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天草本平家物語 卷四 (1)

新村出 序並閲、龜井高孝 飜字
『天草本平家物語』(岩波書店 1927.6.28)

※ 〔マヽ〕 原注。/文意によって表記を改めたところがある。
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平家卷第四


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平家物語

くわん第四

[目次]

第一 頼朝、木曾が惡行をきいてそれを鎭むるために、代官としておとゝの範頼と義經を上いてそれを鎭めうとせらるゝをきいて、木曾、平家と一味をせうと使を立てたれども、平家同心せられなんだ事。

右馬之允。 頼朝木曾がそのやうな狼藉をきいて鎭めうともせられなんだか?
。 なか\/、頼朝この狼藉をきいてしづめうずるために、弟の範頼義經をさし上せられたが、既に法住寺殿をも燒拂ひまらして、天下を暗闇にないたと聞えたれば、「左右なう上つて軍をせうやうもない。まづこれから關東へ仔細を申さうずる。」というて、尾張國の熱田にゐらるゝ内に、此の事を訴へうずるというて、京から公朝きんとも時成といふ者が馳せ下つて、義經へこの由を告げたれば、即ち公朝を關東へ下された。「仔細を知らぬ使は歸り問はれう時に、不審が殘らうず。」というて、公朝鎌倉へ走り下つて、今度木曾が狼藉の樣態、事、根源、一々次第に申したれば、頼朝膽を消して、「まづ鼓判官がふしぎな事をしだいて御所をもやかせ、れき\/の人々をも殺させたことが遺恨な。判官においては勅勘なさせられいでかなはぬ。尚召使はるゝならば重ねて大事が出來しゆつたい仕らうず。」と、早馬を以て申し上せられたれば、鼓判官これを陳ぜうずるために、夜を晝にして關東へ馳せ下つたれども、頼朝、「彼奴きやつに目な見せそ。會釋なしそ。」といはれたれども、日毎に頼朝の館へ向うたが、遂に面目なう歸り上つて、後には片田舍へ引込うで命ばかりを生きてゐまらした。
さうして木曾は、「此の分ではなるまい。」と思うたによつて、平家の方へ使者を立てて、「都へ上らせられい。一つに組んで關東へ攻め下つて、頼朝を伐たうずる。」と申したれば、平家の大將宗盛は大きに喜ばれたれども、時忠卿ぢやは、知盛ぢやは、などゝいふ一門の衆は、一向これを受附けられなんだ。仔細は、「世は末になつたといへども、木曾づれに語らはれて御入洛ごじゆらくあらう事は然るべうもない。『帝王のござる事ぢやほどに、只兜をぬぎ、弓弦をはづいて降人になつて、これへ參れ。』とは仰せ遣はされい。」と云はれたによつて、その分に云ひやられたれども、これをば木曾も亦許容せなんだ。さうある所で、松殿と申す公卿くげがござつたが、木曾を呼うで、「平家の清盛入道は、さばかりの惡行の人であつたれども、それに埋合はする善根ぜんごんをせらるれば、又世をも穩かに二十餘年治められた。惡行ばかりで世をつ事は大唐たいたうにも日本につぽんにもその例がない。させることもないに、あまたの公卿達の官、位をやめた事などは、沙汰の限ぢやほどに、これらを皆前々ぜん\〃/の如くにしたらばよからうずる。」といはれたれば、まことの荒夷なれども、松殿に導かれて、押籠おいこめた人々の官どもをも皆ゆるいて、もと\/のやうに成しまらし、法皇も五條の内裏を出させられて、大膳の大夫だいぶといふ者が宿所に御自由にござつて、思ひ\/に人をも位に上げさせられ、まづはや思召すまゝになる心であつた。其の時天下の態は大方三つに別れたやうなものでござつた。平家は西國さいこくにゐられ、頼朝は關東にあれば、木曾は京に居ていろ\/の事をする。それによつて、諸國の道が皆亂れて面々の知行なども確かにもこず、京中の人々も、只少水の魚に異ならぬものでござつた。

[目次]

第二 範頼、義經、木曾が討手に上らるゝ事、同じく梶原には磨墨、佐々木には生食といふ馬を下された事、並にかれら宇治川の先陣を爭うた事。

右馬。 お草臥くたびれあらうずれども、今宵もなほ先きをお語りあれ。
。 畏まつた。壽永三年ぐわち一日ひとイの事でござるに、の御所は、大膳の大夫が宿所、西の洞院であつたれば、御所の態もしかるべからん所で、禮儀を行はれうずる事でなければ、よろづまつりごともなう、ものさびしい態でござつた。平家は讃岐國八島の磯に送り迎へて、年の始なれども、元日元ざんの儀も事宜しからず。「先帝のござれば、主上と仰ぎ奉れども、萬の禮儀、節會も行はれず、世は亂れたれども、さすが都ではこれほどまではなかつたものを。」と哀れな態でござつた。春も來、浦吹く風もうららに、日影ものどかになりゆけども、平家はたゞいつとなう氷にとぢられた心地して、寒苦鳥に異ならぬ樣態どもで、古へ都において月花を見、詩歌管絃を爲いていろ\/さま\〃/に遊び戲れられた事どもを思出いて、語りなどして永い日を暮しかねられた有樣は誠に哀れにござつたと聞えてござる。
ぐわち十七日にの御所から木曾を召して、平家追罰のために、西國へ發向仕れと仰せ下されたれば、木曾畏まつて承り罷出で、やがて其の日西國への首途をすると聞えたほどに、東國から既に數萬騎の討手が上ると聞えたれば、木曾西國へは向はいで、宇治・瀬田、兩ばうへつはもの共をわけてやるほどに、木曾初めは五萬餘騎と聞えたが、皆北國へ落ち下つて、僅に殘つたつはもの共、叔父の行家が河内の長野のじやうに籠つたを討たうとて、樋口の二郎六百餘騎で、けさ河内へ下り、殘る勢兼平七百餘騎で瀬田へ向ふ。仁科高梨山田の次郎五百餘騎で、宇治はしへ向ふ。志田の三郎は三百餘騎で芋洗を防いだと申す。その頃、鎌倉殿生食いけずき磨墨するすみと申して、聞えた名馬がござつた。生食を範頼以下いげの人々參つて申されたれども、叶はず。梶原平三景時參つて、「生食を下されて、今度子にてござる源太に宇治川を渡らせまらせうずる。」と申したれば、鎌倉殿、「生食は自然の事あらうずる時、頼朝物の具して乘らうずる馬ぢや。磨墨をとらするぞ。」と仰せられて下された。その後佐々木の四郎が參つて、上洛しやうらく仕らうずる由を申す所で、鎌倉殿出で會はせられ、御對面あつて、「和殿の父ひでよし故左馬頭殿に附き奉つて、保元・平治兩度の合戰に忠節をつくいた。中にも平治の合戰の時、六條河原で命を惜まず振舞うた、その奉公を思へば、和殿までも疎かに思はぬ。申す者共があつたれども、とらせぬぞ。これに乘つて宇治川の先きをせい。」とあつて、生食を佐々木に下された。
佐々木の四郎この御馬を賜はつて、御前をまかり立つとてあまりの嬉しさに打涙ぐんで申したは、「身は恩のために仕へ、めいは義によつて輕しと申す事がござる。この御馬を賜はりながら、宇治川の先きを人々にせられてござるものならば、軍に會ふ事もござるまい。再び鎌倉へ向つても參るまじい。軍には仔細なう會うたと聞召されたならば宇治川の先きに於いては仕りつらうと思召されい。」と申して出たところで、參り會はれた大名小名、これをきいて「荒涼くわうりやうの申しやうかな。」と囁き合はれたと申す。
さておの\/鎌倉をたつて都へ上るに、駿河國の浮島が原で、梶原源太高い所に打上つてしばしひかへて多くの馬を見るに、幾千ばんといふ數を知らず。思ひ\/の鞍置き、色々のしりがいかけて、或はもろくち(*馬の手綱を二人で引くこと)に引かせ、或はのりくち(*鐙のところで差し縄を取ること)に引かせ、引きとほし引きとほしした中にも、梶原源太が磨墨に勝れた馬こそなけれと嬉しう思うて、しづかに歩ませ行く所に、生食とおぼしい馬が來た。金覆輪の鞍置いて、小房の鞦かけ、白沫しらあはかませて、さばかりひろい浮島が原をせばしと躍らせ引いてくるによつて、生食かと思ひ打寄つて見れば、まことに生食である程に、舍人(*馬の口取り)にあうて「それは誰が御馬ぞ。」といへば、「佐々木殿のお馬でござる。」と申す。「佐々木三郎殿か? 四郎殿か?」「四郎殿。」と申す。「四郎殿はお通りあつたか? さがつておぢやるか?」「下らせられてござる。」と答ゆる。その時梶原、「口惜しうも鎌倉殿は同じやうに召使はれた侍を、佐々木梶原を思召し代へられたものかな! 日頃は木曾殿に聞ゆる兼平樋口とかやに組んで死ぬるか? さなくは平家に組んで死なうとこそ思うたれども、それも今は詮ない。こゝで佐々木を待ちかけ、引組んで落ち、刺違へ、鎌倉殿に損とらせ奉らうずるものを。」と思切つて、まつ所に、佐々木の四郎何心もなう歩ませくる。押並べて組まうか、向うさまに當て落さうか、などと思ひ煩ふが、さりとも一げん問うて組まうと思ひ、「いかに佐々木殿御邊ごへんは生食を賜はられたなう。」と言葉をかくる所で、佐々木、「まことや、この人も所望仕られた由、内々きいたものを。」と、きつと思出いて、ちつとも騷がず、打笑うて、「やとの、賜はらぬぞよ。宇治川渡さうずる馬はもたず、御秘藏ごひさうの御馬なれば、申すともよも下されじ。何か苦しからうぞ? 盜まう、と思うて窺つたほどに、既にあかつき立たうとての夜、便宜びんぎようて盜みすまいて上るぞよ。」というたれば、梶原この言葉に腹がいて、「ねつたう、さらば梶原も盜まう事であつたものを。」と、どつと笑うてのいたと申す。生食はK栗毛な馬の、馬をも人をもあまりくらうたれば、生食とつけられた、八寸の馬と聞えてござる。磨墨も大きに逞ましいが、誠にKかつたれば、磨墨と申した。いづれも劣らぬ名馬でござつた。
さて尾張國から大手搦手の軍兵を二手に分けて、搦手は伊勢國へまはる。大手は美濃國にかゝる。大手の大將軍は範頼、相從ふ人々、武田たけたの太郎加賀見の二郎、其の外都合その勢三萬五千餘りで近江國の野路篠原しのわらにつく。搦手の大將には義經出會いであ(*向かう)、從ふ人々には畠山の庄司梶原源太佐々木の四郎、そのほか都合其の勢二萬五千餘りで伊賀國を經て田原路を打越えて、宇治川のはた、結ぶの明神の御前を打過ぎて山吹ぜ(*ママ)へ向うた。宇治も瀬田もともに橋を引いて、宇治川の向ひの岸には掻楯かいだて(*楯を並べて障壁とすること)をかいて、水の底には大綱を張り、逆茂木をつないで流しかけた。頃は正月二十日あまりの事なれば、山々の雪も消え、谷々の氷も解合とけやうて、水嵩はるかにまさつて、白浪おびたゝしう、瀬枕大きに瀧鳴つて、逆卷く水も早かつた。
夜は既にほの\〃/とあけゆけども、河霧深う立ち罩めて、馬の毛も、鎧の毛もさだかに見えず。つはもの共河に打向うて、いかゞせうずるぞと控へた所へ、畠山の庄司進み出て申したは、「此の河の面を見るに、馬の足の及ぶまい所三段には過ぎまい。近江の湖から流れる河なれば、待つとも\/水は干まい。此の河の定めはかねて鎌倉殿のお前で、さしも御沙汰のあつた事で、今始めた事ならばこそ、治承の合戰の時、足利の又太郎が渡いたは神か佛か物がましい。畠山が瀬踏仕らう。武藏國の殿ばら續けや。」というて、丹の黨を初めとして五百餘騎くつばみをならぶる所に、平等院の丑寅、橘が小島から武者が二騎引つかけ\/出てくるを見れば、梶原源太佐々木四郎ぢや。人目には見えねども、内々先きを爭ふともがらなれば、眞先きに二騎つれて出た。佐々木梶原一段いつたん(*六間)ばかり馳せ進むが、佐々木河の先きをせられまいとてか、「梶原殿、この河はかみへも下へも早うて馬の足利き少ない。腹帶はるびの延びて見ゆるは。締めさせられい。」といはれて、梶原實と思うたか、突立つつたち上つて左右さうの鐙ふみすかいて、手綱を馬のかうがみ(*ママ)にすてゝ、腹帶を解いてしむる間に、佐々木つゝと馳せぬけて河へざつと打入れたれば、梶原これを見て、たばかられまいものをというて、やがて同じやうに打入れた。「水の底には大綱を張らうぞ。馬乘りかけて押流されて不覺すな、佐々木殿。」というて渡いたが、河のなかまではいづれも劣らなだれども(*ママ)、何としたか梶原が馬はのためがた(*箆撓め型。斜め。)に押流され、佐々木は河の案内者、その上生食といふ世一よいちの馬には乘つつ、大綱どもの馬の足にかゝるをば、佩いた面影といふ太刀をぬいてはつ\/と打切り\/、宇治川疾しといへども、一文字にざつと渡いて思ふ所へ打上つて、鐙をふんばり突立ち上つて、「佐々木の四郎、宇治川の先陣ぞ。」と名のつてをめいてかゝれば、梶原は遙かの下より打上ぐる。畠山五百餘騎で打入れて渡す。向ひの岸から、仁科高梨などさしとり引きつめさん\〃/に射るに、畠山馬の額をぶかに射させて、馬をば河のなかより流いて弓杖ついて下りたつに、岩浪おびたゝしう兜の手先きにおしかゝれども、事ともせず、向ひの岸に渡りついて上らうとする所に、後ろに者がひかへた。振返つてみたれば、鎧武者が取附いたが、畠山の鳥帽子子に、大串の二郎といふ者であつた。誰そといへば、「大串。」と名のる。「かゝる事こそござれ。馬は弱つつ、押流され、詮方なさに取附きまらする。」と申せば、「いつも和殿原はにこそ助けられうずれ。過ちすな。」と云ひさまに、さしこえて、むずと掴うで、岸の上へ投げ上げたれば、投げられながら起き直つて、「武藏國の住人に大串の二郎、宇治川徒歩だちの先陣。」と名乘つたれば、敵も味方も一度にどつと笑うたと申す。
義經を初め奉つて、二萬五千餘騎、打入れ\/渡いたれば、馬、人にせかれてさ計り早い宇治川の下はせききつて淺うなつて、雜人ども馬の下手したでに取附き\/渡いた。佐々木の三郎梶原平次澁谷これ三人は馬を捨てゝ、げゞ(*芥下。藁草履)をはき、弓杖ついて橋の行桁を渡れば畠山乘換のりがへにのつて打上る。魚綾ぎよりやうの直垂に緋縅の鎧きて、連錢れんぜん蘆毛な馬に金覆輪の鞍おいて乘つた敵が眞先きに進んで、「木曾殿の家の子に長瀬の判官。」と名乘つたを、畠山まづ軍神いくさがみに血祭せうというてかけならべ、むずと取つて引落し、首ねぢきつて本田が鞍のしほで(*四方手。むながいと鞦をそれぞれ留める紐。)につけさせた。これを初めとして、木曾殿の方から宇治橋を固めた勢ども、暫しさゝへて防げども、東國の大勢がみな渡いて攻むれば、さん\〃/にかけなされ、木幡こワた山・伏見を指いて落ちゆく。瀬田をば稻毛の三郎はかりことで、供御ぐごの瀬を渡いて、軍がやぶれたれば、鎌倉殿へ飛脚を以て合戰の次第を注進申されたに、鎌倉殿のまづ御使に、「佐々木はなんと。」と尋ねさせられたれば、「宇治川の眞先き。」と申す。日記を披いて御覽ぜらるゝにも、「宇治川の先陣佐々木の四郎、二陣梶原源太。」と書かれてござつた。

[目次]

第三 義經つはもの共に敵をば防がせて、その身は院の御所へ參つて、御所を守護せられた事。

右馬。 なほ末をもつゞけてお語りあれ。
。 さう致いて木曾は宇治・瀬田も破れたときけば、最後の暇申さうずるとて、百騎計りでの御所へ馳せ參る。「あはや木曾が參るぞ。何たる惡行をか仕らうずらう。」とあつて、も臣も恐れをのゝかるゝ所に、東國のつはもの共七條河原まで討入つた由告げたれば、木曾門の前から取つてかへせば、御所にはやがて門をたてた。木曾は最愛の女に名殘を惜まうとて、或家に打入つて暫しは出もやられなんだを、家光といふものこれを見て、「あれほどに敵の攻め近づいてござるに、こゝでは犬死をさせられうず。急いでさせられい。」と申したれども、尚も出あらなんだれば、家光「此の世は今はかうぢや。さござらば家光まづ先立ちまらする。」と云ひ樣に、刀をぬいて鎧の上帶うはおびをきつておしのけ、腹を切つて死んだ。
木曾殿はこれを見て、「これはを勸むる自害にこそ。」とあつて、やがて打出られたに、廣澄などといふ者を初めとして百五十騎にはすぎなんだ。六條河原へ打出たれば、東國の武士と覺しうて三十騎ばかり來る。その中に二騎進んでみえた。一騎は鹽谷えんや、一騎は勅使河原ちよくしがはらといふものであつた。鹽谷が申したは、「後陣の勢をまたうか?」勅使河原が申すは、「一陣破れぬれば、殘黨全からず。只寄せよ。」というて、をめいてかけ、われ先きにと亂れ入れば、あとからは後陣がつゞいてあつた。木曾これをみて、今を最後のことであれば、百四五十騎くつばみを並べて、大勢のなかに駈け入らるれば、東國のつはものども、木曾殿を討取れと、面々にはやりうて兩ばう火のる程戰うた。
義經はつはもの共に矢表を防がせ、「義經の御所の覺束ないに守護し奉らうずる。」とて、六條殿へ馳せ參らるれば、大膳の大夫だいぶ六條殿の東の築垣ついかきに上つて、わなゝくわなゝく世間を窺ひみる所に、東の方から武者が五六騎のけかぶと(*仰け兜。緒が緩み、兜が後ろに傾いていること。)に戰ひなつて、いむけの袖(*射向けの袖。鎧の左袖。)吹き靡かせ、白旗ざつと差上げ馳せ參るによつて、「あはや木曾が參るは。此の度ぞ世は失せ終らう。」と申したれば、法皇を初め奉つて、公卿・殿上人ことに騷がせられた。大膳の大夫よく\/見て申したは、「笠印がかはつて見えまらする。木曾ではござない。今日こんにち討入つた東國の武士とおぼしい。」と申しも終らねば(*逆接確定条件)義經門の前に馳せ寄つて、馬より飛んでくだり、「鎌倉左兵衞佐頼朝が舍弟義經が參つてござると、奏問せられい。」と申したれば、大膳の大夫あまりの嬉しさに築垣から急ぎ飛んで下る程に、落ちて腰を突き損なうたれども、嬉しさにまぎれておぼえず、はふ\/參つて奏したれば、やがて門を開いて入れられた。
大將軍とともに武士は六人であつた。義經は赤地の錦の直垂に紫裳濃すさご(*ママ)の鎧を着、塗籠籐の弓の鳥打(*弓の上側の屈曲部)を紙のひろさ一寸計りにきつて、左卷きにまかれた。これが今日の大將軍のしるしと見えた。殘る五人は鎧は色々に見えたれども、面魂、骨柄いづれも劣らなんだ。
法皇中門の櫺子れんじから叡覽あつて、「由々しげな武士どもかな! 皆名のれ。」と仰せられたれば、まづ大將軍義經を初めとして、次第々々に皆名のつて、庭上ていしやうに畏まつてゐられたに、大膳の大夫は大床にあつて合戰の次第を尋ねらるゝ所で、義經申されたは、「木曾が惡行の事は頼朝承つて、大きに驚いて、範頼義經二人の舍弟を參らせてござる。兄にてござる範頼は瀬田から參るが、まだ見えまらせぬ。義經は宇治の手を追ひ落いて、まづ御所の覺束なさに馳せ參つてござる。木曾は河原を上りに落ち行いてござるをつはもの共に追ひ駈けさせてござる。今は定めて討取りまらせうずる。」と事もなげに申されたれば、法皇なのめならず御感あつて、「木曾が惡黨なんどなほ參つて狼藉を仕らうず。義經はゐてこの御所をよく\/守護し奉れ。」と仰せ下されたれば、畏まつて承り、門々を固め奉る所に、程もなう一二千騎參つて、の御所を四面に打圍うで守護し奉れば、人々も心靜かに、も御安堵のおん心地をさせられた。

[目次]

第四 木曾兼平に行合うて、三百餘騎になつて、又合戰をし、遂に木曾も、兼平も討死せられた事。

右馬。 して木曾は何となつたぞ?
。 木曾は若しもの事があらば、を取り奉つて、西國の方へ御幸をなし奉つて、平家と一つにならうとて、力者(*力者法師)を二十人餘り用意しておいたれども、の御所には、義經の參つて、守護し奉るときいたれば、力に及ばぬというて、數萬騎の大勢の中へ驅け入り\/既に討たれうとする事が度々に及うだれば、驅け破り\/通つたが、「このやうにあらうと知つたらば、兼平を瀬田へやるまじいものを。幼少から死なば一所で何ともならう、と契つたに、所々しよ\/で死なう事が本意ない。兼平が行方を見うずる。」とて、河原を上りにかけてゆくに、大勢追ひかくれば、取つてかへし\/六條河原と三條河原の間で無勢ぶせいなれども多勢を五六度まで追ひかへいて、加茂川をざつと打渡いて、粟田口松坂にかゝつた。
去年信濃をでた時には五萬餘騎と聞えたれども、今日は四の宮河原を過ぐるには、主從七騎になつたれば、まして中有の旅の空思ひやられてあはれな。七騎の内にといふ女武者があつたが、その頃齡は二十二三で、太刀には強う、弓には精兵せいびやう、屈竟の荒馬のりの惡所落しで、軍といへば、さねのよい鎧をきて大太刀に強弓をもつて、一方の大將に差向けられたに、度々の功名肩を竝ぶるものもなかつた。木曾は長坂をへて、丹波路へ赴くといふ人もあり、又は北國へとも聞えたれども、兼平が行方のおぼつかなさに、瀬田の方へ落ち行かるれば、兼平も主のゆくへのゆかしさに、旗引卷ひんまいて五十騎計りで都へ取つて返すほどに、大津打出の濱で木曾殿に逢ひ奉るが、一町ばかりから互にそれと目をかけて、馬を早めて寄せ合せ、木曾殿兼平が馬に打竝べて、兼平が手を取つて、「いかに兼平木曾は今日六條河原でいかにもならうずる事であつたれども、幼少から一所でいかにもならうと契つた事が思はれて、甲斐ない命をのがれ、これまで來たぞ。」とあれば、「誠にその分でござる。兼平も瀬田でいかにもなりまらせうずるを、のおゆくへの覺束なさに、敵のなかに取籠められてござつたを打破つて、これまで參つてござる。」と申した所で、木曾殿、「契りはまだつきせぬぞ。木曾が勢はこの邊にこそあるらう。旗があるか、差上げてみよ。」とあつたれば、兼平が、持たせた旗をざつと差上げたれば、案の如く是をみて、京から落つる勢ともなう、瀬田から落つる勢ともなう、三百餘り馳せ參つた所で、木曾殿大きに喜うで、この勢があらば、なぜに最後の軍をせいであらうぞ? 此の先きにしぐらう(*しぐらむ。密集する。)て見ゆるは誰が手とかきいた?」「甲斐の一條殿とこそ承つてござれ。」「勢はいかほどあるぞ?」「六千餘騎と聞いてござる。」「さらばよい敵ぞ。同じうは大勢のなかでこそ討死せうずれ。」とて、眞先きに進まれた。
木曾は赤地の錦の直垂に、薄金といふ鎧をきて、音に聞えた木曾の鬼蘆毛といふ馬にのつて、大音をあげて名のられた。「昔は聞いた事もあらうず、木曾の冠者くわんじや。今は見るか? 左馬頭朝日の將軍ぞ。一條の二郎とこそ聞け。討取つて勸賞くわんじやう(*けんじゃう。褒賞)蒙れ。汝がためにはよい敵ぞ。」というて、割つて入らるれば、一條の二郎、「只今名のるは大將軍ぞ。洩らすな、討取れ。」というて、大勢の中に一揉みもうで戰ふに、木曾は三百餘騎で竪樣・横樣・蜘蛛手・十文字に驅け破つて、六千餘騎があなたへざつとかけでられたれば百騎計りになられた。とき〔マヽ〕の二郎(*土肥次郎実平)が一千餘騎で支へた。そこを驅け破つて出られたれば五十騎計りになられた。さう\/してあまたの人じゆの中を驅け破り驅け破りして通らるゝ程に、遂には主從五騎になられた。五騎がうちまでもは討たれなんだ所で、木曾殿のいはれたは、「我は只今討死をするに極まつたに、そちは女なれば、一所ひとところで死なう事もあしからうず。木曾こそ最後の軍に女をつれて討死したなどと云はれう事が口惜しい。是から何方いづかたへも落ち行いて木曾が後生をも弔へかし。」といはれたれども、落ちなんだが、餘り諫めらるれば、「あつばれ好からう敵もがな。最後の軍してお目に掛けう。」と見廻す所に、武藏國の住人ともしげ〔マヽ〕(*恩田八郎師重)、音に聞えた大力だいりきかうの者が三十騎ばかりで來るに、その中へ驅け入つてともしげ(*ママ)に押並び、むずととつて、引落いて、鞍の前輪に押附けて、首掻切つて捨て、そのまゝ物の具をぬぎすてゝ、泣く\/暇を申して、東國の方へ落ちて行いた。
手塚の別當は自害しつ、手塚の太郎は討死する。今は兼平と主從二騎になられた。木曾殿云はれたは、「いかに兼平、日頃はなんとも覺えぬ薄金がけふは重うおぼゆるぞ。」兼平申したは、「別のやうやござる? 君の無勢にならせられたによつて、臆させられた故でござる。御馬は疲れず、御身も弱らせられず、日頃召されたお鎧が何によつて只今重うはなりまらせうぞ? 兼平一人なりとも餘の者千騎と思召され。箙に今矢七つ八つを射殘いてござれば、この矢のあらう限りは、防ぎ矢仕らうず。あれに見えたは粟津の松原と申す。三ぢやうには過ぎまらするまい。あれで御自害をなされい。」というて、二騎押並うで行くほどに、又瀬田の方から新手の武者が百騎ばかり來るによつて、兼平申したは、「さござらばはあの松原で靜に御自害なされい。兼平此の敵を防ぎまらせう。」と申せば、木曾殿「幼少から一所でにと契つたはこゝぢや。死なば同じ枕にこそ。」とあつて馬の鼻を並べかけうとせられたれば、兼平馬から飛んで下り、馬の鼻にむずと取りついて、「いかなるお事でござるぞ? 弓取は日頃高名を仕れども、最後に不覺を仕れば長い傷でござるものを。ひ甲斐ない冠者輩くわじやばらに組落され討たれさせられば、日本國につぽんごくへ聞えさせられた木曾殿をば某が家の子、何某と申す郎黨こそ討取り奉つたなどと申さうこと、餘りに口惜しう存ずる。唯松の中へ入らせられて、御自害なされい。」と申せば、木曾殿力及ばいで松原へお入りあれば、兼平唯一騎大勢に驅け向ひ大音を擧げて、「日頃は音にもきゝ、今は目にもみよ、木曾殿のおめのと(*乳母子)に、兼平三十三に罷成る。鎌倉殿までもさるものゝあるとは知ろしめされつらう、討取つて勸賞くわんじやう(*ママ)蒙れ。」というて、殘つた八筋の矢を差詰め引詰めさんざんに射る。生死しやうじはしらず、矢庭に八騎射落いて矢種がつくれば、弓をかしこに投げ捨て、打物の鞘をはづし、斬つてまはるに、面を合はする者はなうて、只射取れ射取れというて、中に取りこめ、遠だちながら(*ママ)、雨のふるやうに射たれども、鎧がよければ裏もかゝず、あきまを射ねば手も負はず。
木曾殿は松の中へお入りあるに、頃は正ぐわち二十日の暮方なれば、餘寒尚はげしうて、薄氷のはつたに、深田があるとはお知りあらいで打入れられたれば、聞ゆる木曾の鬼蘆毛も一日懸合ひの合戰につかれたか、あほれども\/(*あふれども\/)、うてども\/動かず、今はかうと思はれたか、後ろへふりあふのかるゝ所を、相模國の住人爲久(*石田次郎為久)追驅けてよつぴいて射るに、内兜をあなたへつゝと射通されて痛手なれば、兜の眞向まつかふを馬の首にあてゝうつぶしにふさらる〔マヽ〕を、爲久が郎黨二人落合うて遂に木曾殿の首をとつて、太刀の先きに貫いて、高う差上げて、兼平が云うたにたがはず、「日本國に聞えさせられた木曾殿を、爲久かうこそ討ち奉れ。」というて、高らかに名のつたれば、兼平これをみて、「今は誰をかこまふ(*かくまふ)とて軍をせうぞ? これみよ、剛の者の自害するやう、手本にせい、東國の者ばら。」というて、太刀をぬき、口にふくんで馬から逆樣に落ちかゝつて貫かれてうせた。兼平が討たれて、その後こそ粟津の軍は止うでござれ。

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第五 樋口の二郎、降參して後に斬らるゝ事、同じく茅野が討死の事。

右馬。 して兼平が兄の樋口の二郎(*樋口次郎兼光)は何となつたぞ?
。 それは十郎藏人くらんど(*源行家)を討たうずるというて、河内の長野のじやうへ越えたが、そこでは討洩らいて、紀の國の名草にゐらるゝと聞いたれば、やがて追驅おつかけゐたが都に軍があるときいて、馳せ上るが、淀で兼平が郎黨に行合うた。「ははや討たれさせられ、兼平樣は御自害なされた。」と申せば、樋口涙を流し、「これおきゝあれおの\/、世は既にかうぢや。命の惜しからう人々は何方へも落ちさせられい。に志を思ひ奉られうともがら樋口を先きとして、都へ入つて討死めされい。」と申したれば、これを聞いて、かしこでは馬の腹帶はるびを固むる、こゝでは兜の緒を締むる、などというて、二三十騎四五十騎ひかへ\/(*とどまる)落ちて行くほどに、樋口が勢六百餘騎、今は二十騎餘りになつた。樋口けふ既に都へ入ると聞えたれば、黨(*小名)高家かうけ(*家柄の良い武家)も七條・朱雀しゆしやか四塚よつづかへ我も\/と馳せ向うた。信濃國の住人に茅野の太郎(*茅野光廣)といふ者があつたが、これも樋口につれて河内へ下つて、同じく今日こんにち京へ入るが、茅野の太郎、何と思うたか、鳥羽から樋口が先きに立つて、馬の足を早め、四塚で大勢に打向うて、「このうち一條の二郎殿の手の人がござるか。」と呼ばはつたれば、敵一度にどつと笑うて、「一條の二郎殿の手でばかり軍をする事か。」というたれば、茅野の太郎もつともさいはれた(*ママ)。「おの\/、かの手を尋ぬることはが弟茅野の七郎その手にあるときいた。信濃にが子供二人ゐまらする。彼等が『あつぱれ、我父は善うて死んだか、惡しうて死んだか。』などゝ思はうずる所が不便ふびんなれば、弟の七郎の見る前で、彼等に語らせうずるためぢや。」というて國・所・親の名までを名乘つて、「敵は嫌ふまいぞ。」とひ樣に、あれに馳せ合せ、これに差し合せ戰うて、敵三人討取つて、四人よつたりにあたる敵に引組んで落ち、互に刺違へて死んだ。これをみて惜まぬ人はなかつた。
樋口の二郎は兒玉黨が聟であつたが、かの黨が申したは、「弓取の廣い縁にいる(*ママ)ことは、このやうな時のためぢや。樋口が我黨に結ぼほれたもさこそ思ふらう。いざ今度の勳功に、樋口を申して、賜はらう。」というて、樋口がもとへ使をたてゝ、このやうひやつたれば、樋口聞ゆる者なれども、命が惜しかつたか、兒玉黨が中へ降人になつて出たを打連れて都へ上つて、この由を申すによつて、義經に奏問せられたれば、「苦しかるまじい。」とあつて宥められたを、御所女房達が「去年木曾が法住寺殿に火をかけて、攻め奉つた時は、兼平樋口といふ者どもこそ、かしこにもこゝにも充滿したやうに聞えたが、これらをなだめられば、口惜しからうず。」などと訴へられたれば、樋口の二郎また死罪に定まつた。同じ二十四日に、木曾殿高梨兼平などが首、小路をわたさるれば、樋口の二郎も既に斬られうずると聞えたれば、木曾殿のお首のお伴を致さうずると所望するによつて、藍摺の水干、葛の袴に立鳥帽子をきて渡されて、同じく二十五日に樋口の二郎は六條河原で遂に斬られたと申す。

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第六 源平大手・搦手の大將をわけられて、義經は三草の合戰に打勝つて又鵯越へかゝられた事。

右馬。 木曾ははや滅びたが、平家は何となられたぞ?
。 平家は正月中旬の頃、讃岐の八島から津の國の難波へ傳うて、ひがしは生田の森を大手の木戸口と定め、西は一の谷を城郭に拵らへられてござつた。その内福原・兵庫・板宿・須磨にこもる勢ひた甲(*直兜。全員揃って鎧甲で身を固めること。)八萬餘騎でござつたと申す。これは備中國水島・播磨の室山、兩度の合戰に打勝つて、こゝかしこの國々都合十四五ヶ國を打靡けて從ふところの軍びやうぢやと、聞えてござる。一の谷は口はせばうて奧は廣う、北は山、南は海、岸も高う、屏風をたてた如くぢやに、北の山ぎはから南の磯ぎはまで大石たいせきを重ね、上には大木を伐つて、逆茂木に引き、大船たいせんをとつて掻楯かいだてにかき、後ろには鞍置馬十重二十重に引立て、表にはやぐらをかき、櫓の上にはつはものども兜の緒をしめ、常に太鼓を打つて亂聲らんせいし、弓矢・物の具の光はおびたゝしう、高い所には赤旗その數を知らず立て並べたれば、春風に吹かれて天に飜れば、ひとへに火焔の燃ゆるに異ならず、誠に夥しい態でござつたと申す。阿波・讃岐の在廳ども(*在庁官人)源氏に志があつたが、「昨日まで平家に從うた者なれば、今日參るとも用ゐられまじい。平家に矢一つ射かけて、それをおもて(*面目)にして參らう。」と、小舟百艘計りに取乘つて、教盛の子息引具して備前國の下津井しもづゐにおぢやつたを討たうずるとて、下津井に押寄せてあれば、能登殿これを聞いて、「昨日まで我等が馬の草を飼うたやつが、けふ契りを變ずるか? 其儀ならば、一人も殘さず、射殺せ。」とあつて、五百餘騎でをめいてかけられたれば、これらは人目ばかりに矢一つ射かけ引退かうと思うた所に、能登殿に攻められて我先きにと船に乘つて、都の方へ逃げのぼるが、淡路の福良ふくらについて、此の國に賀茂の冠者くわじや淡路の冠者というて、源氏の大將が二人あつたを大將にして、城郭をかまへてまつ所に、能登殿二千餘騎で淡路の福良に寄せて攻めらるゝに、一日一夜戰ひ、賀茂の冠者は討死せられ、淡路の冠者は痛手を負うて自害せらるれば、これら百餘りが首を取つて福原へ送られたれば、教盛はそれから福原へ上られ、子息達は伊豫の河野かはのが源氏に志があると聞いて、それを討たうずるとて、伊豫國へ渡られた。河野これを聞いて、かなふまじいと思うたか、安藝國へ落ち行いたを能登殿追つかけて、そこでもさん\〃/に合戰して追ひ散らし、その外方々で手柄どもをして攻めうずる敵もなければ福原へ歸られた。
さて源氏は四日の日に一の谷へ寄せられうずるであつたれども、故太政入道の忌日ときいて、佛事を行はせうがために、其の日は寄せられず、五日六日むゆかは日が惡いの何のかのと云うて、七日の卯の刻に津の國一の谷で源平矢合せと定められた。七日の卯の刻に大手・搦手のつはもの二手に分けられた。大手の大將には範頼、相從ふ人々は武田たけたの太郎、その外歴々の衆都合その勢五萬餘騎で都を立つて、津の國まで發向せられた。搦手の大將軍義經に相從ふ人數は大内おオちの太郎安田の三郎武藏坊辨慶を先きとして、都合その勢一萬餘騎で同じ日同じ時に都をたつて、丹波路にかゝつて、二日路を一日に打つて、其の日は播磨と丹波との境の三草山みくさやまの東の山口、小野原につかるれば、義經土肥の次郎を召して「平家は小松の新三位、同じく少將など三千餘騎でこれから三里隔てゝ、西の山口を固めたといふ。今宵寄せうか、あすの合戰か。」とあつたれば、田代たじろ冠者くわんじや進み出て申されたは「平家はさやうに三千餘騎でござる! 味方は一萬餘騎、遙かの利でござるものを、明日の合戰に延べられたならば、平家は勢がつきまらせうず。夜討にようござらうと存ずるが、土肥とき殿〔マヽ〕は何と。」と申せば、とき〔マヽ〕の次郎「いしうも(*殊勝にも)申させられた田代殿かな! もかうこそ申したうござつたれ。」と申した。二日路を一日打つて、馬・人みな疲れたれども、「さらば寄せい。」とあつて、打立うつたたれた。つはもの共暗さは暗し、知らぬ山路にかゝつて、「松明がなうては、何とせうぞ。」と口々に申したれば、義經ときの次郎(*ママ)を召して、「例の大松明はないか。」といはれたれば、「ときの次郎こそござれ。」というて、小野原の在家に火をつけ、その外野にも、山にも草にも、木にも火をつけたれば、晝には少しも劣らなんだ。平家は三千餘騎で西の山口を固めたが、先陣さきぢんはおのづから用心する者もあり、後陣ごぢんの者共は「定めて明日の合戰でこそあらうずれ。軍もねむたいは大事のものぞ。よう寢て明日軍をせい。」というて、或は兜を枕にし、或は鎧の袖・箙などを枕にして前後も知らず寢た。思ひもかけぬ寅の刻ばかりに源氏一萬餘騎三里の山をうち越えて、西の山口へ押寄せ、鬨をどつと作れば、平家あわてさわいで、弓よ、矢よ、太刀よ、刀よといふほどに、源氏中をざつと駈け破つて通る程に、我先きにと落ち行くを、おひかけおひかけさん\〃/にいる。平家の勢そこで五百餘騎は討たれ、小松の新三位を初めて大將をしてゐられた人々面目なう思はれたか、播磨の高砂から船にのつて讃岐の八島に渡られたと聞えてござる。
備中の前司、その外二三人は一の谷へ參つて合戰の次第を申せば、大臣殿おほいとの大きに驚いて、一門の人々の方へ、「三草の手既に敗れたと聞えたれば、人々お向ひあれ。」とあつたれども、山の手は大事ぢやと申して、皆辭退申されたによつて、その後能登殿の許へ使者を立てられて、「三草の手既に敗れたと申す。人々お向ひあれと申せども、山の手は既に大事ぢやとあつて、皆辭退せらるゝ。盛俊に向へと申せば大將軍一人ましまさいではかなふまじい由を申す。度々の事なれども、御邊またお向ひあらうか。」とあれば、能登殿、お返事に、「軍と申すものは人毎にわれ一人が大事と思ひきつてこそようござれ。さやうに狩り漁りのやうに足立ちのよからう方へはわれ向はう、惡しい方へは向ふまいなどと申さば、いつも軍に勝つ事はござるまい。幾度なりともが命のあらう限りはいかに強うござるとも、一方は承つて打破りまらせうずる。」と申された。大臣殿大きに喜うで、盛俊を先きとして、能登殿に一萬餘騎をつけられ、兄の越前の三位通盛と打連れて鵯越の麓に陣をとられた。平家も四日に大手・搦手に分けてやられた。大手の大將軍にはぢゆう納言知のり〔マヽ〕(*知盛)重衡その勢四萬餘騎で大手生田の森に向はれた。搦手の大將軍には行盛忠度三萬餘騎で一の谷の西の手へまはられた。五日の夜に入つて、生田の森の方から、雀の松原・御影の森・昆陽野こやのの方を見渡せば、源氏のてんでに陣を取つて遠火をたく事、晴れた天の星のごとくにござつた。平家も向ひ火たけというて、生田の森にもたいた。更け行くまゝに見渡せば、澤邊の螢に異ならぬ態であつたと聞えてござる。通盛は弟の能登殿の館にいかにも悠々と折に似合にやはぬ態で臥されたによつて、能登殿大きに怒つて、「さらぬだに此の手をば大事の手とあつて、を向けられた。誠に強からうずる事が肝要ぢや。只今も上の山から敵がざつと落しまらせう時は、弓はもつたりとも、矢をはげずはかなふまじい。矢ははげたりとも、遲う引かば猶惡しからうずる所ぢや。ましてさやうに打解けさせられては何の詮(*役・効果)にか立たせられうぞ。」と諫められて、通盛物の具して出られたと申す。
源氏は七日の卯の刻矢合せと定まつたれば、かしこに陣とり、馬を休め、こゝに陣とり、馬を飼ひなんどして急がぬに、平家はこれを知らいで今や寄する今や寄すると安い心もなかつた。六日に義經は一萬餘騎を二手に分けて、とき〔マヽ〕次郎を大將として七千餘騎をば一の谷の西の手へ差向けられ、我身は三千餘騎で一の谷の後ろ、津の國と播磨の境な鵯越の搦手へ向はれた。つはもの共「これは聞ゆる惡所ぢや。敵に會うてこそ死にたけれ、惡所に落ちて死なうずるは無下なことかな! あはれ案内を知つた者があるか。」と口々に申す所で、平山(*平山季重)進みでて申したは、「此の山の案内はこそ知つてござれ。」と申せば、義經「さもあれ、板東育ちの人の今日初めて見る西國さいこくの山の案内は然るべからぬ。」とあつたれば、平山が申したは「御諚とも覺えぬものかな! 吉野・初瀬の花の頃は歌人がこれを知る。敵の籠つた城の後ろの案内をば剛の者が知りまらする。」と申したれば、義經「これ又傍若無人かな。」とあつて笑はれた。また武藏國の住人に清重というて十八歳になる人、御前おまへに進みでて申したは、「親にてござる入道の教へまらしたは、『敵にも取籠められ、山越の狩をもして、深山に迷はうずる時は、老馬に手綱を結んで打掛け、先きに追立おひたてゆけ。必ず此の馬は道に出でうずる。』と教へてござる。」と申したれば、義經「いしうも申したものかな! 『雪は野原のばらを埋めども、老いたる馬ぞ道は知る。』といふ心ぢや。さらば。」とあつて、白蘆毛しらあしげな馬に白覆輪しろぶくりんの鞍置いて、手綱を結んで打掛け、先に追立て、一度も知らぬ深山に分け入られた。これは二月きさらぎ初めの事なれば、峯の雪むら消えて花かと見ゆる所もあり、谷の鶯音づれて霞に迷ふ所もあり、上れば白雲が皓々として聳え、下れば青山峨々として峯高う、松の雪さへ消えやらず、苔の細道は幽かで、嵐の誘ふ折々は、梅の花かと覺え、山路に日が暮るれば、今日はいかにも叶ふまいとて、つはもの共皆馬から下りて陣をとつた所で、武藏坊辨慶ある老翁を一人具して義經の御前に參つた。「是は何者ぞ。」と問はるれば、「この山の獵師でござる。」と申す。「さては案内は知つつらう。是から平家の城へ落さうずると思ふが何と。」とあつたれば、「思ひも寄らぬ事でござる。三十丈の岩崎、十五丈の岸などと申せば、人の通らうずるやうもござらず、まいて御馬おんうまは何として叶ひまらせうず。」と申せば、「鹿の通ふ事はないか。」と尋ねらるれば、「鹿はおのづから通ひまらする。世上(*世の中)さへ暖かになれば、草の深いに臥さうずるとて、丹波の鹿は播磨の南野へ通りまらするが、時々此の谷を通ひまらする。」と申す。「さては鹿の通はう所を馬の通らぬ事があらうか? やがてしるべせい。」とあつたれば、「此の身は年老いてかなふまじい」由を申す。「子はないか?」「ござる。」熊王と申して生年十六になるを奉つたれば、やがて物の具をさせ、馬に乘せて案内者に具せられた。これを元服げんぶくさせて義經の義を下されて義久と名のつた。義經鎌倉殿と中をお違ひあつて奧州で討たれさせられた時、義久と申して討死したものでござる。

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第七 熊谷くまがへと平山と一の谷へ押寄せ、軍をして一二のかけを爭うた事。

右馬。 ちつともそなたに只口はおかせまいぞ。なほ先きへお語りあれ。
。 さて\/いかい平家上戸(*平家好み)でござる。義經は又その山におぢやるうちに、熊谷は其の時まで搦手にあつたが、その夜の夜半ばかりに嫡子の小次郎(*直家)を呼うで申したは「いかに小次郎、思へば此の手は惡所を落さうずる時、討込うちごみの軍で、すべて誰先きといふことあるまいぞ。いざこれから播磨路にでて、一の谷の先きを駈けう。」といへば、小次郎「ようござらうず。急いで向はせられい。」と申す。「まことや、平山も討込の軍を好まぬぞ。見て參れ。」というて、郎黨をやつたれば、案の如く平山ははや物の具して、誰にあうていふともなう、「今度の軍に人は知らず、平山に於いては、一足も引くまいものを。」と獨言をした。郎黨が馬を飼ふとて、「憎い馬の長食ひかな。」とて打つたれば、平山「さうなしそ。平山明日は死なうぞ。その馬の名殘も今宵計りぢや。」というたを聞いて、郎黨走りかへつて、かう\/といへば、熊谷「さればこそ。」というて打立つて、主從三打連れて、一の谷をば左手ゆんでに見なし、右手めてへ歩ませゆくほどに、年來人も通はぬ古道ふるみちを通つて、播磨路の浪打際へ打たれば、とき〔マヽ〕の次郎は卯の刻の矢合せと定められたれば、まだ寄せず、七千餘騎で控へてゐた所を、熊谷は大勢に打紛れて、つつと打通つて一の谷へ寄せた。まだ丑の刻計りの事なれば、敵の方にも音もせず、味方の勢一騎も見えず、靜まり返つてあつた所に、熊谷云うたは「剛の者は必ず我れ計りと思ふな。この邊にひかえて(*ママ)夜の明くるを待つ人もあらうぞ。いざ人の名のらぬさきに名のらう、小次郎。」というて、木戸の口に歩ませ寄せて、大音をあげて名のつたは、「傳へても聞いつらう。武藏國の住人熊谷、その子小次郎、一の谷の先陣ぞ。」と名のつた。敵の方にはこれをきゝ、「音なしそ。唯敵が馬の足疲らかさせい。矢種を射つくさせい。」というて、音するものもなかつた。
さうするほどに武者がうしろにつゞいた。「たそ。」と問へば、「平山。」といふ。「平山殿か? 熊谷ぢや。」「なう熊谷殿か? いつからぞ。」と問へば、熊谷は「宵から。」と答へた。其の時平山打寄せて申したは、「さればこそ、も疾う寄せうずるを、成田なりだにすかされて、今まで遲々した。『死なば平山殿と一所で死なう。』と契るほどに打連れたが、成田が今宵いふやうは、『いたう平山殿先駈けばやりな召されそ。軍の先きをかくるといふは、味方の大勢を後ろにおいて駈けたればこそ、高名不覺のほども現はれて面白けれ。味方の勢は一騎も見えいで、雲霞の如くの大勢の中に駈入つて討たれては、されば何の詮ぞ。』と制する程に、げにもと思うて連れて打つほどに、小坂こざかのある所をつゝと打上せ、馬をくだがしらにないて、味方の勢をまつ所に、成田も同じやうに打上せて、物を云合はうずるかと思うたれば、平山をすげなさうに見ないて、そこをつつと打ちのびて、やがて只のびに先きに行く程に、『あはれ、彼奴きやつ平山をたばかつて先きを駈けうとするよ。』と心得て、五六たん先立つたを、一揉み揉うで(*馬を働かせて、駈けさせて)追附おひつけて、『平山ほどのものをば、どこをたばかるぞ? 和殿は。』というて、打過ぎて寄せたれば、平山が馬遙かまして、其の人には後影も見えまじい。」と語つた。
夜は既にほの\〃/と明け行く。熊谷さきに名のつたれども平山が名のらぬ先きに尚名のらうと思うて、又木戸の際へ歩ませよせて、前の如く名のり「平家の侍の中に我と思はうともがらは駈出せ。見參せう。」といへば、平家の侍共これをきいて「終夜よもすがらのゝしる熊谷親子ひつさげて來う。」というて進む者共は、越中の次郎兵衞びやうゑ上總の五郎兵衞惡七兵衞景清を先きとして、屈竟の者共二十三騎木戸を開いて駈出た。平山熊谷が後ろにひかへたに、じやうの内の者共は熊谷より外は敵があるとも知らなんだに、平山は、敵の木戸を開いてるを見て、目糟毛めかすげといふ馬に乘つて、熊谷が先きを駈過ぎて、二十三騎が中へをめいて駈入れば、城の者共、熊谷計りかと思うたれば、これは何として討取らうぞとのゝしつた。熊谷これを見て平山を討たすまいとて續いてかくる。平山がかくれば熊谷つゞく、熊谷がかくれば平山つゞく。二十三騎の者共を中に取籠めて、火の出るほど戰へば、二十三騎の者共は手痛うかけられて(*攻め立てられて)しろの内へざつと引き、敵を外樣ほかさまに成いて戰うた。
熊谷は馬の腹を射させてしきりにはねたれば、弓杖ついて下りたつた。嫡子の小次郎は生年十六と名乘つて戰うたが、左手のかいな(*ママ)を射させて引退き、馬からおり、と並うで立つたれば、熊谷是を見て、「は手を負うたか?」「わう、左手の腕を射させてござる。矢拔いて下されい。」と申せば、熊谷「暫しまて。ひまもないぞ。常に鎧づき(*隙間を無くして、鎧を揺すり上げること。)せい。矢に裏かゝすな。」などと教へて戰うた。熊谷鎧に立つた矢どもをうちかけて、城の内を睨うで罵つたは、「去年の冬、鎌倉を出たよりして、命をば鎌倉殿に奉る。屍は合戰の場に曝さうと思切つた熊谷ぞ。室山・水島二ヶ度の合戰に高名したと名のる越中の次郎兵衞はないか? 能登殿はござらぬか? 高名も敵によつてこそすれ、人毎にあうてはえせぬものぞ。熊谷に落合へ\/。」と罵しるによつて、越中の次郎兵衞是を聞いて、熊谷に組まうずるとて、靜に歩ませて向ふが、熊谷是を見て、中を割られまじいと親子間もすかさず、立並うで、肩を並べ、太刀を額にあて、後ろへは一引きも引かず、いよ\/先きへ進んだれば次郎兵衞是を見て、かなふまじいと思うたか、とつてかへす。熊谷越中の次郎兵衞とこそ見れ、敵に後ろをば見せぬものを。熊谷に落合へ。」と言葉をかくれども、「をこのもの。」というて引退く。惡七兵衞これをみて、「汚い殿原のしゃう(*性)かな。」というて、既に落合おちやうて組まうとて出るを、「君のご大事これに限るまい。あるべうもない。」というて、取りとゞめたれば、力に及ばいで出なんだ。
その後三人の者共尚手強う戰ふを、櫓の上の者共矢先を揃へてさん\〃/に射る。されども味方は多し、敵は少し、矢にも當らず、駈廻るを「たゞ押並べて組め\/。」と櫓の上から下知したれども、平家の馬は乘る事は繁う、飼ふ事はまれで、船に月日を送り立つたれば、皆すくんでよりついたやうなれば、熊谷平山が馬に一とあてあてられては蹴倒されさうなれば(*未詳)、押並べても組まず。平山は郎黨を討たせて、敵の中に討つて入り、やがてその敵を討つてで、熊谷も分捕(*敵の首や武器を奪うこと)をした。熊谷は先きに寄せたれども、木戸を開かねば駈入らず。平山は後に寄せたれども、木戸を開いたれば、駈入るによつて、熊谷平山が一二のかけをば爭うた。さうするほどに、成田の五郎も來る、とき〔マヽ〕の次郎も七千餘騎で押寄せて鬨をどつと作れば、熊谷平山も引退いて、馬の息を休めたと聞えまらした。

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第八 大手生田の森の合戰のこと、同じく鵯越をおとされ、越中の前司が討死の事。

右馬。 して生田の森の方には何とあつたぞ?
。 大手生田の森には範頼その勢五萬餘騎で卯の刻の矢合せと定められたれば、まだ寄せられなんだ。其の手に武藏國の住人河原太郎(*河原隆直)河原次郎(*河原盛直)というて、兄弟おととひあつたが、河原太郎、弟の次郎を呼うで申したは、「いかに次郎殿、卯の刻の矢合せと定まつたれども、あまり待つが心許なう覺ゆるぞ。敵を眼の前に置きながら何をせうぞ? 弓矢とる法はかうはないものを。鎌倉殿のお前で討死仕らうずと申したことがある。さあれば城のうちを入つて見うと思ふ。和殿は生きて證人に立て。」といへば、次郎申したは「口惜しいことを宣ふものかな! 只兄弟あらうずるものが、を討たせて證據に立たうと申さうずるに、弓矢とる法によいと申さうずるか? とても討死せうずるに、同じうは一所でこそいかにもならうずれ。」といふによつて、力及ばいで、河原太郎さらばというて、下人共を呼寄せ、故郷にとゞめ置く妻子の許へこの樣どもを云ひ遣はし、「馬共をば汝等にとらする。しやうあるものなれば、命のあらう程は形見にせい。」というて馬にも乘らず、下人をもつれず、唯二人げげ(*芥下。藁草履。)をはき、逆茂木を乘越えて、城の内に入つたれども、まだ暗かつたれば、鎧の毛も定かに見別けぬに、河原太郎兄弟立並うで假名けみやう實名を名のり、「大手の先陣ぞ。」と呼ばはれば、平家の方にはこれをきゝ、どつと笑うて申したは「東國のものほどすべて恐ろしいものはない。これほどの大勢の中に只二人入つたらば何程のことがあらうぞ? そのものどもをしばしおいて愛せよ。」と申すところに、河原兄弟立並うで、差詰め引詰めさん\〃/に射る。屈竟くきやうの手たれなれば、矢頃にまはる程の者ははづるゝことはなかつたところで、「この者共愛し過ごいた。今は射取れ、若いともがら。」というたれば、備中の住人眞名邊の四郎(*真鍋四郎)五郎というて、強弓の精兵兄弟きやうだいがあつたが、五郎は一の谷に置かれ、四郎は生田の森にゐたが、これをみてよつぴいて射れば、河原太郎が左の脇を右の脇へつつと射出されて、弓杖に縋つて立つところに、弟の次郎これをみて、敵に首を取らすまいと思うたか、つつとよつてを肩に引掛け、逆茂木を乘越ゆるを、眞名邊の四郎二の矢を番うて放せば、次郎が右の膝口にあたつてと同じ枕にたほれた(*ママ)を、眞名邊が郎黨二人打物の鞘をはづいて河原兄弟おととひが首をとつていつた。
河原が下人共「河原殿ははや城の内へ入つて討たれさせられた。」と呼ばはつたれば、梶原平三これを聞いて、「あらむざんや! これはの黨(*河原の属する私市きさいち党を指すか。)の殿ばらが不覺でこそ、この兄弟をば討たせたれ。あたら者共を。」というて、木戸の際に押寄せ、足輕共よせて、逆茂木引退ぞかせ、五百餘騎くつばみを並べ、をめいてかけ入る。源太(*ママ。平三か。)が次男〔マヽ〕景高餘りに進んでかくれば、大將軍使者を立てられ、「後陣の勢も續かぬに、先驅けしたらう者をば、勲功あるまじい。」といはるれば、景高控へうて(*ママ)、「お返事に、
ものゝふの取傳へたる梓弓引いては人のかへるものかは
と仰せられい。」と云ひ捨てゝ、駈入つて戰へば、皆つゞいて戰うて、兩方をめきさけぶ聲山を響かせ、馬の馳せ違ふ音はらいのごとくで、源平いづれもひまもない態と見えてあつたと申す。
源氏大手ばかりでは勝負ありさうにも見えなんだれば、七日の卯の刻に、義經三千餘騎で一の谷の後ろ鵯越に打上つて、こゝを落さうとせらるゝに、この勢に驚いたか、大鹿二つ一の谷の城の内へ落ちたれば、「これは何事ぞ? 里近からう鹿さへも我等に恐れて、山深うこそ入らうずるに、只今の鹿の落ちやうこそ恐ろしけれ。」と騷ぐ所に、伊豫國の住人高市たかいち「何でもあれ、敵の方から來うものを餘さうやうはない。」というて馬に打乘り、左手にあいつけて、先きな大鹿の眞中射てとゞめ、やがて二の矢をとつて次の鹿をも射とめて「思ひもよらぬ狩をした。」と申したれば、越中の前司「詮ない殿原の唯今の鹿しゝの射やうかな。罪作りに。」と制した。
義經鞍置馬を二匹追ひ落されたれば、一匹は足打折つて轉び落ち、一匹は相違なう平家の城の後ろに落着き、越中の前司が館の前に身振ひして立つた。鞍置馬二匹まで落ちたれば、「あはや敵が向ふは。」と騷動する所に、義經「馬共主々ぬし\/が乘つて、心得て落さうずるには、損ずまじい。義經はかう落すぞ。」とあつて、眞先きに落されたれば、白旗三十流ればかり差上げて、三千騎ばかりつゞいて落す。後陣に落す人々の鎧の鼻、先陣に落す人の鎧兜にあたるほどで、えい\/聲を忍び\/に力をつけ、岩交りにさゞれであれば、流れ落しに二町計りざつと落いて、壇のある所にひかへて、それから下を見くだせば、大磐石が苔蒸いて釣瓶立ちに十四五丈見下いた所で、つはもの共「今はこれから引返へさうずるやうもなし。こゝを最後。」といふ所に、三浦の十郎(*佐原十郎義連)「きたなし(*卑怯だ)、殿。三浦の方では鳥一つ取つても朝夕ちやうせきかゝる所をこそ馳せ歩け、これは馬場か。」というて眞先きに落いたれば、これをみて、大勢やがて續いて落すが、あまりのいぶせさ(*恐ろしさ)に、目をふさいで落いた。大方人の仕業とは覺えず、唯天魔の所爲しよゐと見えたと申す。
落しもあへず鬨をどつと作る。三千餘騎の聲なれども、山彦に答へて萬騎と聞えた。落しもあへず、信濃の源氏よし國〔マヽ〕(*村上基国)が手から平家の館に火をかけたれば、折節風がはげしう吹いてK煙くろけむりはおしかゝる、つはもの共煙にむせて、射落し引落さねども、馬から落ちふためき、餘りあわてゝ前の海へ向うて馳せ入つた。助船は多けれども、物の具した者共が船一艘に四五百人、五六百人我先きにと込み乘らうに、なじかは好からう? 渚から五六町押出すに、人一人も助からず、大船たいせん三艘流れたれば、その後は「然るべい人達をのするとも、雜人ざふにん共をばのするな。」というて、さるべい人を引乘せ、次樣つぎさまの者共をば太刀・長刀でふなばたをながせた。かうあるとは知りながら、敵にあうては死ないで、乘せまじいとする船に取附き掴みつき、或は腕打斬られ、或は肱を打落されて渚に倒れ伏して、をめき叫ぶ聲おびたゝしかつたと申す。能登殿は一度も不覺をせぬ人ぢやが今度はいかにも敵ふまいと思はれたか、薄墨といふ馬にのつて、播磨の明石へ落ちられ、兄の通盛は近江國の住人木村の源藏(*木村成綱)といふ者に七騎の中に取籠められて遂に討たれられ、越中の前司も落ち行くが、いづくへゆかば遁れうかと思うたれば、控へて敵をまつ所に、猪俣、よい敵と目をかけて、鞭をあげ馳せ寄せ、押並べて組んで落ちた。
越中の前司平家の方には七十人の力を現はいたといふ大力だいぢからなり、猪俣とう八ヶ國に聞えたしたゝか者なれども、越中の前司が下になる。餘り強う抑へられて、物をいはうとすれども、聲も出ず、刀を拔かうと柄に手をかくれども動きえず。「これほど猪俣を手籠めにせうずる者こそ覺えぬ(*ママ)。あはれ、これは平家の方に聞ゆる越中の前司か。」と思ひ、力は劣つたれども剛の者であつたによつて、少しも騷がぬ態で「抑も御邊は平家の方では定めて名ある人でこそあるらう。敵を討つといふは、我も人も名乘つて聞かせ、敵にも名乘らせて、討つたればこそ面白けれ。」というたれば、越中の前司安らかに思うて、「これは越中の前司といふ者ぢやが、我君わきみはたそ? 名乘れ、きかう。」というたれば、「武藏國の住人猪俣と申す者ぢやが、助けさせられい。平家既に負け軍とこそ見えてござれ。若し源氏の世になつたらば、御邊の一家親しい人々何十人もあれ、が勳功の賞に申しかへて奉らう。」と申したれば、「憎いの申しやうや! われ身こそ不肖なれども、なましいに平家の一門なれば、今更源氏を頼まうとは思はぬ者を。」というて、やがて取つて押へ、首を掻かうとするほどに、猪俣かなふまいと思ふたか、「正なや、降人の首斬るやうやある。」といはれて、さらばというて取つて引起し、田のくろのある所に、腰打掛けてゐた。後ろは山田の泥が深う、前は乾上つてはたけのやうな所に足差おろいて二人物語りして、息をついでゐた所に、武者が一騎歩ませて來るを、越中の前司見て、「あれは誰ぞ。」と問へば、「苦しうもござるまい。が親しい者に人見の四郎と申す者でござるが、を尋ねて參つたと存ずる。」といへども、そば猪俣を打捨てゝ、今の敵をいぶせさうに思うて目も放さず目守まぶ(*見つめる)所に、「あはれ、あれらが近うなるほどならば、ま一度組まうずるものを。組む程ならば、人見が落合はせて力を合せぬ事はあるまい。」と思うて待つところに、人見が次第に近づくによつて、猪俣つつと立上つて力足をふんで、拳を握つて越中の前司が胸板をちやうどつく。思ひもかけぬ事なれば、後ろの水田へ仰のけに突き入れられ、起き上らうとする所に、猪俣上にむづと乘りかゝり、やがて敵の刀を拔いて、草摺を引上げ、柄も拳も通れと、三刀刺いて首を取つて、人見が落合うて論ずる事もあらうかと思うて、前司が首太刀の先に貫いて差上げて、「平家方に聞ゆる越中の前司をば猪俣かうこそ討て。」と、高らかに名のつて、その日の高名の一と筆につけられたと申す。

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第九 平家の一門の人々多う討たれられたそのなかに、敦盛熊谷に會うて討死の事。

右馬。 お草臥れあらずは、まつとお語りあれ。
。 心得まらした。一の谷の軍敗れて後、通盛忠度を初め歴々の一門の人々討たれられ、重衡は生捕られた。その内に敦盛をば熊谷が討つてござる。熊谷は「よからう敵がな、一人。」と思うてまつ所に、武者一騎沖な船に目をかけて五段計り泳がせてくる。熊谷これを見て、扇をあげ、「返せ\/。」と招けば取つてかへし、渚へ打上ぐる所を、熊谷願ふ所なれば駒のかしらもあへず、押並べて組んで落ち、さうのひざで敵が鎧の袖をむずと抑へ、首をかゝうと兜をとつて押しのけて見れば、まだ十六七と見えた人のまことに清げなが、薄化粧して酸漿かねつけられた。熊谷「これは平家の公達でこそおはすらう。侍ではよもあらじ。熊谷小次郎を思ふやうにこそ、この人も思はせられう。いとほしや! 助けまらせうずる。」と思ふ心がついて、刀を暫し控へて、「いかなる人の公達でござるぞ? 名のらせられい。助けまらせうずる。」と申せば、「汝は何たる者ぞ。」と問はるれば、「その者にてはござなけれども、熊谷と申す者でござる。」と申せば、「さてはがためにはよい敵ぞ。に會うては名乘るまい。唯今名乘らねばとて、隱れあらうものか? 首實檢の時、安う知れうぞ。急いで首をとれ。」とあつたれば、熊谷思ふやうは、「唯今この人討たねばとて、源氏勝たうずる軍に負けうでもなし、討つたればとて、それにはよるまじい。」と思うたれば、「助け奉らばや。」とうしろを顧る所に、味方の勢五十騎計りくる間、熊谷助けたりとも、遂にこの人遁れさせられまじければ、後の御孝養をこそ仕らうずれとて、御首おんくびをかいて後に聞けば、修理の太夫だいぶの末の子敦盛と申して、生年十七であつた。御首をつゝまうずると鎧直垂を解いて見れば、錦の袋に入つた笛を引合せにさゝれた。これは父修理の太夫幼少の時、鳥羽の院から下された小枝といふ笛でござる。熊谷是をみて「いとほしや! けさ城のうちに管絃させられたは此の君でこそござるらう。當時味方に東國から上つたつはもの、幾千ばんかあらうずれども合戰の場に笛をもつた人はよもあらじ。何としても上臈は優にやさしいものぢや。」というて、これを義經の見參に入れたれば、見る人聞く者、涙を流さぬはなかつたと申す。それからして熊がへが發心の思ひは進んだと聞えまらした。さうあつて敦盛のお形見を沖な船に送り奉らうとて、最後の時召された御裝束以下いげ一つも殘さずとりそへて、状をかいて修理の太夫殿へ奉つたれば、返状もござつた。

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第十 通盛の北の方小宰相の局、通盛に後れ身を投げられた事。

右馬。 その軍が敗れてからは何とあつたぞ?
。 平家は軍敗るれば、先帝を初め奉り人々船に取乘つて海にうかび、或は蘆屋の沖に漕ぎ出だいて、浪に漂ふ船もあり、或は淡路の瀬戸を押渡つて、島がくれゆく船もあり、まだ一の谷の沖に漂ふ船もあり、浦々島々が多ければ、互に生死も知りがたかたつたと聞えまらした。平家國を靡かす事も十四ヶ國、勢の從ふ事も十萬餘騎、都へ近づく事も思へば、僅に一日の道であつたれば、今度はさりともと思はれた一の谷をも落されて心細うなられた。海に沈んで死するは知らず、くがにかけた首の數二千餘人としるされた。一の谷の小篠原おざさワら緑の色も引きかへて薄紅になつた。今度の合戰に討たれられた一門の人々、通盛を初め、十人の首、都に入り、重衡は生捕りにせられて渡されられた。二位殿これをきかせられて、「弓矢取りの討死する事は世の常ぢやが、重衡は今度生捕にせられていかばかりの事を思ふらう。」とて、お泣きあれば、北の方も樣を變へうずるとあつたを、先帝お乳人であつたによつて、「何としてをば捨てまらせられうぞ。」と、二位殿制しさせられたれば、力に及ばずあかし暮された。
通盛の侍に瀧口といふ者北の方へ參つて、泣く\/申したは、「殿ははや敵七騎が中に取籠められて、遂に討死せられた。瀧口もやがてそこでお伴に討死をも仕らうずるが、かね\〃/御事をのみ仰せられ、『はひまもなう軍の場に向ふ。われいかにもあらう所で、後世のお伴仕らうと、相構へて思ふな。唯命生きておゆくへを見つぎまらせい。』と、さしも仰せられたによつて、甲斐なう命生きてこれまで參つてござる。」と申しもあへず泣いた。
北の方聞召しもあへず、思入らせられた氣色で、伏し沈んでなげかれ、「一定討たれられさせられた(*ママ)とは聞きながら、『もしや生きてもお歸りあり、僻事でもあるか。』と二三日は只かりそめに出た人をまつやうにまつたことこそ悲しけれ。むなしう日數を過ぎ行けば、もしやの頼みもかきたえて、心細う思ひあり。」乳人の女房只一人あつたも、同じ枕に伏し沈んで泣いた。

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(*卷四 了)


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