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訓譯示蒙

荻生徂徠
(『訓譯示蒙』  菱屋次右衞門〔京〕 1738〔元文3〕
※ 入力者所蔵本は題簽欠・無刊記。本文標題「訓譯筌蹄」。巻三までの合本。
あるいは明和三年(一七六六)須原屋刊行のものか。原典は巻五まで。
(早稲田大学「古典籍総合データベース」掲載資料を参照。)
原文は漢字カタカナ交じり文。

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  巻1   巻2   巻3(巻3から標題「訓訳示蒙」)
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訓譯筌蹄 巻一

朱子註解之定法

朱子の註解は右の如く註法の定格あり。能々意を付て見べし。

訓譯筌蹄 巻一 <了>

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訓譯筌蹄 巻二

文理例

之大學ベシ一レ之法ナリ也。   訓
之大學もちひフルほうはうぢや。   譯
之大學たつたこれで一レ之法ぢや。   同
之大學でもちいフルニ之法ぢや。   同
所以をゆへんとよむこと、處により合ふこともあり、又合ぬこともあり。やはり所テスル(*句点ママ)と意得べし。此所以の二字を使ふときは、必何をか以てする、これを以てすると云ものあり。此文では、大學書中に説たる法を以て人をヘふると云ことにて、上の大學之書と云四字を指たるなり。古之大學とは古の大學校のことなり。故にヘへ處なり。ヘフル人と云は、大學校の内でのことなり。古の大學校の内でこれを以て人に教へし所の法と云詞ゆへ、上下の次第如此置ねばかなはぬことなり。大學の以てする所。と讀つゞけ、以て人を教ふると讀つゞけ、如此雜合して見るべし。又詞の斷續を以て論せば、古と云が一つ、大學所以ヘ人と云が一つ、法が一つなり。故に之字を二處に置くなり。古下に之字を置くときは、古字にてきるゝなく、古大學所以ヘ人の六字へかゝるなり。之字なきときは、大學の二字ばかりへかゝるなり。古代の文、又は奇崛を尚ぶ文には、此様な處に之字を置かぬこともあれども、朱子の文は明白平正を尚ぶゆへ、必此差別あるなり。人字の下に之字なきときは、所フルともよみ、所フルともよむ。朱子の文は明白を本とするゆへ、之(*原文「」)字を置也。如此之の字は一つ/\きれ/〃\の間にあると意得てみたときは、古字・法字がにらみ合なり。大學所以ヘ人之古法也。と云意なり。然れども左様に書ときは、古字が輕くなるなり。古字を重くせん為に上に掲げたるなり。
之所大學ヘシ上レナリ也。   訓
大學上レぢや。   譯
清以の字 (*「清」の字と一字欠は未詳。)此置たるときは、如此意得るなり。以字、大學の二字へかゝるなり。文の意、今は大學校と云ものを用ひず。然れども人をヘるには大學校を以てせねばならぬ故に、古には大學校を以て人をヘへたつた(*ママ。巻二最初の例文を参照)。その古の時分、大學校と云ものを必以て人を教へたつた法は此大學の書ぢやぞと云意になるなり。然れば、畢竟大學校を以ひた、以ひぬと云僉儀になる間、意がいかふ違ふなり。朱子序の中には、大學校と云ものを古へ聖人の立られた故などがあれども、大學の本文にはなきなり。虎關(*虎関師錬)が書たる文に、原文の如くの意の處に此様に所以の二字を置たる處あり。虎關を日本には文の上手の様に云へども、誠に不立文字のヘを能覺へこふだやらめ(*ママ)、文法には誤が多ひぞ。
所以古之大學ヘ人之法也。
此置くときは、全く文理を成ぜず。拙き文也。もしは、
スル古大學ヘルノ人之法也。
かやうに置か、又は、
古之大學而教フル人之法也。
かやうに置けば、又理通ずるなり。然れども、原文の意とは太だ相違なり。所以古大學教人之法也。と云は、文の結語には相應なれども、發端には置がたき語なり。子細は、上の大學之書はと云へば、文法不明白なり。大學之書と云へば文法明白なり。はと句をきれば、發語にもなれども、のとつゞくれば發語にはならぬ故なり。不明白と云は、大學之書ナリスル古大學教之法也。と云へば、それを以て何にしたやら、こゝが不明白なり。又のとつゞくれば發語にならぬと云は、大學之書ナリスル古大學教之法也。如此なるゆへ、大學之書は上にあるから以しての主人になるなり、古大學ヘ人之法は以する道具となるなり。こゝは埒明けども、所テスルと指たる者が上文になければ聞へぬなり。上文に何々と云ひしまうて、さて古大學ヘ人之法を大學之書フルがこの道理ぢやと結する語になるなり。又、所ナリシテ之大學而教人之法也。如此而字を置ときは、總じて而上下二事になるなり。その二事がその文の品によりてかわるなり。こゝでは、以シテ古之大學(*と云が一つ、ヘフル人之法と云が一つで、所字は此二つへかゝるなり。所字、而字也。字三つにて、しめて置たる文法なり。さて古之大學四字が一連、人之法の三字が一貫で、此二つが畢竟詮ずるところなり。古字、大學ばかりへかゝりて意輕くなる。法の字、人へばかりかゝりて、これも意小なり。文の意、今の大學校では人之法を教へず、古の大學校では人之法をヘるとかやうに見て、古今の差別を強く立る意なり。此様な道理はあるまじきことなり。然れども、文を如此置けば、必如此道理になるなり。
之大學(*原文「」)フルニスルナリ也。
此置くときは、原文の意と全同じ。然れども、これは俗語の文字つかひなり。文碎けてのぶる。
之大學スルノフルナリ也。
如此置くときは、以て人をヘふる所とはよまれぬなり。なぜなれば、さやうに讀時は、辭とまらぬなり。總じて所字は物を指定むる文字なり。故に所字以の上にあれば、以字重くなる。ヘ字の上にあれば、ヘ字重くなる。然れば、此文意、今の大學は人をヘふる所を以てせず、古の大學は人を教ふる所を以てする。古の大學の人をヘふる所を以する法則が、即此大學の書にしるす所なりと云意になる。
六條、原文を合して七條、字數は同事にて上下の置き様により文意如此かふるなり。今學者文理を速に合点せんと思はゞ、如此あへつもんつ(*ママ)相易へ相奪て看たらば、一巻ほどの内にて、いかほど魯鈍なる者なりとも合点ゆくべきことなり。
伏羲・~農・黄帝・堯・舜ニシテテシ、而シテ司徒之職・典樂之官所タル也。   訓
レガ伏羲~農黄帝たことでこれであとをつぎ天のたてられめやす(*ルビ三字不明。)さて司徒ト云フ之職典藥ト云之官たことこれからこしらへられぢや。   譯
此句は、此・さて・也の三字を以てしめをきたる句法也。此字、何にても上の文を指たる詞なり。こゝでは上の文の君師と云ものゝ出來たる道理を説たり。この此字はその道理を指たり。也字は伏羲と云より由設と云までを結留て、これはこれぢやと云たる詞なり。而字は必前後に事なり(*ママ)。所以と所由とは、上の此字へかゝる文字なり。伏羲・~農等は、直に上に説た道理を以て天に繼ゐつ極を立てつし玉ひた(*ママ)により、以字を置く。司徒・典藥は堯舜等の立られたことゆへ、此道理へ由り本づゐたことなり。故に由字を置なり。伏羲・~農等は以てしての主人、司徒・典藥は由りての一物(*対象)なり。繼天立極は以てする以後のこと、設立るは由り本づくから起りたること、故にかやうに上下へ分て置くなり。人多く察せずの(*「して」か。原文は「ノ」。)此様な處に、所以の二字を伏羲の上に置くなり。それは所以にゆへんと云訓ある、それに迷ふての事なり。もしさやうに置たらば、此所ニシテ伏羲・~農・黄帝・堯・舜ラレ上レ極、かやうによまねば叶はぬなり。伏羲・~農等はされ(*受け手)なり。故に所以の二字上にあるなり。然れば以てし手(*為手)を別に立てねばならぬことなり。
則既ト云コトルニテセ仁義禮智之性矣。   訓
かふあレバとくになひト云コトハ一レそれ仁義禮智之性矣。   譯
さうあレバとくになひト云コトハ一レ(*か。)それ仁義禮智之性矣。   同
さうあレバとくになひト云コトハ一レ(*か。)それ仁義禮智之性矣。   同
字は、上の文をうけて、これなればと云意也。矣字は結語の強き文字なり。こうなればこうぢやと強く言とめたる辭なり。故に此句は、則字・矣字にてしめて置きたる句法なり。その間にては、語の斷續と云ふことを知るべし。既はとつくにと(*云)詞なり。とつくにと云詞には、とつくにどうしたと云ことが下になくては叶はぬなり。故に下を看たれば、莫字なり。俗語か又は詩にてはなかれともなしやともよむ。文では無字と同じ。然ればとつくになひなり。何がとつくになひ、其下に不與之と云詞あり。然れば、不之云ことはとつくになひ道理ぢやと云ことなり。然れども、何を不(*之と云ことは、とつくになひと云ことがなければきこへぬなり。下に以仁義禮智之性と云七字あり。然れば、仁義禮智之性を以てそれに與へぬと云ことはとつくにないと云て、下の矣字でひしとずんとなひと結したるなり。與へ手は上にある天なり、與へられ手は之なり。之とは上にある生民を指したる字なり。與へ物(*対象)は仁義禮智之性なり。
則既ト云コトテセ仁義禮智之性矣。   訓
レバとつくにやルガそれなひなひト云コトハ仁義禮智之性矣。   譯
原文の如くなれば、莫不の二字が既字の下、總句の上にあり。故に既字は莫字へかゝりて、とつくになひと云義理になり、莫不は下へかゝりて、莫與・莫以と二つへかゝるなり。然れば、莫不の二字を合して、盡字の意にもなり、必字の意にもなりて、下文の或不能齊と云とよく相應ずるなり。此文の如くに、莫不を下に置ときは、與ると云字へはかゝらず、以字へばかりかゝるなり。然れば、生民の内を一人ものこさず天より與へらるゝと云意はなきなり。生民の内が殘るの、殘らぬの、盡く皆與るの、盡くは與へぬの、と云僉議をば云はず、只既字が與字の上にあるから、生民未生以前からとつくに天から與へらるゝ、其の與へらるゝは如何様の物を與へらるゝと云へば、仁義禮智之性と云物を以てせぬと云ことはなきなり。然れば、仁義禮智之性を以てせぬか、以てするかと云處へ強くかゝりたる僉議なり。去(*然る)により、此莫不の二字は必字の意がをもきなり。與へ物へばかり強くかゝりて、これでなひと云ことはなひ、必これぢやと云て、與へられ手(*受け手)の生民の内、殘るか殘らぬかの僉議はなきなり。
則既トシテト云コト一レテセ(*仁義禮智之性矣。   訓
レバ(*か。)とつくになひルト云コトハ一レ(*か。)それでなひものを仁義禮智之性矣。   譯
則既ケレバルコト仁義禮智之性矣。   同
如此置くときは、此訓と譯の如に心得て文理がよくすむなり。裏へ返してみるときは、不ネバテセ仁義禮智之性餘の物を以てするなり。仁義禮智より外の物をやると云ことはとつくになひと云道理なり。句を斷てみるときは、之に與ると云ことなければ、仁義禮智はいらぬ、與るとなれば仁義禮智ぢやと云文法なり。然れば、生民の内が殘るか殘らぬかと云僉議は勿論なし。必定與るとも見へぬなり。與るとなれば餘の物をば與へぬなり。春城無トシテト云コト飛花ナラと云も、此文理なり。
則既仁義禮智之莫キヲ一レト云コトテセ矣。   訓
レバとつくにやそれ仁義禮智そのなひト云モ(*ト云コト一レ矣。(*返り点ママ)   譯
之字の下は必死字になるなり。故に訓になきと點じ、譯になひものと点ず。これは文理のまゝに訓と譯を施す。仁義禮智と性とは、總じて名別名異の分で、實は一物なる間、かやうな文は何くにもあるまじきなり。今試に字を入かへて文理を論ぜん。
則既與之喜怒哀樂之莫不以氣矣。
之字の下、死字になるなり、物になるなり。こゝでは喜怒哀樂を細釋したる辭になるなり。喜怒哀樂と云ものは、氣を以て動かねば叶はず。故に文意、喜怒哀樂と云物のの(*「そ」か。)の氣を以て動かぬと云ことはなひ物を之に與ると云ふ意なり。與之の二字、總の上にあるから、喜字より下皆與へ物になるなり。
氣質ひんうけ・うくる(*/以下、稟の左ルビ。)
之字の下は必死字になるなり。うくると云へば活字なり、わざなり。うけと云、うけたると云へば一物になるなり。然れば死字なり。音によみても、皆死字になるなり。
もありモノならそろユルコトガ。  なひもあるではなるコトそろユルコトガ。  なら/あたハ とき/〃\/ところ/〃\そろユルコトモ
右或字のあり處にて少づゝの違あり。上の字に下の字の義をもたすると云ことはなし。上の字は下の字へ必かゝるなり。故に、或不能齊と云へば、或字は不字へばかりかゝるなり。或、非必の辭と註して、かふしたこともあり、又さうなひこともありと云義なり。故にもありと譯すもなしの意をも含んでをるなり。或不とつゞけば、不字に疑ひを付たる意なり。故に、或不能齊と置くときは、大かたはなしそろユルコトガとも、もありモノならそろユルコトガと云義なり。不或とつゞけば、或字を不字にて破りたる意なり。故に、不或能齊と置ときは、能齊は不或なりとも見る、又或能齊は不なりと見ても通ず。能齊は不或なりと云は、なるそろユルコトガと云ことは决してなしと云義なり。不或は决して無と意得(*こころえ)なり。子細は、或字は有ると云意に疑をもちたる字なり。不字は一切の文字の反なり。と立る反とはうらなり。不樂と云へば苦なり。不苦と云へば樂なり。一切の文字、何にても不字を上にかぶれば、意皆うらになるなり。故に、或字に疑意あるにより、决して無き意になるなり。不能或齊と云も、不或能齊と意相似たり。少しの違あり。mし、不能或齊は或字を齊字がかぶりて居る。然れば、必齊ではなひ、時々齊ふこともある、處々齊ふこともあるが、かやうな事もならぬ、あたはぬとなり。故に、不或能齊は語強し。不能或齊は語婉也。
(*(*皆有ルコト之所一レ有而全スルヲ上レ也。   訓
是以それでならみながもつこともの/ものヲ こと一レさてスル上レそれ也。   譯
              者氣之清也
           \知┐其性之所有
          \  │
 是以不能皆有以 \   │
         /   ├――――――而 與ノ字ノ意
          /  │
           /全┘之 其性之所有五字
              者質之純也
此文理は、文義につれてむつかし。故に圖りあらはす。然れども、此圖にていよ/\學者を惑はさんかと思ふなり。是以、こゝをもつてとも、このゆへにとも訓ず。それでとも譯す。上文を承る言葉なり。氣質のうけ様を生民が齊てうくることは、もありモノなら。それでかふ/\と上を承て云出すなり。それで何としたなればならみながもつことがなり、何をもつてか皆は不ならと云ふときは知るものと全ふするものとなり。而字は上下二事なる間、與字と通ずる意あり。故に處によりこと(*原文「と」)ゝよむ。論語大全にも、になければもつ祝駝之佞(*おもねり)こと(*もつ宋朝之美。如是見せたるとあり。以字、ものと云義はなけれども、これを以かふすると云ときは、これと云物がある間、ものと譯して見るが捷徑ちかみちなり。此類秘事なり。清き氣を以て知り、純なる質を以て全ふする。清き氣と云物、純なる質と云物がなくんば、何を以て知り、何以て全ふせんや。故に以字をものと譯するが習ひなり。然れば、知りての物、全ふしての物は、氣と質と(*原文「な」。衍字。)なり。何をか知り、何をか全ふすると云ときに、下の文にある其性之所有なり。全之と云之字、其性之所有と云五字を略したるもの也。其字は世民の面々を指たる辭なり。性之所有とは性の内にあるとあらゆることなり。其あるとあらゆることの大目を云ときは、上の文にある仁義禮智なり。總じて其は物を指辭ゆへ、其字の下にある字は、皆死字になるなり。活字は上にて落着する道理ゆへ、此文は不能皆の三字にて義理落著するなり。如此見るときは、上文の或不能齊と云たるを、是以とうけたるがよくすむなり。
(*(*皆以レドモ之所一レスルルコトスルコト也。   訓
是以それでこれでしレドモたこと一レもつされどもナリならツコトハクスルコトヲそれ也。   譯
置くときは、氣をば清を稟たれども、質をば雜駁に稟たるものにしての論になるなり。子細は不能の二字、知字へかぶらぬ故なり。以字をものと譯せぬことは、有字をかぶらぬ故なり。而字をしかもと訓じされどもと譯するは、上下の義理違たる故なり。皆字義は同にして、用ひ様にて替るなり。同じ酒が藥にもなり、祝にもなり、醉狂にもなり、禮にもなり、疾にもなり、さかしほにえとなる意なり。上の以は、總体の義理へかかりて云以也。下の以は、氣の清を以ての故にと云以なり。
右に文理の例証の為に、古文を擧て句語を轉倒して見せたるは、少の違にて意の大にかはる事を知せんため、又は如此置き様によりて意替れば、かふ云ことは决定して、かふ置かいで叶はぬと云ことを知せん為、姑く一二を以て其他を推さんことを希ふものなり。
人生八歳小句則自王公以下小讀至於庶人之子弟皆入小學小句而ヘ之小讀以洒掃應對進退之節禮樂射御書數之文大句及其十有五年小句則天子之元子衆子小讀以至公卿大夫元士之適子小讀與凡民之俊秀皆入大學小句而ヘ之小讀以窮理正心小讀脩己治人之道大句此又學校之設小讀大小之節小讀所以分也大句 此の分ちは下の章に委し。
            四字並       二字因     四語並
  ┌―――仁―――┐       ┌―――窮理――――┐
  │       │       │   二字因    │
  ├―――義―――┤       ├―――正心――――┤
 以┤分     合├之性    以┤分  二字因   合├之道
  ├―――禮―――┤       ├―――脩己――――┤
  │       │       │   二字因    │
  └―――智―――┘       └―――治人――――┘
  
          六字並      六合
    ┌―――――洒掃  應對進退之節
    │大分二            
 ヘ之以                 下各二字遥並不合
    │小分十二           
    └―――――禮樂  射御書數之文
          六字並      六合
此圖布置なり。元來よき文ゆへ分間もよし。句なれば句の上にあり、章なれば章の上にあり、篇なれば篇の上にあり。心悟すれば、往くとして其妙に非ずと云ことなくして、句法・章法・篇法の工拙もこの外になきなり。
の假名、皆上へ反れども、是字・吾字・我字等よりは下へよむなり。
の假名、上へ反るときに必於字・于字を間へをくなり。されども、於字・于字を置かずとも、とより外はよまれぬ字あり。それには於字・于字を置かず。又之字の上にも於字・于字を置かぬなり。
をいて下・之字の下、必死字なり。
下、必活字なり。必重く指す文字なり。
字の下、死字でなくれば必死語なり。
實字・死字は、の五つなり。
粉骨碎身してなりとも知るべきものは助語なり。助語がすまひでは、意味も文勢も文法もとくと合點ゆかぬなり。

訓譯筌蹄 卷二 <了>

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訓譯示蒙 巻三

助語目次

訓訳示蒙 巻三

助語 上

總じて助語は製字の始より助語に作りたる字は少し。皆多くは假借して助語に用たるものなり。皆それ/〃\の本字の意を輕く使ひたるものなり。
のとよむ。これとよむと、このとよむとは、助語なり。ゆくとよむときは助語にあらず。これ、このは、下に見へたり。のとよむとき、必句中に置く物を指示す(*指し示す)辭なり。指示すと云は、たとへば大學之書と云は、此書は大學の書ぞと別ちをたてゝ指示す意なり。此は之字の上が重し。又之字の下を重く見ることあり。そのときは大學の道でもなひ、大學の學校でもなひ、此大學は大學の書ぢやと、此も分ちをたてゝ指示す意なり。上の重ひ、下の重(*ひ〔い〕)は、皆文勢によるべし。mし之字を中に置くときは、必上か下か一方重きなり。上下同等など云ことはなきなり。子細は、元來ゆくとよむ字なり。上から下へゆくときは上重し。然れば必一方重きはずの文字なり。譯するとき、のとも、がとも、と云とも、そのとも云。又之字と其字と相似て、其字は重し。下の字つよく指す辭なり。たとへば、大學之書と云と大學其書と云と合せ見るべし。つよく書と云を指すことばなり。mしかやうのこと少しなることなり。又之字・而字ともにたゑてつらなる文字なり。mし之字はまつすぐなり、而字は語折るゝ(*ママ)。而字は必上下二事に(*ママ)の其間をちよつと而字にてつゞりて置たるなり、故に語折るゝ。之字は必上下ともに一事にして、上體下用とか、上名下物とか分るゝなり、故に語直なり。たとへば、仁義と云ときは仁と義と二つなり。仁之義と云ときは仁中の義なる間、一事にして体用の二つに分るゝなり。のゝかなをつくる處に必之字を置くと云ことにてはなし。之字を置ねば語のきるゝ処がつゞく様に聞ふるときに置くなり。又つゞく処がきるゝやうに聞ふるときも置なり。又句の分間の為めに置くこともあり。又之字の下必死字になるなり、物になるなり。物と云は、理か、事か、實物か、時か、處かなり。たとへば、氣質之ひん/うくる(*原文右ルビ「しん」に見える)、うくると云ときは死字に非ず。三代之驍閧オ、驍ネると云ときは死字に非ず。躬行心得之餘、あまると云ときは死字に非ず。又之字の下、字數多きときは死字になしがたし。そのときは、之字の下に所字を置くか、又句末に者字か也字を置ときは死字になるなり。m此也字と云は、なりとよむ也に非ず、白也詩無敵などの也なり。又詩經に、子蕩兮又楊之水兮とあり。此等は蕩も楊も形容字なり。形容字皆死字なり、動かぬ字なり。故に之字を下し得る。そのうへ詩經の此等の語は皆句法を以て置たる之字なり。故に常の文法とは違ふ意思あり。一正一助の句法なり。子と蕩とは正なり。之・兮は助なり。又嗟行之人とあるも、嗟・之は助なり、行・人は正なり。展如之人とあるも、展・之は助なり、如・人は正なり。
てとも、にてとも、してとも、さてとも譯す。mし華語の而字は下へつく、倭語のて、にては上へつく。此華夷語脉の不同なり。かふ/\してかふ/\と云は、二つある處をちょと而字にてつなぐ意なり。故に而字を置くときは、上下必二物か、二事か、二時か、二義かなり。又而字を句中に置に、殊の外輕く用ひたることもあり。無極而太極と、此而字太輕し。而の字を中間に隔てたるとて、上下二事とも見へず、無極即太極也。きわマリはなはきはマル。如意得べし。又學而時習之、此の而字などはさての假名にて、重き而字なり。又而字に雖の意を含ますることあり。それもやはり上下に事なる内に上下の二事が相反することなれば、なれどもと点じて雖字の意があるなり。此時はしかもとも点ずるなり。又、人而不仁、人而不道。此而字もやはりにての譯なり。mし、用ひやうがかはる。これも雖の意少しあり。人でおつてからに仁がなくは、人でおつてからに不道ならばと云義なり。又詩經に、未幾見兮、突而弁兮とあり。此而字太輕し。本義をばかすかにもちてをるなり。ひよかと弁をきたと云意なるゆへ、語の折るゝ意はなきことなり。意を直にして語を折たる句法なり。總じて而字句中にあるときに、句中から二つに折るゝことあり、折れぬことあり。哀而不傷、樂而不淫、温故而知新。此等は折るゝ。欲訥言而敏於行、不有祝(*祝駝)之佞而有宋朝之美。此等は折れぬ。子細は、而字、訥於言と敏於行との二つへかゝる。欲字へはかゝらず。欲字は全句へかゝる。欲字にてしめておくにより、句が折れぬなり。不字も同く全句へかゝり、而字、有祝之佞と有宋朝之美とへかゝる。而字は不字へかゝらずして、不字にて全句をしめておくに、よく句折れぬなり。mし、此はその處の義理を以て立たる文理なり。なぜなれば、欲シテカラン(*ママ。「つたなからん・おそからん」等か。)コトヲ於言而敏(*「はやくす・びんにす」等か。)於行。とよみても、不シテ之佞而有ラバ宋朝之美。とよみても文理に無理はなきゆへなり。(*これだと後句が重くなる。)句頭に置ときはさてと譯す。上の句をかふ/\と言畢て後、さてかう/\とうつる語勢なり。又しかるにと訓ずることあり。これもやはりさてなり。少し雖の字の意あり。句尾に置くことあり。何の義もなき助字なり。之字と同じ。mし、詩經の詩にあることなり、文にはなきことなり。
所 攸 處 許
所と攸と同じ、處は別なり。所字・處字ともに實語に用るとき居處の意なり。就中少しの差別あり。所字は所のあてなり。故に、方所と連續す。處字は元來居する意より移したるものゆへ、おりどころ・ありどころの意なり。處はひろく言たる意、所はせばく指たる意なり。倭辨になをさば、處はやはりところ、所はあてとか、ほどとか云べし。

  巻1   巻2   巻3(巻3から標題「訓訳示蒙」)
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