1/2 [INDEX] [NEXT]

湯土問答

土肥經平、湯浅常山
(内藤耻叟校訂。岸上操編『少年必讀 日本文庫』第6編 博文館 1891.11.24
〔原注〕(*入力者注記)縦書き表示用

  解題(内藤耻叟)   序(宮田明)    目録   巻1   巻2
[TOP]

湯土問答二卷

[TOP]

解題

湯は湯淺常山にして土は土肥經平なり。共に備前岡山の藩臣にして文武の名士なり。常山は漢學に通じて武を好み、土肥は和學を好んで故實を知る。故に常山就て我邦の典故を問ふ毎に土肥之に答へたるもの即此書也。因て題して湯土問答と云ふ。其事は宮田氏の序に見え(*原文「見ゑ」)たるが如し。今や世制大に革まり古體皆廢す。後數年を經ば、之を朝野に求るも復得べからざらんとす。然らば則此書の如きもの存して以て世に傳るも亦是(*古来の慣例を保存すべきことの例。)の類にして聖人の愛する所なり。是余が之を刊行する所以なりと云爾。


[TOP]

明嘗ゥ常山湯君。曰、備藩大衛騎將(*番頭の漢名か。)土肥君多スルハ本邦載籍、世ナリ。莫蓄積、且考究塩ァニシテスト典故。湯君就而正スニ一レ、則ジテフニ而答フル事々分折可一レ。湯君記シテ而秘。子誠爲メニシテ一通而見。明シハ而寓スルヲ一レ、不蔡中カケル論衡之比ナラ矣。學シテ、善ヒヲクガ。叩クニテセバナルヲ者、則サク、叩クニテセバナルヲ者、則。待チテ從容タルヲ後盡。縱使土肥君スル該博ナルモ、非ザレバルニ湯君之問、則クノスヲ也。嗚呼大鐘得タルクヲ矣哉。漫リニシテ而返
天明癸卯(*天明三年〔1783年〕)十一月朔
宮田明

明嘗聞ゥ常山湯君。曰、備藩大衛騎將土肥君多藏本邦載籍、世所罕有。莫蓄積、且考究塩ァ明覈典故。湯君就而正其所疑、則應問而答事々分折可以爲徴。湯君記而秘之。子誠爲明寫而見投。明得與而寓目、不啻蔡中カ於論衡之比矣。學記曰、善待問者如鐘。叩之以小者、則小鳴、叩之以大者、則大鳴。待其從容然後盡其聲。縱使土肥君所記該博、非湯君之問、則不此盡其聲也。嗚呼大鐘得其撞矣哉。漫題其首而返之。


[TOP]

湯土問答目録

 

(巻1)

唐裝束    三種神器    長慶帝    國造・國司    參議    帽子    猿樂  
  強裝束    軍團    狩衣・布衣    里程       片假名    呉音  
  註D    追捕使    平安城    平家作者       帶劍  
  侍所別當    鞭指   

(巻2)

版本    烏帽・素襖       陣大刀    左折    尻籠    中刺  
  腰當    物具供餅       布衣記    備前學校    高島 
  古陵  白鳳・朱雀   御所燒   虫明八景(*原典に項目を欠くので補う。)
    いなり   龜卜   蚊帳   火たつ  (*本文は「こたつ」の次に「蚊帳」)
     んの字    遊女    二束二把    大名・小名    鴫猪  
  昔の寢殿    大和問答付録   



[目次]

湯土問答卷之一

湯淺元禎 問
土肥經平 答
[目次]
日本天皇即位の御時は唐裝束召され候御事、冕より以下十二章の御衣裳裝束圖式に見え申候通りに御座候歟。
右之御時 内辨 外辨 宣命使 典儀 親王代 侍從代 少納言代 賛者 圖書允 主殿允
此人々の衣服は如何樣の事に御座候歟。
御即位の時唐朝の世の式を被用ことは、昔は御即位の時計にも非ず。元三の日被用しこと國史に見え(*原文「見ゑ」。以下同じ。)候。其始め 文武の朝廷大寳元年(*701年)正月朔日 天皇御大極殿受朝。其儀於正門樹烏形幢、左日像龍朱雀幡、右月像玄武白虎幡。蕃夷使者陳列左右。文物之儀於是備。と續日本紀に見えたれば、是より前年月を經て唐朝の式をうつされ、此年大概相備たるなるべし。されども君臣とも冠服の式は此時は未うつされずして 聖武朝廷天平四年(*732年)正月に始て冕服を著御ありしよしも續日本紀に見えたり。然るに養老の始撰まれし衣服令の禮服冕は見えず、冠と注られたれども綬と玉佩とは見えたれば、此禮服も 文武の朝廷より 聖武の朝廷までに追々に作り添られて天平四年に全備したるなるべし。其禮服今に至て相續て御即位の時のみ被用ことになりしなるべし。冕を和名玉乃冠と和名抄に注して今も同じ唱にてある也。古事談に見えし 應神天皇の玉の冠と名は同じけれども、是と冕とは異なる物なるべし。此 應神天皇の召されしは 神代より人代の始に至りて吾朝のならはし玉を以首を飾て是を玉鬘と云。其玉鬘の傳りしにや。又 文武・聖武の御時唐朝の式をうつされし以前 推古の朝廷に隋朝の冠の色を用られて、大コ・小コは金を用、大仁・小仁は豹尾を用、大禮以下は鳥尾を用と云ことも日本紀に見えたれば、唐より前にも異國の式を被用しことありし也。今も御即位の時に苧ム次將は武禮冠と云もの被用。其製鳥の窒以て飾たるものなり。もし 推古の時の大禮以下の用ひし冠の製のはるかに今の世にも遺たるも知るべからず。
○今は唐裝束を用らること、御即位の時斗なり。其時も臣下殘らずにも非らず。役によりて着せらるゝ由也。
     唐裝束を禮服と云。是を着せらるゝは、
内辨一人 外辨一人 宣命使六人 典儀一人 親王代二人 侍從代二人 小納言代(*ママ)二人 賛者二人 圖書允二人 主殿允二人
是等なり。宮女は唐裝束を用らるゝことはなく候。
〔問とのみありて文なきは、問文を略せしなり。下皆之に傚へ。─頭注〕(*前後から推定できる問は省略したものか。)
天子唐裝束を著御のこと 聖武天皇天平四年(*732年)正月に始て冕服を着御ありしこと國史に出候。此時始り也。冕を和名抄に玉の冠と見え(*原文「見ゑ」。以下同様の箇所は「見え」に統一する。)候へば、是則唐裝束のことなるべく候。又建久四年(*1193年)八月二十五日東大寺寳藏實目録と云ものに、玉冠四頭の中二頭は太上天皇とあり。 聖武天皇なり。二頭は 女帝御冠、先帝とあり。 孝謙天皇御冠歟云々。是則國史に見えたる冕なるべし。然るに、 應神天皇の玉冠内藏寮に傳りありしを、代々帝令着給し(*着さしめ給ひし)こと、古事談・東齋隨筆(*原文「東齊隨筆」)等に見えたれば、玉冠は猶昔より着御ありしと見えたり。其御代阿直岐・王仁等來りし時渡り來りしにや。國史に天平四年始りしと云は、袞龍御衣等悉全備せしをかく記されたるにや。養老の衣服令にも綬・玉佩等の事は見えたり。
 今は御即位の時のみなり。昔は其外にも着御歟。國史に正月とあり。古事談に大嘗會と見えたり。
天子の冕より以下十二章の御衣裳大概裝束圖式に見え候通りに候。其中冕を金銀珠玉を以て飾、日像月像を出したる樣、詞にもつくされず美しきものなるよし傳承り候。御衣裳の十二章は色と糸にて繍にしたるを押つけたるものゝ由。
臣下の衣裳の裁縫も同じ物にて、長も短、巾も狹きよしに候。飾抄(*中院通方『飾抄』)に其地大畧唐綾也。色は橡・麹塵・紫の三色なりと見え候。近代の衣には橡色はなきにや。文は丁子・唐草輪なし(*輪無し唐草)等也。又賛者(*即位や朝賀等で典儀〔少納言〕を補佐した役。)等は無文なりとぞ。裳は飾抄に水色其地(*原文「穀」。紗=縮緬。)なりと見え候。近代も同じ。文はすそのかたによりて、鮎を彩色にす。賛者等は無文なり。
臣下の玉冠は是とは大に異れども、是も鎭珠玉にて飾る。官位の高下にて玉の數多少あり。下に烏帽子を着て其上に玉(*ママ)を重ぬ。賛者・圖書・主殿は玉冠を重ねず、烏帽斗り也。
玉佩 天子は銀にて作り、水昆の玉にてかざる。左右二流也。     玉冠 烏帽形如此
臣下のは鎭にて作り、色々の玉にてかざる。右に一流也。賛者等は是を帶せず。其外繻沓等も官によりて品かはれり。
[目次]
古語拾遺に即以八咫鏡及草薙劍、二種~寳授賜
皇孫、永爲天璽・矛・玉自從。
正しく二種の~寳と相見申候。
八坂瓊曲玉及八咫鏡・草薙劍三種の寳物とする事、~代卷下卷に出て、一書曰の説にて本文には非ず候。
元禎謹案に草薙劍と申事は、 日本武尊の御時より始て聞えたる事、~代にて草薙の劍と申名は有べからざる事明なり。されば此一書の説は後世なるべし。
禁祕抄に夜御殿の事を記して、御枕有二階、奉安御劍・~璽と見えたり。三種とは見えず。但し璽と有りて御鏡の事見えず。河海抄に又夜御殿の四の角に燈樓あり。是は寳劍・~璽の御爲なりと見えたりとも、御鏡の事見えず。
東鑑元暦二年(*1185年)西海にて、 安コ帝を二位尼抱き奉り、寳劍を持して海底に沒する事見えて、其次に賢所を奉開とせし事をのせたり。然れども三種とは見えず。かしこ所の御事も其しるせし所、御鏡の事と見ゆ。
又中務内侍の日記に廿一日〔弘安七年(*1284年)十月〕劍璽入らせおはしますと云々。
按に下文にもとかく二種と見ゆ。
下文にするしの御箱を持て、 高みくらにさゝげ持ゆく事をしるせるも、おもきものに見えたれば、御鏡なるべし。さればしるしといふは御鏡の事なるべき歟。
三種~器の御事委くは申奉り侍らざること也と見へ侍ると、逍遙院内府(*三条西実隆)の記させ給ふこともあれば、凡人は猶奉憚事にや。されば日本紀以下國史又野史等に見えしこと斗左に抄出す。
~代卷三種寳物と出たれば、一書の説にもあれ、三つなること顯然に候。
爰に草薙劔と書玉ふこと、後代の名を以記し玉ふ也。故に本書下文に至、 日本武皇子改名曰草薙劔と云ことを注し添られたる也。
又~器の御事を、 ~武天皇以後は日本紀・舊事記・古語拾遺等、天璽・劍・鏡、或は鏡・劍璽、或は劍・鏡とのみも記されて、皆二種なり。又養老の撰の令にも~璽之鏡・劍と書給ひ、天長の義解にも鏡・劍を以て璽と稱すとあれば、二種と云も又顯然たり。 文コ天皇・C和天皇・陽成天皇の三代受禪の時、~璽の寳劍を奉ると記されて〔三代實録、續日本後記(*続日本後紀)、~鏡を合せ奉りて三種なること、~代より後再見えて、今に至て三種を稱す。
此時以來璽と劔との二つ斗り 新帝に奉り玉ひて、~鏡を稱せざるは、~鏡は温明殿 〔一曰内侍所〕御鎭座あるまゝなる故也。此殿に崇め奉りしことは、 崇~天皇の御時よりのことにてあれども、往古 持統天皇の御時までは、~鏡をも並て御讓りありたれども〔日本記(*日本紀)、其後何れの御時よりや~鏡をば温明殿に居ますまゝにて劔・璽斗を讓らせ給ふことになりし故に、續日本後紀・三代實録・大鏡・今鏡等に璽と劔と斗記しあげて~鏡を記し奉ざるは此故なり。~鏡を~璽と申奉るにはあらず。又賢所と申奉るは~鏡御事也。賢所を恐所とも〔野府記(*小野宮実資『小右記』)畏所とも書〔中右記(*中御門宗忠)
文コ・C和・陽成の御時より後は三種にて、二種と云ことは聞えず。元暦二年、 安コ天皇西海に入らせ給ひし時、内侍所は御座舟に殘り、~璽は海上に浮たるを片岡太カ取あげ奉り、寳劔は海底に沈し由、盛衰記・平家物語に見え、東鏡(*東鑑)にも内侍所・~璽は御座まし、寳劍は紛失せし由も、又賢所・~璽今津に着と云ことも見えたり。
東鏡三月廿四日の條には、寳劍と賢所の御事斗見えたれども、四月十一日、同廿四日の條には~璽の御事も見えたり。
其以來増鏡等を初め三つ~器とのみ記せり。繁多なる故に余は抄出畧之。
玉葉集三種の寳物の心をとありて、
從一位ヘ良
~代より三くさのたから傳りてとよあしはらのしるしとぞなる
又元文六年(*1741年)公宴御當座に、
烏丸光榮公
つるぎをも治る國は玉手筺みよくもりなきかゞみなるらし
是は~器二種三種の説を會してよみたまふと見えし。誠に堪能のわざなるにや。世の諺に今人丸と稱せしも、かゝる秀歌ども多きゆゑなるべし。
○~璽の御事 陽成天皇璽の筥を開しめ給ひければ、白雲起りければ、恐懼し給ひしと云ことあり(*原文活字錯置顛倒)〔古事談〕。天子の開き見たまひしだに如此あれば、たれか是を窺ひ見て知ることあらん。故に古書の中にしるせしこと、左に抄出す。
令曰、天子~璽謂踐祚之日壽璽寳而不用。内印方三寸、五位以上位記及下ゥ國公文則印、外方二寸半、六位以下位記及大政官(*ママ)文案則印云々〔謂の字より用迄の十一字書ざる本もあり。書ながら見せ消にたる本もあり。考るに、此文を除は、~璽のことを秘する故あるにや。〕
順コ院御抄(*『八雲御抄』)に、璽の筥の中に鏡ひとつ程の物うごく。返す/\かたむくべからずと云々。
古語拾遺に、二種~寳授賜皇孫永爲天璽矛玉自從云々。
此抄出にて大概可考ことも可有歟。可恐々々。
○三種二種のこと
文コ天皇踐祚の時に、天子~璽・寳劔・符鈴等を賚て皇太子の直曹(*東宮御所のあった大学寮内の学舎・学生寮)に奉と云〔續日本後紀〕。又C和天皇踐祚の時も、 天皇~璽・寳劍・節符鈴印を皇太子直曹に奉と見えたれば〔三代實録〕、三種の外にも同じく讓り玉ふものありて、此~璽を節符鈴印に加へ、或は鏡・釼に加て稱し奉るより二種と云三種と云かはりありしことにや。
[目次]
南帝長慶院の御事、所見未詳。されども參考太平記の末に記せる所、後村上帝崩御、 長慶院嗣て立たまひ、文中二年(*1373年)八月二日、皇弟御龜山院に位を傳玉ふ由あれば、南帝は四代にてまします。然るに新葉集御龜山の御時に御代三つぎと書たるは、此 長慶院を除き奉る子細ありて三つぎとは書たるものなるべし。櫻雲記にも後村上より直に御龜山代をうけ繼ぎ給ふ由ありて、文中二年の記に或曰御龜山院位を太子寛成に讓て吉野を逐電すとあるは、 長慶院の御事を御龜山院とあやまりて記したるものと見えたり。又或記に曰、 長慶院文中二年春半位を御龜山帝に讓給ひ、四月八日御落飾あり。天授四年(*1378年)五月二日、吉野を忍て出御あり。所々行脚し給ひ、高野へ入らせ給て、爰にしばしましましける由書たるものもあり。されども何れにて何れの年崩御ましますこと所見なし。
 法の道に逢うれしさは岩つゝじかたくも色に出にける哉(*慈円『拾玉集』に類歌があるという。)と遊され、御供にありける僧順阿書つけさせ、其短尺をつゝじに結ひ付しかば、たちまち色紫に變て後世も紫にさきける故、これを敕色のつゝじと土民名づけて愛翫しけると云。民間の説もありと云へば、 長慶院行脚ましましけることは實なるべし。
常山樓筆餘又々御見せ、 懷良親王の御事、却て吾朝には聞えざる事。めづらしき事御覽出し候事。すべて此宮の御事は太平記などに見え不申。如何致し候事や。御墓は肥後の麓山と申所に今も殘り候よし承及申候。此御兄弟の宮十八人迄御座候よし候へども、やう/\十二三人ならでは知れ不申。西山公御考にも及不申。殊に此宮御功多く御座候に、世に傳へ殘る事少く、殘念なる事に候。其上後村上の皇子泰成親王、かの宮(*原文「官」)の御猶子、是も征西將軍にて御下向ありしと申候事も御座候へば、餘程久しく鎭西をも御治被成候事。南朝の事ゆえ、世に人も傳へざると存ぜられ候。是書御書立被成候はゞ、又々借用熟覽致し度。面白き事に御座候。
[目次]
國造・國司は同事と職原抄に記されしを、壺井が辨疑(*壺井義知『職原鈔弁疑私考』)に是を誤るなるべしと云は、又壺井が誤なり。 推古天皇の頃に及では國司・國造のわかちありて、國司は貴く國造は卑し。往古は國造ありて、國の祭祀を專とす。是則國司なり。天種子命專祭祀事、是乃執朝政之儀也と云るごとき、ゥ國も是に同じ。古事記曰、十三代成務天皇大國・小國之國造定賜(*定め賜ひ)、大縣・小縣之縣定賜と云是にて、此國造後世の國司なり。縣主は郡領にあたるべし。此成務の朝の國造を日本紀には造長と書たり。後に祭祀と國政と別しより、國司と國造と二つになりたり。北畠准后の注せられしは、人代の始のこと、壺井が注せしは推古の御世等のことを以注したる也。
[目次]
參議を世に宰相と申す事心得られず。宰相は天下の仕置を司れる人をさし申すなり。參議は職原(*職原抄)にも參議、宮中政之意なりとのせられたれば、只仕置列座に加れるの事也。職原に諫議大夫を配當したれども、是は後世の附會なりといふ説にて見る時は、必しも慥なるべきにあらず。もとより諫議大夫とは當りがたし。又壺井が説に、大臣・公卿おしなべてゥ宰相といふ事國史に見得たる由、如何有べきにや。其説據あらんには、參議のみに限りて宰相といふべきに非ず。又唐の制は尚書省天下の政をすべ司りて、僕射其長官たり。 日本の三大臣に准ずべし。參議は唐の參知政事に配當すべし。然るに宰相と世にいふ事心得られず。百寮訓要(*二条良基『百寮訓要抄』)にも參議は陣の座(*原文「陳の座」)にて物をよみ筆とる職なる由見え侍れば、如何心得申べきにや。
參議は職原抄にも參議、宮中政之意也。故非正官云々。故三木(*参議の借字)には位階の相當もなし。宰相の官名も亦是に同じで、大臣以下納言・三木迄の大政官(*太政官)中にて政事を議する人を皆宰相と云。續日本紀曰、制選叙之日、宣命以前ゥ宰相等出立廳前とある、則是也。然るに大臣・納言は正官の名ある故に、是を以て稱す。參議は政事に參り議る斗にて官名なき故、自ら三木を以て官名に稱し、又ゥ宰相の名も此官名のなき參議ばかりに殘り唱ることになりたり。他の國の宰相は貴く、吾國のは卑し。宰相の名、三木に不叶故にや、呼ぶには言とも位署には不書。假名ものには書けども、國史等には不書なり。又唐名のこと、舊くも書しものあれども、不當もの多き故、當時なべては取らず。殊に近頃は堂上方にも唐名を書ことを不好。
[目次]
吾國今の世婦人の路をあゆむに帽子といふ物を被り候は、何れの時にか始り候やらん。何の遺制にか候らん。又古の時はいかなる物をもて面を包み申たるにや。
往古の女の首飾は玉鬘と云て、色々の玉を以て飾り、手にも手玉と云て玉を以て飾る。貴人の物は甚美麗なること日本記(*ママ)に見えたり。卑き者は玉を以てかざることあたはざるによりて、絹布・木綿の類を以て玉にかへて飾る。是を木綿ゆふ鬘・倭文しづ玉纒たまきと云、萬葉以來ゆふかづら・しづたまきと歌によむ、是也。其後もろこしより傳へ來しにや、首に笄し、又梔子など云ふものを以て髪をあぐることども出來たれども、卑きものは古代の儘にて木綿鬘を以て首を飾し故、文時の歌とて草子(*袋草子)に、
ひもろきは~の心にうけつらしひらの高根にゆふかづらせり
源氏物語二、
住よしの松によぶかく置霜は~のかけたるゆふかづらかも
など、雪霜を女のゆふ鬘に見立たり。其後も車輿に乘らず、歩ながら行く女のかづき着ざる女は、必木綿鬘にて首をまとふこと、京キ將軍の頃までも其躰見えて、職人盡歌合の畫の女の多く木綿かづらせし也。故に其世より始りし猿樂能と云ものに、女の躰をうつすには必首に鬘帶と云ものをまとふ。是等古風の遺れるもの也。今又水島流禮家に桂女と云ものを婚禮の供女に供す。是等の(*原文「是の等」)ならはし殘れる也。然るに、是を別種のものとして、桂女などの名を稱すは大なる誤なり。鬘は昔の半女のなべての躰なり。又鬘をも桂に誤たるなり。景虎のかづら包と云ものに白布にてせられしも此ことなるべし。今の綿帽子は木綿鬘の轉じたるものにて、大概慶長頃よりのことにや。其頃綿帽子を寒気を防ぐ爲にや、男子の着たることも折々見えしにや。
[目次]
猿樂と申もの、何れの時に始り、いかなる物にや。源氏物語乙女の卷にさるがうがましくと見え候を猿樂の事なりなど申候は、心得がたき事にや。故事談(*古事談)には、 白河院の御時さるがくに酒をたまふ事見え申候。今の能と申ものは、此さるがくより出候や。
源氏物語にさるがうがましくといふ事は、大學寮博士どもは其躰かたくなにて、常の官人のやうにもあらず。しかも其博士の燈のかげのごと樣なるが猿樂するに似たりと也。夫を河海(*河海抄)にも物まねなどの樣なる心地すると注したるなり。此猿樂といふもの、宇治拾遺・古事談・十訓抄等多く見えし事にて、時にとりてをかしき物まねをもをかしき言をも言出す事也。則源平盛衰記に、猿樂と申はをかしきことを言つゞけて人を笑はし侍るぞかしと云、これ也。猶昔は是を散樂とは云し也。 陽成天皇の御時に右近衛に内藏富繼・長尾米繼といふもの、よく散樂をして人を大に咲せし事、三代實録に見えたり。其名の國史に初て見えしは、 C和天皇貞觀三年(*861年)也。いつ頃より猿樂とは言改たりしや。藤明衡の筆作の新猿樂記(*藤原明衡『新猿楽記』)といふものあり。さらば前に猿樂記といふものもありしなるべければ、源氏物語に其名あるべき事なり。又此業をなして猿樂と唱しもの、建久の頃にはありしと見えて、建久九年(*1198年)圓勝寺修正の日、猿樂共鬪諍をせしといふ事、明月記に見えたり。其後をかしき物まねするにしたがひて作り出せしうたひものなどありけるにや。もとより其詞狂言綺語なることなれば、是を狂言と名を呼出せしにや。其猿樂又其狂言といふものの中に、曲舞といふ事も出來しか。職人盡歌合に見えたる詞ども、曲舞と云も猿樂といふも、今の世の狂言に聞えたる詞どもにて有る也。曲舞の歌に、「くまひ月にはつらき小倉山其名かくれぬ秋の最中を」と讀て、其判詞に當世くせ舞月にはつらき小倉山其名はかくれざりけりといふ音頭を思よせたるにやと書しが、其詞今の世の曲舞其外にもなくて、狂言の詞に有之と云へり。又猿樂の歌は「忘られて□□□□□□□□□□□□(*原文十二字分を欠き、□で補填してある。)うつしげなる人と見えばやと讀たり。此ゑめい冠者、今の謠の詞とは見えず、狂言の詞と聞ゆれば、今の世の猿樂能といふは今の狂言といふもの根元なるべし。故に今も猿樂能に必猿言をまじへて興行するも、狂言の以て本とするゆゑにやあるべき。されども、鎌倉北條執權の比までは此事もなかりしと見えて、高時入道の遊興、金剛山の城攻の遊興にも猿樂狂言等の名は聞えず。京キ將軍の時に及て、貞和五年(*1349年)に四條の橋渡さんとて新座・本座の田樂を合せ能くらべをせさせけるに、田樂終て日吉山王の示現利生の新なる猿樂を折に染てぞ出しける。かゝる所に新座の樂屋より八九歳の小童に猿の面をきせ、御幣をさし上て、赤地の金襴の打かけに虎皮の連貫ふみ開き、小拍子にかゝりて紅縁のそりはしを斜にふみて出たり。高欄に飛上り、左へめぐり右へ巡りはね返しては上りたる有樣、誠に此世のものとも見えずと太平記に見たれば、是今の世の猿樂の根元なるべし。是に昔の猿樂又狂言と云しをとり合せ、古事うたひものは舞々の古物語を作て(*曲目ごとに小物語にまとめて)、年々に事をかへて今のごとくなりし物なるべし。是より十年も前、暦應(*1338年〜)の比大森彦七が伊豫國にて猿樂を興行せし事、又太平記に見えし。しかも是に式三番などいふ事も記して、事の次第調たる樣に書しは尤不審なる事也。若しは其以前にありし猿樂にや。貞和(*1345年〜)に初りし猿樂の此時に事成就せし猿樂(*ママ。「此時に成就せし事」か。)あるべき事にあらず。此彦七が一件怪談なる事なれば、是等は後にしるし添たる事にて、かゝる齟齬したる事も有にやあるべき。是等よりはるか後、明應(*1492年〜)の頃にや、僧の宜行が翰林葫蘆集に今の猿樂の事をくはしくしるして、猿樂は~樂の~字を二つに分て申樂といふ。是秦河勝に始り、又申樂延年記といふ書を上宮太子の記したまふなど記し付て、今の猿樂の家は其時より家を世々にするといふ。大和四座といふは、外山〔今の寳生〕・結崎〔今の觀世〕・坂戸〔今の金剛〕・圓滿井〔今の今春(*金春)、江州三座は山階・下坂・比叡、攝州に法成寺、伊勢に三座、和屋・勝田・主同など家を立しなど云事くはしく書たるは、今の猿樂の家に言傳へし事をうけて書しなるべし。據とすべき事にもあらぬ事故に、委はしるさず。されども、中比に猿樂といふもの聞えし末孫にや。又太平記に、猿樂は是遐齡延年の方(*不老長生の術)なりなどいふ事を書たれば、其比にも申樂延年記といふものもありしにや。何れにもあれ、是等後世に作り出て、業を古代によせし事なるべし。又明月記に、南キ猿樂の僧春恩が弟子春佛など見えたれば、これも又田樂法師によりたるものにて、今の今春(*ママ)といふ家、春佛が末なるものにや。昔は僧法師にては(*「や」か)ありし。
[目次]
鳥鋳驍フ御時まではふくさこはくなかりしに、此頃より裝束こはくとゝのへられしよし申すにや。公卿の御方も、其比以前は眉づくり・おしろいなどやうの事なきに、 此帝より始れると申にや。いかなる子細にて昔の風とはかはり行申すにや。又男子の齒を染る事も、 此帝より始りぬると申は。衣文をつくると申事も、此御時より始れるよし、あまのもくづ(*恵命院宣守『海人藻芥』)に見え申候。さては其以前は衣文と申事なきにや。
官服をこはく張りて衣紋をつけ、烏帽子もこはく作り、男子も眉を作り齒を染る事は、 鳥鋳驍フ御時に初りしなり。其ゆゑは、其御時に花園左府有仁といふおはしけるが、是等の事を作り初められしなり。此左府は、 三條帝の御孫なりしを、 白河帝の御子になされ、殿上にて元服あり。勝れて時に逢し人にて、容儀も勝れ、詩歌管絃の堪能、殊に衣紋を好たまひて、冠・烏帽子・袍・袴までも今のごとくなりしは此左府し初めたまひしなり。其家の人を藏人になされて、衣紋の雜色など致し候と、委しく今鏡に見えたり。眉を作り齒を染ることは今鏡に見えざれども、是も此左府のし初めたまひしことなるべし。惠命院僧正の記(*『海人藻芥』)鳥忠@の御時此こと初りしよしは見えたり。
[目次]
吾邦の往古ゥ國に軍團を置れ候事は、 日本全州の武備にて、六十餘州の警固たるは申すにも不及候。然るに、 天子の御持前の武備は甚少く覺候歟。令に見え申處、天平年中に中務を以て中衛を兼られ候と相見え、六衛府の官人を以て警固の軍兵となされ候。異國周の代は封建の世にて、 天子の御持前の軍兵を六軍と申候。一軍は一萬二千五百人にて御座候へば、七萬五千人の軍兵にて御座候。これは封建の世にて、さあるべき事。郡縣に成候とても、漢の世南北軍とて二組有之候て、軍兵の數多く聞え申候。周勃が呂后のかくれたまひ候後に呂氏の亂を切しづめ申せし時も、北軍は手に入候ても南軍手につき不申事など、史漢に御座候。それより後、歴代皆 天子の御持前の軍兵多く、唐に至りては十六衛とて將軍にもさま/〃\の稱號有之、將軍夥敷御座候。吾國六衛府の軍兵は甚少き樣に見え申候。いか程有之たる事に御座候や。あまりに少きゆえ、北面の士など申事も起り申すにや。鎌倉の時かゞりの武士と申すものを京キにも置候も、全く 天子の御爲にてはなく、六波羅の固の爲と見え申候。又おとろえたる時代とは申ながら
後鳥忠@ 後醍醐院思し召立たまふ時、御持前の軍兵なき故、人をかたらひたまふ事に成申候。是も往昔 天子龍籏を出され候節、御持前の軍兵少く候より起り、次第にかく成候にやと存られ候。左候へば、往昔の天子師を出させたまふ時は、いかになさせたまふにや。うつりかはれる世の事ども委細に承度御座候。
京キ六衛府の兵士の員數、令又國史に見えし所、左右近衛府の衛士左右各三百人、左右衛門府の門部左右二百人、左右兵衛府の兵衛左右各四百人、是に其六府の使部等を加へて二千人斗の兵士也。されども是は宮闕内外ゥ門等の守護にて、 天子自軍を出させたまふ時の用にはあらず。軍を出させたまふ時の御持前の兵士と云は、舍人・隼人又(*健児)等たるべき也。式に見えし所、兒斗の員數も在京するもの三千人にて候。其餘舍人・隼人等を合せて五千にも可及也。其上に軍を出したまふ時、ゥ國へ大政官符(*太政官符)を下して兵を召事也。 齊明天皇筑紫へ軍を出し、遷幸ありし時、兵を召したるに、備中國下道郡より勝士二萬人を奉りしといふ、則これ也。
此兵士二萬奉りし事、國史には不見とも、善相公の意見封事に其國の風土記を引て書たり。
其後、 天武天皇東宮を辭して吉野に籠らせたまひし時に、東宮の舍人は六百人なるが、其半吉野へもしたがひ奉りしと日本紀に見えたれば、三百人の兵士の隨ひ奉りし事は明にて、其餘もありし兵を御持前の兵とし、其上に伊賀・伊勢・美濃・尾張等の軍兵を召して、 大友皇子と御合戰有しものゝ如くは見えたり。世下りて後、承久・建武の御軍に兵を召たりし時は、京キの守護の武士も國々の守護も皆武家より置れたるものなれば、さらに京キの召には應ぜず。其上御使に下りし馴松をさへ關東へ召取られし如き事にてありし。されども承久の比までは王政の形少しは殘りたる故にや、召に隨し兵士も有りて、しばしが程御合戰もありたれども、建武に笠置へ遷幸ありし時は、猶兵士もすくなく見えたり。其後は猶以て天子の御持前の兵士といふものはなくなり果、 禁裡の瀧口、 仙洞の北面如きの名ありといへども、ある程の數にもあらず。又昔の六衛府の如き官名も、今は武家の臣の假名のごとくのみなりて、其官をうけながら其職を辨知事なき世とはなりたり。
[目次]
平家物語殿上のやみ討の時に、家貞うすのかりぎぬ着たるを、貫首うつほ柱より内にほういの者の候は何者ぞ。狼藉なりと申詞、ほういは布衣なるにや。かりぎぬを布衣とも申候歟。又家貞は左兵衛尉と見え申候。其詞に相傳の主備前守殿と申候へば、忠盛に奉公しながら又禁庭にも出しか。又士とは申さず、良等(*郎等)としるし可有之候。左兵衛尉と候なんには、士とも申べきに、其比はとかく士と申詞はいはれありて申す事にや。
狩衣・布衣同物なり。順和名杪(*源順『和名抄』)に布衣をかりぎぬと訓。又 仙洞にならせたまひて後、公初て狩衣を着て院參あるを布衣ほい始と云如き是也。故に古今の記録共に皆狩衣・布衣は通じて稱す。然に今の俗に有文の織物なる裏あるを狩衣といふ。無文の單なるものを布衣と稱するは、殊に近代の俗稱也。又平家貞備前守忠盛の良等ながら左兵衛尉なる事、職原抄にもゥ大夫の家にゥ大夫なしと云て、忠盛の良等など兵衛尉に補せらる(*ママ)事はなき事なれども、源平の吾子族(*氏族)の良等は格別に補任せらる事あり。是を其時代譜第といふよし、是も職原抄に見えたり。此事を~皇正統記に、近代となりて肩を入る族多しと書、職原抄に其侍已入肩て一列の好をなすなど書たるも、皆是を誹謗したる詞也。其外にはゥ大夫の良等は侍とも恪勤とも唱る事を得ざれば、叙爵することも六衛府に補せらるゝ事もなき也。故に家貞譜第にて已に右兵衛尉に補せられたれども、ゥ大夫のカ等故に其儘カ等とは云たる也。東鑑にも小山入道のカ等保志K次カ・永代六次・池次カ等に旗・弓袋に銘を書せて、ョ朝卿より給はりし其世私の旗をもさゝせし者なれば、大身にて人數も多く持しものなるべけれどもカ等とは唱し也。同書に北條家有功の者を侍に准じ度と望たれども、鎌倉右大臣家堅く御免なかりし程の事にてあれば、ゥ家に侍又恪勤などの名はなき事にて、今侍といふも實は僭稱にて皆カ等也。今も卿相に至る家の外は、ゥ家の臣叙爵する事ならざるは、古代の格にて、ゥ大夫の家にゥ大夫なしといふもの也。
[目次]
道の行程、令に五尺爲歩、三百歩爲里と相見え申候。然るに又令に五尺爲歩、準今六尺と申事有之候えば(*ママ)、むかし尺に同異ありたるにやと見申候。只今三十六丁を一里と立候ことは、いつの頃より始り候や。又關東路は里數違ひ申候事、戰國のものにしるして見え申候。さては關東西にて里數わかれ候事の有之たるも、右三十六町を一里とする頃よりの事に候歟。又戸令に以五十戸爲一里と申たるは、家數にて立たるものゆゑ、道の遠近とはたがひたるべきと思はれ候。
雜令に度地五尺爲歩、三百歩爲里と云へる、是往古の行程の一里にて、今にて計れば五町を一里とするなり。此一歩と云もの、短きやうなれども、今の六尺を一歩となすと同じこと也。令義解に五尺以て歩とするは高麗の法なり。高麗五尺は今の尺大(*大凡に同じか。)六尺に準ずと見えたり。故に和銅六年(*713年)二月十九日の格には、六尺を以て歩と爲と見えたり。是は吾 國(*原文一字空き。以下同例多し。)の尺にて云たるものにて、令の五尺と云と長は同じことなり。延喜式に、伊豫國去京こと五百六十里、安藝國四十九里抔見えたる、海路を以てともに云たるものにて、其國境迄の里程と見て大概令の一里五丁と云に叶へば、延喜の頃まで令の法の如きなり。夫より後六町を一里とす。拾芥抄に日本國圖行基菩薩所圖也。行程六町爲一里と見えたれば、行基の時より六町一里になりたるにや。三十六町を一里とするはいつよりのことにや、未考。海東ゥ國記(*申叔舟)に日本の一里吾國の十里に準ずとあり。異國の里程未考とも、此一里を十里とすと云は、三十六町一里のことなるべければ、永正(*1504年〜。『海東諸国記』は1471年刊行。)の頃西國も上方道と同じく卅六町一里となり、關東は後までも六町一里にてありし故に、甲陽軍鑑に上方道一里半は東道九里なりとは書たり。是より前のことにてあれども、今の里程の定は天文十九年(*1550年)冬將軍家よりゥ國へ仰ありて、四十丁を一里として、奉行を遣して一里毎に怩築せられしこと、太田牛一が書し信長記に見えたれば、今のゥ國の里程は此時に定られしものなるべし。さらば、今の一里怩ヘ四十丁の積なるか考るに、所によりて長短もある歟。大概四十丁より卅六丁迄の積りなるにや。
又以五十戸爲一里と戸口の定あり。又拾芥抄に三十六町爲里と云。田地の定にて、六町四方のことなり。行程六丁を一里とするも、三十六丁を一里とするも、此地の數によりたるものなるべし。
[目次]
升の事、令文に見え申所全く唐の制を取られ候と見え申候。義解に秬黍の事有之候。これ異國の古へより申傳候までの事にて、實は空論にて御座候。夫故異國にても升の作法を申候には、大かた律の黍の入候積より申ことに御座候へ共、其律と申ものは樂の圖竹づたけ(*ママ)のことにて御座候。圖竹は竹を切て吹あはせて見候より外のしかたなき由に極り申候て、黍のことは子細に傳候までの事と聞え申候。さらば日本の古への升と申ものは、唐の法に違ひなく御座候か。又今の升と同じ事に御座候か。僧家に申傳候には、鉢にいれ候積り、唐の作法にて、弘安年中の升にて積り候へば、唐の一升は陸合伍勺(*六合五勺)に當り申由。何とも不分明なることに御座候歟。
升のこと、令にあるは唐の制を用ひられたると見えし由。もろこしの書にうとく候故に、其理心を得がたく候。其御考の處承度、御書附御見せョ存候。さて升の積、昨日の升を以て今日に傳へ候へば、秬黍を以て積候ことにも不及ゆえ空論とも可申候へども、往古の事を今積り候には空論とは不被言(*言はれず)候歟。寸尺を以て書傳候にも、其寸尺の長短に古今違ひあれば、是も便となしがたく候へば、其實を知んには黍を以て積るより外の術あるまじく候。故に令にも升の積は秬黍に起り候ことに候。根元律の音に起り候へども、此事は令に見えず。唯黍一千二百をいるゝを籥とす。籥十なるを合とすとはある也。今此術を以て積らば紛るゝことあるまじければ、空論とも云べからぬにや。(*一字空き)又弘安中の升にて積り候へば、唐の一升は六合五勺に當ると云こと、又往古の一升、今の八合に當ると云ことあるも、其據を知ざれば難論候。唐の升の積合も御考又承度候。
[目次]
片かなは吉備公(*吉備真備)の造り出されしと、卜部兼倶の~代卷抄(*『日本書紀神代巻抄』)にしるしたれ、其餘の古き物には見えざる歟。又かなは弘法(*弘法大師)作れるかし(*「よし」か)、一條禪閤~代卷纂疏(*一条兼良『日本書紀纂疏』)にのせられ、河海抄にも其由のせられたり。吉備公は弘法より先の人なれば、今のいろはの次第吉備公の片かなに倣て作れる歟。吉備公以前王仁の傳へ候書物の讀法はいかなりしにや。王仁以前にも吾 國(*一字空きの例は同前。)に文字なくてはいかでか國天下を治め、敕命・號令をも出すべきやうある。又傳ふるにも吾 國の言なくてはいかで語り傳ふべき。さらば、 日本に文字なしとも决しがたきにや。又おこと點などいへるは、菅江(*菅原・大江)二家に傳ふる所違ありとも申す歟。これは 天子に書を授け奉る時の爲に設けたるにや。又ひろく世に行はれ候事にや。今の訓點とて一二三又かへり點など附候事は誰人の始め候事にや。吉備公のなせる事にや。これらの事ども詳に承度候也。
片假名吉備公の造り出させ玉ふこと、簾中抄にも見えたり。平かなは空海の作と云こと、釋日本紀・簾中抄・河海抄・日本紀纂疏等に見えたり。其中に釋日本紀にいろは弘法大師の作と申傳る歟。これは昔より傳來の和字をいろはに作り成されしの起なりと云る説相叶たるが如し。其故は、いろはの文字とも作例一にあらず。吾 國の古き文字をそのまゝ取たるあり〔のの字・つの字等是也〕、又片假名の文字を取たるあり〔りの字、其外や・に・せ・す等の類是なり〕。其世も其世に書習たる草書の文字の有りしを集て、猶不足ものあるを、漢字を草書し又畧して假名文字を作り添ていろはの詞出來しものなるべし。大師能書たる上殊に草書に巧なりし故に草聖と稱せられしこと、續日本紀に見えたり。又弘法の鼠の足跡の如く讀がたきものと云今の平假名の文字も此類と覺ゆ。又純阿法師の高野日記には、いろはを大師の作り出されしは、高野建立の時、匠工の爲に作り出されしとあれば、弘仁の中頃に出來たるもの也。 嵯峨帝宸筆(*原文「震筆」)も世に勝れたまへば、製し添られしこともあるか。此帝の書たまひし古萬葉集の假名の書を以て平假名文の初めとはすべし。されども、其後も尚吉備公の作りたまひし片假名、世には通じ用ひしにや。堤中納言の物語に虫□□る姫君(*虫めづる姫君)の歌を書し詞に、假名はまだ書たまはざりければ、片假名にて書たまふと云ことあれば、延喜の御世までも專ら片假名を用しと見えたり。尤其節たゞ假名と云は、萬葉又日本紀の歌を書し類、眞文字(*真仮名・漢字)にて書きたるものを云ふなるべし。
又~代の文字のこと、釋日本紀に委く論じて、~代よりの文字をば肥人書・薩人書と云。其肥人書は後代まで大學寮にありしことなど、日本紀私記に見えて、~代に文字ありしこと分明なり。古語拾遺、古書にてはあれども、~代に文字なしと書たるは誤れるなるべし。又兼倶卿の日本紀抄にも~代に多く文字ありしこと委く書たり。其後世を經て、 天武天皇の御時新字一部四十四卷を作らしめしこと、日本紀に見えて、其書圖書寮に傳り有りしが、其字体梵字に似たりと日本紀私記にあれば、まして~代の文字は異形なるもの多かるべし。如此ことなれば、王仁以前文字ありし明也。
又 仁コ天皇御時異國の文字渡り來りし時に、書を讀法は如何ありし、所見なし。上宮太子の御時に、是に訓點を加え(*ママ)たまふと兼倶の日本紀抄に見えたるは、今の世の點圖と云ふものなどのこと歟〔日本紀抄に、上宮太子の異國の書を初て讀辨へしと云は誤也。訓點を初て附たまひしをかくは誤しなるべし〕。此點圖と云は、文字の四方四隅に點を附したる也。此點圖を、 天子御讀書初めに御師讀の人角筆とゝもに奉る事、江次第に見えたり。今も昔の如くにて、菅少納言御師讀に召されし時、此等を奉りし由、文の序に(*手紙の往復のついでに)少納言より申越て承候也。今此點圖を俗にをこと點(*原文「をこと傳」)と云。世になべて此點にててにをはを心得て讀むゆえに、古人の書しものに必朱點を字の傍に付たる多し。然るに、此點圖斗にては異國の書の意通じがたき故、皆其書の傳授をうけしものと見えて、保元物語に前漢書を其世に讀傳し者希なりしと云ことあり。又文章生英房が遊仙窟の奧書に、學士伊時、此書を讀傳るものなきを、木島の明~翁に化現して暗誦せしを聞て家に傳ふなど書たるが、其後に一二三上中下などの轉動(*漢文を顛読するための返り点)を附け、捨假名(*送り仮名)を附て、傳授なくても其意通じ安くせしことにぞあるべし。
[目次]
鎌足の執政たりし時、百濟の尼法明といへるもの對馬に來り、維摩經をヘし。これを對馬よみといひて、呉音の始めなりといへる事、政事要畧(*惟宗允亮『政事要略』)にしるせりと申すにや。外の書にはのせざる事にや。 又政事要畧は何れの御時に出來たるにや。又呉音といふもの、いかなる音聲をさし申すにや。今漢音といへるもの・呉音といへるもの、皆わが 日本の音にてわかれたるにはあらず候。いかなるわかち其讀に當るらん、心得がたき事なり。又 聖武帝の御時吉備公唐に使して歸り、 孝謙帝に十三經をさづけまゐらせしと申事、見聞抄に見えたりと申候。是漢音の始なりと申すにや。見聞抄と申ものは誰人の撰にか有しにや。其かみ何とき王仁書物を獻し。書をよみ傳たるは三韓の音なるべし。もしやもろこしの音を傳へたるにや。さらばわが 國には三韓の音聲ともろこしの音聲二つあるべきにや。呉音といへるもの心得がたし。又今日にあたりては、いづれも皆わが 國の音と成りたるに似たり。
漢音・呉音と云ことを古に論たること、國史其餘古典見當り候ことなく候。類聚國史佛道部に、 桓武天皇の敕に度者非習漢音、勿令得度と云こと見え、日本紀略に同敕に明經之徒不可音發聲、誦讀既致訛謬、熟習漢音せよと云ふこと而已所見候。是等は漢音・呉音と分れ候ことゝも存しられず。只異國の音を漢音と稱ふと考られ候。御考のごとく對馬讀と申候は、三韓の音にて、それと中華の音とを以て二つとして、其對馬讀と云を後世呉の音と稱せしことにやと存ぜられ候。又 聖武の御時、天平七年(*735年)眞吉備歸朝の時、唐禮百三十卷・樂書要畧十卷等、其餘書籍等獻られ候こと、續日本紀に見え候。此時十三經を 孝謙帝に授奉られしことにぞ可有。
此對馬讀と云ことを、鎌倉執政の時と政事要畧に書しと云こと、甚不審に候。政事要略はるか古代の書にて候。それに鎌倉時代のこと可有こと更に不可有候。政事要畧は百三十卷にて、明道博士惟宗允亮の撰なり。允亮のことは官職祕抄(*平基親)・職原抄などにも、昔尤亮(*允亮か)・道成と注したる人也。時代は不詳と職原抄のゥ抄にも候へども、強て考候へば、此道成と云人明道博士藤原道成なるべし。此道成系圖に出せし所、横佩大臣〔豐成公〕(*藤原南家武智麻呂の長子。仲麻呂兄。中将姫父と伝える。)五代の孫なり。是にて凡を考れば、道成は 文コ・C和の時代の人なるべし。然るに允亮・道成と皆並べ記たれば、允亮は道成同時か夫より前の人とは見えたり。さらば政事要畧も、 文コ・C和の頃に記せし物なるべし。兼好(*原文「好兼」)の徒然草にも此書を引用せり。又慶長の末に船橋少納言秀賢の口傳をうけて書しものに政事要略二十卷と云しことあり。若し今の世に殘篇二十卷ばかりも有之ゆえにかく云たるにや。
見聞抄と云書は見當り不申候。御室御所藏の古書目録に見聞録と申すものと隨見聞抄と云もの見え候。若し是等のことにや。共に一卷ものゝ由に候。時代・作者は記し不附候。
再問
呉音・漢音の事、むかしは分明にわけられ候と相見え申候。延喜十一年(*911年)の格に、經書專ら漢音によむべきとの定有之候。且大學に音博士二人置れ候は、專呉音・漢音を吟味すべき爲と相見え申候。只呉音をば何故改られ候か。呉と申すも唐土の地にて、後の世の南京なれば、呉音と申さん名目によりて見る時は、これも唐土の音なるべきにや。必しも呉音を三韓の音とも定がたきか。
御再考の爲に書付申候。
再答
呉音・漢音の事、再御尋、相考候處、呉と申候處は後世の南京の由、此南京は吾國へ近き所と承及候。左候へば、文字の音の渡り候事、呉音早く此國へ渡り候後に王仁等渡り來り、其後又吉備公・小野篁など留學にありて、音の事委くなりて、他の國の書を讀には内典も外典も漢音を用候樣に敕どもありしなるべし。去ども吾國の名目には唱來りし儘に呉音を用しなるべし。夫故朝廷の名目(*有識読みの語)には、今も格別の事多て、是を今名目の習とする事也。江次第に大臣の三木(*参議)を召詞の小注に、四位者名朝臣呉音と云事あり。さらば朝臣の音をあそんと呼事、呉音なるべし。さらば名目抄どもに尋常とかはりし音のある、皆呉音なるべし。さらば呉音と云もの、三韓の音にてはなく、對馬よみといふものは又外の音にて可有。又唐國子祭酒李刋誤(*原文「刊誤」)と云書に、呉音あやまり多く、上聲・去聲を上聲とする事を書ぬきしもの有之候。若し唐にも呉音といふ事あるにや。又延喜十一年云々と云ふこと、何に抄出せしにや。考に延暦十一年(*792年)壬十一月勅、朝經之徒不可習音、誦讀既致訛謬、熟習漢音と云こと、日本紀略に相見候。則此事にて、延暦を延喜と書寫を誤たるにや。
[目次]
(*原文に相当文なし。)
(*原文「問」)
今の註Dの起りは、足利將軍の初に起りて、其時はうちかけと云しものなるべし。應永元年(*1394年)義滿將軍嚴島詣ありし時、今川了俊のかゝれし道記に、此度は引かへて珍しき御すがたどもにて、花田色の目詰とかや云ものを染て、袖口細くすそ廣きうち掛と云ものを同じすがたに着たまふと云もの、今の註Dの發る所とも云べし。舞の双子にも、鈴木三カがわらづぬき捨、うへに着たるうち掛ぬいでふはと捨と書しも又同物なり。袖細しと云は違ひたれども、すそ廣きと云は今の註Dに叶へり。
又多田秋齋が考(*南嶺多田義俊『秋斎間語』か。)に、註Dはもと道服なり。古へ道服と云ものを着たるは、註Dの長きやうなる物にて、道中塵ほこりの衣裝にかゝらぬ料にせしもの、夫が轉じて註Dとなりたりと云。又義量將軍の近習に仰られて、鳥の毛の織まぜたる道服はやりたり。夫より註Dと云名起りしと慈照院殿實録にあり。又一説に、此物古來なきもの也。小袖の端を折りて短くしたるもの故、反折と云よし、永□日記にありと云など書たれども、此二つの書名たしかに聞及ざるものにて、據覺束なし。以前京キにて道服と云ものゝことを聞しに、宮門跡の御方、佛衣の衣けさなどぬがせ給へば、夫にかへて道服を着給ふよしなどあれば、是は道人・道者の服の畧語なるか。又道路の服と云も如何あるべき。又君美の窒つむぐ意なりとあるも又如何あらん。經平考は、世俗に常の衣服せし上に又衣類を着るを打はをると云へば、打掛と昔云しと打はをると云と意同じものなり。さらば打はをると云ことの轉じて註Dの名は出來しものなるべし。吾 國のものに(*原文「もののに」)名付しこと、輕き詞より名附けし物多し。水戸公の古き裁縫なる註Dと云もの、彼のうち掛と應永に聞へし古制なるもの歟。
道服再考答
猶考候に、道者の服と道路の服と二物にて一名なり。倶に道服と云也。其一つは裝束拾要抄に、道服色不定、大中納言法躰の人着用。又俗の時大納言父子相並の時可有斟酌、其故は入佛道心の心候、然ば憚父云々。又大臣至極の褻に用ゆ、是に立帽子を着用云々、當時も此通にや、一條殿下御野遊の時、指貫に道服御着用、立烏帽子にて御出成され候を間々見及候由、久米喜内物語に候、尤單なるものゝ由に候。是道者服の畧名道服なるもの也。又一つは、嚢抄に、俗人道服とて法衣のやうに思へるは入道などの可着物歟、更非其儀、雨衣道服と云もの有云々。又道服とは雨降ぬ(*ママ)時、乘馬する上に打着にて帶もせぬ物也、灰ほこりの立て衣裳の垢を防ぐ心なり、内にて可着物には非ざる也云々。
舞々の詞に、鈴木重家が判官殿の高舘の御所へ旅より行着くる(*ママ)詞に、わらづぬぎすて、上に着たるうち掛ぬいでふはと捨と書たるも、道路の服と見えて、後に道服又註Dと云ふものと見えたり。是則道路の服の要名にて、今川了俊道の記のうちかけなど、是物の始とすべし。
[目次]
追捕使はいつの御時にか始り候らん。
此始は承和五年(*838年)二月、畿内ゥ國に群盜横行し、放火殺人ことあり。其時左右衛門府生、看督長(*かどのおさ)等をゥ國に分遣し、追捕奸盜事、國史(*『続日本紀』)に見えたるや始ならん。職原抄に、非違使に看督長六十六人を補は(*「補ひ」か。)爲遣ゥ國也と見えたるも、則是追捕使なり。然るに、延喜の頃に及て其國の百姓を以て追捕使にせしこと、善相公意見封事に見えて、其後も猶如此ありしと見えし。九カ判官殿を五位檢非違使尉(*原文「五位尉檢非違使」)に被任て追討使を奉り給ひしも、古の事によりて定られしと見えたり。
[目次]
平安城を四~相應のキと申候事、 日本のふるき物に見え申候が、聖人の書には見え申さぬ事に御座候。
平安城(*原文「平城安」)を四~相應の地と云こと、平安城斗にも非ず。 元明天皇の和同(*和銅)元年(*708年。平城京遷都の発詔の年。)にキを平城にうつされし時の詔の詞にも、平城の地四禽叶圖、三山作鎭とあり。續日本記。此こと古きことにこそ。又北畠准后の~皇正統記に昔聖コ太子蜂岡にのぼり給て、今のキの地を見めぐらして、四~相應の地なり、百七十餘年ありてキをうつされて、替るまじき所なりと宣ひけるとぞ申傳たる、と記されたれば、四~相應の地と云こと、聖コ太子の宣ひたることにぞ。さらば猶ふるきこと也。此四~相應と云こと、異國の聖人の書にも見えざることの由。されども吾 國にて言出せし文字のやうにも非ず。若天文家の書などより出たることにや。
此四~の名、日天星宿の名にして、此を軍行の前後左右にとり旗章とすることは、禮記に出たれども、是を土地の東西南北にせしこと、異國よりのこと歟。御考承度候。
[目次]
徒然草野槌(*林羅山)云、勸修寺良門十三代の孫葉室時長平家物語者(*この「者」は時長の後に来るか。)作者の隨一なりと公卿補任にありければ、四十八卷の盛衰記なるべしといへり。補任如此しるし有之。又作者の隨一なりと有之候。其作者數多と聞申候。心得がたき事に御座候歟。
平家物語の作者信濃前司行長が遁世の後書しと云こと、徒然草にあり。葉室時長が書しと云ことは公卿補任に見ゆ。又葉室の系圖にも見えたり。此時長が從弟の葉室光遠も又作者の一人たりと、是も同じ系圖に書たり。又比巴(*琵琶)法師のかたる平家の言傳には、櫻町中納言子願ヘ法師北野へ示現をうけて作り出せしと云、信濃前司が作りしは北國平家と云なりなど云にや。今川了俊の説に、平家物語は後コ記のたしかなるによりて書しとあれば、多の選者集りて一部を仕立たる物にて、もと一書なるに、多の作者ども己が意にまかせて記し添、或は削出しなどせしより、異本多く出來たるなるべし。されども何れの本は何の作と云こと未詳。又源平盛衰記も平家物語の異本にして葉室時長が書しは是なるべしと野槌に云は、何によりてかく注されしや心得がたし。又高師直が平家を語せ聞し時、菖蒲の前のことを語りし由、太平記に見えたり。今の平家物語并異本ともに菖蒲前のことを載たるなし。唯盛衰記のみに菖蒲前のことを書たる故、師直がもとにて語たるは今の盛衰記なるべしなど云へども、是は平家物語の異本にあらず。信濃前司等が書し時よりはるか年を經て後、寳治二年(*1248年)・三年・建長元年(*1249年)、此三ヶ年(*宝治三年と建長元年は同じ。三月一八日改元。)の中に書しものと見えたり。如何なれば、寳治元年巴女を中國(*越中国か。)にて九十一歳にて死せしことを注せしと、又順コ帝を此書に佐渡院と記せるとにて、寳治・建長の三ヶ年の中にあること思ひて可知也。
巴女死せし年號は注し附ざれども、元暦元年(*1184年)木曾殿討死の時、巴女二十八歳なる由、此書に見えたり。是を以て九十一の年をかぞふれば寳治元年に死たる也。 順コ帝仁治の年(*仁治三年〔1242年〕)九月に崩じ給ふ。 佐渡院と尊號を奉られし。然るに、此書に佐渡院とのみ記たれば、 順コと尊號なき以前に書たるなること明也。
夫のみならず、文暦(*1234年〜)に撰ばれし新撰、寛元三年(*1245年)に入道ありしョ副(*鎌倉四代将軍九条頼経)を入道將軍と記したる如きにて、盛衰記は後年なるもの分明なり。决て慈鎭和尚の信濃入道を扶持し置れて書しと云時代のものにあらず。されば、平家物語の異本とするは誤なり。
[目次]
日本の古昔、士と申名目はいつの比より始たりしや。 白河院北面を置れしより起りたる歟。さむらひと申名も、 禁闕に出てさむらふと申心にてつけたるよみにて候らん。又大番とて日本國の侍どもキに上ると申事、承久記尼將軍の詞に見え申候へば、大番事終りて故郷に歸りても侍と申名目は立申候て、百姓と士とわかり(*ママ)候か。又京キにてたとへば源平の士ども 禁庭の的を射、 禁庭にも出仕へ侍るか。布衣記の趣、これらの事詳ならず。たとへば競瀧口が源三位殿に仕へ申士と見えながら、 禁庭に的射たりし古法を思ひ出したる樣に見え申候。又上北面・下北面と申名目も見え申候。品かはりたる歟。兵仗を賜りし時、隨身はいかなるものにて候か。これも士して候歟。
さむらひと云名、上代には聞えず。~代に壯士と書てたけきひとゝ訓じ、丈夫と書てますらをと訓ず。名は異なれども、則さむらひ也。人代始に兵と書てつはものと訓じ、魁師と書てひとこのかみと訓じ、軍卒と書て軍さひとゝ附し、元戎と書ておほつはものと訓じ、輕兵と書ていさゝきつはものと訓ずる類、自尊卑はあれども、皆後世の侍也。されども是等は他の國の文字を以て記し、それに訓を附會たる者にて、あながちに往古に唱し名のみとも思はれず。然に、 ~武の御時に、 宇摩志麻治命の率るを物部と云、道臣命の帥るを來目部と云と、舊事記等に見えたる、是往古の侍の名なるべし。此名 舒明天皇の御時迄は來目・物部とならべ稱せしこと聞えたれども、其後は來目部の名は聞えず。物部は今世も侍の名にして、武士と書てものゝふともよみ、歌詞にも言なり。 ~武の御時にある名なれば、~代よりの名なるべし。今此名を考ふるに、物部は兵部つはものべの畧語にて、兵器をとりて人を征する者の稱、久目部は貢馬部にて、馬を貢ぎ、又馬に乘りて出る者の稱にぞあるべき〔大化二年(*646年)新政の詔四條の中第四調貢の定に、凡官長者中、馬毎一百戸輙一匹、若細馬毎二百戸輙一匹、其買馬直者一戸布一丈二尺、凡兵者人身輙刀甲弓矢幡皷、凡仕丁者改舊、毎三十戸一人、而毎五十戸一人、以宛ゥ司云々。考るに是等古の物部・貢馬部の法の遺れるなるべし〕。其外田畠を作る者を田部と云、絹布を織縫者を服部と云、魚をとりて貢者を眞魚部など云て、國民に士農工商の産業を分て名を稱するもの也。然るに、徃古より此四民に尊卑自らありと見えて、士は貴く、三民は卑し。其尊き者を良家と云。此根元を尋れば、~胤皇胤より出たる民多し。又三韓より來り、たま/\は漢土よりも來るありて、是を~別・皇別・ゥ蕃別など云て、此末繁多にして分流の姓氏ども千を以てかぞふ。故に又民に百姓と云名も出來しなるべし。此~胤皇胤の貴きをゥ國へ分ち下して戸籍へ編貫する初めは卑き産業もならざる故、是を良家と稱して物部・久目部にあてたるなるべし。
日本紀曰、景行皇子七十餘子あり。皆國郡に封じて、各其國にゆかしむ。故に今時に當てゥ國の別と云もの、即其別王之苗裔なりと云々。皇胤・皇別と云此類なり。
此兵士を以てキへ貢ぎて守衛の侍とし、邊塞の防人等にあつ。夫には民の中にも健なる年若なる者を撰て貢ぐ故にや、是を健童と呼てゥ國より奉る。其人數の定數延喜式に見えたり。此健兒の名、治承の頃まではたまたま聞えたれども、其後は聞えずして、ゥ國より守衛の武士の上るを大番と云ことになりし。此士健童と云て、貢し時は三年にて替りて、本國に歸る時に杖を解しめ、返抄を給りて本郷に歸ること式に見えたれども、いつより亂たるや、本國に歸りても杖を帶せし故、ゥ國に侍多くなり、子孫にも傳て、又其孫大番すれば、本國に歸りて本所を經たる士と稱して、一段賞翫をなし、又京キにて候したる所の稱を本國にても其儘唱るものもあることになりたり。則帶刀先生義賢・工藤一臈祐經・平山武者所季重ごとき是也。
侍をさむらいと訓ずるは、人のもとに侍陪しさむらふの意なるべし。されども、 禁闕などにさむらふ貴きことより云たるにはあらぬにや、令に云、凡年八十に及篤疾の者に侍一人に(*衍字か)、九十に二人、百歳に五人を給ふ由あれば、至て卑しき者にて、其世に侍と云しは今に異なり。當時武士をさして侍と云しは、延喜の頃よりのことにや。古今集東歌に、御侍(*みさぶらひ)御笠(*みかさ)と申せ宮城野の(*原文「宮崎野に」)木の下露は雨にまされり(*原文「あされり」)と見えし。此東歌は、鎭守府將軍の宮城野へ狩獵に出られし時の歌にぞあるべき。其府の鎭兵を連れて出られし御侍に(*主人に対して)御笠と申せと呼びかけたる詞なるべければ、此御侍は兵士なることまがふべからじ(*ママ)。其頃よりにや、彼ゥ國より奉る童を、 禁裡・仙院・東宮・三后・ゥ親王家・攝關・大臣迄も守衛の兵士にわかつ。是を皆侍と云、又武者とも云なり。或は、 禁裏ゥ宮にて名を異にして、瀧口・北面・帶刀等の名を分ち、亦親王家・大臣家などのをば恪勤者なども呼ぶことあれども、本の名は皆侍なり。故に何方にても其候する所を侍所・武者所とは云ふなり。此恪勤と云ふものを、三代將軍の時より小侍とも稱して、一段下たる品になりたり。今のごとく上下おしなべて兵士を侍と云は誤れることや。鎌倉の頃までは、將軍の御家人斗にて、陪臣に侍の名はなし。皆カ等・カ從などゝ言たり。實朝將軍の時、北條家の良從の中、有功者侍に准たき旨相州望申されども、無御許容不可有御免之由嚴密に仰出されしと云ふこと東鏡に見えたり。又北條家のカ從を伊豆國の住民など記されて侍に混ずることなかりし。されども義時猶僭する心ありしや、吾カ從をば主達と云名を附て呼しことも見えたり。まして其外は皆カ從・カ等と呼て侍と云名は更になかりし。京キ將軍に及ては、侍に十一位と云品出來て、上下を分たりけれども(*原文「分たれけれども」)、亂世故にやこと/〃\く用ひしとも見えず。最末の末男ばつなんなど云名などは、何に記たるも見しことなし。もとより私に立たる作法故、世かはりて誰用るものもなし。 御當家にうつりては駿河・三河などより呼來りし稱號にや。又ゥ家にもさま/〃\呼來りしことゞも有りて一樣ならぬことにて、なべての名目に可取ことも聞こえず。さらば昔の名目によりて論ずべきならば、關東の御家人を侍又は恪勤と稱して、ゥ家國々の臣はそのまゝカ從・カ等と云に當れり。それを兵卒なれば、上下おしなべて侍と云俗の言にならひて、吾等ごとき者も實に侍と稱するものと思ふは大なる誤なるべし。夫より以下までも同く侍と心得るは、俗稱にあやまるのみ。思あがることなかるべきことにぞ。渡邊競が 禁裡の瀧口に候ながら源三位殿に仕ることは、今の代も將軍家の御家人三家の臣など、朝の官位をかけながら武家に仕る類に近し。されども競が瀧口にあるは、又此例とは不同。其以前・其頃にも競が類又多し。筑後守貞能・左兵衛尉家貞が類、是等は平家のカ等とも呼、八幡殿に隨從せし士キにも多くありしこと、著聞集に見えたり。此中にも瀧口・北面やうの者あるべし。如此のならはしよからぬこと故に、 鳥鋳驍フ御時侍の源平の家へ屬することを止べき由制符(*原文「制府」)ありしこと、~皇正統記に見えたれども、此制行れしとも見えず。終にョ朝卿天下惣追捕使に補せられ將軍に任ぜられしより、天下の侍皆此下に候せしかば、却て將軍の家人を以瀧口の本所に候せしむべき 宣敕ども下りて、小山・千葉・三浦・秩父等(*その他、伊東・宇佐美・後藤・葛西等)の家々十三流を實朝將軍より奉らしめたることゞも、東鑑に見えたり。何にもあれ、朝の官位をかけて朝の臣と稱して武家に仕るは、競に類せしもの也。ョ朝卿の御時、秩父・梶原・土肥等(*坂東八氏=千葉・上総・三浦・土肥・秩父・大庭・梶原・長尾と三氏が重複する。)は北條家につゞきて隨一の御家人なるに、終に敍爵せざりしは、如何心ありけることにや。
名目抄曰、上北面はゥ大夫、下北面は五六位、皆譜代侍と云々。職原抄、院上北面は院の内の昇殿を聽(*ゆるす)とあれば、昇殿を聽たる北面を上北面と云と見えたり。然るに盛衰記に、下北面より上北面に移り、上北面より殿上をゆるさるゝ者も有けりとあれば、上北面たるもの必昇殿するにもあらぬ歟。
○隨身と云は、近衛將曹 府生 番長 近衛士等なり。弘安禮節之隨身の員數 太上天皇隨身十四人也。 將曹(*原文「曹將」)二人 府生二人 番長二人 近衛八人也。 攝政・關白十人 府生二人 番長二人 近衛六人也。 大將八人、納言・參議六人、中將四人、少將二人、ゥ衛督四人、佐二人云々。職原抄又曰、大納言・大將は府生を不召仕、大臣・大將以上召加府生也云々。
[目次]
古文官は帶劔なく、武官のみ帶劍と定られしは、令の頃よりに御座候歟。 勅授帶劍も其頃より定られ候歟。
往古より武官は帶劍、文官は帶劍なきことにこそ。馬子大臣廣瀬の殯宮に立て誅せし時、太刀を佩給ひしを、守屋大臣あざけり笑て、獵矢に中りたる雀に似たりと云はれしこと、日本紀に見えたるを、文官の佩刀相應ぜざるの喩なりと兼方の説のあるも、文官たるもの帶劍不好ことゝ見えたり。尤令にも文官の禮服に帶劍なく、武官の禮服には帶劍あり。今以此作法なればこそ、 御讓位の禮を被行るゝ始に、 勅授劍帶如舊之由仰ありて、次に攝政便所(*びんしょ)にて帶劍ある由、 當今(*とうぎん)の御讓位の次第にも見えたれば、文官は 勅授なきうちは帶劍に不及こと古今不變例なるにぞ。
勅授帶劍の始末詳ざれども、馬子大臣帶劍夫よりはるか前、武内大臣帶劍、其餘にも大臣の帶劍□(*一字欠)に見えたり。武内は上りての世、如何あらん。其外は皆、 勅授帶劍なるべし。されども勅授帶劍と云名目は西宮記に初て見えたれば、延喜の頃よりの詞にや。
元禎考
日本士のうつり替り候品少々宛考申候事も御座候。昔の事はとかくしれがたくや、先は士と申ものゝしかと見え渡り申候事は、大やう八幡殿(*源義家)の前後よりとも申べきか。ョ信朝臣が方に馬盜入し時、ョ義之を追かけられし事、今は昔(*『今昔物語集』)に見え申□(*一字欠。「し」か。)に、門番もなき身上と見え申候。厩より呼(*よばは)れる聲ョ信父子のね所に聞えたるにて察候へば、只今二三百石どりの屋敷と見え申候。又八幡殿しのびあるきに安部宗任一人召具せられし事、著聞集に見え申候へば、それより以下の士のかろく有し事、いふことを待ざるにや。保元の亂に義朝大將たり。日本のあるじの位爭其討手に 勅命をうけたる人も、昇殿なかりしゆえ、おして昇殿有しと聞ゆ。これは其比は中々たゝみの上へはあげられぬ下輩にしての 朝廷のあひしらひなれば、其餘の士はかろき事いふを待ず。齋藤別當實盛平治の軍に義朝に功ありながら、やがて平家に從ひたるを、二心もちたりとて其時譏りたる事も承らず。弓箭とる躬は名こそをしけれと口ぐせにいひたる時にかく有しは、皆源家の祿を受たるにあらず。中々源家も士を扶持すべき米はなきと覺候。鎭西御曾子の二十八騎具して筑紫より上られし。めのと子(*原文「めとの子」)は格別、其外は皆御曾子のたくましきに付隨ひたると見え申候。誠に其時代にては人持にてありたらめと思やられ候。さて長兵衛信連が申せし詞によりて〔盛衰記〕見申候へば、士と申名目は隨分たち候て、品よく成候と被存候。鎌倉の世となりて(*原文「世のなりて」)、よほど士の品よく成候て貴く見え申候へども、祿は至て少き事と見え申候。鎌倉の比までは將軍の御家人斗に陪臣に士の名なしと御答の赴。北條も畠山も和田も皆々ョ朝の臣なり。 天子より御覽ずれば、時政を始め皆陪臣なり。則時政のカ等は陪臣の家來なり。されば士をいやしむる心にてはさ有べき事と存じやられ候。室町家に及びて、鹿苑院の公方こそ下知ゥ國に及候へ、其後は國々ゥ所・皆人々もちに成候て、士はおのれと身高く成ぬるか。金閣寺といふ物を傳承に、一間金ぱくにてはりたる由。其時六十餘州にいひふらしたる事と聞ゆ。今一間金箔にてはりたらん事は、さのみ珍らしき事にもあらず。室町將軍家の貧乏思やられ候。且郡縣の時は、君といふものは世界に天子一人にて、其外に君といふ人なし。又太政大臣の位田・職田・封戸等を合せてわづかの事也。日本第一の貴人の祿これほど少し。今世界封建になり候て、大名四百人もおはせば、太政大臣の祿ほどの臣下は大名の家にいくたりも有る也。又戰國の時に北條早雲新九カとて伊勢より關東へ浪人にてゆきて、忽關東八州を手の内に握り、毛利元就三千貫より切て出て、中國十州を領ぜられしなれば、士といふものゝ至て貴き時節になりたる也。郡縣は聖人の定めにあらず。封建にて大名を立候事、聖人の定なれば、大名たち候へば士は極めて貴く成候て、それにて殘り農工商の三民をふみしづむべき爲なり。今も奉行・役人等は周の世の君子なり。士の貴くなりてかなはぬ樣に、聖人の定めたまふゆえなり。又源平の時代の士の風儀と戰國の渡り奉公人の士の風儀と、今日大名の家の士とは三段に分りて(*ママ)、殊の外に替りたる物と存ぜられ候。此事は殊の外長く御座候故、畧申候。
[目次]
古侍所の別當と申事、京キにはなき事に歟。治承年中、鎌倉にて和田小太カ(*和田義盛)侍所別當に成候也始にも有之候か。又其職はいかなる事にて候らん。
侍所別當・侍所職事と云は、大臣又大將等の家令にも昔より有之候。已に和田義盛が侍所の別當をョ朝卿の發り(*「發し」か。)給ふ最初に所望せしも、平家の侍所の奉行を上總介忠Cが承りてもてなされしをうらやましがりての事なる事、盛衰記にも見えたり。夫故ョ朝卿鎌倉へうつりたまふと、則治承四年(*1180年)の冬小太カ義盛を侍所別當とし、梶原景時を侍所の所司に命ぜられし事、東鑑に見えたり。されども、其の時は公の職員にはあらず、私に任せられし也。これも鎌倉に新亭を建られ、外侍はゥ國大名・小名、内侍には一姓の源氏大勢集ければ、おのづから別當もなくては不叶故に和田と梶原を置れたるなるべし。其後建久元年(*1190年)冬ョ朝卿上洛ありて、右大將に任ぜられければ、鎌倉へ下着ありて明春正月に、則政所別當令案主知家、侍所別當・侍所所司等を新に又被置し事、東鑑に見えたり。此時より公の家令の本職になりたる也。往古職員令の家令の職名と後世の職原抄の家令の職名とは同じからざれども、掌る所はかはらざるにや。其中侍所別當はかみ成、職事は助なることに候。古本の職原抄に、侍所別當をさむらひどころのかみと訓を附たるも見え候。然るに、鎌倉にては別當と所司と唱て、別當と職事と不言は、治承に私に別當・所司と呼れしを其まゝ後までも被用たるなるべし。京キ將軍に及てはかゝる令式も亂れて、家令の職名を立らるゝ事も聞えず。侍所の別當・職事の名も廢して、只々侍所・小侍所と云名のみ聞えしは、昔の別當と職事又ゥ司といふに當るなるべし。
[目次]
平治物語に、平賀四カ返し合せて戰ける時、義朝かへり見て、あはれ源氏は鞭さしまでも疎にはなきといはれける事、心得られず。又保元物語に、義朝昇殿の後陣に向ふ時、鞭に手打かけて馬に乘んとせられけるが、如何思ひけん、手に拔入たる鞭を車宿りにたてる車のうちに是をとぢ附さす。これは何事の立鞭ぞと心得ず見る處にと云々。
○立鞭と申名目、むかしは有之たると覺ゆ。いかなる事にや。
○又義朝存じよりたる事を語るに及て、兵ども鎧の袖をぬらす。然れば、昇殿したるものは車やどりの車にむちをとぢ附さする作法あるにや。
○鞭さしといふは、おしくだしたる詞とは聞えぬれども、昔は大將たる人の鞭を持たる人などもありたるにや。
平治物語に見えし源氏の鞭指と云、下部のこと昔は鞭を持ものを必具しけるにや。加茂祭の近衛使の從者八人の手振の中、右第二鞭持あり。或は鞭筥持とも云こと、御禊服飾部類に信範卿記、又公光卿記を引て注せり。又中御門家成卿の播磨國にておはせし時の受領の鞭を、平相國入道の若年の時、とりて朝夕貲(*貲布。織り目の粗い布。)の直埀に繩□(*一字欠。「緒」か。)の足駄はきて通ひしと云ことも盛衰記に見えし。鞭指と云も此類にて、受領の鞭をとると云よりも、鞭さしと云は猶いやしきものなるが如し。東鑑、將軍家供奉の列多く見えし中にも、策さし・策持など云見えざれば、はや其頃より是を具することなかりしにや。
保元物語に見えたる義朝朝臣の車の立鞭に、立鞭して昇殿を許されたるしるしと云しこと、極めて不審のこと也。以前一條家の村田西市正と云ゥ大夫、壺井義知が門人にて、尋候處、存ぜぬ由答。猶一條殿下へも内々相窺見候。不分明と仰ありし由も亦答云し。其後是も壺井門人高橋采女・谷村掃部(*谷村光義)などへも問に遣し候處、知れざる由答ふ。尤此書の外、更所見あらず候。
(湯土問答 巻之一 <了>)

  解題(内藤耻叟)   序(宮田明)    目録   巻1   巻2
[INDEX] [NEXT]