伊勢物語
(『平安朝物語集』全 有朋堂文庫 有朋堂書店 1913.3.13)
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(目次)
(*原文には目次なし。)
〔初段〕
むかし、男、初冠して、奈良の京、春日の里にしるよしして、狩にいにけり。その里に、いとなまめいたる女はらからすみけり。この男かいまみてけり。おもほえず古里にいとはしたなくてありければ、心地まどひにけり。男の著たりける狩衣の裾をきりて、歌をかきてやる。その男、信夫摺の狩衣をなむ著たりける。
春日野のわかむらさきの摺衣しのぶのみだれかぎり知られず
となむ、おひつきていひやりける。ついでおもしろき事ともや思ひけむ。
陸奧のしのぶもぢずり誰ゆゑにみだれそめにし我ならなくに
といふ歌の心ばへなり。昔人は、かくいちはやき風流をなむしける。
〔二〕
昔、男ありけり。奈良の京ははなれ、この京は人の家まださだまらざりける時に、西の京に女ありけり。その女世の人には勝れりけり。其人、かたちよりは心なむ勝りたりける。獨のみにもあらざりけらし。それをかのまめ男うち物がたらひて、歸り來ていかが思ひけむ、時は三月のついたち、雨そぼふるにやりける。
おきもせず寐もせで夜をあかしては春のものとて眺めくらしつ
〔三〕
昔、男ありけり。懸想じける女のもとに、鹿尾菜といふものをやるとて、
おもひあらば葎の宿にねもしなむひしきもの(*引敷物)には袖をしつつも
二條后の、まだ帝にも仕うまつり給はで、ただ人にておはしける時のことなり。
〔四〕
昔、東の五條に、大后宮おはしましける。西の對にすむ人ありけり。それを本意にはあらで、志ふかかりける人(*前段「まめ男」に対応)、行きとぶらひけるを、正月十日ばかりの程に、ほかに隱れにけり。あり所は聞けど、人の行き通ふべき所にもあらざりければ、なほ憂しと思ひつゝなむありける。又の年の正月に、梅の花盛に、去年をこひて、いきて、立ちてみ居てみ見れど、去年に似るべくもあらず。うち泣きて、あばらなる板敷に、月の傾くまでふせりて、去年を思ひ出でてよめる。
月やあらぬ春や昔のはるならぬ我が身ひとつはもとの身にして
とよみて、夜のほの/〃\と明くるに、泣く/\歸りにけり。
〔五〕
昔、男ありけり。東の五條わたりにいと忍びていきけり。密なる所なれば、門よりもえ入らで、童のふみあけたる築地のくづれより通ひけり。人しげくもあらねど、度重なりければ、あるじ聞きつけて、その通路に、夜毎に人をすゑて守らせければ、いけどもえ逢はで歸りけり。さてよめる。
人知れぬわがかよひ路の關守はよひよひごとにうちも寐ななむ
と詠めりければ、いといたう心やみけり。あるじ許してげり。二條后に忍びて參りけるを、世のきこえありければ、兄等の守らせ給ひけるとぞ。
〔六〕
昔、男ありけり。女のえ得まじかりけるを、年を經てよばひわたりけるを、からうじて盜み出でて、いとくらきに率てゆきけり。芥川といふ河をいきければ、草の上におきたりける露を、「かれは何ぞ」となむ男に問ひける。ゆくさきおほく夜もふけにければ、鬼ある所とも知らで、~さへいといみじう鳴り、雨もいたうふりければ、あばらなる藏に、女をば奧におし入れて、男は弓胡簶を負ひて、戸口に居り、はや夜も明けなむ、と思ひつゝ居たりけるに、鬼、はや一口にくひてげり。「あなや」といひけれど、~鳴る騷にえ聞かざりけり。やう/\夜も明けゆくに、見れば、ゐて來し女もなし。足ずりをして泣けどもかひなし。
白玉かなにぞと人のとひしとき露と答へてきえなましものを
これは、二條后の、いとこの女御の御許に仕うまつるやうにてゐ給へりけるを、容のいとめでたくおはしければ、ぬすみて負ひて出でたりけるを、御兄堀河大臣、太郎國經大納言、まだ下臈にて内へまゐり給ふに、いみじう泣く人あるを聞きつけて、留めてとり返し給うてげり。それをかく鬼とはいふなりけり。まだいと若うて、后の、ただにおはしける時とや。
〔七〕
昔、男ありけり。京にありわびて、東にいきけるに、伊勢、尾張のあはひの海づらを行くに、浪のいと白くたつを見て、
いとどしく過ぎ行く〔過ぎこし、過ぎにし、とも。〕かたの戀しきにうらやましくもかへる浪かな
となむ詠めりける。
〔八〕
昔、男ありけり。京や住み憂かりけむ、東の方に行きて、すみ所もとむとて、友とする人、一人二人して行きけり。信濃國、淺間の嶽に、烟のたつを見て、
信濃なる淺間のたけに立つけぶりをちこちびとの見やはとがめぬ
〔九〕
昔、男ありけり。その男、身をuなきものに思ひなして、京にはあらじ、東の方にすむべき國もとめにとて、往きけり。もとより友とする人、一人二人していきけり。道しれる人もなくて惑ひ行きけり。三河國八橋といふ所にいたりぬ。そこを八橋といひけるは、水ゆく河の蛛手なれば、橋を八つ渡せるによりてなむ八橋とはいへる。その澤の邊の木の蔭におり居て、餉くひけり。その澤に燕子花いと面白く咲きたり。それを見てある人の曰く、「かきつばたといふ五文字を句の上にすゑて、旅の心を詠め」といひければ、よめる。
唐衣きつつ馴れにしつましあればはるばる來ぬる旅をしぞ思ふ
と詠めりければ、みな人、餉の上に涙落してほとびにけり。行き/\て駿河國にいたりぬ。宇津の山に至りて、我が入らむとする道は、いと暗う細きに、蔦楓はしげり、物心ぼそく、すゞろなるめを見る事と思ふに、修行者あひたり。「かゝる道は、いかでかいまする」といふに、見れば、みし人なりけり。京にその人の御許にとて、文かきてつく。
駿河なるうつの山邊のうつつにも夢にも人に逢はぬなりけり
富士山を見れば、五月のつごもりに、雪いと白う降れり。
時しらぬ山はふじの嶺いつとてかかのこまだらに雪の降るらむ
その山は、こゝにたとへば、比叡山を二十ばかり重ねあげたらむ程して、なりは鹽尻のやうになむありける。猶行き/\て、武藏國と下總國とのなかに、いと大なる河あり、それを角田河といふ。その河の邊にむれゐて思ひやれば、かぎりなく遠くも來にけるかな、とわびあへるに、渡守、「はや舟に乘れ、日も暮れなむ(*教科書だと「日も暮れぬ」)」といふに、乘りて渡らむとするに、皆人ものわびしくて、京に思ふ人なきにしもあらず。さる折しも、白き鳥の嘴と脚とあかき、鴫の大さなる、水の上にあそびつゝ魚をくふ。京には見えぬ鳥なれば、みな人えしらず(*教科書だと「見知らず」)。渡守に問ひければ、「これなむ都鳥。」といふを聞きて、
名にしおはばいざこと問はむ都鳥わが思ふ人はありやなしやと
と詠めりければ、舟こぞりて泣きにけり。
〔十〕
昔、男、武藏國までまどひ歩きけり。さて、その國なる女をよばひけり。父は「こと人にあはせむ」といひけるを、母なむ、あてなる人に、と心づけたりける。父はなほ人にて、母なむ藤原なりける。さてなむ、あてなる人にと思ひける。このむこがねに詠みて遣せたりける。住む處なむ、入間郡みよし野の里なりける。
みよし野のたのむの雁もひたぶるに君がかたにぞよると鳴くなる
むこがね、かへし、
我が方によると鳴くなるみよし野のたのむの雁をいつか忘れむ
となむ。人の國にても、なほかゝることなむ止まざりける。
〔十一〕
昔、男、東へ行きけるに、友だちどもに道よりいひおこせける。
忘るなよほどはくも井になりぬとも空ゆく月のめぐりあふまで
〔十二〕
昔、男ありけり。人の女をぬすみて、武藏野へゐて行くほどに、盜人なりければ、國守にからめられにけり。女をば叢の中に隱しおきて逃げにけり。道くる人、「この野は盜人あンなり」とて、火つけむとす。女わびて、
武藏野は今日はな燒きそ若草のつまもこもれりわれもこもれり
と詠みけるを聞きて、女をば取りて、ともに率ていにけり。
〔十三〕
昔、武藏なる男、京なる女の許に、「聞ゆれば恥かし、聞えねば苦し」と書きて、表書に武藏鐙と書きて、おこせて後、音もせずなりにければ、京より、女、
武藏鐙さすがにかけてたのむには訪はぬもつらし訪ふもうるさし
とあるを見てなむ、堪へがたき心地しける。
訪へばいふ訪はねばうらむ武藏あぶみかかる折にや人は死ぬらむ
〔十四〕
むかし、男、陸奧國にすゞろに行き至りにけり。そこなる女、京の人はめづらかにや覺えけむ、せちに思へる心なむありける。さて、かの女、
なかなかに戀に死なずはくはこにぞなるべかりける玉の緒ばかり
歌さへぞ、ひなびたりける。さすがに哀とや思ひけむ、いきて寐にけり。夜ふかく(*夜ぶかく)出でにければ、女、
夜も明けばきつにはめなで〔はめなむとも。〕くだ鷄のまだきに鳴きて伕をやりつる
といへるに、男、京へなむまかるとて、
栗原のあねはの松の〔古今集「をぐろ崎みつの小島の」〕人ならばみやこのつとにいざといはましを
といへりければ、よろこぼひて、「思ひけらし」とぞいひ居りける。
〔十五〕
昔、みちの國にて、なでふ事なき人の妻に通ひけるに、怪しうさやうにて〔人に通はせて〕あるべき女ともあらず見えければ、
信夫山しのびてかよふ道もがな人のこころのおくもみるべく
女限なくめでたし、と思へど、さるさがなきえびす心を見ては、いかゞはせんは。
〔十六〕
むかし紀有常といふ人ありけり。三代の帝に仕うまつりて、時に遇ひけれど、後は世かはり時うつりにければ、世の常の人のごともあらず。人がらは心美くしうあてはかなることを好みて、こと人にも似ず貧しく經ても、なほ昔よかりし時の心ながら、世の常のことも知らず。年比あひなれたる妻やう/\床はなれて、遂に尼になりて、姊の先だちてなりたるところへ行くを、男、まことにむつまじき事こそなかりけれ、今はとて行くを、いとあはれとは思ひけれど、貧しければするわざもなかりけり。思ひわびて、懇に相語らひける友だちの許に、「かう/\今はとてまかるを、何事も聊なる事もえせで遣はすこと」と書きて、奧に、
手を折りてあひみしことをかぞふれば十といひつつ四は經にけり
かの友だちこれを見て、いと哀と思ひて、夜のものまで送りて詠める。
としだにも十とてよつは經にけるをいくたび君をたのみきぬらむ
かくいひ遣りければ、
これやこの天の窒イろもむべしこそ君がみけしとたてまつりけれ
よろこびに堪へで、又、
秋やくる露やまがふと思ふまであるはなみだの降るにぞありける
〔十七〕
年比おとづれざりける人の、櫻の盛に見に來たりければ、あるじ、
あだなりと名にこそ立てれさくらばな年にまれなる人も待ちけり
かへし、
今日こずは明日は雪とぞ降りなまし消えずはありとも花と見ましや
〔十八〕
昔、なま心ある女ありけり。男ちかうありけり。女、歌よむ人なりければ、心みむとて、菊の花のうつろへるを折りて、男の許へやる。
くれなゐに匂ふはいづらしら雪の枝もとををに降るかとも見ゆ
男、知らずよしに(*ママ)詠みける。
くれなゐににほふがうへの白菊は折りける人のそでかとも見ゆ
〔十九〕
昔、男、宮づかへしける女の方に、御達なりける人をあひ知りて、程もなくかれにけり。同じ所なれば、女の目には見ゆるものから、男はあるものかとも思ひたらず。女、
天雲のよそにも人のなりゆくかさすがに目には見ゆるものから
と詠めりければ、男、かへし、
天雲のよそにのみしてふることはわが居る山のかぜはやみなり
と詠めりけるは、また男ある人となむいひける。
〔二十〕
昔、男、大和にある女を見て、よばひてあひにけり。さて程經て、宮づかへする人なりければ、歸りくる道に、三月ばかりに、かへでの紅葉のいとおもしろきを折りて、女のもとに道よりいひやる、
きみがため手折れる枝は春ながらかくこそ秋のもみぢしにけれ
とてやりたりければ、返事は、京につきてなむもて來たりける。
いつの間にうつろふ色のつきぬらむ君がさとには春なかるらし
〔廿一〕
昔、男女、いとかしこく思ひかはして、こと心なかりけり。さるを、いかなる事かありけむ、いさゝかなる事につけて、世の中をうしと思ひて、出でていなむと思ひて、かゝる歌をなむよみて、ものに書きつけける。
いでていなば心輕しといひやせむ世のありさまを人は知らねば
とよみ置きて出でていにけり。この女かく書きおきたるを見て、けしう心おくべきことも覺えぬを、何によりてかかゝらむ、といといたう泣きて、いづ方に求め行かむ、と門に出でて、とみかうみ見けれど、何處をはかり〔何處をそれとあてどにする。〕とも覺えざりければ、歸り入りて、
思ふかひなき世なりけりとし月をあだにちぎりて我やすまひし
といひてながめ居り。
人はいさ思ひやすらむ玉かづらおもかげにのみいとど見えつつ
この女いと久しくありて、念じわびてにやありけむ、いひおこせたる、
今はとてわするる草のたねをだに人のこころにまかせずもがな
かへし、
忘草ううとだに聞くものならばおもひけりとは知りもしなまし
又々ありしよりけにいひかはして、男、
忘るらむとおもふ心のうたがひにありしよりけにものぞ悲しき
かへし、
中空に立ちゐる雲のあともなく身のはかなくもなりにけるかな
とはいひけれど、おのが世々になりにければ、うとくなりにけり。
〔廿二〕
昔、はかなくて絶えにける中、なほや忘れざりけむ、女の許より、
うきながら人をばえしも忘れねばかつうらみつつなほぞ戀しき
といへりければ、「さればよ」といひて、男、
あひ見ては〔あひは見で(新釋)〕心ひとつをかはしまの水の流れて絶えじとぞおもふ
とはいひけれど、その夜いにけり。いにしへゆくさきの事どもなどいひて、
秋の夜のちよを一夜になずらへて八千夜しねばや飽く時のあらむ
かへし、
秋の夜の千夜をひと夜になせりともことば殘りて鳥や鳴きなむ
いにしへよりも、あはれにてなむ通ひける。
〔廿三〕
昔、田舍わたらひしける人の子ども、井のもとに出でて遊びけるを、成人になりにければ、男も女も、はぢかはしてありけれど、男は、この女をこそ得めと思ふ、女は、この男をと思ひつゝ、親のあはすれども聞かでなむありける。さてこの隣の男の許よりかくなむ。
筒井筒ゐづつにかけしまろがたけすぎにけらしな妹見ざるまに
女、かへし、
くらべこしふりわけがみも肩すぎぬ君ならずして誰かあぐべき
などいひ/\て、遂に本意の如くあひにけり。さて年比ふる程に、女、親なく、たよりなくなるまゝに、もろともにいふかひなくてあらむやはとて、河内國高安郡にいきかよふ所いで來にけり。さりけれど、このもとの女、惡しと思へる氣色もなくて、出しやりければ、男、こと心ありて、かゝるにやあらむと思ひ疑ひて、前栽の中にかくれ居て、河内へいぬる顔にて見れば、この女いとようけさうじて、うち眺めて、
かぜ吹けばおきつしら波〔盜賊の意を懸く。〕たつた山よはにや君がひとり越ゆらむ
とよみけるを聞きて、かぎりなく悲し、と思ひて、河内へもいかずなりにけり。まれまれかの高安に來て見れば、はじめこそ心にくゝもつくりけれ、今はうちとけて、手づから匙をとりて、餼子の器にもりけるを見て、心うがりて行かずなりにけり。さりければ、かの女、大和の方を見やりて、
君があたり見つつを居らむ生駒山くもなかくしそ雨は降るとも
といひて見いだすに、「からうじて大和人來む」といへり。よろこびて待つに、たび/\過ぎぬれば、
君こむといひし夜毎に過ぎぬればョまぬものの戀ひつつぞふる
といひけれど、男すまずなりにけり。
〔廿四〕
昔、男女、片田舍にすみけり。男、宮づかへしにとて、別惜みて行きけるまゝに、三年來ざりければ、待ちわびたりけるに、又いと懇にいひける人に、「今宵はあはむ」と契りたりけるに、この男きたりけり。「この戸あけ給へ」と叩きけれど、あけで、歌をなむよみて出したりける。
あらたまの年の三年を待ちわびてただ今宵こそにひまくらすれ
といひ出したりければ、
あづさ弓ま弓つき弓としを經てわがせしがごとうるはしみせよ
といひて、いなむとしければ、女、
あづさ弓ひけどひかねど昔よりこころは君によりにしものを
といひけれど、男かへりにけり。女いと悲しくて、後に立ちて追ひゆけど、え追ひつかで、C水のある所にふしにけり。そこなる石に、およびの血して書きつけゝる。
あひ思はでかれぬる人をとどめかね我が身は今ぞ消えはてぬめる
と書きて、そこにいたづらになりにけり。
〔廿五〕
昔、男ありけり。逢はじともいはざりける女の、さすがなりけるが許にいひやりける。
秋の野に笹わけし朝の袖よりも逢はでぬる夜ぞひぢまさりける
色ごのみなる女、かへし、
みるめなき我が身を浦と知らねばやかれなで蜑の足たゆく來る(*小野小町〔古今集・恋・六二三〕)
〔廿六〕
昔、男、五條わたりなりける女をえ得ずなりにける事、とわびたりける人の返事に、
おもほえず袖に湊のさわぐかなもろこしぶねの寄りしばかりに
〔廿七〕
昔、男、女の許に一夜いきて、又もいかずなりにければ、女の手洗ふ所に、貫簀をうちやりて、盥の影に見えけるを、みづから、
我ばかり物思ふ人はまたもあらじと思へば水の下にもありけり
と詠むを、かの來ざりける男たち聞きて、
水口にわれや見ゆらむかはづさへ水のしたにてもろごゑになく
〔廿八〕
むかし、色ごのみなりける女、出でていにければ、
などてかくあふごかたみ(*朸筐と逢ふ期難み)になりにけむ水漏らさじと結びしものを
〔廿九〕
昔、春宮の女御の御方の花の賀に、召しあげられたりけるに、
花にあかぬ歎はいつもせしかども今日のこよひに似る時はなし
〔三十〕
むかし、男、はつかなりける女のもとに、
逢ふことは玉の緒ばかりおもほえてつらき心のながく見ゆらむ
〔卅一〕
昔、男、宮の中にて、ある御達の局の前をわたりけるに、何の仇にか思ひけむ、「よしや草葉よならむさがみむ」といふ。男、
罪もなき人をうけへばわすれ草おのがうへにぞ生ふといふなる
といふを、ねたむ女もありけり。
〔卅二〕
むかし、物いひける女に、年比ありて、
いにしへのしづのをだまきくりかへし昔を今になすよしもがな
といへりけれど、何とも思はずやありけむ。
〔卅三〕
むかし、男、津國兎原郡に通ひける女、このたびいきては又は來じ、と思へる氣色なれば、男、
蘆邊よりみち來るしほのいやましにきみに心をおもひますかな
かへし、
こもり江に思ふこころをいかでかは舟さす棹のさして知るべき
田舍人のことばにては、よしやあしや。
〔卅四〕
むかし、男、つれなかりける人の許に、
いえばえにいはねば胸の騷がれてこころひとつに歎くころかな
おもなくていへるなるべし。
〔卅五〕
むかし、心にもあらで、絶えたる人の許に、
玉の緒を沫緒によりてむすべれば絶えての後も逢はむとぞ思ふ
〔卅六〕
むかし、男、忘れぬなめりと問言しける女の許に、
谷せばみ峯まではへるたまかづら絶えむと人にわが思はなくに
〔卅七〕
むかし、男、色好なりける女に逢へりけり。うしろめたくや思ひけむ、
われならで下紐とくなあさがほの夕かげ待たぬ花にはありとも
かへし、
ふたりして結びし紐をひとりしてあひ見るまでは解かじとぞ思ふ
〔卅八〕
むかし、紀有常がり行きたるに、ありきておそく來けるに、詠みてやりける。
君により思ひならひぬ世のなかのひとはこれをや戀といふらむ
かへし、
ならはねば世の人ごとに何をかも戀とはいふと問ひしわれしも
〔卅九〕
昔、西院の帝(*淳和天皇)と申すみかどおはしましけり。その帝のみこ、崇子と申すいまそかりけり。その皇子うせ給ひて、御葬の夜、その宮の隣なりける男、御葬見むとて、女車にあひ乘りて出でたりけり。いと久しうゐていで奉らず、うちなきて止みぬべかりける間に、天の下の色好、源至(*嵯峨天皇の孫。源順の祖父)といふ人、これも物見るに、この車を女車と見て、寄り來てとかくなまめく間に、かの至、螢をとりて車に入れたりけるを、車なりける人、この螢のともす火にや見ゆらむ、ともし消ちなむずるとて、乘れる男のよめる、
出でていなばかぎりなるべみ燈けち年經ぬるかとなく聲を聞け
かの至、かへし、
いとあはれなくぞきこゆる燈けち消ゆるものとも我は知らずな
天の下の色好の歌にては、なほぞありける。至は順がおほぢなり。親王の本意なし。
〔四十〕
昔、若き男、けしうはあらぬ女を思ひけり。さかしらする親ありて、思ひもぞつくとて、この女を外へ逐ひやらむとす。さこそいへ、まだ逐ひやらず。人の子なれば、まだ心いきほひなかりければ止むる勢なし。女もいやしければ、すまふ力なし。さる間に思はいやまさりにまさる。俄に親この女を逐ひうつ。男、血の涙を流せども、止むるよしなし。ゐて出でていぬ。〔古本には此の次に女の歌として「いづこまで送りはしつと人問はばあかぬ別の涙川まで」の一首あり。〕男泣く泣くよめる。
いでていなば誰かわかれのかたからむありしにまさる今日は悲しも
とよみて絶え入りにけり。親あわてにけり。なほざりに思ひてこそいひしか、いとかくしもあらじと思ふに、眞實に絶え入りにければ、惑ひて願など立てけり。今日の入相ばかりに絶え入りて、又の日の戌の時ばかりになむ、からうじて息出でたりける。昔の若人は、さるすける物思をなむしける。今の翁まさに死なむや。
〔四十一〕
昔、女はらから二人ありけり。一人は賤しき男の貧しき、一人はあてなる男持たりけり。賤しき男もたる、十二月の晦日に、袍を洗ひて、手づから張りけり。志はいたしけれど、さる賤しき業も習はざりければ、袍の肩を張りやりてげり。せむ方もなくてたゞ泣きに泣きけり。これを、かのあてなる男聞きて、いと心苦しかりければ、いとCらなる緑衫の袍を、見いでてやるとて、
むらさきの色濃きときはめもはるに野なる草木ぞわかれざりける
武藏野の心〔古今集に「紫の一本ゆゑに武藏野の草は皆がらあはれとぞ見る」とある歌の意。〕なるべし。