南留別志

刻南留別志序

徂徠先生南留別志 卷之一

• 一　名乗りに純をすみ、茂をもちともよめるは音なり。
• 一　朝の字を、或はあさ、或はともとよむ事は、或は公武にてかはり、或は上下にて異なりとやらんいふは、僻事なるべし。義朝の子朝長あり。おき所上下ありともかはるまじ。公家・武家といふ事は鎌倉以後の事なり。
• 一　義經記に、白拍子をかぞふるといふ事あり。惣じて白拍子の詞は、物をかぞへならべてうたふ。水白拍子（＊「遊女の今様・水白拍子など唱やうに」〔梁塵秘抄口伝抄〕）に昆明池・頴川・嚴陵瀬（＊漢の隠者厳光に因む。）・筧乃水・若水などつらねたるがごとし。
• 一　論語を圓珠經といへるは、五山の僧の云習はしたるにやと思ひしに、曽我物語に見えたれば、博士の家の詞なるべし。圓珠の意は皇侃の義疏（＊梁・皇侃『論語義疏』）の序に見へたり。
• 一　義經記に、清水にて法華經をよみあひたるに、弁慶が甲の聲、義經の乙の聲といふ事有。たゞ聲の高低なりと思ひしに、其後ふるき讀經の譜を求め出たり。字ごとに律に叶へて、つけ物（＊声明につける笙・篳篥・笛などの伴奏。）などもすべきやうに定置たる物なり。甲の音・乙の音とて二色あり。げにさらでは満堂の人の感に堪かねたる事はあらじかし。此比までは、何事も風雅なる世なりけり。
• 一　ものゝふの剛臆といふ詞（＊「将軍つはものどもの心をはげまさんとて、日ごとに剛臆〔甲乙イ〕の座をなんさだめける。」〔奥州後三年記〕）は、義家（＊原文「頼義」）の奥州にて甲乙の座を定めたるよりおこれり。甲乙人（＊「然ば早甲乙人共、乱入けりと覚て、」〔太平記〕。優れた人と劣った人。［中略］すべての人。〔新潮国語辞典〕）といふも是より出たるなるべし。又、樂に笛の平調を干といひて、笙のを乙と名づけたるも、干は甲の字の半体なり。三線のかん所も此字ならん。物のこつといへる詞も、甲乙を合呼したるなり。
• 一　完をしゝと讀は（＊「高山の峯行く完〔獣〕の友を衆み」〔万葉集〕）、宍の誤なり。肉の古字なり。辻（＊国字）は逵（＊音「キ・ギ」）の草書なるべし。
• 一　おみ帶・おみ扇などいへる俗語ははねがな（＊撥音便）をみとよみて、おんといふ事なり。陰陽師をおんみやうじとよむも、はねのひゞき（＊撥音）、みに通ふなり。
• 一　下手人を取るといふ事は、律に鬪毆罪をば、多くの相手の内にて重手おはせたる人を下手人と名付て、疵つけるもの死すれば其人を殺す事なるを、誤りて抵死する事にいへるなり。
• 一　花押（＊書判・判形・草名とも。）を判といふは、判署といふ事のあるを、取ちがへたるなり。判といふは、日をあけ置て、後に書加うるをいふ。（＊大漢和には「分・離・断」等の意を挙げる。期間を空ける意か。）署は令の名はん（＊名判）なり。
（＊次の条の丁付「五六」とあり。版行前に項目削除などがあったものか。）
• 一　花押は、名を草にかきたるなり。花押の上に姓をかく事なるを、今の世にあやまりて名乗をかくなり。庭訓など見るべし。今の世は官人面々に私印を用う。官印なき故なり。古は官印あり。一官府に一つならではなし。是を月日の所におして、面々は花押なり。官の文書は、皆物かき役のかく事にて、名乗ばかりを、面々に、草にて、後にかくを花押といふなり。
• 一　追放といふは、割據の世の事なり。
• 一　聟養子をして家を相續するは、頼朝卿より始まる。法家のゆるさざる所なり。
• 一　「かしらにはおどろの雪をいたゞけどしもと見るにぞ身はひえにける」といふ歌（＊出典未詳。「おいはてて雪の山をばいただけど」〔拾遺集、十訓抄〕、「年を経て頭の雪は積もれども」〔宇治拾遺物語〕等。「霜と」「笞〔しもと〕」の掛詞、「雪」と「霜」は縁語。）は、笞杖の罪の事をいへり。笞杖は荊楚にてつくるゆゑ、おどろといへるなるべし。（＊「髪には棘〔おどろ〕の雪を頂き」〔謡曲「山姥」〕等、イバラと髪の連想があり、さらに笞との連想が働いたものか。）
• 一　曽我五郎が元服したる所に、髪とりあげ、烏帽子きせと有て、月額（＊月代〔さかやき〕）の沙汰なし。されども、西行法師は月代の痕といふ事をかきたり。中剃（＊頭頂部等を部分的に剃る髪型。）の事なるにや。
• 一　軍陣に螺をふくは角なり。角は銅角（＊初め木製、後銅製、軍中での楽しみに使ったとある。〔和漢三才図会・楽器類〕）とて銅にても作り、又蠡角（＊れいかく）とてほらがひをも用るなり。
• 一　犬追物に前後左右の騎射あり。古は半弓を用ゐたるなり。賀茂の勅使は、履をはきながら馬にのる。古の鐙は唐鐙なるべし。古の鞍、田舎に多し。くらつぼ廣く、前輪高く、唐鞍に似たる物なり。茂卿が幼き時、上総國の民家にて多く見たり。
• 一　白張（＊はくちょう・しらばり。平安朝の下級官人の服。）は服の名なり。白丁（＊はくちょう・はくてい。〔はくてい〕無位無冠の公民。）は人をいふなり。
• 一　平山の季繁（＊季重。保元・平治物語の勇将。）が馬を目鴾毛（＊「目糟毛」〔平家物語〕。「鴾毛〔つきげ〕」は赤味を帯びた白毛混じり。糟毛は灰色地に白毛混じり。）といふ。今め白・め黒・め赤といふ地名あり（＊地名として言及）。めぐろを妻驪とかくよしをいへれども、目驪とかく事正しかるべし。目驪・目騂（＊赤馬）・目驄（＊葦毛。灰白色の毛色。）、皆名馬の名にて、其出たる地に名づけたるなるべし。武藏野には目がはりの馬を出せるにや。
• 一　わらはべのべかこう（＊あかんべえ）といふ事をするを、大鑑（＊大鏡）にはめかこうとかきたり。目をはだけて（＊目を剥いて）元興寺（がごぜ）（＊あかんべえ。元興寺の悪鬼を退治した道場法師の伝説に基づく語。悪鬼のような顔をする意。）をする心なるべし。
• 一　童名に、箱王・春王・鬼王などいへる、古は三世王・五世王などの姓を賜はるは、多くは元服して賜はれるなるべし。童部の時はいまだ諸王（＊親王宣下がなく、臣籍にも降らない皇子・皇孫。）なれば、何王と稱したるが、凢人の家にも移りたるならんと思はる。
• 一　社をこそとよむ事は、やしろをこそといひたるなるべし。姫古曽といふ神もあるなり。鳧をけりとよむも、かもをけりともいふゆゑなり。又、杜をもりとよむも、社の字を誤れるなるべし。森の歌には、多くしめなはを讀り。
• 一　てにをは（＊ヲコト点に由来。助詞だけでなく、助動詞・活用語尾・接辞等を含む。）といふ事は、歌書の詞にあらず、博士の家より出たる詞なり。をことは点（＊ヲコト点）といふものは、論語に本づきて作り出せり。論語は王仁が將来したる故、諸事の元になれり。てにをはと云習はせるはじめなり。
• 一　源氏物語に五六のはら（＊「あまたの手のなかに心とどめてかならず弾きたまふべき五六の溌剌（はら）」〔若菜下〕）といへるは、發剌（＊はら。撥剌とも書く。二本の絃を二本の指で、魚が溌溂と水に跳る尾のイメージで弾き分ける奏法。）といへる琴の手なり。五六は徽（＊絃を十三の徽に分ける。）の名なり。ばちとかき、破等とかきたる本あるは、琴すたれて後しらぬ人のしたる事なり。
• 一　琵琶のてんじうをてんじんといふは、いやしき詞なりといふ人あり。かへりてあやまれるなり。轉軫（＊てんじん。転手〔てんじゅ〕。琵琶・三絃の棹に付けた糸巻の棒。）とかくなり。
• 一　論議といふは、真言・天台のなり。問答といふは、禅のなり。謠に、論議はふし有て、問對はふしなし。其はじめ論議は儒家の礼なり。釋奠（＊せきてん。おきまつり。先聖・先師を祀り、供物を置き据える祭事。）の後にある事なり。
• 一　讀師のするは、今の世の講釈なり。講師のするは、今の世の論義なり。講釈の事を物よみといひ習はし、法花八講など皆論議をするは、僧家に古礼のこれるなり。異國にても、宋朝より講の字を誤れり。吾邦の故実は唐朝より傳へたれば、異國に勝さる（＊ママ）事も有なり。
• 一　古の詞は、多く田舍に残れり。都會の地には時代のはやり詞といふ物ひた物に出来て、ふるきはみなかはりゆくに、田舎人はかたくなにて、むかしをあらためぬなり。此比は、田舎人も都に来りて、時の詞を習ひつゝゆきて（＊ママ）、田舎の詞もよきにかはりたりといふは、あしきにかはりたるなるべし。