訓譯示蒙
荻生徂徠
(『訓譯示蒙』 菱屋次右衞門〔京〕 1738〔元文3〕)
※ 入力者所蔵本は題簽欠・無刊記。本文標題「訓譯筌蹄」。巻三までの合本。
あるいは明和三年(一七六六)須原屋刊行のものか。原典は巻五まで。
(早稲田大学「古典籍総合データベース」掲載資料を参照。)
原文は漢字カタカナ交じり文。
縦書表示
for IE
巻1
巻2
巻3(巻3から標題「訓訳示蒙」)
訓譯筌蹄 巻一
- 一 今時の人學問の門戸を得ず。門戸を得ずして學問せば、終にその學問の成就すること有べからず。先づとくとよく料簡して見べし。今時の人經學と云へば、初手からはや理の高妙を説き、詩學と云へばはや句の巧拙を論じ、興の幽玄を談ずること、いかばかり拙きと云事を知らず。先づとくとよく料簡して見よ。儒道は何事ぞ。人の道なり。日本の人は人に非ずや。君子・小人とは何事ぞ。君子は侍なり、小人はいや/\なり。試に禮記曲禮を見よ。悉く武家の諸禮と合するなり。不同なる處あるは、國土の風俗にて、皆それ/〃\に分ちあることなり。如此看破せざるにより、何やら向上なる禪學などの様に心得るは沙汰の限り、僻事なり。詩と云へば何やらかたき事の様に覺ゆる。詩は即日本の歌なりと心得べし。先づ箇様に大段をすへて置て、さて然らば侍道を知りたらば儒道・經學は入らざるものか。和歌に通達したらば詩學もくらかるまじきか。いやさにてはなし。儒道は勿論侍の道なれども、中華には聖人と云人が出たり。日本は聖人なき國ゆへ、その侍道が武の一方へ偏なる處あるぞ。聖人と云は、佛家にいふ佛などの様なる奇妙なることにてはなし。能〃人の道を合點したる人なり。人の道と云へば、はやむづかし。人のわけなり。その人のわけを能合點したる聖人を學ばひでは(*ママ)、定䂓なくて家を作るが如くなる間、儒學をすることなり。さてその儒學をしたく思ひ、經學をしたく思ふ寸(*とき。以下仮名書き。)に書物を見ずしてはならぬことなり。書物は何事ぞと云ときに、唐人の書きたるものなり。今時の人は、書物を何やらむつかしく思案して唐人が作りたるものと心得るなり。此又大ひなる取りそこなひなり。書籍は日本のくさ雙紙なり。唐人が常につかう詞を紙に書きたる物なり。然れば、書籍に書きたるは唐人語と心得るが學問の大意なり。學問は畢竟して漢學なりと心得べし。佛學は畢竟して梵學なりと意得べし。某箇様に存ずるゆへ、譯文と云ことを立てゝ學者を教ふることなり。譯文とは唐人詞の通事なり。
- 一 譯文とは、畢竟唐人の語を日本の語に直すことなり。そこに唐人詞と日本詞の大段の違あり。それは唐土の詞は字なり。日本の詞は假名なり。日本ばかりにあらず、天竺の梵字・胡國の胡文・韃子の蕃字・安南の黎字・南蠻の蠻字・朝鮮の音文、皆假名なり。假名は音ばかりにて意なし。假名をいくつも合せて、そこで意出來るなり。字は音あり、意あり。たとへば日本にてはあきらかと四詞に言ふ處を、唐では明と一詞にてすますなり。日本にてきよしと三言にいふ處を、唐では清と一言にてすますなり。さるにより、日本にてはいろはの四十八字に四十八音ありて、それにて埒明くなり。唐土にては、詞短きゆへ、同じチンと云音の内に輕重清濁乎上去入とて様〃呼やうにて、それ/〃\に意がかわるなり。此レ唐人のこしらへたることにてはなし、自然に夷と中國の違にて、如クレ此ノ違ふなり。中國の詞は文なり、夷は質なり。中國の詞は密なり、夷は疎なり。きよしと三言にいふ處は疎なるなり。チンと一言にいふ處は密なり。唐人は同じチンの内に乎上去入・輕重清濁の品〃の呼わけのある處は文なり。日本はチンなればチンと云、只一つなる處は質なり。唐土を文物國と名づけ、又文華の義理にて中華と名付たるも此道理なり。又唐土には聖人と云もの出たるも、さやうに細密なる國ゆへなり。
- 一 今學者譯文の學をせんと思はゞ、悉く古より日本に習來る和訓と云ふものと字の反りと云ものとを破除すべし。子細は、字の反りといふことは、和訓と云ものを付るから起りたるなり。和訓を立る眼より見れば、唐人にも和訓があると心得るなり。勿論外國には皆和訓のやうなることあり。唐土は最前いふごとく、字の音と云ものが唐土の詞を直に書き下しに唐人が書たるが、今書籍にある文なり。然れば、和訓と云こと日本の先輩の付られたることなり。それを破除すると云の如何なるゆへなれば、今時の和人和訓を常格に守りて、和訓にて字義を知んとするゆへ、一重の皮膜を隔つるなり。その上古の先輩の和訓を付られたる以前は、直にその時の詞を付られたる處に、今時代移りかわりて、日本の詞昔とは違ひたること多し。今倭訓を立置くときは、倭訓と云一物になるなり。やはり和語へ移して字義を合點すべきことゆへ、倭訓を破除するなり。又倭訓は一つにして字意は違ひたる文字多し。和訓はあらきものなり。和訓を守るときは字義粗く(*原文「粗た」)なる間、和訓を破除するなり。字義をさへ合點すれば、元來唐の語に反ると云ことはなく、反ると云ことは日本人の付たる物ゆへ、我意にて如何様にも反りをよむほどに、反ると云ことを破除するなり。
- 一 倭語にさま/〃\の風あり。常の詞あり。常の詞にも、都と鄙の違ひあり。書札の詞あり、雙紙の詞あり。其如く唐人詞にもさま/〃\あり。唐の俗語は日本の常の世話なり。鄙の語は唐の方言なり。書札の文は唐の書札の語なり。歌は唐の詩なり。雙紙の詞は唐の書籍の文なり。其内に又時代の古今に隨て詞の趣違ふことなり。譯文をせんと思はゞ、此意を合點すべし。その内日本にては雙紙の詞が正當なる詞なり。唐にても書籍の文が正當なる詞なり。然れども日本の雙紙の詞は日本久しく文盲になりたるゆへ、歌學せざるものは此雙紙の詞を會得せずなりぬ。唐の俗語は當用に非ず。故に今風の違たるものながら、倭の俗語を以て唐土書籍を譯することなり。
- 一 今の學者經學にても詩學にても文學にても、たとひば佛學にても醫學にても、此の譯文の學をせずんば唐人詞に通ぜざるゆへ、とりこし問答なり。成就することあるべからず。今時大儒とよばるゝもの書たる文又は書を講ずるに、誤り多く、又は儒道を行ふとてあしき風俗になるも、皆唐人詞を合點せず、笑しく心得るゆへなり。故に此譯文を學ばずして書籍を見て理の高妙を談じ、詩を作りて巧みならんことを欲するは、たとへば倭語を知らぬ唐人が倭の雙紙を學び、歌を上手にならんと云がごとし。此れとりこし問答に非ずや。勿論理は和漢の隔てなく、人の心は華夷の分ちあるまじけれども、辭の趣きを合點せずんば、氣味あんばいの違ふこと必あるべきことなり。
- 一 譯文に直翻・義翻の二つあり。直翻は一〃へのこ筭用(*目の子算用か。)に唐の文字に日本の詞を付るなり。義翻とは倭漢風土の異あるゆへ、語脉もそれにつれてかわることあり。故に直翻にならぬ處をば、一句の義を以て譯するを義翻と云なり。たとへば、不 短をみぢかふなひと云は直翻なり。その処により長ひとなりともちようどぢやとなりとも云は義翻なり。總じて語脉の違ふと云こと、日本の内にてもあることなり。江戸などにてかふするなと云詞を上総などにてはなぜかふすると云なり。江戸の詞で見ればかふするなと云は後を制する詞、なぜかふすると云は今を咎むる詞にて、違ふことなれども、風土の異にて、上総ではさやうに云なり。是を以見れば、萬里の海を隔てたる唐土ゆへ語脉の異あるべきことなり。
- 一 譯文に字義・文理・句法・文勢と云ことあり。字義と云は、一字一字の意なり。字を積んで句となし、句を積て文になしたるものゆへ、字義が本なり。藥一味一味の能を知らざれば藥方・配劑はならぬ如くなり。林木一本一本の大小・長短・使ひ様を知らざれば家は立られぬ如くなり。さて次に文理を知らずんばあるべからず。これは字の上下の置様なり。同じ文字で字數も同事にても、上下の置きやうにより意かはるなり。此文理と句法とは違ふなり。文理は二字と文字をかさぬる處にははやいるなり。句法とは一句の上に巧拙を論ずることなり。文勢は全體の文勢なり。故に文を書に先づ字義・文理を合點すれば唐人詞になるなり。句法・文勢は唐人詞になりての上にて、文の上手下手へかゝることなり。故に字義・文理の違ふと云こと、唐人にはなきなり。句法・文勢は、唐人も文者でなければとくと合点(*ママ)ゆかぬなり。さるにより字義・文理も知らずして句法・文勢を論ずるはいきすぎたることなり。
- 一 字義はひろきことなり。一切のあるとあらゆる字義を知り盡すと云ことはなりがたきことなり。故に先づ常用の字義を知るべし。文理は格を知て修煉し工夫すれば合點ゆくものなり。
- 一 字義の大綱を云に、字品・字勢と云ことあり。字品は字の元來の種姓なり。字勢は字のなり・ふぜいなり。字品とは虚・實・正・助の四つなり。虚字とは大小・長短・清濁・明暗・喜怒哀樂・飛走歌舞の類也。此の内に動と靜とあり。靜の虚字は大小・長短・清濁・明闇等也。動の虚字は喜怒哀樂・飛走歌舞等なり。實字とは天地日月・鳥獸草木・手足頭尾・枝葉根莖等の字なり。此の内に体と用とあり。天地日月・鳥獸草木等は體なり。手足頭尾・枝葉根莖等は用なり。虚實ともに正なり。正のことを實語とも云。助は助語なり。之・乎・者・也・矣・焉・哉の類なり。正は語の正味、助は倭歌のテニヲハ也。正の助になるものなり。字勢を云ときに、通局・單複・嚴慢なり。通局とは、山と云ひ川と云字は義ひろし、故に通なり。峰と云ひ巒と云、岸の・Pのと云は義せばし、故に局なり。又動の字は通なり、飛走往來は動中の細目なるゆへ局なり。嚴は意のけはしき字なり。一二三四、又は東西南北、又は青黄赤白等の字なり。慢は意のぶらりとしたる字なり。邊傍時際處などやうの字なり。單は一字にて義の聞ゆる字なり。複は逍遥・彷彿の類、一字用られぬ字なり。
- 一 字の用八つあり。死活・精粗・眞假・輕重なり。死活と云は、たとへば清字、字のまゝなればきよしとよむ、死字にするときはきよきとよむ、活字にするときはきよむとよむ。歌字、字のまゝなればうたふとよむ、死字にするときはうたとよむ、活字にするときはうたはしむとよむ。舞ノ字、字のまゝなればまうとよむ、死字にすればまひとよむ、活字にするときはまはすとよむ。餘は例して知るべし。精粗とはくわしく用るとあらく用ると違ふなり。喩へば、疾字・速字、意相似て違ふを違ふまゝに用るは精なり、疾字・速字を通はして用るは粗なり。眞假とは、たとへば鏡の字、眞の鏡の事に用るは眞なり、月の事を一鏡晴飛などゝ用るは假なり。輕重とは、たとへば忠恕違道不遠と云は恕字重く忠輕し。餘は推して知るべし。
- 一 字書に文字の意を註してあるに、h也h也h也と、如此いくつありても、それを皆一つにしてみるべし。又h也とあらば、その文字より下を又別の義にしてみるべし。
- 一 文理を知んとせば、まづ字品・字勢と字の用とを能合點して、其上に字義を能とくと合點すべし。就レ中助語を知らざればならぬことなり。助語は文の關鍵なり。實語を引まはすものなり。
- 一 文理と云は、畢竟字の上下の置きやうなり。先づ語の斷續を知るべし。つゞく字・きるゝ字(*ママ)と云ことを知て、さて上下の置やうに氣を付け、雜合して見べし。其内に同等の字と云ことあり。輕重・大小の同じ位なる字なり。天地の、日月の、長短の、大小の、清明の、虚空のなどゝ云やうなる、同等の字、上下へ重ねたれども、並んでをる意にて、上下の僉議はいらぬなり。此類を除て、其外は實字にても死字にても二つかさぬれば下の字が重きなり。下の字が詮に入用のことになるなり。活字・助字は皆上の字が君になるなり。下の字を取て引廻すなり。上の字で畢竟の義理が埒明なり。たとへば石山と云へば、山が體になりて石は苗字になるなり。山石と云へば、石が體になりて山は苗字なり。實字は陰なり。陰は下をば尊ぶ理なり。不必好と云へば、不字にて義理落著す。必不好と云へば、必字にて義理落著す。皆上の字が下の字を引廻すなり。不レ必好・必レ不レ好(*上の例はレ点を一つ欠く。「必ず好ぶ(*ママ)はよひか、なひ。」と訳させたものか。下の例は、二字のルビ不詳。「不ニスレ好マナヒコトカヨウ」か。「不」は読まずに全体としての訳を当てたか)、如クレ是ノなり。又不必を合してみれば不定の詞なり。好が不定なと云理なり。不好を合して見るときはあしきなり。必定なしひと(*ママ。「必不」で必ず定めないものと解する。「し」「ひ」いずれかが衍字。)云意なり。これを雜合の法と云。此の意を以て一切を推べし。
- 一 總じて一句の内にても、一段の内にても、一篇の内にても、虚實・死活・助字の分けを知るべし。實字・死字は物なり、道具なり。その道具の内にて主人を立ることあり。又外に立ることもあり。靜の虚字はその道具か、又は主人のなり・ふぜい・しな・様子なり。動字・活字は事なり。故に其道具を使ふ字なり。助字は文勢なり。故に全體の精神なり。
- 一 詩の文理は常の文とは違ふなり。詩は字數定まる。そのうへ詩には韻と云ものあり、音律と云ものあり。故に文などの様に思ふやうに言ひとられざるゆへ、助語をも詞をも含蓄させて略すること多し。含蓄と云ものは、略する處にあり。詞を畧し、文字を略しても、上下の餘勢にていやともかふした意があると云ことになるなり。文字の上に見へず、内に含蓄するゆへ、含蓄と云ふものなり。さやうに文字を略して悉くは言あらはさぬ故、文勢引はらず、引き入り/\みること多し。字儀(*ママ)も的當の字意を用ひず、一のべ/\で使ふこと多し。さいふとてむつかしくこねたることにてはなし。平易從容とすなをにすら/\としたるあんばいなり。詩經の詩などは字數定らず、音韻も後代よりは粗きことなれども、元來詩は嗟嘆の餘りに出て、文に書き取れず、詞に言ひ取れぬ味を作るものゆへ、詩經の詩も右の如くなり。故に詩の文理の為に、別に一編の指南をあらはす。
- 一 中華の俗語はつねの文章の字義に非ず。世俗の詞ゆへ、字義を使ひそこなひたること多し。然れども、さやうに使ひ來りたるものなれば、ちがひはちがひのやうに意得るが習ひなり。故にこれも一編を別にあらはす。
- 一 書柬の語にも一様の熟語ありて、助字少なく、詞むつかしく、意は何事もなし。故にこれも其門戸を得ずんばあるべからず。故に別に一編をあらはす(*原文「あたはす」)。
- 一 日本の文に、字義・文理の誤り多し。誤りと云ことを知らず、人のそれを師とせんことを恐れて、義一編をあらはす。
- 一 右に文理の法をも大槩はあぐれども、口傳なくして解しがたし。故に聰敏なるものには口傳なくしても埒明く様に、其例を一編あらはす。
- 一 字義を合点すること、第一の肝要にして、ことの外骨折ることなり。しかれども骨折て合点したるほどのことはなし。人の力で合点するときは、身にならぬものなり。故に吾が所ノレ説ク文理・字義等の諺解をば先づみせぬなり。たとひ此を受たる人も、一覽の分にて棄置べからず。必ず何ぞ書籍を一巻も二巻も彼諺解を講師にして骨を折り、一字一字に字義を當て見、一句一句に文理を合せてとくと心に合点すべし。合点ゆかぬ処をまくりて棄置くべからず。師に對してとくと疑を决すべし。當分は骨も折れ、はかもゆかぬやうなれども、さやうにして一二巻も見たらば、後には何れの書に逢てもとくと自見がなるべし。さやうにして三四巻も見たらば、何に向ても破竹の勢のやうに埒明べし。合せて見る書籍は、文の方ならば朱子の文がよし。朱子の文は奇崛なること無く、無理なることなく、字義の的當せぬことなし。故に字義・文理のよき師範なり。字義・文理埒あきて以後、文の巧拙を論ずる處に至ては、韓・柳等の文人の文を見べし。四書五經諸子の類の上代の文は、時代異なるゆへ、今人の風に合にくき間だ、字義・文理合点の以後に見るべし。詩の方ならば、三體詩の詩平易にして、文理・字義合点に落やすし。つゐでに唐の風骨を覺へず會するなり。
- 一 字義を看るに習ひあり。對の字を以てみれば、よく的當の字義が知るゝなり。又、説文製字(*ママ)の説を以てみれば、字義の根元が知るゝなり。然れども、字義には轉用と云ことありて、字を用ふるに至て元來の字を製したる筋を引かへて使ふことあり。そのうへ製字の説ばかりにては、きつかけはづれねども字義がかたくすみて活せず、體ばかりにて用なし。故に古人の字を使たる手筋を知るべし。其手筋を知るには、總じて字に成語と云ことあり、熟字の事なり。その連續したる詞をいくつもいくつも合せて、これへも/\通ずるはどうしたあんばいにてあらふぞと工夫して辨を付べし。如レ此見れば大形は知るゝなり。總じて書籍の中に字義を正當に使ひたることもあり、一トのべのべて(*原文「のへで」)使ひたる処もあり、輕く使ひたる處もあり。一トのべのべたる処をみて、うはつらを心得ることなかれ、輕く使ひたる處を見てそまつに心得ることなかれ。何時も正當の字義にて見て、それにて通ぜずんば、輕くも轉じてもみるべし。さやうにせざれば、世儒の學問の如くそさうに成り行くなり。
- 一 字義・文理をよく合点して、ずら/\と倭語になをるを以て譯文の成就とす。かやうにならぬ内は、諸事をすて置て此學問にかゝるべし。
- 一 故事來歴を僉議して日をくらすこと、學問(*原文「間」)の大病なり。いつまでも我物になるまじ。試に問ふ、來歴の來歴の其來歴の初め、故事の故事の其故事の起り、何をか故事にし何をか來歴にしたるや。先かやうに大段をすへをきて、さて故事來歴のいる處には又僉議せでは叶はぬことなり。
- 一 經學は本なり。然れども史學をせざれば、體のみにして用なし。子學をせざれば理のはたらきなし。詩文學をせざれば、文字の義とくとすまぬものなり。詞を心得ずして意を得るものは、必なひことなり。詩文の學も、經學がなければ細密なることなきなり。
- 一 雜書も見ずして叶はぬものなり。草なることを知らねば、眞なることもたしかになきなり。
朱子註解之定法
- 一 (hハhナリ也)(hハhhナリ也)如此間に字を置かぬは、直に本字によく相當する文字なり。譬へば、鮮ハ少也とあれば、鮮ノ字の代りに少字を直に本文へ入かへても、少しも義理にかわりなきなり。
- 一 (hハ/ト云者h也)(*○/○は左右の小書き。)これは的當の字訓には非ず。者ノ字は物を指詞なり。倭俗語のことゝ云詞なり。倭俗語に事字の意でなき処にもことゝ云辭を使ふ。これ者ノ字と所ノ字也。故にかふしたことをかふいふぞと指示す(*ママ)意なり。譯して仁ト云コトハ/ト云モノハ者愛之理・心之コヂヤ也。仁ハ者ヂヤ二愛之理・心ノ之コノ一也。
- 一 (hハ猶ヲ/シhノ也)(*「ごと」は左ルビ。)これも的當の字訓に非ず。猶字をにたりともひとしともよむ。ひつたくりて註したる辭なり。字訓には寸斗(*すこしばかり、か。)合ぬなり。同じ義理にゆくことの字訓にはあはぬことを以て註する辭なり。世人多くこれを知らず。猶字を用たる註の字の倭訓を以て本文の和訓に付るは大なる誤りなり。朱子詩傳に夕ハ猶レ朝也。嘉客猶逍遥也。とあり。これが一つになるものか。譯して、本ト云猶ナコトレ根ト云也。爲ト云レ仁ヲ猶ナコトレ曰フレ行ノ(*トか。)レ仁ヲ也。根と云と本と云はひとしきことばなり。
- 一 (hハ即h也)これも的當の字ノ訓に非ず。これもひつたくりて云辭なり。註字と本字とののきあち(*ママ)が猶字と同じほどなことなり。然れども、猶字は語の上へかゝり、即字は理の上へかゝりて云なり。此即字を用るは、人が何とぞむつかしく心得べき處をかざつたことではなひ、直にやはりこれぢやとヘる詞なり。譯して、禮トハ即理ノ節文ナリ也。天命トハ即天道之流行テ而賦ク二於物一者乃事物所以當然之故也。
- 一 (hハ者hhノ之謂ナリ也)(hhh之ヲ謂レh)これはhhハ者hナリ也と如クレ此者ノ字を置たると同じほどのことなり。m者字はその本体を指示し、之 謂と書たるは、うはさを云意なり。譯して、盡スレ己(*原文「巳」)ヲ之ヲ謂フレ忠ト。
- 一 (hhヲ曰レhト)これは的當の註解なり。hハh也と間に一字も置ぬと同じことなり。一二字を以て註のなることには、やはり直にhハhナリ也と書て、間に字を置かず。一二字にて註のならぬことには、曰の字を置くなり。
- 一 (hトハ謂フレhヲ也)こゝではかふいふことを本文にかふ云たぞと云意なり。其外にも見やうあるべき字の註にあることなり。かふも/\も(*ママ)見ゆれども、本文にはかふ取用ひたと云ほどの註なり。譯して、衆謂衆人。仁謂仁者。
- 一 (hトハ言心ハh也)謂字と大形同じほどのことなり。mし謂字はかう云詞をかう云たと云意なり。言字はかふ云意をかふ云たと云意なり。謂はやはり本文の語脉の上へかゝりて云。言は語脉をひつはづゐて云たるなり。
- 一 (hノ之為ルレ言トh也)これは本字の音に取付て註したるなり。言はことばと云ことなり。唐人の言は音なればなり。學之為言效也。コ之為言得也。とあるを見よ。學と效とコと得と音相近し。
- 一 (hハhナリhハhナリhハhナリ也)如レ此也字を略して、二字も三字も四字も五字もつゞけてずんと末に也ととむることあり。これは輕重・死活の同等なる字の時のことなり。
- 一 (hハhナリ/ト也hナリ/ナル也)如レ此一字に二つ註のあるは、一字で註しをほせられぬとき、今一つ下へあとから仕足す意なり。
- 一 (hハ亦hhナル)これは上文に同意の字あるときの事なり。論語の註に、勿亦禁止之辭とあるも、無と毋と通ず。禁止の辭也。とあるにより、それへかゝりて亦字を置くなり。
- 一 (h則hhhナリ)これは上文に似た様な字あるときに、それへかゝりて、それはそれ、これは又引違ふてかふぢやと云意なり。亦字と則字と上文へかゝる処は同じけれども、亦は上に同ずる辭、則は上に分つ辭なり。論語の註に、察ハ則又加フレ詳ナルコトヲ矣。とあるも、上文に觀比視為詳矣。とある處へかゝりて、察と云ときは又かふ/\ぢやと云た辭なり。
- 一 (hハhhト云之辭)これは註を直に本字の義とは見ず、何/\と云意のときに何/\と使ふと云ことなり。hトハ言心ハhナリ也と云と相似たり。mしそれは當段ばかりでのこと、之 辭と書たるは、處〃一切へ通ずるなり。
- 一 (hハhh意)意字を下に書たるは、きみあひと云詞なり。慍ハ含ムレ怒ヲ意。かくのごとし。
- 一 (hはhhの貌)貌の字はやうす・ていたらくと云ことなり。たとへば、郁郁トハ文る貌。戰栗者恐懼之貌。
朱子の註解は右の如く註法の定格あり。能々意を付て見べし。
訓譯筌蹄 巻一 <了>
訓譯筌蹄 巻二
文理例
古ノ之大學ノ所ノ二以テヘベシ一レヲ之法ナリ也。 訓
古ノ之大學デ所レ以ヘフルレ人ヲ之法也。 譯
古ノ之大學デ所二以ヘヘ一レ人ヲ之法也。 同
古ノ之大學で所レ以レヘフルニレ人ヲ之法也。 同
所以をゆへんとよむこと、處により合ふこともあり、又合ぬこともあり。やはり所。レ以テスル(*句点ママ)と意得べし。此所以の二字を使ふときは、必何をか以てする、これを以てすると云ものあり。此文では、大學書中に説たる法を以て人をヘふると云ことにて、上の大學之書ノと云四字を指たるなり。古ノ之大學とは古の大學校のことなり。故にヘへ處なり。ヘフルレ人と云は、大學校の内でのことなり。古の大學校の内でこれを以て人に教へし所の法と云詞ゆへ、上下の次第如此置ねばかなはぬことなり。大學の以てする所。と讀つゞけ、以て人を教ふると讀つゞけ、如クレ此雜合して見るべし。又詞の斷續を以て論せば、古と云が一つ、大學所以ヘ人と云が一つ、法が一つなり。故に之ノ字を二處に置くなり。古ノ字ノ下に之ノ字を置くときは、古ノ字にてきるゝなく、古ノ字ノ下ノ大學所以ヘ人の六字へかゝるなり。之ノ字なきときは、大學の二字ばかりへかゝるなり。古代の文、又は奇崛を尚ぶ文には、此様な處に之ノ字を置かぬこともあれども、朱子の文は明白平正を尚ぶゆへ、必此ノ差別あるなり。人ノ字の下に之ノ字なきときは、所三以ンヘフル二人ニ法ヲ一ともよみ、所三以ンヘフル二人ノ法ヲ一ともよむ。朱子の文は明白を本とするゆへ、之ノ(*原文「ヲ」)字を置也。如ノレ此之の字は一つ/\きれ/〃\の間にあると意得てみたときは、古ノ字・法ノ字がにらみ合フなり。大學所以ヘ人之古法也。と云意なり。然れども左様に書ときは、古ノ字が輕くなるなり。古ノ字を重くせん為メに上に掲げたるなり。
古ノ之所ノ下以テ二大學ヲ一ヘヘシ上レ人ヲ之法ナリ也。 訓
古ノ之所下以二大學一ヘヘ上レ之法也。 譯
清以の字 (*「清」の字と一字欠は未詳。)如クレ此置たるときは、如クレ此意得るなり。以字、大學の二字へかゝるなり。文の意、今は大學校と云ものを用ひず。然れども人をヘるには大學校を以てせねばならぬ故に、古には大學校を以て人をヘへたつた(*ママ。巻二最初の例文を参照)。その古の時分、大學校と云ものを必以て人を教へたつた法は此大學の書ぢやぞと云意になるなり。然れば、畢竟大學校を以ひた、以ひぬと云僉儀になる間、意がいかふ違ふなり。朱子序の中には、大學校と云ものを古へ聖人の立られた故などがあれども、大學の本文にはなきなり。虎關(*虎関師錬)が書たる文に、原文の如くの意の處に此様に所以の二字を置たる處あり。虎關を日本には文の上手の様に云へども、誠に不立文字のヘを能覺へこふだやらめ(*ママ)、文法には誤が多ひぞ。
所以古之大學ヘ人之法也。
如クレ此置くときは、全く文理を成ぜず。拙き文也。もしは、
所。レ以スル二古大學ヘルノレ人之法ヲ一也。
かやうに置か、又は、
所下以テ二古之大學一而教フル中人之法ヲ上也。
かやうに置けば、又理通ずるなり。然れども、原文の意とは太だ相違なり。所以古大學教人之法也。と云は、文の結語には相應なれども、發端には置がたき語なり。子細は、上の大學之書はと云へば、文法不明白なり。大學之書と云へば文法明白なり。はと句をきれば、發語にもなれども、のとつゞくれば發語にはならぬ故なり。不明白と云は、大學ノ之書ハ所ナリレ以スル二古大學教ノレ人ヲ之法ヲ一也。と云へば、それを以て何にしたやら、こゝが不明白なり。又のとつゞくれば發語にならぬと云は、大學ノ之書ノ所ナリレ以スル二古大學教ノレ人ヲ之法ヲ一也。如クレ此なるゆへ、大學之書は上にあるから以しての主人になるなり、古大學ヘ人之法は以テする道具となるなり。こゝは埒明けども、所レ以テスルと指たる者が上文になければ聞へぬなり。上文に何々と云ひしまうて、さて古大學ヘ人之法を大學之書ニ所レ以フルがこの道理ぢやと結する語になるなり。又、所ナリ下以シテ二古ノ之大學ヲ一而教人之法ヲ也。如レ此而ノ字を置ときは、總じて而ノ字ノ上下二事になるなり。その二事がその文の品によりてかわるなり。こゝでは、以シテ二古之大學(*一)と云が一つ、ヘフル二人之法ヲ一と云が一つで、所ノ字は此二つへかゝるなり。所ノ字、而ノ字也。字三つにて、しめて置たる文法なり。さて古之大學四字が一連、人ノ之法の三字が一貫で、此二つが畢竟詮ずるところなり。古ノ字、大學ばかりへかゝりて意輕くなる。法の字、人へばかりかゝりて、これも意小なり。文の意、今の大學校では人ノ之法を教へず、古の大學校では人之法をヘるとかやうに見て、古今の差別を強く立る意なり。此様な道理はあるまじきことなり。然れども、文を如レ此置けば、必如ノレ此道理になるなり。
古ノ之大學ニ(*原文「ヲ」)ヘフルニレ人ヲ所ノレ以スル之法ナリ也。
如レ此置くときは、原文の意と全同じ。然れども、これは俗語の文字つかひなり。文碎けてのぶる。
古ノ之大學ニ以スルノレ所ヲレヘフルレ人ヲ之法ナリ也。
如此置くときは、以て人をヘふる所とはよまれぬなり。なぜなれば、さやうに讀ム時は、辭とまらぬなり。總じて所字は物を指定むる文字なり。故に所字以の上にあれば、以字重くなる。ヘ字の上にあれば、ヘ字重くなる。然れば、此文意、今の大學は人をヘふる所を以てせず、古の大學は人を教ふる所を以てする。古の大學の人をヘふる所を以する法則が、即此大學の書にしるす所なりと云意になる。
右ノ六條、原文を合して七條、字數は同事にて上下の置き様により文意如此かふるなり。今學者文理を速に合点せんと思はゞ、如此あへつもんつ(*ママ)相易へ相奪て看たらば、一巻ほどの内にて、いかほど魯鈍なる者なりとも合点ゆくべきことなり。
此レ伏羲・~農・黄帝・堯・舜ノ所二以ニシテ繼テレ天ニ立テシレ極ヲ、而シテ司徒ノ之職・典樂ノ之官所二由テ設タル一也。 訓
此レガ伏羲ト~農ト黄帝ト堯ト舜ト所二以繼レ天の立レ極(*ルビ三字不明。)ヲ、而司徒ト云フ之職モ典藥ト云之官モ所二由設一也。 譯
此句は、此・而・也の三字を以てしめをきたる句法也。此ノ字、何にても上の文を指たる詞なり。こゝでは上の文の君師と云ものゝ出來たる道理を説たり。この此ノ字はその道理を指たり。也字は伏羲と云より由設と云までを結留て、これはこれぢやと云たる詞なり。而字は必前後に事なり(*ママ)。所以と所由とは、上の此字へかゝる文字なり。伏羲・~農等は、直に上に説た道理を以て天に繼ゐつ極を立てつし玉ひた(*ママ)により、以ノ字を置く。司徒・典藥は堯舜等の立られたことゆへ、此道理へ由り本づゐたことなり。故に由ノ字を置なり。伏羲・~農等は以てしての主人、司徒・典藥は由りての一物(*対象)なり。繼レ天立レ極は以てする以後のこと、設立るは由り本づくから起りたること、故にかやうに上下へ分て置くなり。人多く察せずの(*「して」か。原文は「ノ」。)此様な處に、所以の二字を伏羲の上に置くなり。それは所以にゆへんと云訓ある、それに迷ふての事なり。もしさやうに置たらば、此所ニシテ下以テ二伏羲・~農・黄帝・堯・舜ヲ一繼ギレ天ニ立ラレ上レ極、かやうによまねば叶はぬなり。伏羲・~農等は所レ以テ手(*受け手)なり。故に所以の二字上にあるなり。然れば以てし手(*為手)を別に立てねばならぬことなり。
則既ニ莫レレ不ト云コト三與ルニレ之ニ以テセ二仁義禮智ノ之性ヲ一矣。 訓
則レバ既二莫不ト云コトハ一レ與ラ三之ニ以二仁義禮智ノ之性ヲ一矣。 譯
則レバ既二莫不ト云コトハ一レ與ラレ(*三か。)之ニ以二仁義禮智ノ之性ヲ一矣。 同
則レバ既二莫不ト云コトハ一レ與ラ(*三か。)之ニ以二仁義禮智ノ之性ヲ一矣。 同
則ノ字は、上の文をうけて、これなればと云意也。矣字は結語の強き文字なり。こうなればこうぢやと強く言とめたる辭なり。故に此句は、則字・矣字にてしめて置きたる句法なり。その間にては、語の斷續と云ふことを知るべし。既はとつくにと(*云)詞なり。とつくにと云詞には、とつくにどうしたと云ことが下になくては叶はぬなり。故に下を看たれば、莫字なり。俗語か又は詩にてはなかれともなしやともよむ。文では無字と同じ。然ればとつくになひなり。何がとつくになひ、其下に不與之と云詞あり。然れば、不トレ與レ之云ことはとつくになひ道理ぢやと云ことなり。然れども、何を不レ與(*レ)之と云ことは、とつくになひと云ことがなければきこへぬなり。下に以仁義禮智之性と云七字あり。然れば、仁義禮智之性を以てそれに與へぬと云ことはとつくにないと云て、下の矣字でひしとずんとなひと結したるなり。與へ手は上にある天なり、與へられ手は之なり。之とは上にある生民を指したる字なり。與へ物(*対象)は仁義禮智之性なり。
則既ニ與テレ之ニ莫シレ不ト云コトレ以テセ二仁義禮智ノ之性ヲ一矣。 訓
則レバ既二與ルガ之ニ一莫レ不ト云コトハレ以二仁義禮智之性一矣。 譯
原文の如くなれば、莫不の二字が既字の下、總句の上にあり。故に既字は莫字へかゝりて、とつくになひと云義理になり、莫不は下へかゝりて、莫レ不レ與・莫レ不レ以と二つへかゝるなり。然れば、莫不の二字を合して、盡字の意にもなり、必字の意にもなりて、下文の或不能齊と云とよく相應ずるなり。此文の如くに、莫不を下に置ときは、與ると云字へはかゝらず、以字へばかりかゝるなり。然れば、生民の内を一人ものこさず天より與へらるゝと云意はなきなり。生民の内が殘るの、殘らぬの、盡く皆與るの、盡くは與へぬの、と云僉議をば云はず、只既字が與字の上にあるから、生民未生以前からとつくに天から與へらるゝ、其の與へらるゝは如何様の物を與へらるゝと云へば、仁義禮智之性と云物を以てせぬと云ことはなきなり。然れば、仁義禮智之性を以てせぬか、以てするかと云處へ強くかゝりたる僉議なり。去(*然る)により、此莫不の二字は必字の意がをもきなり。與へ物へばかり強くかゝりて、これでなひと云ことはなひ、必これぢやと云て、與へられ手(*受け手)の生民の内、殘るか殘らぬかの僉議はなきなり。
則既ニ莫シ二與トシテレ之ニ不ト云コト一レ以テセ(*二)仁義禮智ノ之性ヲ一矣。 訓
則レバ既二(*四か。)莫與ルト云コトハ一レ(*三か。)之ニ不二以仁義禮智之性一矣。 譯
則既ニ莫ケレバレ與ルコトレ之ニ不レ以セ二仁義禮智ノ之性ヲ一矣。 同
如此置くときは、此訓と譯の如に心得て文理がよくすむなり。裏へ返してみるときは、不ネバレ以テセ二仁義禮智之性ヲ一餘の物を以てするなり。仁義禮智より外の物をやると云ことはとつくになひと云道理なり。句を斷てみるときは、之に與ると云ことなければ、仁義禮智はいらぬ、與るとなれば仁義禮智ぢやと云文法なり。然れば、生民の内が殘るか殘らぬかと云僉議は勿論なし。必定與るとも見へぬなり。與るとなれば餘の物をば與へぬなり。春城無シ三處トシテ不ト云コト二飛花ナラ一と云も、此文理なり。
則既ニ與フ二之ニ仁義禮智之莫キヲ一レ不ト云コトレ以テセレ性ヲ矣。 訓
則レバ、既三與ル之ニ二仁義禮智ノ之莫ト云モ(*ノ)ヲレ不ト云コト一レ以セレ性ヲ矣。(*返り点ママ) 譯
之字の下は必死字になるなり。故に訓に莫と點じ、譯になひものと点ず。これは文理のまゝに訓と譯を施す。仁義禮智と性とは、總じて名別名異の分で、實は一物なる間、かやうな文は何くにもあるまじきなり。今試に字を入かへて文理を論ぜん。
則既與之喜怒哀樂之莫不以氣矣。
之字の下、死字になるなり、物になるなり。こゝでは喜怒哀樂を細釋したる辭になるなり。喜怒哀樂と云ものは、氣を以て動かねば叶はず。故に文意、喜怒哀樂と云物のの(*「そ」か。)の氣を以て動かぬと云ことはなひ物を之に與ると云ふ意なり。與之の二字、總の上にあるから、喜字より下皆與へ物になるなり。
氣質ノ之稟/うけ・うくる(*/以下、稟の左ルビ。)
之字の下は必死字になるなり。うくると云へば活字なり、事なり。うけと云、うけたると云へば一物になるなり。然れば死字なり。音によみても、皆死字になるなり。
或レ不モノレ能レ齊ユルコトガ。 不レ或レ能コトレ齊ユルコトガ。 不レ能/あたハ 二或/ところ/〃\齊ユルコトモ一。
右或字のあり處にて少づゝの違あり。上の字に下の字の義をもたすると云ことはなし。上の字は下の字へ必かゝるなり。故に、或不能齊と云へば、或字は不字へばかりかゝるなり。或、非必の辭と註して、かふしたこともあり、又さうなひこともありと云義なり。故にもありと譯すもなしの意をも含んでをるなり。或不とつゞけば、不字に疑ひを付たる意なり。故に、或不能齊と置くときは、大かたは能レ齊ユルコトガとも、或レ不モノレ能レ齊ユルコトガと云義なり。不或とつゞけば、或字を不字にて破りたる意なり。故に、不或能齊と置ときは、能齊は不或なりとも見る、又或能齊は不なりと見ても通ず。能齊は不或なりと云は、能レ齊ユルコトガと云ことは决してなしと云義なり。不或は决して無と意得(*こころえ)なり。子細は、或字は有ると云意に疑をもちたる字なり。不字は一切の文字の反なり。と立る反とはうらなり。不樂と云へば苦なり。不苦と云へば樂なり。一切の文字、何にても不字を上にかぶれば、意皆うらになるなり。故に、或字に疑意あるにより、决して無き意になるなり。不能或齊と云も、不或能齊と意相似たり。少しの違あり。mし、不能或齊は或字を齊字がかぶりて居る。然れば、必齊ではなひ、時々齊ふこともある、處々齊ふこともあるが、かやうな事もならぬ、あたはぬとなり。故に、不或能齊は語強し。不能或齊は語婉也。
是(*ヲ)以(*テ)不レ能ハ下皆有ルコト中以テ知テ二其ノ性ノ之所ヲ一レ有而全スルヲ上レ之ヲ也。 訓
是以不レ能レ皆下有以ト/ものヲ レ知ル中其ノ性ニ之所ヲ一レ有ル而全スル上レ之ヲ也。 譯
以 知 者氣之清也
\知┐其性之所有
\ │
是以不能皆有以 \ │
/ ├――――――而 與ノ字ノ意
/ │
/全┘之 畧ス二其性之所有ノ五字ヲ一
以 全 者質之純也
此文理は、文義につれてむつかし。故に圖りあらはす。然れども、此圖にていよ/\學者を惑はさんかと思ふなり。是以、こゝをもつてとも、このゆへにとも訓ず。それでとも譯す。上文を承る言葉なり。氣質のうけ様を生民が齊てうくることは、或レ不モノレ能。それでかふ/\と上を承て云出すなり。それで何としたなれば不レ能レ皆レ有なり、何をもつてか皆は不レ能と云ふときは知るものと全ふするものとなり。而字は上下二事なる間、與字と通ずる意あり。故に處によりこと(*原文「と」)ゝよむ。論語大全にも、不下有ト二祝駝ガ之佞リ(*おもねり)一而(*上)レ有二宋朝之美ヲ一。如レ是見せたるとあり。以字、ものと云義はなけれども、これを以かふすると云ときは、これと云物がある間、ものと譯して見るが捷徑なり。此類秘事なり。清き氣を以て知り、純なる質を以て全ふする。清き氣と云物、純なる質と云物がなくんば、何を以て知り、何ヲ以て全ふせんや。故に以字をものと譯するが習ひなり。然れば、知りての物、全ふしての物は、氣と質と(*原文「な」。衍字。)なり。何をか知り、何をか全ふすると云ときに、下の文にある其性之所有なり。全之と云之字、其性之所有と云五字を略したるもの也。其字は世民の面々を指たる辭なり。性之所有とは性の内にあるとあらゆることなり。其あるとあらゆることの大目を云ときは、上の文にある仁義禮智なり。總じて其は物を指辭ゆへ、其字の下にある字は、皆死字になるなり。活字は上にて落着する道理ゆへ、此文は不能皆の三字にて義理落著するなり。如此見るときは、上文の或不能齊と云たるを、是以とうけたるがよくすむなり。
是(*ヲ)以(*テ)皆以テ知レドモ二其ノ性ノ之所ヲ一レ有スル而モ不レ能ハレ有ルコトレ全スルコトレ之ヲ也。 訓
是以皆以二知レドモ其ノ性ニ之所ヲ一レ有而不ナリレ能レ有ツコトハレ全クスルコトヲレ之ヲ也。 譯
如クレ此ノ置くときは、氣をば清を稟たれども、質をば雜駁に稟たるものにしての論になるなり。子細は不能の二字、知字へかぶらぬ故なり。以字をものと譯せぬことは、有字をかぶらぬ故なり。而字をしかもと訓じされどもと譯するは、上下の義理違たる故なり。皆字義は同にして、用ひ様にて替るなり。同じ酒が藥にもなり、祝にもなり、醉狂にもなり、禮にもなり、疾にもなり、さかしほにえとなる意なり。上の以は、總体の義理へかかりて云以也。下の以は、氣の清を以ての故にと云以なり。
右に文理の例証の為メに、古文を擧て句語を轉倒して見せたるは、少の違にて意の大にかはる事を知せんため、又は如此置き様によりて意替れば、かふ云ことは决定して、かふ置かいで叶はぬと云ことを知せん為、姑く一二を以て其他を推さんことを希ふものなり。
- 一 大句・小句・大讀・小讀と云ことあり。句讀は幾重も幾重もあるものなり。これは文理大きなるものなり。たとへば、
人生八歳小句則自王公以下小讀至於庶人之子弟讀皆入小學小句而ヘ之小讀以洒掃應對進退之節讀禮樂射御書數之文大句及其十有五年小句則天子之元子衆子小讀以至公卿大夫元士之適子小讀與凡民之俊秀讀皆入大學小句而ヘ之小讀以窮理正心小讀脩己治人之道大句此又學校之設小讀大小之節小讀所以分也大句 此の分ちは下の章に委し。
- 一 總じて字に字形・字音・字義・字品・字勢と云ことあり。字形は字の點畫偏傍なり。これは文章家にはさまでいらぬことなり。然れども、字義・字音の本づく所なる間、知らひでもならぬことなり。字音・字義は專一にしるべきことなり。字品・字勢は、詩の三經三緯(*詩の六義。三経は風雅頌、三緯は比賦興。)の如し。字品は粗なれば三經の如し、字勢は細なれば三緯の如し。これ皆一字/\の上のことなり。倶に一の巻に委しく見へたり。字用の八種は一字/\の上の事なれども、これは字を積んで一句一語になりたる時、一字/\の上にあることなり。これも一の巻にあり。さて右の字品・字勢・字義・字用を能勘辨して一句一語を組立るときに、上に置ク字・下に置ク字の分けを知て組立るが布置と云ものなり。時に其上の字は下の字をにらみ、下の字は上の字へひゞきて、脉理相通ずる所が文理なり。然れば、布置は人の頭身・手足の如し。文理は人の氣血・筋脉の如し。頭身・手足・骨肉・皮毛をつきたてねば、人の形は出来ず。然れども、氣血・筋脉が流通せざれば、死たる人なり。その如く、布置にて語句の体が立て、文理で語句の用をたすなり。これでもはや語句と云ものに成りたるなり。漢字を以て造りたる語句ゆへ、唐人ことばと云ものよ。さて其上に分間と云ものがあり。これは布置のしやうのまくばりのよきことなり。布置文理までは句法の巧拙へはわたらぬことなり。然れども、語句と云ものではあるなり。けりやう拙き語句・巧なる語句の差別はあるべきぞ。其上に分間と云ものを合點したるときに、巧みなる語句と云ふものになりて、唐人ことばの上手になるなり。たとへば、頭身・手足・骨肉・皮毛が脩て氣血・筋脉が貫通すれば、人は人ぢや。けれども又或は頭が大き過ぎたか足が短ひか、手が一方長ければ、ぶなりなる人なり。その如く、分間があしければぶなりなる語句なり。分間のよきは、なり格恰のよき人と云ものなり。故に、分間より以上を句法と云。この上には格調・字眼と云ことあり。これは又精微なることゆへ、一〃に論ぜず。さて右は一句の上のことなり。これを推廣めたるときに、布置は章段・句讀なり、文理は文勢・血脉なり、分間は章法・句法・篇法なり、字眼は警句なり、格と調とは名かはらず。さて此しん木になるものは何ぞと云ときに、一篇の内では篇旨、一章では章旨、一句では句意なり。句意なくして句の出ると云ことはなきゆへ論ずるに及ばず。
- 一 布置の事、一の巻より記す所の語の斷續なり、字の死活なり。靜・死の字は陰なる間、下上を承て、重きこと下にあり。動・活の字は陽なる間、上下を管して、上を以て義理落著するなり。然れども、死字と死字と一列、活字と活字と一列にはなりてをらぬものなり。死活入まざる間、或は上り或は下りて、錯綜變化するなり。そこで語の斷續と云物が出來するなり。斷續・升降の入まざる處から、因・並と云ふこと出來するなり。因とは一字づゝ相因て上り、相因て下ることなり。並とは其内にきれ/〃\・はなれ/〃\なる字をならべたるなり。その因・並より分・合と云こと出るなり。圖を以てこれを示す。
四字並 二字因 四語並
┌―――仁―――┐ ┌―――窮理――――┐
│ │ │ 二字因 │
├―――義―――┤ ├―――正心――――┤
以┤分 合├之性 以┤分 二字因 合├之道
├―――禮―――┤ ├―――脩己――――┤
│ │ │ 二字因 │
└―――智―――┘ └―――治人――――┘
六字並 六合
┌―――――洒掃 應對進退之節
│大分二 因
ヘ之以 下各二字遥並不合
│小分十二 因
└―――――禮樂 射御書數之文
六字並 六合
此圖布置なり。元來よき文ゆへ分間もよし。句なれば句の上にあり、章なれば章の上にあり、篇なれば篇の上にあり。心悟すれば、往くとして其妙に非ずと云ことなくして、句法・章法・篇法の工拙もこの外になきなり。
ヲの假名、皆上へ反れども、是ノ字・吾ノ字・我字等よりは下へよむなり。
ニの假名、上へ反るときに必於字・于字を間へをくなり。されども、於字・于字を置かずとも、ニとより外はよまれぬ字あり。それには於字・于字を置かず。又之ノ字の上にも於字・于字を置かぬなり。
于字ノ下・之ノ字の下、必死字なり。
所字ノ下、必活字なり。必重く指す文字なり。
其字の下、死字でなくれば必死語なり。
實字・死字は、主・賓・具・時・處の五つなり。
粉骨碎身してなりとも知るべきものは助語なり。助語がすまひでは、意味も文勢も文法もとくと合點ゆかぬなり。
訓譯筌蹄 卷二 <了>
訓譯示蒙 巻三
助語目次
訓訳示蒙 巻三
助語 上
總じて助語は製字の始より助語に作りたる字は少し。皆多くは假借して助語に用たるものなり。皆それ/〃\の本字の意を輕く使ひたるものなり。
のとよむ。これとよむと、このとよむとは、助語なり。ゆくとよむときは助語にあらず。これ、このは、下に見へたり。のとよむとき、必句中に置く物を指示す(*指し示す)辭なり。指示すと云は、たとへば大學之書と云は、此書は大學の書ぞと別ちをたてゝ指示す意なり。此は之字の上が重し。又之ノ字の下を重く見ることあり。そのときは大學の道でもなひ、大學の學校でもなひ、此大學は大學の書ぢやと、此も分ちをたてゝ指示す意なり。上の重ひ、下の重(*ひ〔い〕)は、皆文勢によるべし。mし之字を中に置くときは、必上か下か一方重きなり。上下同等など云ことはなきなり。子細は、元來ゆくとよむ字なり。上から下へゆくときは上重し。然れば必一方重きはずの文字なり。譯するとき、のとも、がとも、と云とも、そのとも云。又之字と其字と相似て、其字は重し。下の字つよく指す辭なり。たとへば、大學之書と云と大學ノ其書と云と合せ見るべし。つよく書と云を指すことばなり。mしかやうのこと少しなることなり。又之ノ字・而ノ字ともにたゑてつらなる文字なり。mし之字はまつすぐなり、而字は語折るゝ(*ママ)。而字は必上下二事に(*ママ)の其間をちよつと而字にてつゞりて置たるなり、故に語折るゝ。之字は必上下ともに一事にして、上體下用とか、上名下物とか分るゝなり、故に語直なり。たとへば、仁義と云ときは仁と義と二つなり。仁之義と云ときは仁中の義なる間、一事にして体用の二つに分るゝなり。のゝかなをつくる處に必之字を置くと云ことにてはなし。之字を置ねば語のきるゝ処がつゞく様に聞ふるときに置くなり。又つゞく処がきるゝやうに聞ふるときも置なり。又句の分間の為めに置くこともあり。又之字の下必死字になるなり、物になるなり。物と云は、理か、事か、實物か、時か、處かなり。たとへば、氣質之稟/うくる(*原文右ルビ「しん」に見える)、うくると云ときは死字に非ず。三代之驍閧オ、驍ネると云ときは死字に非ず。躬行心得之餘、あまると云ときは死字に非ず。又之字の下、字數多きときは死字になしがたし。そのときは、之字の下に所字を置くか、又句末に者字か也字を置ときは死字になるなり。m此也字と云は、なりとよむ也に非ず、白也詩無敵などの也なり。又詩經に、子蕩兮又楊之水兮とあり。此等は蕩も楊も形容字なり。形容字皆死字なり、動かぬ字なり。故に之字を下し得る。そのうへ詩經の此等の語は皆句法を以て置たる之字なり。故に常の文法とは違ふ意思あり。一正一助の句法なり。子と蕩とは正なり。之・兮は助なり。又嗟行之人とあるも、嗟・之は助なり、行・人は正なり。展如之人とあるも、展・之は助なり、如・人は正なり。
てとも、にてとも、してとも、さてとも譯す。mし華語の而字は下へつく、倭語のて、にては上へつく。此華夷語脉の不同なり。かふ/\してかふ/\と云は、二つある處をちょと而字にてつなぐ意なり。故に而字を置くときは、上下必二物か、二事か、二時か、二義かなり。又而字を句中に置に、殊の外輕く用ひたることもあり。無極而太極と、此ノ而字太輕し。而の字を中間に隔てたるとて、上下二事とも見へず、無極即太極也。無クレ極マリ而太ダ極マル。如クレ此ノ意得べし。又學而時習之、此の而ノ字などはさての假名にて、重き而字なり。又而字に雖の意を含ますることあり。それもやはり上下に事なる内に上下の二事が相反することなれば、なれどもと点じて雖字の意があるなり。此時はしかもとも点ずるなり。又、人而不仁、人而不道。此而字もやはりにての譯なり。mし、用ひやうがかはる。これも雖の意少しあり。人でおつてからに仁がなくは、人でおつてからに不道ならばと云義なり。又詩經に、未幾見兮、突而弁兮とあり。此而字太輕し。本義をばかすかにもちてをるなり。ひよかと弁をきたと云意なるゆへ、語の折るゝ意はなきことなり。意を直にして語を折たる句法なり。總じて而字句中にあるときに、句中から二つに折るゝことあり、折れぬことあり。哀而不傷、樂而不淫、温故而知新。此等は折るゝ。欲訥言而敏於行、不有祝鮀(*祝駝)之佞而有宋朝之美。此等は折れぬ。子細は、而字、訥於言と敏於行との二つへかゝる。欲字へはかゝらず。欲字は全句へかゝる。欲字にてしめておくにより、句が折れぬなり。不字も同く全句へかゝり、而字、有祝鮀之佞と有宋朝之美とへかゝる。而字は不字へかゝらずして、不字にて全句をしめておくに、よく句折れぬなり。mし、此はその處の義理を以て立たる文理なり。なぜなれば、欲シテレ訥カラン(*ママ。「つたなからん・おそからん」等か。)コトヲ二於言ニ一而敏ス(*「はやくす・びんにす」等か。)二於行ニ一。とよみても、不シテレ有二祝鮀之佞一而有ラバ二宋朝ガ之美一。とよみても文理に無理はなきゆへなり。(*これだと後句が重くなる。)句頭に置ときはさてと譯す。上の句をかふ/\と言畢て後、さてかう/\とうつる語勢なり。又しかるにと訓ずることあり。これもやはりさてなり。少し雖の字の意あり。句尾に置くことあり。何の義もなき助字なり。之字と同じ。mし、詩經の詩にあることなり、文にはなきことなり。
所と攸と同じ、處は別なり。所字・處字ともに實語に用るとき居處の意なり。就レ中少しの差別あり。所字は所のあてなり。故に、方所と連續す。處字は元來居する意より移したるものゆへ、おりどころ・ありどころの意なり。處はひろく言たる意、所はせばく指たる意なり。倭辨になをさば、處はやはりところ、所はあてとか、ほどとか云べし。
巻1
巻2
巻3(巻3から標題「訓訳示蒙」)