良寛と蕩兒 その他 -1- 創作
相馬昌治(御風)
(實業之日本社 1931.4.25、再版 1931.5.1)
※
緒言
目次
(中綴書簡)
【創作】
越後に歸る良寛
良寛と蕩兒
五合庵の秋
【研究・随筆】
良寛和尚を生んだ家
良寛さまと小判
良寛雜考
五合庵の開基僧萬元とその歌
【附録】
山つと
八重菊日記
緒言
○本書には創作三篇、研究及び隨筆四篇と、それから附録として良寛和尚の實弟橘由之の日記「山つと」「八重菊日記」の二卷を收めた。いづれも良寛和尚に關するものである。
○本書を編んだ私の主なる目的は、良寛和尚と彼を生んだ家との關係についての私の考察のあらましをまとめて置くにあつた。先年公にした拙著「大愚良寛」とあはせ讀んで貰へば一層それがハツキリすると思ふ。
○たゞ良寛和尚の永く住んでゐた國上山の五合庵の開基たる萬元和尚についての記述—これはよいつひでだと思つて加へたに過ぎない。「良寛雜考」—これもまづその類である。(昭和六年一月卅日越後糸魚川にて相馬御風記)
良寛と蕩児 その他 目次
— 目次をはり —
(中綴書簡)
橘左門老
良寛
一兩日は食事すゝみ候。口中うるほひを生じ候。
霜廿七日
良寛
此の手紙は病中の良寛和尚から出雲崎橘屋の主人で、和尚の甥にあたる橘左門泰樹(通稱馬之助)へ宛てたものであるが、その書風から考へると、おそらくこれは和尚が最後の病床に横はつてゐた時書かれたものであらう。さうすると、和尚の示寂は正月六日であるから、これの書かれたのは死前四十日にあたる。本書の内容と密接な關係のある故を以て、特にこれを複製して添へることにした。なほ此の手紙は著者自身の藏するところである。
越後に歸る良寛
一
越中と越後の國境となつてゐる堺川といふ川をかちわたりして、行手に見える市振の宿へと砂濱傳ひに歩みを向けた時、
「あゝ、いよ\/こゝから越後路だ!」
といふ歡ばしい言葉がおのづと良寛の唇を洩れた。川一筋を越しただけではあるが何となくあたりの景色が一變したかのやうにも感じられた。
「いよ\/生れた國の土を踏むのだ!」
漠然とではあつたが、さうした意識がほのかな歡ばしい氣持を良寛に與へた。良寛は急に何だか足の疲れが出たやうに感じて砂の上へ腰を下し、「やれ\/」といふ案配に兩脚を伸ばした。
良寛の前には、どんよりと曇つた空の下に、秋にしては珍らしく靜かな越後の海が涯も見えず廣がつてゐた。高くはなかつたが絶え間なく打ち寄せる波の音は淋しかつた。背後はどことなく親不知の難所近いことをおもはせるやうな斷崖つゞきで、そこにはもう一面にほゝけかゝつた萱の尾花がほの白い波を漂はせてゐた。久々で生れた國に踏み入つたことのほのかな嬉しさはありながらも、良寛はやはりさうした荒凉たる自然の中に於けるさびしい姿を顧みずにはゐられなかつた。そして折から暗い海の上の遠くの空に小さく見え出した一列の雁を見るにつけても、良寛は
「雁よ、雁よ、お前達もやつぱしさうしていつまでも旅から旅へ歩いてゐるのか。」
とでも呼びかけてやりたいやうないとしさを覺えた。「雁の子が
雁のふるさと立いでて…」といふ誰の作ともわからぬ古歌をも、良寛はおのづとおもひ浮べた。
日はまだ高かつたが、良寛はその夜は市振で泊ることにきめてゐた。それはその先の親不知の難所を通らなければならぬ翌日の困難を豫想してゐたからであつた。そればかりでなく、良寛は甞て何處かで讀んだ本で、芭蕉翁が此の市振の宿に泊つたといふことを知つてゐた。何でもその同じ宿に伊勢參宮の旅にある新潟とやらの遊女達も泊り合せてゐた。そして翌朝旅立たうとすると其の遊女達は芭蕉に道伴れにしてほしいと哀願した。しかし芭蕉はそれを退けた。たしかその折芭蕉は人は各その行くにまかせて行くべきである。神佛は必ずそれを護つてくださるものだといふやうなことをも云つて聞かせたといふことであつた…おぼろげではあるがさうしたことまで良寛の記憶に殘つてゐた。それやこれやで良寛には、その夜市振に泊るといふことが、格別興味のあることに思はれてゐた。
しばらく休んでから市振の方へと歩みを急がせながらも、良寛は百餘年前に此のさびしい海岸を、自分とは反對の方向へと漂泊の旅をつゝけて行つた「永遠の旅人」芭蕉の身の上を、しきりとおもひやつた。
ところでいよ\/その市振の村にさしかゝり、門毎に一夜の宿を頼んで見たが、遇ふ人も遇ふ人も「この乞食坊主めが…」といつたやうな冷やかなさげすみと疑ひとを以て良寛を追ひ拂つた。誰一人宿を貸してくれないばかりか、一握の米をすら布施してくれる者がなかつた。さうした世間の冷たさはこれまでに十分試練を經て來てかなり超脱してゐる筈ではあつたが、その場合だけはさうは行かなかつた。久々で故國の土を踏んだといふ歡びを感じたりした後だけに、良寛の心はこれまで通りに強くはあり得なかつた。はる\〃/慕うて歸つて來た故國の土を踏みながらも、なほ且依然として果しない漂泊の旅を續けてゐるのだといふ風に思ひ諦めるべく、その場合良寛の心はあまりに弱くなつてゐた。
次から次へと追はれ\/て呆然として歩いてゐるうちに、良寛はふと家續きが杜切れて、五六本大きな松の木の立つてゐる空地の前を通りかゝつた。そして何といふことなしにフラ\/とその空地へ歩み入つて松の根に腰を下した。
良寛はそのまゝ暫くぼんやりとうなだれてゐたが、やがて靜に顔を上げた。その顔にはどことなく一味の安らかさが漂うてゐた。
「さうぢや、さうぢや。こんなことにへこたれてゐてどうなるものか。國仙禪師(ぜんし)の厚いお情にもあまえず、望めば得られる筈であつた安らかな寺院生活をも棄てゝ、生涯を雲水にまかせた托鉢行脚に終始しようと覺悟してあの懷しい玉島の圓通寺を去つたそも\/の始めから、たとへ樹下石上で夜を明すとも佛の恩、天地の惠を疑ふまいと誓つたわしではないか。肌をつんざくやうに寒い山颪の吹きすさぶ一夜を播州赤穗の天神の森で明した時はどうであつたか。その又翌日も宿貸す人がないまゝに唐津といふところの野中に草を敷いて寢た時はどうであつたか。いかに自分の生國だからといつて浮世の人情に違ひはない筈だ。それを違つた氣持で求めてかゝつた此の自分が間違つてゐたのだ。最初にわしの爪先からつゝいてゐた淋しい道は、今も同じく、永遠に續いてゐるのだ。今にして何でうろたく(*ママ)ことがあらう。むしろかうした折にこそ本當に人間の淋しさを身にしみて味はふべきではないか。そして、さればこそ一切を佛の前に天地の前に、投げ出した心の安らかさを有りがたく感ずべきではないか。」
良寛はやがて笠をぬぎ、背中の笈をおろした。笈の中にはかうした場合の用意に貰つたまゝ食はずに置いた黍餅が三切れあつた。それは三四日前に加賀路のとある農家で布施されたものであつた。彼は今夜はそれを食べて飢を凌ぎ、いかに寒くともこの松蔭で一夜を明さうと思ひ定めたのであつた。
良寛はその有がたい夕餉の布施に預る前に、例によつて笈を前に据ゑその中に安置してゐる佛躰を拜み靜に讀經をはじめた。初めはほんの默讀のつもりであつたが、いつとなしに自分の聲の高まつて行くのを覺えた。それと共に彼の心には一切を忘じ去つた安らかさのみがます\/快く感じられた。そして良寛のさうした姿を包んだ黄昏の色は、刻々に深く濃くなつてゆくのであつた。
二
あくる日も同じく風のない曇天であつた。北國の秋にはよくかうした天候の日がある。降るでもなく、霽れるでもなく、たゞ一面に灰色をした空が、上を蔽うてゐる。そして海も、陸も、あらゆるものがぢつと息を凝らしてめいり込んでゐる。かういふ日には人の心も、自然に沈靜になりがちであつた。
朝早く市振の村を出立した良寛も近頃にないしめやかな氣持になつてゐた。前夜はあの村中の空地の松蔭で野宿する覺悟をきめてその支度にまで取りかゝつたのであつたが、どうした因縁か思ひがけない供養によつて良寛は村端近いとある農家に泊めて貰つたのであつた。その家は老夫婦だけの貧しい家で、寢具なども滿足にはなかつたが、それでも良寛にとりては泣くほど嬉しい惠まれであつた。
良寛は市振の村を出はづれて、いよ\/親不知の難所にさしかゝらうとするところでも振り返つてかの老夫婦に蔭ながらの謝意を表した。しかし、その感謝はやがて人間そのものに對する感謝であるよりも、むしろ佛恩の廣大に對する感謝となつて良寛の心に一段の明るさを添へた。彼はそのやうな一時的の歡びによつて、直に人間そのものゝ美しさを讃するには、これまでにあまり多く人の世の醜さに惱まされて來たのであつた。
それにつけても、良寛は昨夜爐火にあたりながらかの情深い老夫婦から聞いた親不知の「ひとつ家」についての傳説を、今あらためてしみ\〃/とおもひ出さずにはゐられなかつた。その傳説といふのは、概略こんな話であつた。
—昔親不知の難所の斷崖の上に、そこを通行する旅人を殺し所持品を奪ふのを生業としてゐた怖ろしい山賊夫婦の住家があつた。或日の夕方、美しく着飾つた一人の若い女が、此の家の崖下の嶮道を通りかゝつた。それを家の中から見つけた山賊の親方が、矢庭に駈け出して行つて斬り殺した。そして所持品の一切を奪ひ取つた上で、死骸を海へ投げ込み、得意になつて家に歸つた。しかし、その夜、彼が奪ひ歸つた品物を彼の妻と共に祝盃を傾けながらしらべて見た時、突如として怖ろしい惡運が彼等を襲うた。殘忍な彼の手で殺された若い旅の女は實は彼等夫婦の間に生れた唯一人の愛兒であつた。それは彼女の所持品によつてあまりに明らかに證據立てられたのであつた。娘は程遠からぬ糸魚川の町へ遊女に出されてゐた。それはかはいゝ娘に自分達の殘忍な生業を見せたくないといふ、彼等夫婦の切ない念願からであつた。ところが丁度其日娘が身うけをしてくれるといふ客があつて、そのことを兩親に相談かた\〃/久しぶりでなつかしい吾家に歸つて來たのであつた。流石の鬼夫婦も、事こゝに至つては、何としてもそのまゝではゐられなかつた。これまで永い間犯して來た數限りない罪の怖ろしさが、始めて眞實に彼等の心に感じられた。恐怖…悔恨…懺悔…夫婦(*原文「失婦」)はその夜のうちに剃髪し姿を變へて諸國巡禮の旅に上つた。
こんな事が本當にあつたかどうかは良寛にはわからなかつたが、それにしてもその話は深く良寛の心を撲つた。どうすることも出來ない運命の不可思議をおもふと同時に、業の力の強さをも今更の如く深く感じないではゐられなかつた。どんな者でも業の力にはかなはない。人間はみんな自己の内にもつた業の力に動かされつゞける。其の鬼夫婦だとて、最初から鬼であつたのではない。運命に動かされ、業に負けてたうとうそこまで行つてしまつたのだ。時にはその人達だとて業に勝たうとして鬪つたこともあつたであらう。二人の間のかはいゝ娘に自分達の殘忍な生業を見せまいとして他所へ稼ぎに出したのも正しくそれだ。併しやつぱし業には勝てなかつた。そしてたうとう業の力に負けて了つた。けれども、業の力に負けるだけ負け、虐げられるだけ虐げられて惡運のどん底まで陷つてしまつた時、そこに始めて彼等にとりての救ひがあつた。一切を天地の前に、佛の前に投げ出す時が、始めて彼等の上に來た。
鬼夫婦の昔語りについてこんな風にさま\〃/感想に耽りながらも、良寛はいつとなしにそれを吾が身の上に引きくらべて考へずにはゐられなかつた。そして今自分の歩みが一足々々天下の嶮と稱せられる親不知の難所に近づいてゐることなどを、殆ど全く忘れてゐた。
しかし、道はます\/嶮しくなつて來た。道とはいつても、つくられた道などはなく、何百尺といふ高さの切立つたやうな斷崖の裾に沿うて浪打際を渡つて行くのであつた。しかも、その斷崖は苔すら生えてゐない巖壁で、浪に襲はれても攫まるべき何ものもなかつた。たゞ巖壁のところ\〃/に洞穴があつて、それが辛うじて自然の避難所をなしてゐるのみであつた。旅人達は身をさらはれぬやうに、浪の寄せて來るのを見てその洞穴にと走り込み、浪の引かうとする瞬間そこから全速力で駈け出して、次の洞穴へと逃げ込む。さうして次々に洞穴から洞穴へと走り\/して、辛うじてその難所を越すことが出來るのであつた。云はゞほんの浪の引く間の命に外ならなかつた。それでもその場で浪にさらはれて命を捨てる者は、少くなかつた。親も子もそこでは互に顧る遑もなかつた。
いよ\/その難所にさしかゝつた時には、良寛も急に自分の一歩々々に眞劍にならされた。その日は幸にさしたる浪もなかつたが、それでも時々高い浪が來ては岩を噛んだ。見渡すかぎり自分の他に一人の通行人の姿も見えなかつたのも、一層ものすごく感じさせた。流石の良寛もその場合は、たゞもう先へ行かうといふ一念の外に何の念慮も起らなかつた「金剛」「大くづれ」「長左エ門鼻」などいふ立札のあつたところを過ぎ、いくらか砂濱の廣くなつたかと思はれるところへ來て、始めて良寛は我に返つたやうな氣がした。そこには巖壁の洞穴に觀音の石像が安置してあつた。良寛は「これが昨夜聞いた波よけの觀音樣だな」と思つて拜んだ。
……
……
或漂海巨海
龍魚諸鬼難
念彼觀音力
波浪不能沒
……
……
かうした觀音經の偈までがおのづと良寛の唇を洩れずにゐなかつた。
拜み終つてあたりを見ると、すぐ前の崖から玉のやうな清水が流れてゐた。良寛は驅け寄つて、その冷たい清い水をむさぼり飮んだ。そして一層安らかな氣持になつて暫くそこの砂上に休むことにした。しかし、前途を見ると、まだ\/嶮難の道が果も知れず續いてゐた。
三
親不知の難所を辛うじて越してから外波の村で一休みし、次に歌といふ村では姿のよい松の生えた大きな巖を仰ぎ見る砂濱で一休みし、元氣を新たにして更に「駒返り」「子不知」とよばれるあたりの難所を過ぎた。道はそれからは安全であつた。陸上の眼界が急に開けて、青海、田海、須澤などよぶかなり大きな村もあつた。須澤を過ぎ姫川といふ瀬の速い大川の渡しを舟で越すと、もうそこは今夜の宿を求むべき糸魚川の町に接してゐた。姫川谷の眼界は、驚くほど廣く感じられた。南の空に高く聳えた山々には、もう雪が來てゐた。「いよ\/雪の國に來た!」といふ懷しさと、さびしさとが、急にしみ\〃/と感じられた。
糸魚川は小藩ではあるが城下であつた。そこでは同じ神主仲間といふところから、うす\/自分の生家と相識の間であつた或る社家に泊めて貰ふことにきめてゐた。訪ねて行くと、快く泊めてくれた。良寛は本當に久しぶりで親しみのある一夜を送ることが出來た。
しかし、良寛はその夜はひどく疲れてゐた上に、どこといふわけもないが何となく體の氣分がすぐれなかつた。そんなわけで夕食もろく\/食べずに、日が暮れるとすぐに寢せて貰つた。疲れ切つてゐた爲か枕につくとすぐ眠つた。
しかし、夜半頃とおもはれる時分に目が覺めると、すつかりもう目が冴えてしまつた。その上、不快な惡寒を全身におぼえ、輕い頭痛さへも感じられた。部屋の中は行燈の光がほの暗かつた。外はいつの間にか大地にしみとほるやうな雨になつてゐた。良寛は體の不快な氣分や病氣に對する不安がありながらも、不思議な心のしめやかさを覺えた。何となく始めて本當に自分の生れた國に歸つて來たのだといふやうに感じられ、いつとなしに眼から涙が滲み出さへするのであつた。そして行く先の郷里のことが何かとおもひやられると共に、過去の永い間の自分の生活の姿も今更の如く顧られるのであつた。
「あれから、かれこれ、もう十年になる!」
と良寛は呟いた。
「あれから」といふのは備中玉島圓通寺の國仙禪師の示寂に遭うて、その寺を出てからの事であつた。その土地第一の舊家であり名門である家に長男として生れ、名主見習役といふ名譽ある地位を得た上に、十八歳といふ人生の最も樂しかるべき年頃でありながら、突如として彼が剃髪入道せずにゐられなかつたのには、實にさま\〃/な複雜した事情と測り知るべからざる深い心の惱みとがあつた。それにしても彼が二十二歳の時に、偶ま彼のゐた出雲崎の光照寺へ國仙禪師のやうな大徳が錫を留めることになつた上に、多くの小僧の中から彼を見出し拾ひ上げてくれるやうになつたことは彼にとりては何といふ幸運であつたらう。しかし、求道の上での彼のさうした幸運っも一方から考へれば彼にとりては果しない雲水の旅への出立であつた。彼を生み彼を育てゝくれた郷土の自然と、彼を愛しはぐくんでくれた人々への、それは永久の別離のやうに彼には感じられたのであつた。
しかし、備中の玉島で國仙禪師教化下に於ける脩行の十年間は、どちらかといへば良寛にとりてはこれまでにない最も安らかな歳月であつた。故郷遠く離れた土地とて、「門前千家の邑」はありながらも、誰一人識る人とてはなく、垢づいた法衣さへ自分の手で洗ふより外なかつた。さうした淋しさや頼りなさはありながらも、心は極めて安易であつた。それは一切を打ちまかせて導いて貰へる大徳の師があつたからだ。托鉢に出て時には泥棒と間違へられて生埋めにされようとしたりしたほどの世間のつらさも味はないではなかつたが、寺に戻ればそこには常に慈顔あたゝかな師があつた。此の禪師の教化に浴してゐさへすれば如何なる苦難と雖も自分の靈を傷けることは出來まいといふほどの安心さへ、いつとなしに心の底に出來てゐた。脩行の上での肉體の苦しさはあるにしても、心の辿りは坦々たる大道を慈父に手をとられて歩むといつたやうななだらかさであつた。
しかし、こんな風に順調な進み方で良寛が歩一歩無爲の安住境へと心の辿りを進めつゝあつた間に、新たなる現世の悲痛が突如として彼の心胸を撲つた。それは第一に國許からの母の訃報であつた。長男と生れた自分がこのやうに出離の身となるまでの生活の變轉が與へた母の心勞、更に自分が世を捨て旅に出てから今日までの永い間の母の悲しみや淋しさ—それやこれやを思うと、良寛の心は再び現世恩愛の渦中に捲き込まれずにはゐなかつた。而もさうした境遇にゐた肉親の母に何一つ歡びといふものを捧げずにゐた間に、その人はもう此の世の人でなくなつてしまつた。そのことを思ふと、良寛は今更らのやうに自分の安易な獨善的な無爲生活が、怖ろしく感じられ出した。
そればかりでなく、良寛は更に母の死が父不在中の出來事であるといふ情報によつて、一層深く胸をゑぐられるのを感じた。良寛が國仙禪師に隨行して郷里を出ることになつた當時既に父は旅に出てゐた。それから七年になるのに、父はまだ歸つてゐないのであつた。そのことが母の死をどれほど悲痛であらしめたかを思ふと、良寛はたまらなかつた。社會の不正や民心の頽廢に對する父の憤懣も苦悶も、またそれから逃れようとして俳諧の一路に趣味の生活に一切を投げ込まうとしてゐる父の心持も、良寛にはよく解つてゐた。しかし、一方に母の孤獨な死のやうな悲痛な事實を、見せつけられると、良寛の心は迷はずにはゐられなかつた。
更にそれだけではなく、母の訃報と共に郷國に於ける飢饉の慘状や、郷里出雲崎に於ける米騷動の勃發などの事も何かと報じられたのであつた。良寛の心は一層暗くなつた。代々名主役として重きをなして來た自分の生家の責任の如何に重大であるかは無論良寛にもいやなほど解つて居た。その間に處して苦しみ(*原文「苦み」)ぬいた父のいたましい姿もあまりにまざ\/と彼の眼前に描き出されるのであつた。而も其の家の後繼者たるべき自分はといへばこんな風に現世生活の苦悶に敗けて、かうした境界に遁れてしまつてゐる。「これでいゝのか、このまゝでいゝのか、」という鋭い自責が、良寛の心内に於けるこれまでの永い間の脩行の結果を根本から打碎いてしまひさうにまで、胸を掻き亂した。
徒らに師の權威に縋つたりあまへたりしてゐる現在の安易な脩行、ともすれば無行亦無悟偏に檀越の施を徒費して而も獨自ら高しとするが如き寺院生活の名利を求めようとする所謂釋氏生活に對する疑問が、始めて良寛の心の底から湧き起つて來た。自分の現在の獨善的な無爲生活の危險に對しても、彼は始めて慄然とした。暫く忘れてゐた「何故に自分は出家したか」の反省が再び良寛の心を脅かした。
良寛の脩行は再び出家當初の眞劍味を取かへした。無爲の安易さの代りに、精進の苦しみがふたゝび彼の上に來た。眞劍になればなるほど苦しく、求めれば求めるほど彼は迷つた。
四
しかし、彼にとりて最後の救ひがたうとうやつて來た。それは彼の師國仙和尚の死であつた。今迄のながい年月の間、唯一の精進のたよりとして來た恩師の死—それが何故彼にとりて救ひとなつたか。
それは彼自身にはわからなかつた。又強ひてその何故なるかを考へようとすることは、彼にとりては寧ろ厭はしかつた。しかも彼は一方に腸を斷たれるやうな悲痛はありながらも、恩師國仙和尚の遷化(*原文ルビ「へんくわ」。=せんげ)は、彼にこれまでに知らなかつた廣大なる天地の展開を感じさせた。
恩師の死と共に、彼は寺を捨てた。一切の求めを棄てた。彼は無限の天地の中にただ一人立つた。大自然の前に彼は一切を投げ出した。彼は始めて本當の雲水の自由と意義とを自覺した。彼は始めて悠々として大空を行く白雲の心を得た。
彼は飄然としてあてもない雲水の旅に出た。文字通りに無一物の境界を持して、彼は足の向ふまゝに、四國、九州、中國、畿内の各地を飄々としてさまようた。
その漂泊の旅の間に、彼は世にもいたましい父以南の訃に接した。心の奧深く勤王の大志を抱き、懷中深く天眞録と題する勤王の意見書を抱いて、俳諧行脚の名の下にはる\〃/京師に上つたと聞及んでゐた父は、間もなく京の桂川に身を投じて非業の最後(*ママ)をとげたのであつた。
そのことを始めて聞き知つた時、彼は如何に驚いたか。いかに悲んだか。いかに苦しんだか(*原文ルビ「苦んだか」)。
「あゝ、しかし往時茫々として凡て一場の夢の如しだ!」
いかにも今の良寛にとりては、過去の凡てはたゞ夢の如くであつた。さま\〃/な憶ひ出が次から次へと浮びつ消えつしながらも、凡ては壁上を照らすほのかな行燈の光の如くであつた。
良寛はやがて靜かに身を起して、寢床の上に端座した。そして枕許に置いてあつた笈を開いて、中から香爐を取り出し、一抹の香を焚いて靜に合掌した。
外では雨は依然として降りつゞいてゐたが、夜は次第に明け近くなつてゐた。
五
翌朝朝餉の供養を受けてゐると、そこへ家の主人が挨拶に出て來て、
「いかゞでござります。昨夜はさぞお疲でござりましたらうが、よくおやすみになれましたか。」とたづねた。
「ハイ、おかげで久しぶりによく休ませていたゞきましたわい。」と良寛は答へた。しかし、そのあとからすぐに彼は、
「ホイ、またわしは嘘をついた」と心の中で自分を笑つた。
「失禮でござりますが、和尚樣のお年は?」と主人はたづねた。
良寛は笑つて、
「さやう、いくつ位に見えますかの?」と問ひ返した。
「さうでござりますの。五十を二つ三つもとられましたかの?」と主人はきまりわるさうに答へた。
「まあ、そんなものでござりませうかの。」と良寛は答へた。
彼は今更年齡などはどうでもよいといふ氣になつてはゐたものゝ、實際よりは十二三も上に見られるほどにふけてゐる自分を何となくあはれにも思つた。
「和尚樣はお國を出られてから今が初めての御歸國でござりますかの。それとも二三年に一度ぐらゐづつはお歸りでございましたか。何しろ昨夜のお話ではこの海道は初めてお通りだといふことでござりましたの。」主人は話好きと見えて、つぎ\/いろんなことをたづねるのであつた。
良寛は何となく面倒臭いといふ感じがした。それに何かといふと「和尚樣、和尚樣」と尊稱されるのはこそばゆい氣がした。しかし、答へぬわけにも行かないので、彼は簡單に云つてのけた。
「國へ歸るのは二十年の間にこれが初めてで(*原文「で」無し。)ござります。」
すると主人は重ねて云つた。
「お出家のお身でもやつぱり生國はおなつかしいものと見えますの。」
これには良寛もぎくつとした。そして口先ではいかにも無造作に、
「さうでござりますて。ハハハハ……」
と笑つてのけはしたものゝ、心の内では何となくすまなかつた。あたゝかな味噌汁を啜りながらも、良寛はその事に氣をとられずにはゐられなかつた。
「ほんにわしは何しに歸つて來たのだらう。旅から旅へ一所不住の一生を送らして貰はうと佛の前にお頼み申しつゞけて來た身でありながら、やつぱり生れ故郷が戀しうてやつて來たのだらうか。生みの親さへもうゐない今のわしに、生れ故郷のどこが一體わしの心を引きつけたのだらうか。そればかりか、わしはいつ何處で國へ歸らうといふ考を定めたとも思はない。それだのにどうしてこんな風にこゝまでやつて來たのだらう。」
良寛が急に何か物思ひに沈んだらしい樣子を見てとつて、宿の主人は給仕の下男を殘してその場を退いた。
良寛はひどく濟まないやうに感じて、急いで食事をすませた。
雨はまだ止まなかつた。庭に降りそゝぐ雨の音を聽くと、良寛は何となく立ちにくい感じがした。肉體の上にも單純な疲勞の爲ばかりでない重苦しさが感じられた。
良寛と蕩兒
時
文化五年前後 晩春
人物
良寛和尚 (五十歳頃)
山本由之 (良寛の弟、四十五六歳、名主役)
やす子 (由之の妻、四十歳前後)
馬之助 (由之の長男、二十歳前後、名主見習役)
權六 (由之の下男、三十歳前後)
三太 (野口家の下男、二十五六歳)
場所
越後國 出雲崎
第一場 橘屋の離座敷
海に臨んで建てられた良寛の生家出雲崎橘屋の離座敷、中二階とも云ひたい程に高い椽。
前は庭。上手は廊下によつて母屋に通ずる。下手は壁、壁に接するほどに衣桁が置かれ、衣桁にはKい麻の衣、袈裟、頭陀袋などが懸けられてゐる。正面の下手にはさゝやかな床の間。上手は欄干のある肱掛窓、障子の明け放たれた窓からは、夕映の色うつくしい靜かな海と、海のあなたに朧に霞んだ佐渡の島山が見えてゐる。
法衣を脱いだ良寛和尚と、その弟の由之とが、そこで對酌してゐる。二人とも胡座をかいてゐる。二人ともかなりに醉が廻つてゐる樣子。
由之。
(銚子を取り上げて)まあ、も少しおあがんなすて。
良寛。
(盃を差出しながら)いやもう大分廻つたやうだ。えゝ加減にしてごぜんにして貰ひませう。
由之。
なあに、まだ何ばかもあがつとりませんして。まあ、ゆつくりとあがつておくんなさい。何しろかうしてお前さまと二人で酒を飮むなんてことは、久しぶりのこんだでのう。
良寛。
ほんに、久しぶりのこんだ、久しぶりといへば、かうした生きのえゝ肴を食べさせて貰ふのも隨分と久しぶりだ。やつぱりこゝの魚は格別だて。わしはさかなが食ひたうなるとは、こゝを思ひ出すでのう。
由之。
(笑ひながら)その外の時は忘れてゐなさるといふわけかの。
良寛。
(笑ひ\/頭を撫でながら)いやさういふわけではないがの。アハハハハハ。
由之。
アハハハハ。
良寛。
ところでの。わしがこのやうに魚も食へば酒を飮むのを、えらい見幕でけなしつける手合もたまにはあるといふもんだ。
緒言
目次
(中綴書簡)
【創作】
越後に歸る良寛
良寛と蕩兒
五合庵の秋
【研究・随筆】
良寛和尚を生んだ家
良寛さまと小判
良寛雜考
五合庵の開基僧萬元とその歌
【附録】
山つと
八重菊日記