蕉門頭陀物語
建部綾足
(一條政昭 編著『蕉門頭陀物語 全、附 俳家詳傳』 嵩山房 1893.11.3)
※ 『芭蕉翁頭陀物語』とも。原作は1751(寛延4)刊行。
※ 「その多くは、作者の小説的虚構や、当時の風説によるもので、
事実として読むべきものではない。」(『日本古典文学大辞典』)という。
※ 附録「俳家詳傳」(一條政昭著か。)を併せて入力した。
※ 句読点・鈎括弧等、一部改めた。〔原注〕、(*入力者注記)
序(曲亭馬琴)
自叙
吸露庵の伝(編者か)
凡例
蕉門頭陀物語目録
蕉門頭陀物語
俳家詳伝(編者か)
蕉門頭陀物語 全、附 俳家詳傳
吸露菴凉岱宗匠遺稿
芭蕉翁肖像 小川破笠翁畫
曲亭馬琴翁序
晋 永機宗匠序並閲
(小川破笠筆芭蕉肖像)
(晋永機の序は省略)
序
このころ友人何がし、一書を懷にして來て「是見よ。」と机のもとに投ず。とりて見れば、あやた理(*綾足)が『頭陀物がたり』なり。こはおのれ總角のころ、一とたび師竹庵〔師竹庵は武州越谷の人。號吾山。法橋柳居門人也。天明七未年十二月十七日歿す。年七十餘。〕にて見たりしを、おぼろ\/おもひ出て、俳諧のついで、家兄〔家兄と有は號東岡舍羅文、吾山門人。寛政十午年八月十二日歿す。年四十。〕とこの書の事を語りあへりき。さはその人々今は世にいまさで、ふたゝび此書を見る事の昔なつかしければ頓て燈のもとにつぶ\/(*原文「つふ\/」)とうつしとりぬ。元風雅に心うすき人のうつしたりけん、魯魚亥豕の謬少からで、字はあやしきまで畫を脱して、庭うつ水ぐき飛\/も、よみわきがたきことのみぞおほかりける。よてしばらく文面につきて補ふといへども、なほあさらひの淺きざえ(*原文「さえ」)もて、たどりしりがたき鳥の跡は、もらしつも書ずなりぬ。他日佳本を得ば合せ考べきにこそ。
享和三年夏五月謄寫於著作堂雨窻(*■(窗+心:そう:窗の俗字:大漢和25635))
蓑笠隱居
自叙
むかし武山の葛鼠法師(*葛鼠・都因・吸露庵とも、涼岱の別号)、風雅を浪花の淺生菴(*志太野坡)にちぎりて、しば\/蕉翁(*ママ)の物語を傳へ、稿して洛の重寛(*未詳)に附し、「これに東西のむかし語を増さば、かならずや板すべし。」とて、其のち越の都因坊有て、賀の金城に遺れる事ども、伊勢よりやまと路のものがたりを加へて、西南北越の新話を補ふに、「滑稽の世説(*世説新語)ともいはむ。」とまでは、ふところによろこべども、東武は深川のわたりもゆかしきにや、予が草庵の反故を乞ふに、おなじ意にかいあつめたるを撰出て(*ママ)、前話に二の町(*次ぐもの・二番煎じ)なるは破り、雨夜の燈ちかう、机のうへに一卷となりぬ。かくて『蕉門頭陀物がたり』と題し、かの重寛がいふにかへしあたふる而已。
寛延辛未(*寛延4年〔1751〕)九月
武城 吸露庵
吸露庵の傳
吸露庵は建部氏、字は孟喬、俳號を凉袋といふ。初め野坡に學び、其頃は葛鼠と號す。後、發句は賀の希因(*和田氏。北枝・支考・乙由に師事。)に就き、附句は勢の梅路に學ぶ。曾て北國に在りて都門(*都因か。)と云ひ、江戸淺草に住みてより凉袋とは改めたり。「是れ淺草寺門前風神の袋負へるに因みてなり。」と傳ふ。俳諧を止めての名を凌岱また綾太、綾足又た安也太理とも云ひ、當時專ら國字万葉集(*ママ)の古風を唱へしとか。畫を嗜み、寒葉齋の號あり。斯く諸技に通じたるより、其頃「技を以て富を爲せるは浪花にて淡淡(*松木氏。蕉門で呂国の号あり。)と江戸にて此人なり。」と稱せらる。其俳句に、
晝の蚊の 夢や一筋 いものつる
村々は 茶色に霞む 小春かな
是れ野坡に學びし頃の作なり。
浦の春 千鳥も飛ばず 明けにけり
海を出て 濡るゝ月日や 五月雨
は希因に學びし頃の作なりとか。淺草庵落成の時、諸國の知人へ
笠程な 庵とおもへ 初時雨
とあり。安永甲午(*安永3年〔1774〕)の春三月五十六才にして歿す。
凡例
- 一 原本の寫書魯魚の誤り多く蠧蝕磨滅等の爲め讀み難きふし亦た尠なからず。勉めて校正はなしつれど、尚ほ誤謬あるなるべし。
- 一 徘家詳傳は、本篇中に見へし徘家の爲め、諸書を渉獵し、且つ斯道の先輩に就き聞得たる逸事等を交へてものせしなり。されど極めて匆卒の間に卒稿せしを以て遺漏誤脱は固より多かり。
- 一 小川破笠は本編に見へざれど、茲に掲げし芭蕉翁の肖像を寫せし筆者にして、翁が高足の弟子なり。又北村季吟は徘家を以て目すべき人にあらざれど、本編中に見へ、且つ翁が歌道の師なりしを以て共に諸家の傳語に附せり。
蕉門頭陀物語目録
(*[青字] :通し番号を付した。)
蕉門頭陀物語
○ 翁、北枝がもとに宿る并秋風の句談
はせをの翁、越路を歴て秋の半、金城に入り、北枝が許に旅寐して、夜すがらの物語に、「ある夕この句を得たり。」と、
あか\/と 日はつれなくも 秋の山
北枝難じけるは、「まことに此句意、今一二里の道をかゝえ、秋の野筋はおしむべく、又はやく傾んとするに霜枯たる袖に夕つぐる、遠山松も紅ゐなるはまばゆき峯の夕日といはむ。されど山といふ字すはり過て、けしきの廣からねば。」といふ。翁うなづきて、「さればこそ、『金城に北枝あり。』と名たゝるもうべなれ。われ『秋の風』と案じたり。さりや、この秋の風は、身にしむ夕の情を盡し、あか\/と日はつれなくも入果て、風ほう\/と肌にあたる。『爰に旅人の姿なからんや。もしはじめより風といはゞ、聞得る人なからんか。』と、しばらく山と斷じ、是北枝子をしらざるの罪なり。三神ゆるしおはしませ。」と。夫より斷金の交におよべり。
(*原文頭注)〔『あらまき』(*未詳)に「旅愁慰めかねて物うき秋もや(*やゝ)いたりぬれば、流石に目に見へぬ風のおとづれもいとゞかなしくなる(*真跡「いとど悲しげなる」、蝶夢『芭蕉翁文集』「いとど悲しくなる」、『雪まろげ』「いとゞしくなる」)に、殘暑(*猶)やまざりければ、『あか\/と云々』。」注に「此句はじめは『秋の山』とありしを北枝が『風にては』と申ければ翁も『さこそ。』と改られし。」と也。〕(*筒井氏蔵芭蕉真跡の文と若干違いあり〔参照:日本古典全書『芭蕉句集』〕。曾良著『雪まろげ』にも同様の文があるという。この注記を載せた『あらまき』については、『近世俳句大索引』に「荒巻」の名があり、『芭蕉句集』引用書目に蠶臥『芭蕉新巻』〔寛政5年〕があるが、未詳。)
○ 翁行脚物がたり并藤の句
ある人翁に物がたりせるは、
「貴坊は宗祇の迹を逐ひ、雲に別れ水に伴ひ、いづちを宿と定給はず。行脚何れの日をかしかりし。」
翁ほゝゑみて、
「旅せぬ人はさこそおもはめ、行脚は苦樂を
翼とす。けふは晴て笠
輕く、けふは時雨て袖おもき、
緞子の夜着、草のまくら引かはり移ひもしてこそおかしけれ
(*ママ)。奧の細道降つゞきて泥にとりつく杖をちからに、
曾良(*ママ)は疲れて行べくもあらず、吾は『笠嶋をみん。』といふ。
同行も又腹あしき事あり。况煤掃に居どころを追れ、あるは罪をかきならして情なき日もあるぞとよ。
旅は彌生の末つかた・卯月半こそ氣色
立て覺ゆ。ひとゝせ大和路
(*大和丹波市付近)に分入て、負へるものに道を伴れ、永き日影をたどりくらし、何がしの宿からんとするに、むら烏森にいそぎ、野山にいたう霞たる、『畫によくも似たる哉。』と行あひたゝずむ
(*原文「たゞずむ」)。かなたの垣に藪藤の覺束なくも咲かゝりたる
(*風国編『泊船集』に藤の叙述あり。)を見て、
くたびれて 宿かるころや 藤の花
かくいふ句のうかみたる、我ながら二なくおぼゆ。これらのけしき旅の榮花ともいはむ。」
〔『野ざらし紀行』(一名甲子吟行、天和四年二月廿一日改元、貞享元年なり。)(*『笈の小文』〔1688(貞享5)〕の誤り。)「『旅の具多きは道の(*「の」ナシ)さはりなり。』と物皆拂捨たれども、『夜の料に。』と紙子ひとつ・合羽やうの物・硯筆紙藥等・晝笥なんど物に包みて後ろに背負たれば、いとゞすねよはく力なき身の跡ざまにひかふるやうに(*て)、道猶すゝまず。たゞ物うき事のみ多し。『草臥て云々』」。〕(*「草臥れて」の初句の初案は「郭公」。)
○ 翁古人の句評并稻妻の吟
「秋のはじめ、暑さ
彌まさりて降かぬる雲の、晝はむらがり、夜はかたまりて、おそろしげなるに、稻妻の碎ちる夕暮がたに、
浴(*原文ルビ「ゆやみ」)してゆかたながら、物うち敷、
椽(*ママ)の柱にもたれよりて、むつまじきどち古きを語る。
『稻妻や くだけて(*原文「くたげて」)もとの 入處』
よく人のしりたれば其頃の名句ともいはむ。されど發句のけしきをしらず。我今このながめに、
稻妻や 闇のかた行 五位(*五位鷺)の聲」
〔談話味ひあり。〕(*一句目は出典未詳。『近世俳句大索引』〔明治書院〕にも見えない。二句目は『續猿蓑』『泊船集』所収。竹人『芭蕉翁全伝』には、元禄7年夏、芭蕉と土芳が伊賀上野の猿雖亭に泊まった時の詠とある由。初案「稲妻や宵やみくらし五位の声」。)
○ 翁去來と文通の答へ
又ある物がたりに、
「老ても春はまたるゝものから、師走のあはたゞしきも、遁るゝ身はことに指おりて
(*ママ)、
明をいそぐ。春のおもしろきは山里、あるは亦田舍にあり。一とせの
謀は、鋤・鍬にうつむきいとまなき身の、とし暮てより、まへふかく帶かたうしめて、雪踏ならすもことわりぞかし。
山里は 萬歳おそし 梅の花」
去來へ此句をおくられし返事に、
「句の意、二義に解べくさふらふ。山里は風寒く、梅花に萬歳の來たらん、どちらも遲しとやうけ給らん。又『山里の梅さへ過たるに、万歳(*ママ)どのゝこぬことよ。』といふ、なつかしき詠や侍らん。」
翁此返事に、其こと(*と)はなくて、
「去年の水無月、五條わたりを通りさふらふに、あやしの軒に看板をかけて、『はくらんの妙藥あり。』と記す。伴ふどちおかしがりて(*ママ)、『くわくらんの藥なるべし。』とあざ笑しまゝ、われら答候は、『はくらんやみの買候はん。』と申き。」
〔翁の答味ひあり。〕(*支考編『笈日記』、『泊船集』所載。真蹟に「伊賀山中初春」とあり。元禄4年の句。「はくらんやみ」は博覧病み。)
○ 翁近江行脚并路通入門
翁ひとゝせ(*貞享二年「野ざらし紀行」の頃。路通は貞享5年秋、「更科紀行」の帰途にあった芭蕉と再び対面している。『芭蕉翁行状記』を著す。)草津・守山を過て、松蔭に行やすらふ。かたへを見れば、色白き乞食の、草枕凉しげに、菰はれやかに、けやりて、高麗の茶碗のいとふるびたるに、瓜の皮拾ひ入れ、やれし扇に蠅追ながら、一ねぶり樂しめる、あやしくて、立どまり、さし寄、見れば、目をひらき又ふさぎ、鼾猶もとの如し。「さは(*原文「さわ」)何ものゝはふれにたる。」おして名をきかまほしく、目のさむるまで腰うちかけ、
晝がほに 晝寐しようもの 床の山
〔『韵塞』(*李由・許六編)に「東武吟行の頃、美濃路より平田の(*「平田の」ナシ)李由のもとへ文の音信に『晝顔に』云々。」〕(*二句目「晝寐せうもの」。『韵塞』『泊船集』所収。「床の山」は近江国犬上郡鳥籠山。歌枕。)
折からの吟も此時也。所は琵琶の海近く、比良のねおろし薫りくれば、並樹の古葉こぼれかゝりて、蝉の聲あたりをさらず、凉しとおもふほどに空たけたり(*時刻が移った、の意か)。〔翁句集中に路通に對す。「起きよ\/我友にせんぬる胡蝶」〕をのこすと起あがり、何夢や見つらん、膊(*腕)をうちて、ひとり笑み居たる、なを(*ママ)ゆかし。「『松風聞了(*ママ)午眠濃。』とはさとれる人の口ずさびなるを、今此人を見ることよ。」と、こゝろおきせられ、近く寄てしか\〃/のあらましをとふ。
おのこ(*ママ)いとおかしがりて(*ママ)、
「『君の財を費(*ママ)ものは、劒の下に眼をふさぎ、親のたからを費ものは、松原に袖を乞。』と。われ其袖を乞もの也。只今出口の柳(*京都島原遊郭の出口の柳)をくゞりて、襟にひやりとさめたる夢は、鴉の糞にてありしものを、むかしを手枕にたのしむ身は、八珍(*八種の珍味)の舌打より瓜の皮の蟻をはらひて、朝夕無味の禪にほこる。御坊もしらざるところ也。」
と、白き齒をあらはして笑ふ。
翁荷へる晝笥をひらきて、
「この飯(*ママ)のいと白う味ことにすぐれたるも、人の食を乞るも同じ。われも亦乞食也。たとへば柔なる褥(*原文ルビ「ひとね」)にゆめ見、濃なる衣に身を包むも、元よりわがものにあらざるをしらば、この松がねも相同じく、かつげる薦もひとしからん。只元をしるとしらざると、實に見ると假に見ると、是を迷悟の二義ともいふ。おのこ(*ママ)もし吾にしたがはゞ、茶碗を旅籠屋の膳にかえ(*ママ)、薦をかり着の小袖にかえ、廓の夢を風雅にかえて、老の杖をたすけば、樂又その中にあらん(*『論語』の句を踏まえる)。」
おのこ(*ママ)うなづきて翁にむかひ、
「其晝笥を給はらん。」
と。清水にひたしてこれを食ふ。首を叩て曰、
「誠にこの飯五味を欺き、咽に甘露を通すが如し。實雪の日は寒くこそも、むまきはむまきに極りたれば、けふより御坊の言葉にそむかじ。さもあれ、むかし腰折をこのみて、三十一もじの數をもしる。御坊笑ひ給ひそ(*原文「ぞ」)。」
とて、矢立を乞て扇にしるす。手拙なからず見えて、
「露と見る うき世を旅の まゝならば いづこも草の 枕ならまし(*原文「ならまじ」)」
翁歎じて云、
「われ伊城に在しとき、洛の季吟立たる枕をたゝき、敷嶋の道にいざなはれしが、今は俳諧の短(*ママ)に遊て、生涯の計とす。汝に路通の名を與へむ。汝にわが頭陀をかくすことなし。日も暮ぬ。しりへ(*原文「しりべ」)にしたがひ來れ。」
と。夫より師弟のあはれみ深く、しばらく蕉門の人なりし〔路通絶交のこと、後に見へたり〕。
○ 翁尚白に物語并小町の附句
(*翁)尚白に物がたりありしが、
「『うき世の果はみな小町なり』といふ附句、久しきよりその趣向ありて空しくおもひ
入前句もなかりし。いつぞや、
正秀(*ママ)庵の
席にて、
『坂ひとつ 見立て杖に 物おもひ』
といふ前句あり。『是にこそ。』とおもひかへせば、まさしく小町の姿はあれど、句中の實をあらはすことかたし。」
(*と。)
其後撰集のおもひ立て、
「さま\〃/に 品かはりたる 戀をして」
と
(*尚白が)聞えたれば
〔推敲味あり〕、「うれし。」とばかりに其句を入る。
「是ぞうき世のあだなるより百とせの姥に色をさましたる、我宗の寂(*「さび」の句の手本、の意か。)といひ、俳中の數(*「教」とするテキストあり。)ともいふ。わかき二三子よく聞べし。」
と顔うるはしかりし、となり(*尚白の話)。
〔さま\〃/に品變りたる戀をして (*凡兆)
うき世の果は皆小町也 (*芭蕉)
何ゆへぞ粥すゝるにも涙ぐみ (*去来)、云々。〕(*『猿蓑』巻5)
○ 其角、野坡に句を問ふ
『炭俵』撰の時、其角が
秋の空 尾上の杉に はなれたり
(*元禄六年頃の作。『五元集』所収。)
と案じて、野坡に、
「この句、いかゞ見るや。」
と問。野坡云、
「何ともいふべからず。たゞ秋のはれたるけしき、空に一點の雲なし。」
と。其角よろこびて卷頭(*『炭俵』下巻「誹諧秋之部」の巻頭)に定む。
○ 義仲寺の法筵、其角侠客に威を振ふ
其角、翁の終を見置き、初七日の法筵義仲寺に聚會す。大津の智月(*乙州の姉・義母。)なさけある尼にて、路通が不興(*不行跡により芭蕉の勘気を被ったこと)をふかく悲しみ、翁終焉ちかき頃、いろ\/と言葉をつくし、『ゆるす。』の一言は得たれども、門人、路通を疎ずれば、この席に昇る事あたはず、寺の敷居も越がたくて、智月・乙州(*ママ)をもて連中をなだむ。其角答けるは、
「路通が罪かろからず。されど此愁ひ時もことなり、碑前の燒香はゆるすべし。」
とて、すげなく席にすゝめざれど、路通、智月が後にしのびて、しほ\/と席を過るに、會筵の徒四十餘人、いづれも唾吐て見むかず。
路通憤を押へかねて、大津の侠客をかたらひ、此席をおかさんとす。其角、文臺を踏越て、十徳(*ママ)の袖高くまくりあげ、手に短劒をぬき拿て、侠客に立むかふ。支考・丈草、袂にすがれば、洒堂(*ママ)・正秀侠客を防ぐ。其角聲胴より發してひゞき、乳虎の如く、
「吾湖中に人となりて、今は天下の城府に家居す。抑武城に日本橋あり。日本の人其橋を過ざるはなし。其橋を過るもの、其角が名をしらざるはなし。やうやく大津壁の鼠穴にすみて、牛の涎に命を繋ぐさかやきの青瓜ざね、厠に芽を出す二葉冶郎は、是を俳諧にあわれ(*ママ)といひ、削かけ(*京都八坂神社で大晦日に行われる削掛の神事。境内での参詣人の悪態比べが名物だった。)にはあくたいといふ。汝等去らずんば物見るべし。」
といきほひ、忠盛の子の如し。侠客腕のふときをさすり、我譽に罵て去りしとぞ。
○ 其角三井寺に登る 二章(*二句)
法筵事終りて、正秀・洒堂等が亭に遊ぶ。ある夕、大津の人々にいざなはれて三井寺に參るこkとあり。瀬田の夕日かすかに殘りて、粟津も眞柴たく煙の中に朧\/と暮かゝる。さるは歸れる花をおしむか(*ママ)と見えて、この寺の晩鐘もなし。さゞ波は疊のごとく、うかめる鳥まなく立て、艚行船の跡にばかり、四山落葉して遠きを極む。「煙波何處可消愁。」(*煙波何れの處か愁ひを消すべし。)とうれすさみて、のぼり\〃/つ山門に到る。
からびたる 三井の二王や 冬木立
(*元禄元年の句。年代が合わない。)
なにしおふ(*原文「あふ」)鐘樓に登りて、
木がらしや かはる\〃/に 鐘をつく 〔一本に「鐘つかん」とあり。〕
此二章、世にひゞきて、「芭蕉第二世」とぞさゝやきあへる。明日、正秀亭の會に、人々きのふの二章感じてやまず。
「今宵の卷頭はいづれにか定む。」
其角これを聞て、
「義仲寺もほどちかし。われ凩の吟に於ては、翁もふたゝび目やひらき給はん。」
といへり。
○ 支考還俗
支考人となり他に異なり。氣臆は胷(*■(匈/肉月::〈=胸〉:大漢和29441))に刻めるごとく、工夫は一點の中にあり。目は俳諧の小技にありて、心は青雲の外に登る。この人は蕉門の逸物なり。はじめは許六(*ママ)と睦みふかく、『笈日記』撰し(*ママ)頃は、「彦根の一卷夜光のごとく、天下の俳諧をてらさん。」など許六へ文通もありし也。後には俊才の聞へ(*ママ)たかく隔る。されば、老師の許に衣鉢をかへし、「吾は還俗して遊なり。」と、
蓮の葉に 小便すれば お舍利哉 (*一浮 編『蓮二吟集』所載。)
と、因果撥無の吟を殘す。
○ 支考福壽草の花に觀ず
ある年の春、福壽草を生て(*ママ)左右に(*身辺に置いて)愛し、此花を見る。はじめ一輪光をはなちて後しぼめば、次の莖にひらき、その次又盛を經。支考つく\〃/觀想して、
「人間の子孫このごとし。我風流も斯の如し。されば金剛の色をひらくとも、この花につぐ枝なくば、久しき愛物とはいふべからず。我俳諧もつぐ人もあるべし。文章は傳ふまじ。さらば、東花坊の名を削て其門人に變躰し、師道をひろむる手段あらば、其門人もまた吾にて註をあらはし解を加へ(*ママ)、三世の變化を盡さん。」
と、頻りにおもひ立し、と也。
○ 支考、非亮へ文通并乙由の句評
支考、金城の非亮に文通せるは、
「今年は美濃の山家にかくれ、東西二花の風流をためす。
芋よりも わが名立らん けふの月
ちかづきの 顔みなうつる 月見哉
かく案じおくところへ、いせの乙由より文通に、
やがて流る 山を晒すや けふの月
と申來(*ママ)候。かやうの手づま、愚老も閉口に及候。誠に風雅はあやしきものにて、次第に理屈に沈み論ずるや、おほやう成吟一向おもひかけず候。定て金城の事、其間いせより申來候はんと存候。」
○ 支考八夕暮の第三を案ず
支考八夕暮の集を撰むに、「いづくも秋のはしに探幽」といふ脇に第三を案じ入、「只月といふ句なからましや。」と、朝にあふぎ夕に俯し、食をたち席わきにつけず、かくすること三日にして、
細いには あかぬと月の 空に消て
しばらくこの句に俳狂して玉を拾へるものゝ如し。又「四句目こゝろに入らず。」と、その夜も臥さず。あくる夕に、
水を一桶 汲ておかばや
凡句を案ずるといふは、深く入て淺きを求む。下手は無用の工案に入て、王手・飛車手を案るごとし。句作は終て取る品あり。早く取捨の用をしらんにはしかじ。
○ 支考、童平をさしはさみて(*介在させて)吉野山に登る
支考、美濃の草庵に籠り、雪(*原文「雲」に「ゆき」とルビを施す。)に成行梢をながめて、神雪の句を案じつゞけ、よしの山の一句を得たり。
歌書よりも 軍書にかなし 吉野山
(*宝永7年の作。『俳諧古今抄』『梅のわかれ』所載。)
支考時におもへらく、「この吟雜(*〔ざふ〕)にして名所の法(*「名所のみ雑の句ありたし。」〔芭蕉〕)をたがへず。われに一生の句なければ、これをもて名句とせんに、天下誰か舌をくださん。されど其場にあらざれば、人の信をおこすことかたし。」と、童平(*井上氏)へ申遣しけるは、
「ことしの雪のおもしろさ、頻りによしの山をおもひ出ぬ。春立ば相伴ひ、大和路に行脚せん。吾子ゆかんや、いなや。」
といふに、童平もこれに同じ、春もきさらぎの末つかた、よしのゝ麓にさかりをまち得て、杖をひきて千もとに咲かゝれる櫻は雪間のごとく、一目千本の雲井を分て吉水院に登見れば、南帝の昔いまさらにして古戰の迹に涙をそゝぐ。日もこゝろぼそく、木の間にかくれ、谷の水音むせぶが如く、支考・童平たちならびて石上にしりうちかくれば、同者の聲\〃/人家を求む。花のいづこに伏らんと見ゆ。
時に支考頭をあげて彼句を高らかに吟じつゝ、
「われ天下の絶唱を得たり。聞や、\/。」
とよばふ。童平眉をはりて言、
「いみじき盜人哉。よくも\/われを誑かして行脚の奴とはすなれ。この吟全たく孕句(*宿構の句)なり。早くしらば、きたらじ物を。」
といふ。支考うちゑみて童平が背中をたゝき、
「あなかしこ(*努々)、もらすべからず。」
と、口を掩て山をくだる。
○ 支考乙由が附句を奪ふ
團友(*凉菟)を評者として支考・麥林會を催(*原文ルビ「もよふ」)す。其夜は點を爭ひしに、
老僧の 顔を佛師に 見せておく
といふ(*乙由の)句あり。「この句に印なからんや。」と各膽を冷したるに、釋教のさい合ありて執筆其句を戻したれば、一座よろこびてきほひ出ぬ。すでに一表過行ほどに、
ぬぐふてとつた 板はかゞみに
といふ前句出ぬ。支考聲をあげて、
老僧の 顔を佛師に 見せておく
と附たり。麦林、
「いとむたい也。」
といへば、見龍云〔麥林は乙由が別號、見龍は支考が別號なり〕、
「此句名句也。是吾子が(*あなたが〔指合のために〕)戻たる句なれば、さもしても二たびせじ。しかれば一生のすたり句(*原文ルビ「すだり句」。無駄・不用の句。)となる。我歎は句を惜(*ママ)なり。」
○ 惟然坊俳狂并許六天狗集を題す
惟然坊(*ママ)俳狂して東西に走り句を謠ふ。雪にはばせを(*原文「はせを」)の句を作りて鉢敲にうかれ、花には淨瑠璃のふしにかけて、西行菴の門にたゝずむ(*原文「たゞずむ」)。破たる蓑と笠と、筑紫の風雨を凌ありきて所\/紀行の吟あり。
水さつと 立てばふは\/ ふうはふは (*『きれ\〃/』に二句「鳥よふはふは」とある由。)
水鳥や むかふの岸に つういつい
長いぞや 曾根の松風 寒いぞや
彦山の 鼻はひこ\/ 小春かな
しぐれけり はしり入けり 晴にけり
斯のごとき吟多し。持かへりて彦根にいたり、許六に紀行をあたへて云、
「吾子わが集に題すべしや。」
許六けうとくおもひながら、
「『彦山』の句を卷頭として『天狗集』(*未詳)と名づくべし。(*出鱈目の雑俳・狂俳を天狗俳諧と呼ぶことに因むか。)」
と。坊うれしがりて立出ぬ。
其後の事也けん、
名とりとの ふたつみつよつ 早梅花佛
梅の花 あかいはあかいは あかいはの (*『去来抄』「赤いはな」、『俳家奇人談』「赤いはの」、『有の儘』『落葉考』「赤いわさ」の由。)
此二章は殊さら世に聞へたり。
○ 惟然むすめにあふ并時雨の吟
ある時誓願寺の門前にふして、朝露にいらゝぎ(*鳥肌を立てて)居たるを、其子なるものあゆみかゝり、
「此程たづねあたらざりしが、爰に狂ひおはするよ。」
とて、めでたき夜の物を襲ね、すそにかこひ、枕をかゆ(*ママ)。坊こゝろよくあたゝまりて、日のあかきまで寐つき、見かへりもせずぬけ出しが、我娘の嫁し居たる尾城に入て、其町を過ければ、娘袂にすがりて放さず、この程のおこたりを詫び、おどろしきありさまを歎く。坊其顔をつく\〃/守り、
「硯こせよ(*おこせよ)。」
といひて、
兩袖に たゞ何となく 時雨哉
○ 奈良の梅月おもとが戀
奈良の京に住ひける元梅(*石岡玄梅)がゆかりに、おさなき(*ママ)時はおもとと呼て、あてやかにいとらうたし。年たけ情ふかく、人にも忍るゝ頃より、
「糸竹の道はこゝろしづかならず。」
と、元梅に風雅を學び、翁の行脚をも見おくりしが、おなじ處に軒をならべて、梅月といへる。男、是も元梅にかしづきて、年いまだ若く、すきたる心もかしかう(*「かしこう」か)、女のあはれむべきがらにて、互にかくす事なく行來し、あるは笆を隔て物がたりす。いつしかこゝろうつろひけれど、くちなしのいろにだも出さず、うら\/とすぐるほどに、秋になりにけり。女、
おもふ事 星にうつして 梶の文 (*七夕に芋の葉の露で墨をすり、梶の葉に歌などを書いて供えた。)
とほつ句して垣越に吹やりて、はづかしうてかたぶき(*原文「かだぶき」)居たり(*うなだれる意か)。おとこ(*ママ)、「嬉し。」と思ひながら、其うらに物書て女の心をぞためしける。
なら坂や この梶の葉の うら(*裏と心とを掛ける。)とはむ
女少しうらみたるさまにて、朝がほのつぼみたるを引きり、短册にそへておくる。
きるからに 此朝がほを 小指とも
おとこ(*ママ)うなづきあひて、こなたにおもふかぎりをも語り、ふかくなり行ほどに、うらむるわざのいできて、互にはかなくなりし、ともいひし。
○ 丈草・去來・支考・野水・越人、石山に會す
五輩うち連て、石山に登る。彌生の晦日なれば、京の花盛はみな過にけり。山の櫻はまだ盛にて、かすみのたゝずまひもさだめなく、鳥・むしも心してともにくれ行春をおしむ(*ママ)。去來いふ、
「俳諧はよしなきもの哉。風景の奴となりて、心意のほど止時なし。されば、それもしらず、老もしらず、手を拱て閑居する人にははるかに劣ぬべきわざならん。」
丈草云、
「法すら捨べし。いかに况(*いはんや)然法(*未詳)をや。」
と。
「金剛經に説おかれて『捨よ。』とは教なり。森羅万象(*ママ)みなまぼろし。こゝに至りて何をか捨ん。すてんとするもの亦一物(*ママ)。捨んとするに一物なし。捨たるは金剛の躰也。我は捨たるうき身ならねば、念佛もよし俳諧もよし、『漕來る船』と觀念ならば、このさゞ浪の春の氣しき、ほだしとなれ痼疾ともなれ、われは山水をたのしむものなり。野水、越人、いかにおもへる。」
兩人も只うなづく。支考云、
「風雅は名聞の器(*ママ)なり。吾はうき世を相手にして、俳諧の名に狂せん。」
○ 杉風、翁の喪をつとむ并支考と絶交
杉風は蕉門の子貢也。よくつかへて敬み、翁の訃音を聞とひとしく、我職の魚鳥を賣捨(*杉風は日本橋の幕府御用達の魚商。屋号鯉屋)、門を閉簾をおろし、中陰おごそかに勤め、長慶寺に發句塚(*時雨塚)いとなみ、其後支考と交をたつ。
「彼は芭蕉の名をうりて、風雅を錢にするあさましの坊や。もし東武に脚を入なば、兩足を切侍らん。」
と、牙を噛て怒りしとぞ。
○ 嵐雪以下四輩を論ず
嵐雪は其角にももれず。東武の人のほどを知て、又蕉風をもうしなはず。
史邦(*〔ふみくに〕中村氏)・正秀(*ママ)(*〔まさひで〕水田氏)、よくつとめり。
曾良もしかなり。
○ 野坡流行
野坡は壽を全(*ママ)して、「浪花に野坡あり。」といはれたりしが、西國の俳諧に化し、しばらくは流行す。
○ 野坡盜人にあふ并發句
ある夜、雪いとふ(*ママ)降て、おもての人音更行まゝに、衾引被(*原文ルビ「ひきかつぎ」)て臥たり。曉近くなりて障子ひそまりあけて(*ママ)盜人の入來る。娘驚て、
「たすけよや、人々。よや\/。」(*『徒然草』「猫また」の段の借用か。)
と打なく。野坡起あがりて盜人にむかひ、
「我庵は青氈だもなし。されど一釜・よき茶一斤は持たり。柴折くべ、あたゝまりて、人のしらざるを寳にかへ、明がたをまちていなば、吾にも罪なかるべし。」
と、談語常のごとくなれば、盜人も打やはらぎて、
「誠におもてより見つるとは貧福金と瓦のごとし。さらばもてなしにあづからん。」
と、ふくめんのまゝならひ居てかず\〃/の物がたりす。中に年老たる盜人、机のうへをかきさがし、句のかけるものを打ひろげたるに、
草菴の急火を遁れ出て
我いほの さくらもわびし 煙さき
といふ句を見付、
「この火はいつのことぞや。」
野坡云、
「しか\〃/の頃也。」
盜人手を打て、
「御坊に此發句させたる曲者、近きころ刑せられし。火につけ水につけ、發句して遊玉はゞ、今宵のあらましも句にならん。願くは今聞ん。」
野坡云く、
「苦樂を歴を風雅人といふ。今宵の事、ことにおかし(*ママ)。されど、ありの儘句に作らば、我は盜人の中宿なり。たゞ何事もしらぬなめり。」
と、斯いふことを書て與ふ。
垣くゞる 雀ならなく 雪の迹
○ 野坡早春の吟をしらる
野坡、ひとゝせの初春の吟に、
ほの\〃/と 烏くろむや 窓の春
この句、世に噂ありて、いみじきほまれとはなりぬ。
○ 李由笠塚を築く
李由(*近江国平田の光明遍照寺住職。河野氏。許六と『韻塞』『篇突』『宇陀法師』を共編。)は許六とむつみふかく、翁行脚のたすけともなり、四梅廬(*李由の号)の風流、及笠塚の追福(*李由は芭蕉の渋笠を乞い受け、遍照寺内に笠塚を築き、『笠の影』を著した。)こゝろのまゝ也。いでや其笠は、吉野の行脚に狂筆せし檜笠に櫻の吟(*『笈の小文』の旅で、芭蕉と杜国が笠の内側に落書した「乾坤無住同行二人」の題を持つ句。「よし野にて桜見せうぞ檜の木笠」)也。
○ 許六癩を病并万子に見ゆ
許六(*ママ)はじめ芭蕉庵にくだり、蕉門の奧義を傳へ、文章は我ちからを加へて、支考と撰集の沙汰に及ぶ(*未詳)。後、病にかゝりて人に面せず、たま\/「面して風雅を問ん。」とたづね來る風雅人あれば、屏風をしきりて俳談す。
金城の万子(*生駒氏)馬を發して許六に謁せんことを願ふ。
「聞及ぶ、万子いかで屏風を隔んや。」
とて、蒲團ながら打すえられ(*ママ)、赤き障子(*明り障子か。)にさしむかふ。眉たゞれ落て豫讓(*『史記』刺客伝中の人物。体に漆を塗って癩者を装い、炭を呑んで唖者となって再度趙襄子の暗殺を図った。)ともいふべし。ひめもす蕉門の傳をかたり、女のわらはに酒をとらせ、万子に謂て曰、
「我この病ありてより、子に耻妻にはづ。けふ公にまみえて露も耻ず。是全く公の徳也。公俳諧のわざをならふ、支考をもて師とするも、この蕉門の傳における、公の師は又われ也。吾たべて公に投ぜん。」
と、土器こぼるゝばかりに受、三度して万子にあたふ。腐肉欠落て酒咽に洩る。臭氣人にせまりてたまるべうもあらず。万子近くよりてかわらけをとり、ずつと飮て舌をならす。其色かぶろに酌とらせて朱雀の花(*サトザクラの一種)にむかふがごとし。
許六涙をおさへ、
「誠に風雅の大丈夫(*原文ルビ「だいじようぶ」)也。かゝる人に何か惜ん。我この病天にして餘命いく程もなし。」
と、長別の詞を殘して入ぬ。
○ 万子、翁に見ゆ、翁北枝に留別す
万子金城に祿(*原文「録」)をはみて、弓矢の中に風雅をたのしむ。その頃翁金城に頭陀をおろし、久しく北枝が徒と遊ぶ。「けふは犀川を見、かへりて小松の方に赴。」と聞て、万子鞭をうちて長亭を凌ぎ、漸松任の驛にして翁の杖を縋りとゞめ、俳談夜をこめて別る。北枝はしばらく伴行て(*万子は)送別の涙を落せば、持たる扇子(*ママ)を出して留別の吟を與ふ。よく人のしれること也。〔扇は京骨に萩を畫けり。北枝死後希因(*涼袋の師)が手にあり。〕
○ 洒堂梅の鎰の集をあづかる
洒堂(*ママ)はよく翁につかふ。ある時、翁『梅の鎰』(*『梅の鎖〔くさり〕』という蕉門未来記の風説。風之『誹諧耳底記』〔「梅の鎖聞書」と角書〕に野坡の俳論と重ねて述べている由。)といふ集を作りて、みづからうつし、洒堂にあたへ、
「此封をしてほどくべからず。門人廿餘輩の評をきはめ、百年後の俳諧を論ず。吾家の未來記也。さるは此梅の時を得て、末世に櫻の鎰を合せ、梅に匂ひ櫻によそほひ、正風の花實大にとゝのはん。」
と、厚く封じて洒堂が筥にひめおけり。
翁死後なを(*ママ)ふかく守り、生涯これをひらかざりしが、洒堂なくなりてより、むすめ某かしらおろして山かげの菴にこもる。日月たつまゝに、野坡の門人たりし洛の風律(*広島の漆器商)をたづね、南無天滿の大字のかけ物、其外翁の眞跡に添て、かの篇も傳へおさむ。
蕉門の徒、この集を見ざらんや。
○ 鬼貫貧にせまる并路通の事
「難波の濁江に咽渇し、短きあしの葉蔭にふしては、床に蓬はたのしめども、一女のやしなひこゝろの外に、今は鬼貫の名を隱し、朝夕の煙りをいとふ。昔は花洛に遊吟して、翁と畫讃の遊をもなせしが、其人は東西に錫をならし、吾はよしあしに身をひそめ、釜中の魚の水をしたゝめ(*「釜中の魚」は逃れられない死が迫っている境涯の意)、みなしろなして長物(*余計な物)なければ、ともしびの陰に一通をしたゝめ、一貴一賤交(*ママ)を見る(*貴賤の交わりを乞う意か。)といふ。それもまづしきひがみといわん(*ママ)。きのふは門前に車馬をつなぎ、けふは雀の巣にあらされ(*門前雀羅を張る)、餌にあとふ(*ママ)べき一粒(*ママ)もなく、今日にせまり候間自殺に及候。『なき跡、人をさはがせじ。』と、この一條を殘し候。御存の娘ひとり、鼻に木の實のきずもあらず、情ある人救ひとりて、若菜にあさらひの水を汲せ、雪には堀江の枯あしを折せて、薪水手のまゝに御遣ひ給れかし。蓬生のひめとおとしめ玉ふな。」
と、書とゞめて稱名す。娘おどろきて刃にすがり、
「やよや、まち玉へ。われ死ん。いとけなくして母を見ず、父のふところに人となれり。われ聞、『刃は仇ありしとき、うらみを切。このゆゑにこそ、國をおさめ身を守る。日の本の寳』とや。いまだきかず、『貧にせまり子をたすけて、尊き父をころすもの』とは。よしなやな。われあれば、父のほだしいくほどぞ。又刃に身をさくとも、父の貧・父の愁かさぬるの罪となる。ひたすら川竹の流に沈み、代をとりて孝にかゑん(*ママ)。」
と、よゝとなきて聲をおしまず(*ママ)。
時にあれたる戸を叩き、頭陀重く杖を曳て、久しく面せざる路通來る。親子あはてゝ(*原文「あはて」)面をかへ、刃を箱におさめながら、むすめはかたへにまぎれ入ぬ。鬼貫この事つゝむにしのびず、しか\〃/の事を語れば、路通も雨のごとく涙を落し、人の行衞のはかなきを歎じ、鼻うちかみていへりけるは、
「死すべからず。賣べからず。父をすくひ子をすくふ、我にひとつの術あり。」
と、鬼貫が耳に口をあはす。〔此謀事察す可し。〕
其のち鬼貫も幸を得て、賑々敷世を渡る。されども、しれる者はうき名をうたひ、路通は似筆の上手といはれて、社中の憤を受しとぞ。
○ 凉兎(*ママ)變化に逢ふ
凉兎は其性おほぞうに(*原文「おほどうに」)して、俳諧は拍子(*原文「柏子」)を覺り、伊勢に團友齋の名有ことはよく人の知る處也。
中國に遊び、露にさすらふ。秋の頃ならん、おもひ立て、心つくしの山路にわけ入、雨一通り過て、「日はいまだ暮まじ。」と思ふ、空の峯高う流かゝり、雲の行來も餘所よりはやきか、こゝろ細き谷水をわたり、小笹原しめやかに合羽のすそ蹴ちらかして行く。跡を振かへれば、大地をはなるゝ事三尺ばかり、長さ丈餘に見ゆるものゝ、赤き色炎の如く、風をおこしさかさまに立て、動くともなく飛ともなく、中にはなれて近づき來る。
凉兎たましひ消て、肌粟のごとく、襟寒うなりて、呼んとするに聲をしらず、我あしに手をかけて一歩づゝ前に進む。斯して後に音ありて、水さつと鳴り、木かや動き、物音ひし\/と聞ゆ。振かへれば其ものを見ず。
こゝち少し吾身に戻りて、汗をしぼり人家に入ば、あるじ凉兎(*原文「凉免」)が面をうたがふ。凉兎しか\〃/の變化を話る。主打笑て、
「世にいふばけ物にあらず。此山の蚯蚓也。」
凉兎なを(*ママ)驚く。主語りけるは、
「蚯蚓山の土をくらひて、年ふれば土氣を起し空に飛、かならずけふの如く雨晴し夕つかたは、いくつとなく出ありき、澤蟹を打つぶしその蟹の腦を吸。西國に多きこと也。此みゝずは恐るべからず。澤蟹は恐るべし。いかにとなれば蟹の大きさ三四尺、其大なるに至りては丈餘にも及ぶ。背には苔むし木草を生じ、目の光天を射る。はさみをあげ、足もて人を喰ふこと、まゝ多し。蚯蚓は彼を打つぶし、却て人をすくふなり。」
とあやしき物がたりに及べりしとぞ。
○ 凉兎辭世
凉兎病の末つかた、いひおくこと哀なれば、門人枕にたちより、
「さばかりの團友齋、辭世の句なからんや。がてんがいてか。」
凉兎目をひらきて高らかに、
がつてんじや 其曉の ほとゝぎす
斯吟じながら、
「『曉のその時鳥』とやせん。」
といふに、乙由傍にありて、
「爰に何をか輪廻(*ママ)せん。『其曉のほとゝぎす』。」
と、打あげて唱へければ、曾北(*世木氏。凉菟の後継者。)筆をとりてしるしぬ。
○ 麥林(*乙由)椿の落花に對し月花の姿情を悟る
この麥林は、川崎に生れて家とみ職めでたけれど、寳をあつめ利を見る事をしらず。おさなき(*ママ)より其榮法印に筆意(*書画の筆遣い)を傳へ(*伝授を受けて、の意か)、風雅はばせを(*原文「はせを」)の門に遊びて、はじめは淋しみの間をかんがみ、
「風雅は實を守るにあり。」
と、情より案じ入けるが、春のころわらべの落散る椿の花をひらひ(*ママ)糸に繋ぎ遊ぶを見て、俳諧の姿をしり、一句の變化をしれるより、天下に名人の號は得たり。されば、其談話に、
「(*童等は)落ちる椿多き中より、白きは捨て赤きを拾ふ。乙由わらはべにたはぶれて、『などや、色ある花を愛さば、白きとて捨べからず、赤とて好べからず。赤きも白きも打合て(*ママ)、紅白にたゝかはしめば、うつくしき色あらん。』と、何となくおしへし(*ママ)が、『我風流も斯の如し。柳・櫻を交へてこそ、春の錦とは詠るなれ(*素性法師「見渡せば柳桜をこきまぜて都ぞ春の錦なりける」〔古今集〕を踏まえる)。さらば、月花は情にあらず。姿はうきたるものなり。』と、爰に發句のあつかひを轉ず。」〔工夫味あり。〕
○ 支考、麥林と才を戰す
支考、麥林の留守に來り、床の柱にたわぶれける(*ママ)は、
「見龍(*支考)、發句麥林に及ず。麥林、附句見龍に及ず。」
と大筆にしるして去りぬ。
其後、見龍が來れるを待て麥林云、
「吾發句貴坊に勝たるはあらためいふべからず。附句なを(*ママ)まされり。」
と云。見龍安からずおもひて、
「吾即席に前句を出して附句を聞ん。」
麥林、
「いと安し。」
と答ふ。見龍、
「時に難ぜん。」
と話のごとくいひかくる。其中に、
見龍
まつKに 白紅に くる\/と
乙由
車の牛に 雪の夕榮
「今一句所望。」
といふに、
仝
宵闇に卷く 源平の籏
「又一句聞ん。」
といふに、
仝
頭巾で忍ぶ 傾城の裾
見龍舌を卷ながら、
見龍
やれ\/と たすけたうあり こはうあり
乙由
はしりかゝつて 岸につまだつ
又
見龍
珊瑚珠の われて飛だを ふしんがり
乙由
門から迯る 鰒の臆病
いづれも前句の息をつきあへねば、見龍口を閉て、
「見龍、發句麥林に及ず。見龍、附句麥林に及ず。」
と、筆を加へて歸りしとぞ。
序(曲亭馬琴)
自叙
吸露庵の伝(編者か)
凡例
蕉門頭陀物語目録
蕉門頭陀物語
俳家詳伝(編者か)