はやきつる道の草葉や枯ぬらん供に有ける海野小太郞幸氏かへし、
あまりこがれて物を思へば
思ひには道の草葉のよも枯じとよみし。此時志水冠者も幸氏も共に十一歳なりし事、源平盛衰記にみへたり。志水冠者かゝる年のほどにて、我家のわざながら、作法ある笠懸を射覺え、和歌を翫ぶ事などのかく有しこと、あながちに(*原文「あながらに」)田舍びかたくなならん父の傍にて生立たる男兒も仕る童も、いかでかゝるやさしき翫ごとの有べき。是等にておもへば、義仲のひがみかたくななることを平家物語等に無下に書たれども、さまではなかりけるならん。是は平家都落の跡へ義仲入かはりて、法皇御所法住寺殿を攻破り、關白松殿の姫君を押て妻とせし類の暴逆の甚しかりければ、堂上・地下より下ざまに至り、あくまで木曾を惡みて、ことごと敷しるせしにぞ。志水冠者も年を經ず鎌倉にて右大將家の爲に殺されし。いとおしく(*ママ)もあはれにもある事なり。
涙の雨のつねにそゝげば
あやめかる淺香の沼に風吹ばとあれば、無名抄を書ける後に、かの沼にあやめ有と聞てよまれしにぞ。又寛治七年(*1093年)郁芳門院根合に、藤原孝善、
をちの旅人袖かほるなり
あやめ草ひくてもたゆくながき根のとよめるを金葉集にも撰び入られたれば、此沼にあやめなきといふ、ひがごとなり。釋宗久奧州へ下り淺香沼を過ける時、其所の人に尋ねしに、當國に菖蒲のなきにはあらず。實方中將の下り給ひし時、あやめもしらぬ賤が軒端には、いかで都に同じあやめをばふくべきとて、かつみをふかせられけるより、是を葺傳へたると語り侍し。さる事もやとてしるし付ぬるよし、都のつと(*宗久『都のつと』)といふ道の記に見えし。げに此説寛治の根合等にあやめをかの沼によめるよくかなへり。後世にも新續古今集に、加茂遠久、
いかで淺かの沼に生けん
契のみあさかの沼のあやめ草ともよめり。又西行上人の熊野へ參ける道にて、菖蒲をばふかでかつみをふきしと著聞集に見えし。奧州ならでも鄙にはかゝるためしも有にや。
深き恨にねこそなかるれ
眞薦草あさかの沼に茂りあひてと申けるにぞ、其女を給りけり(*原文「り」脱)と沙石集に見えたり。是を書ける僧無住は梶原景時が姪といへば、たしかに聞し成べし。されどもいといぶかし。無住是を書し時八十三歳とあれば、年經しことにて賴政卿の事を覺えたがひてかくは書たるにぞ。
何れあやめとひきぞわづらふ
數しらずおもふ心にくらぶればとあれば、御かへり、
とをかさぬるもものとやはみる
おもふ事しらではかひやあはざらん物語の眞木柱の卷に、
かへす/〃\も數をこそみめ
こがくれて數にもあらぬかりの子を宇治十帖の詞にも、又かりの子と書り。續千載集にかりの子を人のおこせて侍りければよみ侍る、和泉式部、
いづかたにかは取かくすべき
いくつづついくつかさねてたのままし是等歌にも詞にもみなかりの子とのみ見えて、とりの子といふ事は伊勢物語ばかりなり。其上に蜻蛉日記の詞も和泉式部の歌も、みな伊勢物語をとりたる物なるに、とりの子となくてかりの子とあるにて思へば、もし伊勢物語のもかりの子と古くは有しにや。いと覺束なし。古今六帖に、紀友則、
かりのこの世の人のこゝろは
鳥の子を十づつ十はかさぬとも古くは伊勢物語の外に鳥の子とよめるはこればかりなるか。
人のこゝろをいかゞたのまん
何としていかにやけばか和泉なる是を横山炭といふは、和泉國和泉郡横山莊鬼男村香瀧といふ所の産なればなり。是を今は枝炭・細炭ともいふ。是は枝炭にもかぎらず、常のもこゝより燒出すは白くて、足利將軍家の時は專ら此炭を用しことにぞ。大雙紙に常の御所の御ゆるり(*地炉。いろり)の炭は、白炭とて横山といふ處にて燒炭にてといふ事みへし。
横山ずみのしろく成らん
ますらをの弓ずえ(*ママ)ふり起し射つる矢を萬葉集三卷にみへし。昔は精兵なるものは我弓勢の勝れたるを後代のものにしらしめんとて、道路などの大木に箭を射付殘す事有し。故に金村も鹽津山中の木に箭を射殘し、此歌をよめる成べし。保元の軍に八郞御曹子(*鎮西八郎源為朝)上矢の鏑一筋殘りたるを、末代の者に見せんとて、寶莊嚴院の門の柱に射留しと保元物語に見えし。又建久四年(*1193年)曾我兄弟親の仇を討んために富士野の狩くら(*狩座─狩場)へ行とて、箱根路の湯本の矢立の杉(*原文「天立の杉」)に矢を射立置しこと曾我物語に見えたり。其杉は後世まで有しといふ。是皆同じ類なり。近き比寶暦九年(*1759年)の事なりしに、日向國の杣にて切出せし杉の大木を舟にて積のぼせて、當國岡山の府下にて舟木の料に引わりけるに、半ばかりにて鋸にかゝるものあり。其所をうがちてみければ箭尻(*鏃)三本有けり。是も昔精兵の箭を射立たりし木の、年經て生まさり、鏃のみこもりたるなり。則其鏃を爰にうつす。
後みむ人の語つぐがね
鹽津山打越ゆけば我のれる
馬ぞつまづく家こふらしも
かずしらず君がよはひをのばへつゝ返し、藤原雅正、
名だゝる宿の露とならなん
露だにもなだゝる宿の菊ならば是は伊勢家集に見えたり。それを後撰にも入られしなるべし。新敕撰集に九月九日從一位倫子菊の綿をたまひて、老のごひすてよと侍ければ、紫式部、
花のあるじや幾よなるらん
菊の露わかゆばかりに袖ふれて是も紫式部日記にみへて、寛弘五年(*1008年)の事なり。枕草子に九月九日のあかつきより雨すこしふりて、菊の露もこちたくそぼち、おほひたる綿などもいたくぬれ、うつし香(*原文「うすし香」)ももてはやされたる、つとめてはやみたれど、猶くもりてやゝもすればふりおちぬべくみへたるもおかし(*ママ)などあれば、かの綿を九月八日のくれより菊におほひ置、花の香を夜のほどにうつし、其綿を九日にとりもちて身の老をぬぐひ捨れば、わかがへることのあるといふ厭(*ママ)のためにする例なる事なるべし。しかるに新撰六帖の信實歌に、
花のあるじに千世はゆづらん
垣ねなるきくのきせ綿けさみれば此歌によりて、菊さかざる時に綿をもて花にかふといふなるべし。されど是はきせ綿せしを花みまがへてよめる歌。又殘菊匂といふ題も、
まだき盛の花咲にけり
時過てたれかは今もきせ綿の此歌などによりて、霜をいとふためにきせ綿をするといふにや。是も菊のにほひたるを九日のきせ綿は見まがひしとよめるなり。九月九日の菊のきせ綿は、身の老をぬぐひすつる術にする事をおもふべきにか。
それかと匂ふ霜のしらぎく