芭蕉庵桃青傳 - 1 -
内田魯庵 著、柳田泉 編
(立命館出版部 1942.11.25、3版 1943.12.1)
※ 明らかな誤植は訂正し、人名タグを施した。(* )は入力者注記。
〈参考〉伊地知鐵男他編『俳諧大辞典』(明治書院 1957.7.10)
序にかへて(柳田泉)
目次
本文(芭蕉庵桃青伝)
芭蕉後伝
東花坊支考
挿入圖版目次
(*図版は省略。)
- 第1圖 芭蕉像 杉風筆 菊本直次郎氏藏
- 第2圖 蝉吟筆 宗房筆 短册 田中善助氏藏
- 第3圖 芭蕉住居趾(無名庵) 伊賀上野市所在
- 第4圖 芭蕉消息 去來宛 菊本直次郎氏藏
- 第5圖 芭蕉筆 葛の葉畫讃 菊本直次郎氏藏
- 第6圖 芭蕉像 西島百歳筆 菊本直次郎氏藏
- 第7圖 芭蕉筆 あつめ句卷(貞享4年秋)部分 菊本直次郎氏藏
- 第8圖 芭蕉筆 秋の風畫讃 菊本直次郎氏藏
- 第9圖 芭蕉讚 許六畫 瀧ニ山吹圖 菊本直次郎氏藏
- 第10圖 芭蕉消息 雲竹宛 菊本直次郎氏藏
- 第11圖 芭蕉古郷塚 伊賀上野市愛染院内
序にかへて
魯庵翁の『芭蕉傳』が、お子さんの巖さんのお友達がた、殊に森暢さんのお世話でいよいよ單行本となることが出來た。何一つ骨を折らなかつたわたしが、ここに一言するなどといふことは、僭越至極な次第で、たとひ皆さんからお前が何か書けといはれても、たつてお斷して、たゞつゝしんでおよろこびを申しをる方がよいのであるが、さてそれが出來ないほど、今わたしの心につよくひゞくものがある。はしがきの代りに、それを一言さしていたゞくことにする。
此の『芭蕉傳』は、いはゆる隨筆家として知られた魯庵翁の著作としては、およそ風の變つたものである。それはなぜかといふと、この作は、いはゆる隨筆には禁物とでもいひたい生まじめな情熱で一貫されてゐるからである。日本の文學を元祿に集め、元祿の文學を芭蕉に集め、その芭蕉のあらゆる點を景仰の心で描くことによつて文學に對する腹からの情熱といふものを、思ふ存分放射させた書である。魯庵翁の博識を知つてゐる人は多い。その浩聞を知つてゐる人も多い。また翁の皮肉を知つてゐる人、警句を耳にした人も頗る多い。その趣味、その通に服する人も、また頗る多い。然し、人間としての魯庵翁が、本來恐ろしく生まじめな情熱漢であつたのだといつたら、おそらく承知しない人の方が多いであらう。けれども、わたしの知る限り、この純一な、ひたむきな情熱漢といふのが、實は、わが魯庵翁の本色であつたのである。魯庵翁は、幅のひろい人であり、店の多い人であり、例へていふと、參詣者に七面八面の異つた顔をしてみせる佛菩薩のやうなところがあつた。その爲め翁の人格も、いろいろと解されることを免れなかつたやうに思はれる。また現にいろいろに解され、いろいろ評されてゐたことをわたしなども知つてゐる。然しその七面八面の奧の本來の面相はといふと明るきを好み、正しきを愛し、清きにあこがれ、曲つたこと、汚いことが大きらひであり、それ故に腹の中から眞の文學といふものに身も魂もうち込まざるを得なかつた情熱の人であつた。それを、その一斑をわたしどもはこの『芭蕉傳』によつて知ることが出來るのである。
正直にいふと、
翁の幾多の名隨筆にふれる前に、
わたしをして
翁の偉さに服させたものは、此の『
芭蕉傳』であつた。これを書いたころの
翁は三十になるかならぬの若い時代であつたが、これを讀んだ
わたしはもつと若かつた。この書の前半は
太陽に出で、後半は
俳諧文庫の附録として公けにされたものであるが、
わたしは
太陽の分は容易に手にすることが出來たが、その後半をよむには容易ならぬ苦心を要した。然し、種々苦心して入手して、あの
芭蕉と門下のあつい師弟の愛を熱情を傾けて敍したところを讀んだときには、入手の苦心など全く忘れるほどの感激を覺えた。
わたしは文字通り眼に涙をうかべて、感嘆これを久しうしたことをはつきり覺えてゐる。
此の『芭蕉傳』が公けにされて以來、芭蕉傳についての研究も大に進歩し、從來に比して驚くべきほどいろいろなことが明らかにされて來たらしい。それは、近年刊行された芭蕉關係書を瞥見しても知られるところである。魯庵翁の此の『芭蕉傳』には、史實なり、考證なりについて多少の補正を要するものがあるかも知れない。然し人の傳記の生命は、その人に對する深い理解と熱烈な愛の氣もちである。史實も考證も、この心があつて始めて生きるものである。この點で、幾多の芭蕉傳があるにかゝはらず、わたしは、今日でも依然魯庵翁の『芭蕉傳』を第一によめとおすゝめしたい。ひとりわたし自身が幾むかし前に得た感激からのみさういふのではない。事實、魯庵翁の『芭蕉傳』には、それだけの價値があるのである。
魯庵翁の『芭蕉傳』はこれほどの大した書なのに、これは恐らく翁の著作中もつとも人によまれたことの少ない部類に入つてゐよう。これは、一に單行本として刊行されてゐなかつたからである。だがこの困難も、今はなくなつた。やがてこの書も、翁の幾多の隨筆集と同じやうに、手から手へとひろくわたつて、良書は自らをすゝめるといふ諺を如實に示していくであらう。まことにありがたいことである。
昭和17年九月のある雨の日
柳田 泉
目次
※ 34以降は、別ファイルとした。
曾て芭蕉句集を繙きし時より、其飄逸なる風骨を喜びて日夕愛誦し、終に翁を傳する志を起せしが、余の淺才寡聞なる到底其業を成難きを知りて、中頃全く廢絶するに至りき。然るに翁に關する諸説まち\/にして其眞偽を甌別しがたきもの多く、且又翁の傳とし見るべきもの全く少きは、日本文學史の爲頗る遺憾なれば、余先づ隗となつて初めんとす。勿論余が列記する處は概ね人口に膾炙する事跡のみなれば、遼東白豕の嘲は余の不才本より之を甘んず。更に弘く史料を拾輯し深く研鑽研究して、以て日本文學史の缺を補はんとする如きは暫らく之を後の博雅なる君子に待つ。
1 芭蕉の父祖
松尾芭蕉は伊賀國阿拜郡柘植庄に生る。平姓にして彌平兵衞宗清の苗裔なり。平氏滅後宗清伊賀國に遁る。右馬頭頼朝、宗清が曾て己の爲に哀を清盛に乞ひて斬を免かれしめたるを徳として阿拜、山田二郡の内三十三邑を賜ひて老を養はしめたり。宗清の子土師三郎家清、夫より五代を經て清正といふ人に子數多ありて家を分ちぬ。一説に宗清の采地に在るや、柘植の枝を栽ゑしに繁茂して花咲きしかば子孫の繁昌を祝して柘植氏と稱し、終に其郷に名けたりといふ。支考が建てし碑に百地黨の別流とあれども、伊賀の國人は芭蕉の祖先に百司姓ありしを謬れるなりとも云ひ、竹二房『正傳集』には母の姓桃地(或は桃池)を謬りしなりとも云ふ。
父を儀左衞門(*與左衞門)と云ひ三子あり。長を與左衞門(*半左衞門命清)と云ひ、同國上野赤坂町に住し手跡師範を以て業となしぬ。次に半左衞門命清と云ひ藤堂主殿(一説に九兵衞)長基に仕へたり。季子即ち芭蕉なり。是れ伊賀の傳説にして、竹二房は其『正傳集』に載せ、湖中は其説を是としたれども、『繪詞傳』(*蝶夢による伝記)初め諸書には父與左衞門二男四女を生み、長儀左衞門のち半左衞門と改め、次は即ち芭蕉なりと記しぬ。何れか其の信なるやを知らず。但し前説とすれば長與左衞門は早世せしものにや、其名諸書に見えざれば或は後説を以て正しとすべき乎。又半左衞門命清は藤堂新七郎良精の臣なりといふ説あり。之も精しからず。(幸田露伴子の調べによれば芭蕉の父は伊賀の鐵砲鍛冶松尾甚兵衞なりとする異説ありとぞ。)母の姓氏は詳かならざれども湖中の編みし傳に由れば、伊豫宇和島の産にして桃地氏なりといふ。
芭蕉の生れしは諸書多く正保元甲申年とすれども、正保は寛永二十一年十二月を以て改元せしなれば、生誕の月日精しからざれども、恐らくは正保元年とするより寛永二十一年とする方正しかるべし。幼名金作又は半七郎或は甚七郎(一説に藤七郎)又甚四郎と云ひ、のち忠左衞門宗房と改む。其日庵錦江の説には、忠左衞門は後年水道事業に從ひし時に假に名乘りしものなるべしと云へど、良忠の遺髪を收めたる高野山報恩院の過去帳に、松尾忠左衞門殿と記されたる事實あれば本より臆説たるに過ぎず。金作又は甚七郎は少年の時の名なりしなるべし。
2 芭蕉と蝉吟
承應中、藤堂良精の臣となり子息良忠に仕へて小扈從を勤む(錦江『芭蕉翁傳』)、通説は寛文二年十九歳の時初めて仕官したりとなせども、君臣の情誼尋常ならざるより推すれば、前説較や信ずべきに似たり。良忠は季吟の門人にして蝉吟と號す。湖中の『芭蕉翁略傳』に擧げたる「大坂や見ぬ世の夢の五十年」及び蝶夢の『古人眞蹟』に載せたる「そり高き霜のつるぎや橋の上」等の外、傳はるもの少なれども俳諧の數寄者にして、恐らくは芭蕉を俳道に導くに與りて力ありしなるべし。一説に明暦三年芭蕉は蝉吟と共に季吟の門に入りたりと云へど(『桐雨筆記』?)是芭蕉に「犬と猿世の中よかれ酉の年」の句あるより生ぜし推斷にして、明暦三年は芭蕉十四歳の少年にして蝉吟は凡そ十歳の年長なれば師匠株にして、中々に手を携へて共に季吟に教を乞ひたりとは思はれず。案ずるに宗祇中興して連歌勃興するや、初は堂上公卿のすさみたりしものが漸く武家の間に廣まりて、里村紹巴以後織豐時代には弓馬槍劍と共に武家が心得べき必須の技藝にして、此道に暗きものは武士たる體面を傷つくる觀ありき。荒木田守武より降りて松永貞徳に及び、俳諧漸く盛行して連歌に代ると共に、武家の風流は又俳諧を嗜む習俗を作りたり。兵馬縱横する戰國時代すらなほ槊(*矛)を横へ戈を枕にしつつ連歌に興を遣りしものが、島原亂熄みて天下泰平を唱ふ時に至りて更に興味深き町人的連歌たる俳諧を玩びて、風流武士の品位を修飾せんとするは當然なり。藤堂蝉吟も即ち其一人にして、平生吟咏に耽りて侍臣を風化したるは想見するに足る。而して松尾甚七郎が幼時より此俳諧殿樣の左右に扈從して、既に萠芽せる詩才を培養し來りしは特に説くまでもなし。
3 遁世及び其理由
寛文六年四月蝉吟物故す。其主人たり師匠たり且つ親友たりし人と別れて深く哀悼し、同六月悲嘆の餘りに遺髪(一説に遺骨とあるは信ずべからず)を奉じて高野山に行き、報恩院に收め厚く供養して其月末に下山しぬ。秋七月終に遁世の志止みがたく同僚城孫太夫の門に「雲とへだつ友かや鴈のいきわかれ」の一句を張りて主家を脱奔したりき。此遁世に就きては世にまち\/の説ありて決せず。一説に之より先き寛文二年宗房十九歳の時、蝉吟夫人の侍女と通ぜる寃罪を負ひ太く憤慨して一端主家を奔り、其後蝉吟の訃を聞て再び歸參し遺髪を高野山に藏めて歸國し、親友舊友等が更に復た勤仕すべき勸告を斥けて飄然郷を去りしといふ(錦江『芭蕉翁傳』)。又一説に蝉吟歿後繼嗣の爭を生じ、宗房は夫人を助けて遺孤良長三歳なるを奉じ頻りに忠勤を勵みしかば、敵黨に忌まれて夫人との醜聲を傳へられしに激昂せし爲なりといふ。(伊賀の傳説、岡野正味子の『蕉翁遁世考』に出づ。)又一説に阿嫂即ち半左衞門の婦との艷聞ありしに原由すともいふ(伊賀の傳説)。何れも附會の説にして確たる憑據なければ信じ難し。案ずるに應仁以降兵戰永く續きしかば、佛教の無常觀は人心の倦怠に乘じて一種の遁世病は頻りに勢焔を逞うせり。是れ恰も革命の風歐羅巴の天地を吹暴せし後、所謂バイロニズム或はウエルテリズムが流行せしと同じ趨勢にあらずや。彼にはベーコンありニユートンあり基督教ありて、這般峻烈なる厭世主義を生じ、此には空海、行基、菅丞相ありて風流自適の遁世病を生じたるも怪むに足らざるなり。遠くは西行の如き兼好の如き皆兵亂の餘に生じぬ。足利以後に徴するも、鈴木正三の如き、石川丈山の如き、深草元政の如き、孰れか此例に洩るべきものならんや。何事にも因縁あれば渠等にも遁世すべき相應の理由ありしなるべしと雖も、抑も又時代の傾向にして原因の模糊なる、殆ど捕捉しがたきもの多きは、獨り芭蕉のみにあらざるべし。多くの好奇なる批判家は芭蕉の遁世を以て婦人との關係に歸すれども是れ或は然るべし。必ずしも然るべからず。蝉吟の物故を以て薄弱なる原因とするは、畢竟當時の潮流を解せざる爲なり。遺髪に供して遙々高野山に行きし一事、既に君臣の情誼尋常ならざりしを證す。況んや幼時より左右に侍して俳諧の教を聞きし準師弟の關係ありしに於てをや。婦人に關する諸説の虚實は兎も角、主人良忠の物故は少くも遁世の一因となすに十分なるべし。
4 遁世以後
伊賀を脱奔して後、大阪に行きて西山宗因に師事したりとも云ひ、若くは洛に赴きて北村季吟の門に入りたりとも云ふ。芭蕉が俳諧に入るに談林を以て初めたるは、作句より考ふるも當時の俳諧風より推するも、宗因大全盛を極めて古調を壓倒せし時なれば、勿論談林の風化を受けしは疑ひなし。然れども宗因に師事して其時宗房と號したりと云ふは附會の謬説にして、芭蕉が宗房と名乘りしは宗清の苗裔たる故のみ。又季吟の門に入りし年代は判然せざれども、遁世以後凡そ數年間其門に學びしは確實なるが如し。
5 桃青の號
京に在りて泊船堂桃青、又釣月軒宗茂と號しぬ。宗茂の名頗る怪しむべし。泊船堂は江戸深川に住ひし時の別號なりと云ふ一説あり。寛文十二年の『貝おほひ』の序に、松尾氏宗房釣月軒にて自ら序すとあれば、釣月軒は正しく京都にて號せしものなるべし。
桃青の號に就きては確實なる季吟の手紙今猶某氏の家に傳はる由、岡野正味子語りき。
其文に
夕方より愚亭にて相催候間御來臨可被下候。桃青にも相待居候。
昨夕伊賀より宗房上京仕候て桃青と改名いたし候由、其名かへのため俳諧致呉樣申候間則申入候御覽可被下候。
名をかへて鶉ともなれ鼠どの
季吟
安靜丈(*丈は敬称。)へ
此手紙に由れば京都に於て既に桃青と號せしは明白なる事實にて、其號の出所は『兼山麗澤秘策』に『桃青も昔人にて李白を學び候て桃青とつけ申し候由に御座候。』とある如く李白に對して桃青と名づけたるものなるべし。此號に就きては猶數説あり。佛頂和尚に參禪し剃髪せし時、梅子熟せざるの意を取りて桃青と號せしとも云ひ、又佛頂和尚より汝が佛道桃の青きが如しと呵せられしより號せしとも云ふ。又桃地黨の別流にして桃姓なるが爲桃青と號したりとも云ふ。前説は時代を異にせる附會の妄説にして、後説の如きは輕口駄洒落に類する詼語(*詼謔の語)共に取るに足らず。夭々軒(*詩経「桃夭」)、栩々齋等は其頃の別號なるべし。
6 宗房時代の芭蕉
寛文六年七月國を去つて寛文十二年九月江戸に上りしまで、六年間は全く京に在りしや將た何地に暮せしや絶えて確説の傳るを知らず。『貝おほひ』の序に伊賀上野松尾氏宗房序すとあるは、伊賀上野の人といふ義歟、將た伊賀上野にての意歟、何れにも解釋せらるべし。一書(書名今記憶せず)芭蕉自ら曾て太宰府に參詣せる由を見たり。且つ門人浪化の物語に、其昔翁が肥後山中を過ぎたる時の逸事を傳へたれば、一ト度九州を遍歴せしは明かなれども、延寶以後竟に播州以西に旅せし事蹟なければ、此西遊は恐らく寛文年中なるべし。而して季吟の門に在るや、專ら其教を受けて連歌を研究し、又古典を授りしは勿論なるべしと雖も、一説には季吟が古典註釋の業を助けたりともいふ。季吟の物語に『ある時桃青申されけるは『萬葉集』を周覽せしに全篇諸公卿の選び給へるものとは見えず、多くは其人々の家の集を後に寄せ集めたるものと見ゆとなり。此事余が見識の及ぶ處にあらず。桃青のいふ事を聞てより大に利を得たり。』云々とあるを以て見れば、縦令專ら其業を助けしにあらざるも、季吟が時として芭蕉の見解に待つ處ありしや明らかなり。
7 「志賀の仇討」
故郷及び京都に於ける宗房時代の生活は、斯くの如く模糊として傳はれば好事家の想像より作爲せられたる奇説怪談多し。最も可笑しきは紀上太郎(*三井高業)が作『志賀の仇討』(安永五年八月板の院本)にして、世に喧傳せる伊賀越仇討に芭蕉遺事を附會せしものなり。本より兒女の嗜好に投ずるを專門とする夢幻劇なれば何等の價値なしと雖も、芭蕉を以て劇中に人物となせしは恐らく此院本以外に有るまじければ、芭蕉に關する物語の大意を擧げんに、藤堂家の江戸詰の家老松尾半左衞門弟藤七郎なるものありて、兄と共に奧方久振りの入國に供して郷に歸りし後、奧方附の侍女さくら即ち連歌師松永貞徳の女と慇懃を通じたりしに、戀と權力との競爭者設樂傳八郎、河合政五郎に忌まれ三十三間堂に擬したる通し矢に耻辱を取りて亂心しぬ。情人さくらは太く悲みて藤七郎の忠僕、寶井晋介と共に狂亂せる藤七郎を看護しつゝ逍遙ひ行く中、兄半左衞門が敵の奸計に落ちて梟首に掛けられたる無殘の樣を見て忽ち恒心に復して終に三人仇討に出掛けたりき。然るに同じ奸黨に苦められたる渡邊東之助は蘭又右衞門に助けられて、上野の城下に首尾よく怨敵を打果せし處へ藤七郎主從來りて一刻を遲れて遺恨の刄を報ゆるを得ざりし武運拙きを悲みて自殺せんとしたるを、東之助・又右衞門等に止められて、迚も自殺せんよりは兄の菩提の爲出家して後世を弔ふに如かずと、信義を籠めたる道理に服して髻拂ひ、松尾が松の葉の狹き心も廣々と廣き芭蕉の葉の如く「船となり帆となる風の芭蕉かな」と祝して之より芭蕉翁桃青と名乘り、俳諧一道を弘めて兄の菩提を弔はんとて行脚の首途、忠僕寶井晋介も寶晋齋其角と改め、主の芭蕉を師と奉じて隨身しける、是れ正風俳諧の濫觴なりといふ。芭蕉が侍女と通じたる説の眞僞は兎に角、之を種子にして夢幻劇を作りたるは極めて面白し。取別け芭蕉の情婦を以て松永貞徳の女となし、寶晋齋其角を其忠僕となし、連歌に浮かれて武藝の面目を損せし爲狂亂せしめたる趣向は、古池やに禪を拈りたる芭蕉を阿倍保名(*竹田出雲『蘆屋道満大内鑑』)的の艷冶郎とし了たり。流石の芭蕉も之を知らば恐らくは眉を顰めて苦笑するを禁ずる能はざるべし。
8 初めて江戸に下る、卜尺及び杉風
寛文十二年九月二十九歳にて初めて江戸に下る。江戸に下りて何れに草鞋を解きしやに就きては異説頗る多し。江戸本船町(又小舟町)の町名主小澤友次郎といふもの、季吟門人にて卜尺と號す。桃青は同門なりし故京都にて交誼を結びたれば、此縁故に由りて卜尺の家に便りたりといふが通説なり。『杉風秘話』に、「松尾甚四郎殿伊賀よりはじめ此方へ被落着候。剃髪して素宣と改められ」云々とありて、杉風に便りしといふも一説なり。されど江戸に下りし時と剃髪せし時とは同じからねば、剃髪説は頗る疑ふべし。又『眞澄鏡』に異説あり。杉風手代伊兵衞なるもの芭蕉の甥にして此由縁を以て杉風の家に便りたりといふ。杉風は杉山氏、市兵衞又藤左衞門と稱す。小田原町に住して幕府の御納屋を勤めたる商人なり。初め季吟に學び後芭蕉を仰いで師となしぬ。初めて褐を釋きし家の卜尺なるや、將た杉風なるやは判然せずと雖も、何れにせよ、此二人は少なからぬバトロ子ージ(* patronage)を與へたるが如し。
9 芭蕉と桃青寺
茲に芭蕉の東下に就き其日庵に傳ふる一異説あり。芭蕉が東海道を下りし時偶々江戸中の郷定林院の默宗和尚と邂逅し、共に禪を談じて一見舊知の如く終に相伴うて草鞋を此禪刹に解きたりといふ。定林院は即ち今の芭蕉山桃青寺にして、寛永三年默宗和尚の開創する處なり。八世陽國和尚の記に由れば、寛文年間芭蕉翁桃青初めて關東に來り、草鞋を此地禪室の側に脱ぎて自ら小庵を結び、悠遊閑を養ひ朝暮に參禪して道を問ひたりといふ。此説單り其日庵に傳はりて諸書に見えずといへど、全く等閑に附しがたし。定林院は今の本所原庭町に在りて、茲を去る程遠からぬ石原町に住みし長谷川馬光の先代より傳はれる芭蕉の手紙あり。其文に曰く、「鋸少々の内御貸し可被下候。五日、芭蕉。はせ川樣」と。口碑には長谷川家と芭蕉とは相隣りしたりと傳はれども、茲に訝かしきは芭蕉の名にして、桃青が芭蕉と名乘りしは之より數年後杉風の別墅に住ひし時なれば、若し長谷川家と芭蕉と相隣りしたるにもせよ、此手紙は定林院の草庵に暮せし時にあらざるべし。因に云ふ、芭蕉歿後素堂翁を追悼して定林院の境域に桃青堂を建立し、翁が遺愛なる頓阿彌の西行像と新たに刻める翁の像とを祀りぬ。素堂歿後二世其日庵馬光は素堂が像を作りて合祭し、三月及び十月の二季に俳筵を開きて追善供養をするを毎年の例となしぬ。此由縁に依りて延享二年九月白牛山定林院を改めて芭蕉山桃青寺と稱せしが、其後故ありて再び白牛山東盛寺と改めたるを、今の十一世其日庵素琴子往時を追懷して、明治二十六年更に桃青寺の名に復し芭蕉堂を再脩したりき。是等の由緒及び舊記あれば全く不稽(*荒唐無稽)の妄斷とすべからず。案ずるに卜尺或は杉風に便れりと云ひ、又此定林院に草鞋を解きたりといふは何れも皆多少根據あるが如ければ、なほ深く考へざれば遽に其眞假を判じがたし。
10 芭蕉庫の説
又一異説あり。『東都翁塚記』に出づ。曰く、『芭蕉庫は駿河臺中坊家に在り。抑も此文庫は往古慶長五年初めて營み給ふとぞ。それより五六年の春秋を經て明暦三丁酉年の災に、門舍閨房悉く烏有となりけれど、此庫ばかり幸ひに免かれたり。家君は公事ありて久しく南都に留まり給へば老臣濱島氏のみ此文庫に草庇して獨り燒野の野守と過しぬ。これも亦二十五ヶ年ばかりとぞ。そのころにや芭蕉翁伊賀國より來つて爰に草鞋を解く。これ我が翁この都に風雅をのこし給ふ結縁の始とぞ。さて此濱島氏ももと伊勢國阿濃津の藩より出でたれば一ト方ならぬ因の引く處にして、終に此文庫を暫時の寢處としたまひたるを、かの杉風が情厚くして深川に迎へられ給ひしとぞ。』云々。(大野洒竹子『芭蕉雜考』より再抄。)此説信憑するに足るや否や決しがたけれども、蓋し椿説として聞く價値あるべし。思ふに飄然東武に下りて一身を委ぬるに頼るべき家なくして、此處に三日彼處に五日と諸方を廻りて代る\/に假り宿を定めしなるべし。
11 關口水道工事
此芭蕉庫に就きてはなほ説あり。關口水道工事の奉行は此中坊氏にして、中坊氏は幕府の命を受けて芭蕉に設計を爲さしめたりといふ。案ずるに此水道普請に就きては異説紛々として決せず。杉山市兵衞(杉風)或は小澤友次郎(卜尺)の口入にて傭夫に出でたりと云ひ、又は書記役を勤めたりともいふ。『武江年表』に「神田上水御再修の時藤堂家より御手傳として松尾忠左衞門堀割の普請奉行たりしと云へり。」云々とあれど、芭蕉は藤堂侯の陪臣たる上に、一端(*ママ)致仕引退したる身がいかで再び奉行の重任を命ぜらるゝ事あるべき。されど許六が『滑稽傳』及び其他の諸書に説けるが如く傭夫となりしといふも極めて訝かし。傭夫の文字漠然たれば、或は土方人足の意味にも有るまじけれども、苟も武家に生れ、仕官の經歴ありて、加ふるに季吟門下の秀才たる造詣あるものを、縱令陋巷に窮するとも卜尺若くは杉風が斯る賤役を周旋したりとは思はれず。一説には松村市兵衞と假に稱して幕府に奉仕し此工事に從ひたりともいひ、或は幕府の作事方松村市兵衞方に寄食して此作事の黒幕たりしとも云へど、之と似通ひたる中坊氏設計の參劃を成したりといふ説と共に愈々椿奇にして遽に輕信する能はず。芭蕉にして若し斯の如き土木上の技倆ありて眞に此設計をなせしものならば今少しく明瞭なる事跡を殘すべきに、餘りに漠然に失するは頗る怪むべし。此故にまた全く虚傳なりとし素堂の笛吹川疏水事業と混同せるものと考ふる人あれども、素堂が元祿八年歸郷して櫻井孫兵衞に笛吹川工事を委托されし時、吾友桃青も曾て力を水利に盡したれば云々と云ひし由、正しくに其日庵傳ふる素堂傳に出でたり。且つ芭蕉時代を距る遠からぬ記録に多く散見すれば、書記役歟、傭夫歟、將た設計者歟は分明ならざれども、兎にかく事に從ひしだけは誤傳にあらざるべし。而して其時代は寛文十二年に東下し延寶二年に薙髪したれば、俗體にて江戸に在しは僅に一年有餘の間の事業なるべしと思はるゝに、『嬉游笑覽』に古き日記を引て曰く、『延寶八年申の六月十一日。明後十三日神田上水道水上總拂有之候間致相對候町々は桃青方へ急渡可申渡候。』云々と。然るに延寶八年は既に深川に在りて風羅坊と稱し、『江戸三百吟』『次韻』『門人二十歌仙』『常盤屋句合』『田舍句合』等を著し松尾桃青の名廣まりし後なれば、法體にて茶色の淨衣を着けたるものが水道普請の傭夫にまれ書記役にまれ從ふは餘りに可笑しき事ならずや。北村■(竹冠/均:::大漢和26032)延(*ママ。喜多村■(竹冠/均:::大漢和26032)庭か。以下訂正した。)は該博なる考證家なれども、出處確實ならざる日記を輕々しく信ずべからず。同じ■(竹冠/均:::大漢和26032)庭の『過眼録』に芭蕉が官金を拐帶して、時の奉行所にて處分を受けし一事を掲げたりと雖も、『過眼録』は未だ窺はざれば實否を知らず。且つ案ずるに寛文年間は知らず延寶四五年以降は芭蕉の消息較や分明にして既に俳諧の一家をなしたれば、年暦の上より考ふるも酒色に沈溺し官金を費消して出奔し、又處分せられし時間ありと信ずるを得ず。恐らくは好事者が作爲したる僞傳なるべし。要するに水道工事に關係したるは實らしけれど、之に隨伴する事實は多くは附會の妄説にして、殊に遊蕩して官金費消の罪を犯せし一事の如きは、前の狂亂と同一般の小説なり。大野洒竹子は此時代に於て卑俗の興樂を擅にしたりと揣摩し、芭蕉を以て遊びぬいたる人となせども(『芭蕉雜考』)、確固たる根據あらば知らず、■(竹冠/均:::大漢和26032)庭の隨筆のみに頼るは猶慎密ならず。支考の『露川責』に云ふ、『むかし西行宗祇など兼好も長明も今日の芭蕉も酒色の間に身を觀じて風雅の道心とはなり給へり。』と。支考は我が田に水を引く態の説を作るものなれば、是も遽に信ずべからざれども、芭蕉にして若し斯る遊蕩時代ありしならば則ち寛文以前にして江戸に下りし後にはあらざるべし。啻に其時間なかりしのみならず、斯る不徳を働き斯る不始末を釀せしものが、僅に三四年を經て忽ち他より藝術以外の尊敬を買得る事あるべき。況んや杉風、卜尺は東下以後の交にして其角が隨身せしは延寶二年頃なれば、若し芭蕉にして斯る罪科を犯せしならば、是等二三子がいかで芭蕉の放蕩遊惰に耽りし記憶を忘れて、なほ恭敬慇懃の體を盡して仕ふる事あるべき。官金費消一事、恐らくは巧妙なる似而非物語にして、到底信を措きがたし。
12 關口芭蕉庵
關口の芭蕉庵(今は田中光顯子の庭中にあり。)は水道工事に縁ある遺跡なり。水道修築に從事せし頃、芭蕉屡々來りて關口龍隱庵を訪ひ、頻りに早稻田の風色が粟津に髣髴して、丘上を流るゝ水に渡されたる假橋が、宛がら長橋の趣に似たるを激賞して止まざりしかば、後年芭蕉翁の名天下に高きに及び、翁歿後寛延三年、馬光の門人露什、芬露等謀りて、芭蕉が自筆の短册「五月雨に隱れぬものや瀬田の橋」を認めたるものを埋めて紀念の塚を築きぬ。之を五月雨塚と呼び、芭蕉庵の風光實に高田の一名勝として聞ゆ。
13 高野幽山執筆者となりし説
芭蕉が東武に下りし後、高野幽山の執筆者となりし由『眞澄鏡』に見えたり。水道工事の前なるや後なるや判然せざれども、俳諧師の出身としては頗るむなしき説なり。幽山は松江重頼の門にして、丁々軒と號し本町河岸に住めり。後藤堂任口に仕へて竹内爲人と改む。任口は藤堂家の庶流にして出家して伏見西岸寺の住職となる。延寶年中屡々季吟父子を召して俳諧を學びし斯道の數寄者なり。芭蕉が幽山の執筆者となりしは卜尺の周旋なりしや否やは知らねど較や信憑するに足る。
14 芭蕉庵の號
延寶二甲寅年卅一歳にして薙髪して
風羅坊といふ。深川
杉風の庵に入る。門人
李下芭蕉一株を栽ゑたれば「ばせを植て先にくむ萩の二葉哉」と咏じ、之より世人呼んで芭蕉庵と云ひしとぞ。此芭蕉庵の名に就きても又異説あり。
其角の『
終焉記』には
天和三年草庵再建の後「芭蕉野分して盥に雨を聞く夜哉」の句ありしより芭蕉庵と號し、又
芭蕉翁と稱するに至りしと云ひ、
支考、
許六初め諸説多く之に従へども、此句は
天和二年の『
武藏曲』に茅舍の感として載せられ、殊に
芭蕉庵桃青の名をさへ明かに署したるのみならず、
素堂が再建勸化の文にも芭蕉庵とあれば此以前よりの號なるべし。按ずるに
杉風に二草庵ありて一を採茶庵、他を芭蕉庵と呼びて、此芭蕉庵に
桃青を請じて師事せしものが、
桃青の名高くなると共にいつかは其專有となりて、世は其初め
杉風の庵號たりしを忘れたりしならん。されば『
杉風句集』にも明かに芭蕉庵主として
杉風自ら名乘りたりき。草庵燒けて後再建するに及んで芭蕉を栽ゑしは、畢竟舊庵の名殘にして芭蕉庵の名
桃青に初まりしにあらざるべし。又奇怪なる一説あり、『
隨齋諧話』に出づ。曰く、『江州水口小坂町たばこ屋
久右衞門表號
李風といふ人の許に
季吟の眞蹟を藏せり。即ち
季吟門人
芥船といふ人より讓り得たるものなりといふ。其文、
きのふ松尾氏桃青來りて予に改名を乞ふにいなみがたく、八雲抄のはいかい歌にならふてはせをと呼侍ることしかり。
月花のむかしを忍ぶ芭蕉かな
とありと殊に親しき人の語れり。云々。』
是れ
佛頂が
桃青と命じたりといふ説と共に時代を前後したる謬傳といふべし。
其角が芭蕉に隨身せしは十四五歳にして、恰も此時代なりと『五元集』に見えたれば、其角は杉風、卜尺に續いでの古參門人なりといふべし。
15 「春二百韻」及び「江戸三吟」
延寶五丁巳年『春二百韻』成る。素堂との聯句なり。此年冬より翌六年春へ掛け、素堂及び信徳との三百韻成る。『江戸三吟』或は『江戸三百韻』と云ふ。此三吟の卷頭三句は次の如し。
桃青
あら何ともなや昨日は過ぎて鰒と汁
信章
寒さしまつて足の先まで
信徳
居合拔きあられの玉や亂すらん
(延寶五年冬)
信章
さぞや都淨瑠璃小唄は爰の花
信徳
かすみと共に道化人形
桃青
青い面咲ふ山より春見えて
(延寶六年春)
信徳
物の名も蛸や故郷のいかのぼり
桃青
仰く空は百餘里の春
信章
峰に雪かねの草鞋翁初て
(延寶六年春)
此時代の風體推して知るべし。
16 初めて郷に歸る
延寶五年六月二十日頃、初めて伊賀に歸り同年秋再び東武に歸るといふ説あり。湖中の傳記に見えたり。即ち『春二百韻』と『江戸三百韻』との間にして、此短日月の間に何が爲に遙々故郷へ飛脚旅行を爲せしにや。此説の實否は、紀行若くは日記の殘るものなければ精しからず、頗る疑ふべし。竹二房の『正傳集』には延寶四年六月二十日、初めて歸郷すとあり。洒竹子の『芭蕉雜考』は、延寶二年に歸郷し五年の秋に再び東下すとあり。其出處の何たるや知らねど、又一異説として聞くべし。
17 「桃青二十歌仙」
延寶五年『桃青二十歌仙』成る。(一説に延寶八年。)集むる處、杉風、卜尺、巖泉、一山、緑糸子(*緑系子か。)、仙杵(*僊松か。)、卜宅、白豚、杉化、木鷄、嵐亭治助、螺舍、巖翁、嵐■(窗+心:そう:窗の俗字:大漢和25635)、嵐竹、北鯤、岡松、吟桃の二十人(*他に嵐蘭、楊水子。)、及び追加として舘子の獨吟各々三十六韻を載す。右の中、嵐亭治助は即ち嵐雪、螺舍は即ち其角にして、此二人の句の現れたるは之を以て始めとなす。杉風、卜尺等と共に蕉門創業の元勳といふべし。爰に重なる卷頭の句を示すべし。
杉風
誰かは待つ蠅は來りて郭公
卜尺
遊花老人序を述て後上戸を待つ
巖泉
蠅となつて晝寐の心栩々然たり
白豚
海鼠膓や壺中の雲の入日影
卜宅
猫の妻夫婦といがみ給ひたり
治助
霜朝の嵐やつゝむ生姜味噌
螺舍
月花を翳す閑素栖野分の名有
巖翁
長天も地につきにけり庭の雪
嵐■(窗+心:そう:窗の俗字:大漢和25635)
しくるゝや和田笠松下駄兵衞
宗因の『十百韻』に風靡したる江戸俳風を想見すべし。芭蕉門下の秀才も亦談林の圏を脱するを得ざりき。殊に面白きは治助と螺舍との句にして、後年蕉門の重鎭たる嵐雪の醇雅、及び其角の跌蕩(*気随気儘)爰に萠芽するを見る。
延寶六年の秋、似春と共に四友亭に於て二百韻の興行あり。卷頭の句は、
似春
須磨ぞ秋志賀奈良伏見でも是は
桃青
見渡せば詠むれば見れば須磨の秋
同じ時に似春、春澄と共に三歌仙を作る。又二葉子、紀子、及び卜尺と共に歌仙を作りしが、卷頭の發句頗る面白し。
桃青
實にや月間口千金の通り町
桃青の名無かりせば恐らくは之れを判するに難かるべし。此年及び翌年、似春、杉風、千春、信徳等となほ歌仙或は百韻を催したりき。
18 「田舍句合」及び「常盤屋句合」
延寶八年の秋、『田舍句合』及び『常盤屋句合』成る。前者は其角、後者は杉風の俳諧より出でて桃青の判詞あり。一は練馬の農夫かさいの野人として、一は青物類を咏題として各々二十五番五十句に成る。之より三年前の『二十歌仙』には螺舍と云はれし男が、爰に『田舍句合』に於て嵐亭治助の序に其角として披露せられたり。其角、杉風の名此時より漸く知らる。
19 「次韻」
延寶九年十月天和と改元す。此年其角、楊水、才丸と共に信徳の七百五十韻に次して二百五十韻を作る。名づけて『次韻』といふ。傳に桃青、此時其角、才丸等と謀り、貞派の古調に泥まず談林の輕浮を嫌ふて(*ママ)、洛の信徳が一生面を開ける七百五十韻を壯んなりとして學びたるなりといふ。卷頭に曰く、
桃青
鷺のあし雉子脛長く繼そへて
其角
這句以2莊子1可レ見矣
才丸
禪骨の力たはしう成るまでに
楊水
しはらく風の松におかしき
是れ信徳に做ふて(*ママ)古調及び談林を脱したりと云ふも、恐らくは猶意氣込だけに止まりしならん。次の聯句の如き明らかに是れ談林調ならずや。
桃青
女の影歸ると見えて跡凄く
楊水
若衆氣にしてやつれ凋るゝ
其角
ストント茶入落しては命とも
才丸
取あへず狂歌つかまつる月
楊水
秋の末つかた嵯峨野を通り侍りて
桃青
薄の院の御陵を訪ふ
其角
夢の身は何と松魚にさめかねて
才丸
我聞く俗は口にきたなき
楊水
生つらを蹴くぢかれては念無量
桃青
泥坊消えて雨の日青し
楊水
麥星の豐の光を覺しけり
桃青
勅使芋原の朝臣蕪房
(以下略)
後の芭蕉を見て前の芭蕉を知らざれば、凡そ是等の句に接して頗る意外の感あるべし。『次韻』時代の俳風、毫も所謂正風の氣味なきは殊に餘興四句の發句、楊水が「附贅一つ爰に置きたり曰く露」を以て歴然たり。何等の好謔ぞや。
20 枯枝に烏とまりけり秋の暮
然るに此年春出板の『東日記』は芭蕉の面目を新にすべき一句を與へたり。曰く、
枯枝に烏のとまりたる哉秋の暮
是れ芭蕉傑作の一として長く世に弘まりたる句なり。今「とまりけり」とあるは「とまりたる哉」を改竄せしなり。此句には素堂の「鍬かたけ行く霧の遠里」なる脇ありて、季吟、素堂、桃青(或は桃青、素堂、杉風)の合議により此句を以て正風を定めたる茶話口傳ありと『惑問珍』(*ママ。桜井吏登編『或問珍』か。)其他諸書に散見すれども、支考の茶話禪一般にして信ずるに足らず。或は芭蕉談林の徒と一座しける時、偶此句を吐きたれば、一座愕然として直ちに芭蕉を正座に直して尊みけるといふ説もあれど、共に好事家の作爲せるものなるべし。斯る事實の有無はさて置き、當時の談林時代にありて此句を吐き、前の『次韻』と比べて全く別人の感あるは、即ち芭蕉の才が高く衆に秀でし所以なるべし。此の句を以て貞享四年深川在庵の吟となすは誤れり。此時、芭蕉實に三十八歳。
21 「俳諧三箇津」
明くれば天和二年春『俳諧三箇津』出板せられき。『俳諧三箇津』は三都の俳匠梅翁、西鶴、高政、信徳以下三十六人の秀吟を輯めしものにして、中に江戸松尾桃青として「雨の日や世間の秋を境町」の句を載せたり。此句は談林調を帶びたる芭蕉の駄作なりといへども、又以て當時既に盛名ある梅翁、西鶴亞流と並稱せられしを知るに足る。
22 江戸に於ける西山宗因
此年三月二十八日、梅翁西山宗因僑舍に歿す。宗因寛元二年(*ママ。寛文11、12年か。宗因東下は延宝3年という。)(一説に延寶年中)を以て江戸に下り、田代松意等と共に十百韻を興行し、初めて江戸談林を建てゝより茲に二十有餘年なり。談林の勢江戸俳壇を風靡して、桃青如きすら猶一時其渦中に卷込まれたれば、桃青を以て宗因門下となし、宗房の名は此に胚胎せいりといふ説あるに至る。芭蕉は常に宗因の才藻を激稱し、宗因無かりせば貞徳の陳きを脱する能はずと云へり。實にや宗因は俳諧の革命者にして、古風の幼き滑稽より一蹴して面目を更め、變化自在なる風調を擅にしたれば、支考も「武城に談林の額打ちて俳諧の涅覓(*泥む意か。涅槃か。)を破りたる」作者とし傳へたり。俗説に、宗因一日市村座見物に行きたりし折節、初めて芭蕉と對面しぬ。其時門人何某の句案に「子はまさりけり竹之丞」として上の五文字に苦みけるを、宗因は難なく「おや\/\/」と冠すべしと教へければ、芭蕉は傍聞して太く其奇才を感歎せしといふ。事極めて面白けれども恐らくは後人が作爲せしものなるべし。
23 江戸當時の俳壇
其頃江戸は俳諧盛んにして、萬治・寛文以來、齋藤徳元、石田未得、高島玄札、荒木加友、半井卜養、神野忠知等の名匠奮つて俳諧を賑はせし折から、宗因東下して氣焔愈々上りぬ。恰も天和年中は南傳馬町の福田露言、呉服町の岸本調和、本町の小西似春、北鞘町の田代松意、本舟町の岡村不卜、本町河岸の高野幽山等、各々一方に割據して雄を張れり。されど皆貞徳の流を汲める歟、さらずは檀林(*ママ)の涎を啜る徒にして、未だ重きをなすに足らず。然るに關東俳壇の重鎭たる徳元、玄札、未得、加友、卜養等は前後相踵ぎて歿し、今年、天和二年三月未得の男未琢先づ逝き、續いて西山宗因空しく蹟を谷中に殘して隱れたれば、關東の俳風爰に一回轉する機運を作りたりき。恰も此月『武藏曲』出板せらる。卷頭に桃青の句あり、曰く、「梅柳さぞ若衆かな女かな」。
24 山口素堂
山口素堂が、東叡山下より葛飾の阿武に居を移せしも亦天和年中なり。素堂は季吟門にして芭蕉が親友なり。名は信章、字は子晋、通稱官兵衞といふ。甲斐巨摩郡教來石村字山口の人なり。代々山口に住するに依て山口氏と稱す。山口市右衞門の長男にして寛永十九年五月五日に生る。幼名を重五郎と云ひ、長じて父が家を繼ぎ家名市右衞門と改む。其後甲府魚町に移り、酒折の宮に仕へ頗る富めるをもて郷人尊稱して山口殿と呼べり。幼時より四方に志ありて、屡々江戸に遊び林春齋の門に入て經學を受け、のち京都に遊歴して書を持明院家に、和歌をを清水谷家に學び、連歌は北村季吟を師として宗房即ち桃青、信徳及び宗因を友とし俳諧に遊び、來雪又信章齋と號し、茶道を今日庵宗丹の門に學んで終に嗣號して今日庵三世となる。斯る異材多能の士なれば、早くより家を弟に讓りて市右衞門と稱せしめ、自ら官兵衞に改めて仕を辭し、江戸に來りて東叡山下に住し、素堂と號して儒學を諸藩に講じ以て業となし、傍ら人見竹洞、松尾桃青等諸同人と往來して詩歌聯俳を應酬唱和し、點茶香道を樂み、琵琶を彈じ琴を調べ、又寶生流の謠曲を能くしければ、素仙堂の名は風流を擅にしたりき。(以上『葛飾正統系圖』に據る。)桃青はもと同門の友たれば、東下以來『江戸三百韻』を初めとして、文字の交際尋常ならざりしが、殊に素堂が葛飾阿武に移居せし後は、偶々六間堀の假寓と近接したれば、小名木川を上下して互に往來し愈々親しく語らひける。素堂の號は此頃より名乘りしものにて、庭前に一泓(*淵)の池を穿ちて白蓮を植ゑ、自ら蓮池の翁と號し、晋の惠遠が蓮社(*慧遠・謝霊運等の白蓮社)に擬して同人を呼ぶに社中を以てし、「浮葉卷葉この蓮風情過ぎたらん」の句を作りて隱然一方の俳宗たり。一説に芭蕉は儒學を素堂に學びたりと云へど、其眞否は精しく知るを得ず。されど當時の俳人を案ずるに、季吟の古典學者たるを除くの外は連歌に精しき者の隨一流の識者として、素堂程の學識ある者は殆ど其比を見ず。芭蕉は稀世の天才にして且つ季吟が國典に於ける衣鉢を繼ぎたれ共、素堂如き才藝博通の士に對しては勢ひ席を讓らざるを得ざるべし。且つ縱令師事せざるも文詩の友を結んで益を得たるは、恐らく失當の推測にあらざるべし。芭蕉の遺文を案ずるに、其角丈と云ひ杉風樣と呼ぶ中に、獨り素堂先生と尊稱するを見るも亦、尋常同輩視せざりしを知るに足る。されば枯枝の吟に於ける口傳茶話の如き、蓑蟲の贈答の如き、『三日月日記』に漢和の格を定めたる如き、若くは其日庵に傳ふる芭蕉・素堂二翁、志を同うし力を協して、所謂葛飾正風を創開せしといふ説の如き、或は『續猿蓑』の「川上とこの川しもや月の友」を以て素堂を寄懷せるものとなす如き、皆素堂と芭蕉との淺からぬ關係を證するものにして、芭蕉が俳想の發展は蓋し素堂の力に得たるもの多かりしなるべし。素堂傳に芭蕉と隣壁すとあれども、素堂は阿武に住し芭蕉は六間堀に寓したれば、隣家といふも恐らくは數町を距てしなるべし。當時深川は猶葛飾と稱し、人家疎らなる僻地なれば、茫々たる草原に數町を距てゝ二草舍の相列びしものならん乎。
因に云ふ。元祿八年、素堂五十四歳の時歸郷して父母の墓を拜せし序、前年眷顧を受けたる頭吏櫻井孫兵衞政能を訪ひたりしに政能大に喜びて云へらく、笛吹川の瀬年々高く砂石河尻に堆積して濁水常に汎濫し、沿岸の十ヶ村水患を蒙むる事甚しく殊に蓬澤及び西高橋の二村は地卑くして一面の湖沼と變じ釜を釣りて炊き床を重ねて座するの惨状を極め禾穀(*原文「禾■(穀の偏の「禾」を「釆」に作る。:こく::大漢和27067)」)腐敗して收穫十分の二三に及ばざるに到れば百姓次第に沒落して板垣村善光寺の山下に移住するもの千石(*ママ。千戸か。)に達し、殘れる者も其辛楚に堪えざらんとす。數里の肥田は流沙と變じ餓■(艸冠/孚:::大漢和31076)將に野に充ちんとする酸鼻の状は苦痛に堪えざれども獨力經過の難きを歎ずる折から、足下の來れるのは幸ひなり。願くは姑く風月の境を離れて我に一臂の力を假して民人の爲に此患を除くの畫策をなさゞらんやと。素堂慨然として答へて云ふ、善を見て進むは本より人の道なり。況してや父母の國の患を聞いて起たざるは不義の業にして我が不才も之を耻づ。友人桃青も曾て小石川水道工事の功を修めたれば一旦世事を棄てたる我も君の知遇を受けて爭でか奮勵せざらんやと。終に承諾しければ、政能大に喜び公廳の許を得んとて江戸に出立しける。出づるに臨みて涕泣して沿道に送れる十村の民に向ひ、今度の素願萬一被許相成らざる時は今日限り再び汝等の顔を見ざるべし。今よりは萬端官兵衞が指導を仰ぎて必ず其命に背違する勿れと云ひて訣別しぬ。禿顱の素堂再び山口官兵衞と名乘りて腰に兩刀を帶び日夜拮据(*奔走)勉勵して治水の設計を盡策しぬ。斯くて其翌年孫兵衞政能終に公許を得て歸郷しければ素堂、孫兵衞は協議して大設計を立て、夙夜營々として事に從ひ、西高橋村より南方笛吹川の堤後に沿て増坪、上村、西油川、落合、小曲、西下條に到るまで、新に溝渠を通じ土堤を築く事二千間餘、疏水の功全く落成せしかば、惡水忽ち通じて再び汎濫せず、民人患を免がれて一と度他に移住せしものも郷土に從歸して祖先の墓を祀る幸福を得るに到りしかば、民人崇敬して猶生ける時より祠を蓬澤村の南庄塚に建て、政能を櫻井明神と稱し素堂を山口靈神と號して年々の祭祀久しく絶えざりしといふ。素堂は其後再び江戸に來りて俳諧に遊び、亡友芭蕉の爲に定林院の域内に桃青堂を建立して西行及び芭蕉の像を安んじ、『松の奧』及び『梅の奧』の秘書に永く其日庵の俳風を殘し、享保元年八月十五日七十五の壽を以て終りぬ。芭蕉が水道遺事は廣く人口に膾炙すれども然も精しく其蹟を尋ぬれば漠として捕捉しがたし。素堂が笛吹川の工事は多く知られずして却て赫々たる功は今に顯著たり。既に有志の硅(*ママ)は永く其功績を後世に殘さんが爲、數年前素堂疏水紀功碑を建設したりと云ふ。素堂は決して尋常俳諧師にあらざるなり。(『葛飾正統系圖』及び露伴子の『消夏漫筆』五十四に據る。)
25 佛頂和尚
天和は芭蕉の俳想を一轉せし年なり。天下の俳壇を風靡したる談林の唱祖宗因歿し、學殖識見共に無双なる俳士素堂と交を厚うせしのみならず、佛頂和尚に參禪せしといふも亦此時代なり。桃青寺の舊記に由れば、芭蕉は初め默宗和尚に參禪し、のち默宗の紹介を以て臨川寺佛頂和尚に教を受けたりといへど、果して然るや否や信ずべからず。佛頂和尚は常陸、鹿島根本寺の住職にして、一説には屡々江戸に來りて深川陽岩寺に留錫せし時、初めて參禪したりとも云ひ、又臨川寺開創の後なりとも云ひ、或は深川長慶寺在住の時なりとも云へり。又一説に曰く、臨川寺はもと臨川庵と云ひ、芭蕉所住の庵號なり。其頃根本寺に九年間繼續せし訴訟ありて、佛頂和尚は之が爲屡々上府しける度毎に、芭蕉の臨川庵を旅寢の宿と定め、常に禪を談じ玄を語りて箇中の妙機を味ひけるが、天和年中更に一宇を西大工町に建立し、官府に請うて臨川庵を改めて臨川寺と號し、芭蕉庵桃青を以て開基とし佛頂和尚を以て開山となし、今もなほ二人の木像を本堂に安置すと寺記に見えたりと。又一異説あり。芭蕉は根本寺の訴訟代辯を佛頂より托され、其事に關する顛末は根本寺の舊記に傳はれりと云へど、共に精しく知るべからず。兎に角佛頂會下に參禪せしは此時代に初まりしや疑を容れざるなり。
26 芭蕉庵燒失
天和二年十二月二十八日、江戸駒込大圓寺より出火し、本郷、下谷、神田、日本橋より本所、深川に延燒し、芭蕉庵亦累に罹る。(一説には此火災は俗間に著名なる駒込お七の火事なりと云ふ。お七が刑に就きしは天和三年三月にして、之より先天和元年十一月二十八日、丸山本妙寺に火災あれば果して何れの火災なるや未だ考へず。又蝶夢、湖中等を初め此火災を以て天和三年、即ち芭蕉四十歳の時となす者多けれども全く謬説とす。)俗傳に芭蕉此に災に遭うて、猶如火宅の變を悟り、爰に無所住の心を發したりと雖も、二十三歳致仕して流寓(*原文「流遇」)漂蕩し、相應の惨辛を嘗めしものが、今更に眼の覺めし如く初めて猶如火宅の變を悟るといふも、餘りに附會に過ぐ。されど此變が更に人生の悲觀を味はしめたるは推測するに難からざるなり。此時芭蕉は急火に圍まれ、身を潮水に投じ藻を被きて難を避けたりと云ひ、或は蓬をかつぎて火煙の中助かりぬとも云へど、恐らくは詩的形容に過ぎざるべし。人家填充して一寸の餘地なき繁華の市ならば知らず、當時の片鄙なる深川に於て、いかで水に入て火を避くるほどの事あるべき。されど又流離困頓(*困憊)の末漸く我が所住を定めしものが、再び災殃の犠牲となりしは、左らぬだに無常の感多き芭蕉をして、殊に一層厭世の念を高めしめたるや明らけし。後年北枝が火災の難に罹りし時、書を贈りて慰めて曰く、『池魚の災(*池魚の殃。意外な災難・とばっちり。)承り我も甲斐の山里に引うつりさま\〃/勞苦致し候へば御難儀のほど察し申候。』云々。芭蕉が同情の切なる、他に勝りしものありしは勿論なるべし。
27 甲州旅行及び六祖五平
天和三年春正月、江戸霖雨大洪水ありて、葛飾は一圓湖水となりぬ。芭蕉は前年冬に火災に罹り、更に此冬水災に苦められたりといふ説あれども、其眞否確めがたし。案ずるに革庵(*ママ。芭蕉庵か。)燒失後直ちに甲州に行き、天和三年の夏まで其地に逗留せしといふ説の方眞なるべし。其頃佛頂和尚の僮僕に、六祖と渾名せる五平なるものあり。一丁の文字なくして徹底せし不思議の奇人なり。芭蕉は常に佛頂に參禪して此五平とは悟道の友なりしかば、其情誼にて五平の郷里即ち甲州に行き、五平の家に寄寓したりといふ。六祖五平の名頗る小説めきたるをもて且つ此甲州行に關する一事を除き、他に徴すべき證據なきをもて、假作人物とする説あれども『奧の細道』には日光鉢石の農夫佛五左衞門あり。此は正直偏固朴訥仁に近きを以て佛と稱せられ、彼は無文禪を悟りたる故に六祖と呼ばれしは、當時の風習にして怪むに足らじ。『隨齋諧話』に依れば六祖五平は佛頂に參禪せし居士にして、此時既に甲斐の山栖に隱れしを、災後甲州に掛錫せし時、同じ禪師に參ぜし居士たる因縁を以て、五平の家に宿られしなりと云ふ。又一異説あり。甲州、郡内初鴈村(初狩村?)に杉風の姉ありて芭蕉は災後杉風の添書を齎らし、暫らく其家に寄寓したれば今も初鴈村の等々力山萬福寺には、芭蕉の遺蹟數多を藏し、谷村、花咲界隈には數多の口碑殘れりといふ。
28 馬ほく\/我を繪に見る夏野哉
甲州郡内へ行く途上の句あり。曰く、
馬ほく\/我を繪に見る夏野哉
『一葉集』には『夏馬ほく\/我を繪に見る心哉』とあり。又此句を卷頭に置きて糜塒(*高山氏)及び一晶(*芳賀氏)と三人の歌仙あり。『句選年考』(*後出、石河積翠著。)には『馬ほく\/我を繪に見る枯野哉』として曰く、「『舶船集』に、此句夏野哉とも或人申されしと見えたり。『三草紙』にも夏野哉ともあれば夏野哉なるべきにや。肥後八代枯野塚には枯野哉と見えたり。」と。又曰く「或人家藏の芭蕉眞蹟の書翰に、『(前略)木曾路にて發句の事此度は日數の間も無之故、發句も二三句ならでは致さず候。其くせ不出來にて候。漸く淺間邊にて「馬ほく\/我を繪に見る夏野哉」此句ばかりかと存じ候。其外は不埒千萬なる句にて候故不申入候。(下略)早々以上、十二日はせを。拍水丈』とあり。」と。是等の異説あれば遽に定めがたけれども、其句調と其句意より推すも郡内に於ける作なりと思はる。積翠(*石河氏。『芭蕉句選年考』の著あり。)が引證せしは芭蕉の眞蹟なりと云へど、未だ信を置きがたし。『句解參考』に枯野哉とあるを正しとして、夏は日輪高ければ我影を繪に見む事覺束なきの最上なりと判ぜしは何ぼう可笑しき解釋ならずや。又一書に題畫として此句を擧げたるを見たり。是れ亦想像より作りたる題なるべし。
此馬ほく\/の句の外、甲州山中にて「山賤のおとがひ閉づる葎哉」猿橋にて「水くらく日のまふ谷や呼子鳥」及び「さるはしや蝶も居直る笠の上」の三句あり。前者は此郡内界隈に行吟せし時咏みしものなるや否知らず。後の二句に到つては果して芭蕉の句なるやさへ精らかならざるなり。
29 歸庵
天和二年の冬より翌三年の夏まで、凡そ半歳の間甲州に留錫せしが、晋其角等が招請に由りて再び江戸に歸りぬ。『隨齋諧話』(*夏目成美著。文政2年刊。)に此時「ともかくもならでや雪の枯尾花」の句を作れりとあれども、同書には珍らしき謬説なり。『句選年考』は其角が終焉記の文より判じて、元祿六年の作なるべしと解せり。又『句解參考』には前書を載せたり。曰く、『壬申の冬三秋を經て武府に歸りし後、諸生日々草扉を敲く、云々』。壬申は元祿五年なれば何れにしても此年代の作に係る事疑ひなし。
歸り來れば諸門人等大いに喜び、燒跡に草庵を營み、芭蕉數株を栽ゑて翁が詫しき(*原文「詑しき」)心を慰めたり。此の時句あり。曰く、「あられ聞くや此身はもとの古柏」。
30 芭蕉庵再興及び素堂勸化文
芭蕉庵再興の勸化文(*勧進の文章)を作りしは山口素堂にして、芭蕉の徳に服するものは普く喜んで寄進に就けり。文に曰く、
『(前略)廣くもとむるは其おもひやすからんとなり。甲をこのまず乙を恥ること勿れ。各志のあるこゝろに任すとしかいふ。之を清貧とせんや將た狂貧とせんや。翁みづからいふ、ただ貧なりと。貧のまた貧、許子の貧、それすら一瓢一軒のもとめあり。雨をさゝへ風を防ぐそなへなくば鳥にだも及ばず。誰か忍びざるの心なからむ。是れ草堂建立のより出る所也。天和三年秋九月竊汲願主之旨濺筆於敗荷之下、山口素堂。』
右は嵐蘭の姪孫九皐(上州館林の人)の家に其眞蹟を藏する由『隨齋諧話』に見えたり。其勸化簿の連名凡そ數十。重なるものは、楓興十五匁、枳風二朱、嵐雪二朱、文鱗銀一兩、嵐調銀一兩、嵐蘭破扇一柄、北鯤の大瓠一壺等なり。疑はしきは第一の施主たるべき杉風、卜尺、其角等の名見えざれども、もと僅に勸化簿の一部に過ぎずして、殘紙は悉く散逸せしなるべし。
31 笠造りの翁
芭蕉が戲れて自ら笠造りの翁と稱せしは此の時代なり。甲斐の山人より得たる檜笠に、紙を張り澁を塗り、形荷葉の半ば開くに似たれば、太く愛玩したりき。文に『笠張説』あり。(『和漢文操』(*支考編、享保8年刊。)には『澁笠銘并序』とあり。)曰く、
草扉にひとり詫びて、秋風さびしき折\/竹取のたくみにならひ、妙觀が刀をかりて自から竹を割り竹を削つて笠つくりの翁と名のる。心しづかならざれば日を經るに物うく、工みつたなければ夜をつくして成らず、晨に紙を重ね夕にほして又かさね\/澁といふものをもて色をさらし、ますますかたからんことを思ふ。二十日過るほどにやゝ出來にけれ、其形うらの方にまき入外さまに吹きへりなど、荷葉のなかば開くる(*ママ)に似てなか\/おかしき姿なり。さらばすみがねのいみじからんよりは、ゆがみながらに愛しつべし。西行法師の富士見笠か、東坡居士の雪見笠か、宮城野に供をつれねば呉天の雪に杖を曳かん。霰にさそひ時雨にかたぶけ、徐ろにめでて殊に興ず。興の中にして俄に感ずる事あり。再び宗祇の時雨ならでも假のやどりに袂をうるほして、自から笠のうちに書つけはべる。
世にふるは更に宗祇の時雨哉
詑しきすさみに、さま\〃/の事して遊ぶ風流の興快なるべし。
杉風所持の短册には「世の中は」とある由『句選年考』に見えたり。又「世にふるも」といふ説あり。何れか是なるを知らず。もと宗祇の「世にふるも更に宗祇のやどり哉」より出たるなれば「世の中は」にては面白からざれども、正しく自筆の短册にしか認めらるるものなれば強ちに斥くべからず。何れか後に改竄せしなるべし。芭蕉歿後、杉風此短册を長慶寺に納めて石碑を建て、短册塚と名け左右に其・雪の塚を築く。其角及び嵐雪毎年十月十二日の忌日に俳莚を開きて永く芭蕉を弔ひける。此碑今もなほ長慶寺の墓域に存在す。「芭蕉野分して盥に雨を聞く夜哉」を咏みしも此時代なり。天和二年歟、三年歟、何れか確かならねども此前後にして、或は甲州より歸りし後、再び草庵を結びて此句ありと云ひ、或は此句を咏みしのち芭蕉翁と稱せらると云ひ、種々附會の説あれども信ずべからず。題は茅舍の感とあり。凄風苦雨の夜寒爐を擁して書を讀む時、紙窓外芭蕉淅瀝(*風雨・落葉等の寂しい音の形容。)として聲を作すの俤ありて頗る凄凉の詩情を極む。
32 貞享以前及び以後
天和三年は芭蕉四十歳なり。芭蕉俳想の進歩を案ずるに、大別して貞享以前、及び以後即ち四十歳前、及び後となすを得べし。所謂正風の俤は貞享以後に初まりて其以前に見るを得ず。芭蕉は延寶年間既に數多の門人を有し、天和年間には一方の覇たりしが、「さび」の新生面を開きて江戸及び天下の俳宗と仰がれ翁と尊ばれ、正風の大旆普ねく東西南北を風靡せしは實に貞享以後の業なり。天和三年は即ち芭蕉が舊詩想より新詩想に躍り入る關門にして、芭蕉を研究するものは決して雲煙過眼視すべからず。
芭蕉が俳想の由來を以て禪に歸するは一般の説なり。佛頂に參禪せし一事は確に芭蕉の心境を拓きしものあるべしと雖も、獨り是れ而已にあらざるべし。芭蕉早くより風月の情を解せり。雜然紛擾せる俗世間の功名富貴以外に人生の眞趣を味ふべき別天地あるを悟れり。二十三歳にして主君に別れし外は、絶えて何事をも傳へざれども、既に説ける如く味氣なしと世の中を觀ずるは當然なり。且つ國を去つて以來流離困頓して世に容れられず、偶々杉風の情に由て、漸く安居の室を得れば倏忽(*原文「■(倏の犬を火に:しゅく::大漢和763)忽)にして池魚の災(*不慮の災禍)に罹る。さらぬだに風流自ら簸蕩して(*自ら揺れ動いて)喜べる芭蕉が、眼のあたりに人事の幻化に等しきを見、朽木の船に似たる世間に住するよりは、清風明月以て吾家となすに如かずと觀じたるは勿論にして、芭蕉が證悟は枯座默照の禪よりは寧ろ此不遇の生涯に基せしなるべし。況してや此以前より深く西行の高節を忍び、杜子美の風骨を味ひたれば、箇中に靜寂なる新趣味を發見し、茲に萬斛の牢愁(*憂愁)を忘れ眉頭を伸べんとせしなるべし。
されば、貞享以後正風の一體を開きたれども、勿論談林の洒落に遊びしものが、卒然として一躍新天地に入りしにあらず、芭蕉の正風は『次韻』に萠芽し、天和三年の『虚栗』(其角選)に半ば成れりとは通説にして、天和以前の句も芭蕉には自から芭蕉らしき調多し。此故に談林の風格とし見れば、他の宗因一派より拙なけれども、有繋に(*一つながりにの意か。)棄てかぬる句少からず。今茲に數句を擧げて其變遷を見るべし。
33 芭蕉俳風の變遷
先づ寛文年間(*1661-73)、猶宗房と號せし時代の句を擧ぐべし。
花に舍り瓢先生と自ら云へり
着ても見よ甚兵衞が羽折花衣
天秤に京江戸かけて千代の春
和歌の跡とふや出雲の八重霞
時雨をやもどかしがりて松の雪
うきふしや世は逆樣の雪の竹
右の外名所八體の句、及び十數句あれども宗房時代の句は多く傳はらず。傳ふるものも容易に信ずべからず。例へば重頼の『毛吹草』に收めたる三十八句の作者宗房は、全く芭蕉の宗房とは同名異人なるを、誤つて『一葉集』に其數句を編入せいし如きあれば、輕々しく信じがたし。然れども宗房時代の句が、朴質一偏(*一遍)なる拾穗軒(*北村季吟)の教を受けて、一時に古調を墨守して其圏外に逸せざらんとしたるは明かに知らる。
宗房時代を知るに最も恰好なるは『貝おほひ』なり。『貝おほひ』は寛文十二年春、即ち江戸に下る前に撰述せし三十番句合の評にして、小歌と流行言葉を結びたる句を鬪はせしものなり。其二三を擧げんに、
六番
左 勝
正之
きやん伽羅の香ににほへがし(*ママ)犬櫻
右
意見
見に行かんとつと山家の山ざくら
左の句、伽羅の香にほへとは一句もやさしく手ざはりもむく\/とむく犬の尾も白き(*原文傍点。以下同じ。)作意なるに、右の句さのみ言葉のたくみにも見えずとつと山家のいよ古狸とうたふ小唄なれば、秀逸物の犬櫻に狸は喰はせられ侍らん
十七番
左
吉之
ちよいと乘りたがるや誰も駒迎へ
右 勝
雫軒
むかふ駒の足をはぬるやひんこひん
左伊勢のお玉はあふみかぐらかといへる小唄なれば、誰も乘りたがるはことはりなるべし、右ひんひんと跳廻るはまことにあら馬と見え侍れども、人くらひ馬にもあひ口とかやにて右の馬におもひつき侍る、左の誰も乘りたがる馬はちとかんよわのうち氣ものとしられ侍れば、ふみ馬御免のあしもとをば早く牽てのがれ候へかし
二十四番
左 持
餘淋
酒の醉やすぢりもぢりの千鳥足
右
三竿
から臼の代のちんどり足をふめ
左の酒の醉はまことに一盃過ぎたると見えて足もとはよろ\/とよはく侍れども、一句にたしかに云ひ立てられて下戸ならぬこそ男はよけれども、云へば面白く侍るに右のちんどり足こほ\/と蹈みならすから臼は、天の原をふみとゞろかす神鳴の挾箱もちの器量にもすぐれて、骨ぐみつよく足の筋骨も逞ましければ、作者の力も強さうにていづれも千鳥のあしき所はなければ爲持
小唄流行言葉洒落ちらかす此宗房を、古池やと吟せし蕉翁が顧みなば、定めし微笑するを禁ずる能はざるべし。
延寶以後(*1663-80)即ち江戸に下りし以來は、貞門の古風を脱して談林の滑稽に遊びたり。即ち其三四を擧げんに、
於春々大なる哉春と云々
發句なり芭蕉桃青宿のはる
梅さくやしらゝ落くぼ京太郎
時鳥いまだ俳諧師なき世かな
ひとしぐれ礫や降つて小石川
大内雛人形天皇の御宇とかや
猫の妻竃の崩れより通ひけり
はりぬきの猫も知るべし今朝の秋
貞享(*1684-88)以後の句を見て、芭蕉を神の如く渇仰するものは、恐らくは唖然たらざるを得ざるべし。
途中にて時雨に逢ふて(*ママ)
笠もなき我をしぐるゝか何と\/
雨に逢ふて(*ママ)
草履の尻折て歸らん山ざくら
此二句の如き何等の沒風流ぞや。之を後年の諸作と對比せば恐らく別人の肺腑に生じたる感あるなからんか。田のあら株のKむほど時雨んと願へるものが、笠持たずしてそぼぬれしとて何と\/と呟き、俄にむらさめに襲はれしとて山ざくらの美くしきを棄てゝ草履の尻折て駈出すとは餘りに無邪氣過ぎて詩人の口吻にあらず。
されど此談林かぶれせし延寶年中すら他の業俳家が到底模倣し得ざる句を吐きぬ。曰く
夏の月御油より出でて赤坂や
此句は風姿と云ひ風情と云ひ人まゝ誤まりて貞享以後のものとなせども、延寶七年板、岡村不卜(*岡村氏。一柳軒と号す。)選の『向の岡集』(*向之岡。延宝8年成立。)に見えたり。正風の萠芽慥に見えて枯枝の吟(延寶九年)と共に延寶年中一對の絶唱たるべし。「蜀魂(*時鳥)まねくか麥のむら尾花」及び「菖蒲生り軒のいわしの髑髏」の如きは即ち之に次げるもの。
天和(*1681-84)に到つて頓に進境を現はしぬ。『武藏曲』及び『虚栗』は能く之を證明しぬ。
冬夜感
櫓聲浪を打て膓氷る夜は涙
佗て住め月佗齋がなら茶哉
貧山の釜霜に鳴く聲さむし
懷老杜
髭風を吹て暮秋歎ずるは誰が子ぞ
椹の實や花なき蝶のよすて酒
夜着は重し呉天に雪を見るあらん
憂方知2酒聖1貧始覺2錢神1
花にうき世我酒白く米Kし
和角(*其角)蓼螢句
朝がほに我は飯喰ふ男かな
右の内、夜着は重しの句は『虚栗』に見えたれども、延寶年中の作なりといふ説ある由『句選年考』(*石河積翠『芭蕉句選年考』)に見ゆ。是等の句を見るも當時芭蕉が、日本橋界隈なる俳人の淵藪より遠ざかりて遠く葛飾の片僻に住し、或は佛頂に參禪し或は素堂と往來し、漸く談林以外の新天地に入らんとする意氣あるを見るべし。
「朝がほに我は飯喰ふ男かな」は其角が「草の戸に我は蓼喰ふ螢かな」に和せし句にして其角が飮酒の癖を戒めしものなり。尊朝親王の飮酒一枚起請を寫して、此句と共に其角に贈りし状あり。曰く
右飮酒一枚起請は尊朝先生御作のよし承候。もつともさる人の許に御眞筆にて掛物にして床にかゝり有之候。あまり\/面白き御作ゆえちと寫し(*原文「ち寫よとし」を改めた。)來り候。貴丈常に大酒をせられ候故、此御文句を寫して大酒は無用に存じ候。仍て一句
朝がほに我はめし喰ふ男哉
如何。委しき事はやがて御目にかゝり萬々可申述候。
十七日
ばせを
其角丈
之より十二三年前、小唄歌ひて洒落ちらせし粹者が、今は蕭然容を更めて大酒を戒むる嚴師となる。甚兵衞が羽織着て瓢先生と名乘り、きやん伽羅の香の犬櫻を賞で、ひんこひんと跳廻る駒を喜び、しらゝ落くぼ京太郎に耽りしものが、艪聲に膓を鍛へ秋風に髭を吹かして呉天の雪を翫ぶに到る。其間の變遷は若し精かに其生涯を見れば豈之を知るに難からんや。天和三年は實に正風に入るの關門なり。芭蕉が四十歳將に人生の眞趣を解して之より天下に行街して益々其俳想を磨き、且つ俳諧の寂を弘教せんとす。
(*33まで<了>。34以降は次へ。)
序にかへて(柳田泉)
目次
本文(芭蕉庵桃青伝)
芭蕉後伝
東花坊支考