冠に、必ず穴をあくるは、このゆゑなり。今は内侍所に崇め申されて、女官守護をいたす。白河院仰せられけるは、内侍所の神鏡飛び出でゝ、天に上らんとし給ひしを、女官の衣の袖にかけて、留め申しけるよりして、女官は守護し申すことになりたるかとなん。(*禁祕御抄に白河院御宇仰曰内侍所神鏡昔飛出欲上天而女官懸唐衣袖奉引留依此因縁女官奉守護と見えたり。)かの一日の御供は、毎月のことなり。御即位の時は、とり別きて供せらるることあり。それは吉日をえらばる。これは只毎月の事なれば、日次の善惡にはよらず。内裏触穢の時も、猶供せらるゝ例あり。又留めらるゝ事も侍るなり。
供ズ二若水ヲ一 立春日
若水といふ事は、去年御生氣の方の井をてんして、蓋をして人に汲せず、春立つ日、主水司内裏に奉れば、朝餉にてこれをきこしめすなり。荒玉の春立つ日これを奉れば、若水とは申すにや。年中の邪氣を除くといふ本文(*年中の邪氣を除くといふ本文は嘉祐本草に新汲水却邪調中下熱氣並(*「並」字不明。「亞」とも読める。)宜飲之と見えたり。)あれば、殊更これを供ずるなり。江帥匡房卿の次第(*江家次第)には、若水を飲む時咒を唱ふる事あり、と見えたり。
供ズ二若菜ヲ一 上子日
内藏寮、並に内膳司より、正月上の子日これを奉るなり。寬平年中より始れることにや。延喜十一年正月七日に、後院(*後院拾芥抄云後院四町五條坊門南五條北大宮東堀川西、又江次第裏書に謂(*「謂」字不明。)冷泉院朱雀院等と見えたり。)より七種の若菜を供ず。又天暦(*天暦は村上天皇の年號なり。)四年(*950年)二月廿九日、女御安子(*安子は藤原氏師輔公の女なり。)の朝臣若菜を奉るよし、李部王(*李部王は式部卿重明親王、延喜の御子なり。)の記に見えたり。