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先哲像傳 


 太宰春台  服部南郭  安藤東野  山縣周南  平野金華  宇佐美■(三水+旡2つ+鬲:せん・〈しん〉:人名:大漢和49237)

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※冒頭の章にも○印を付けた。

太宰春臺

春臺太宰氏、名は純、字は徳夫、俗稱彌右衞門と云ふ。春臺と號し、また紫芝園(ししゑん)とも號す。信州飯田の人にて、平手政秀の後なり。の時より太宰氏となる。延寶八年に生れ、幼き時父に隨ひ、江戸に移る。初め中野■(手偏+爲:き・い:へりくだる:大漢和12716)謙に學び、性理の學を修む。後、徂徠復古の學を唱ふ(*る)に及びて、就て業を受け、遂に其の説を主張す。晩年やゝ一家の見識をもて、徂徠の右に出る事あり。始終經學をもて任とし、禮法をもて教ふ。古文孝經孔傳久しく異邦に絶えて、我が邦にのみ遺る。春臺校して上木す。後に鮑廷博翻刻して、知不足齋叢書第一集に收む。實に藝園の一大功にして、孔氏の忠臣なり。初め或二侯に仕へ、意を得ずして致仕す。後諸侯に喜寵せらるといへども、肯て游官せず、處士〔仕へずして家にある士〕をもて門戸を開く。延享四年五月晦日卒す。年六十八。江戸谷中天眼寺に葬る。

春臺は物を極むる事すきなり。人と會釋にも、初めて逢ひし時より、是は此の位の會釋にすべき人といふ格を定め置かれしとぞ。また書を讀むには朝早く起きて、先假名書(ぶみ)などを見、又は人の見せ置きたる詩文をよみ、又校正の書をなし、また會業〔輪講〕の下見などし、いろ\/せらるゝゆゑ、倦みつかるゝことなし。夜はかならず四ツ時に寐られたりと。其の言行きはめて方正にして、小學の嘉言善行に入るべき人物なりしと、松崎君脩(*松崎観海)云はれたりとなん。

春臺常に玄關に鎗を掛置き、常の奉公人の武士の如し。死近きに至りても、浪人の葬禮に鎗を持たせたる例あらば持たせたきよしにて聞合せたるに、浪人葬禮にも皆鎗を持たするよしにて、春臺葬(はうむり)の時に鎗を持たせしとぞ。また病氣大切に及びし時、原芸澤(うんたく)脈を診して、「もはや後事を計り給へ。」と云ければ、春臺も「尤なる事。餘人にはさは宣はじ。」とて大(おほき)に喜び、夫より遺言(ゆゐげん)多く有りしとぞ。會葬の人三四百人にて、毎日の見廻(みまひ)も四五十人づつ有りしとぞ。尤盛んならずや。

春臺著書目に、

論語古訓  同外傳  家語増註  詩書古傳  易道撥亂  周易反正  易占要略  六經略説  律呂通考  聖學問答  和讀要領(えうれい)  和楷正訛  文論詩論  近體詩韻  論語正文  親族正名  朱氏詩傳膏肓  獨語  産語  和漢帝王年表  辨道書  斥非  春臺文集〔一名紫芝園稿〕  新撰六體集  孝經正文校  古文孝經校  春秋暦  經濟録 

春臺の事歴は松崎觀海の撰、行状あり。服部南郭の墓記こゝに記す。

太宰先生諱は純、字は徳夫、春臺と號す。物夫子嘗て其の考〔亡父〕栢樹翁の爲めに墓碑を作る。載て集に在り。考以上は焉に具はる。先生は信陽の飯田に生る。幼くしてに隨て東す。稍〃長じて出石侯に仕ふ。數年、疾て骸骨を乞ふ〔辭職を乞ふ〕。三たび許されず。乃ち自ら藩を去る。藩輙く去るを以て之を錮す。西のかた京畿に遊ぶこと十年。是の時、物夫子復古學を東都に唱ふ。滕東壁〔安藤東野〕・縣次公〔山縣周南〕相助けて業を修す。而して次公西に歸る。東壁乃ち顧ふ、「夫子の門、從游日に多し。然れども俊傑與に夫子の道に適くべき者、猶未だ至らず。」と。東壁幼にして嘗て已に先生と同じく、書を■(手偏+爲:き・い:へりくだる:大漢和12716)謙野先生(*中野■(手偏+爲:き・い:へりくだる:大漢和12716)謙)といふ者に受け、其の(*春台の)敏學に服す。因て先生を思ひ、數〃書して之を招く。會〃錮も亦解けぬ。先生遂に東に至る。則ち物夫子を見て其の學を説び、以爲らく歸する所を得たりと。乃ち夫子に事へ、東壁二三子と古學を講習す。博文約禮敦く經典を尚ぶ。物夫子歿して益〃先王の道・孔氏の書を詳究し、鬱として大師と爲る。弟子は諸侯・大夫・草野の士に至るまで、日に益〃進む。先生既に己が行を勵すに直方を以て自居す。從遊の徒名教を奉じて唯〃謹しまざるは莫し。畏るゝこと大府の如し。前後見る所、諸侯甚だ多し。未だ嘗て己を枉げて見ゆるを求めず。進退必ず禮を以てす。貧に安じ道を樂み、終に復た仕へず。然れども其の志は則ち曰く、「儒者の學、孔子に折中す。孔子祖述する所は、先王歴聖政治の道、具に焉に存す。之を用ゐれば則ち行ふ。如し我を用ゐる者有らば、何を以てせんや。故に未だ嘗て經世の用を忘れず。故沼田侯學を好み賢を愛し、先生を禮遇す。先生も亦深く相得。侯政府に在り。嘗て從容として侯に語て曰く、「方今不諱の朝に遭ふ。然れども時制の■(門構+亥:がい::大漢和41289)する所、下に居り疏を上て事を陳ぶるに路無し。微賤と雖も、幸に侯に因て若し一二の得失を言ふを得ば、或は又聞に觸れ賤人妄りに上を犯すを以て嚴刑を被るとも、萬一身を以て衆を濟ふに補ひ有らば、亦志の願ふ所のみ。識らず、可ならんや否や。」と。侯の曰く、「試みて乃ち可なり。」と。遂に封事〔意見書〕を上る。報せず。然れども世已に其の特立を異として、益〃其の記聞浮華の學に非ざるを敬仰す。先生幼にして孝經論語大翁に受く。學成るに及んで、益〃焉を尊尚す。漢の孔氏傳の古文孝經久しく彼方に亡びて、獨り吾が邦に存す。因て諸博士家傳る所を校訂して、音注を作り、之を刊す。復た沼田侯に因て諸を朝に獻ず。政府の諸公之を聞き、爭て侯に求む。侯爲に竝貽る。又師説に本き、更に見る所を加へて論語古訓、及び外傳を作る。又家語増注を作る。以爲らく、「此の三者孔子遺則を見るに庶し(*庶幾し)。」と。故に意を用ゐること特に勤む。先生強記且つ事に於て精詳。其の書籍を考究するや、一字苟も過たず、必ず正に歸し、然して後止む。佗の著す所の書凡そ數十、亦皆學者傳尚す。書題併に平日規行は門人稻垣長章誌を爲る。松崎維時(*惟時か。松崎観海)行を状す。二文に詳かなり。延享丁夘(*丁卯。延享4年)五月晦逝す。年六十八。東都の北谷中天眼寺栢樹翁の兆に葬る。初め末松氏を娶る。子無し。再び前川氏を娶る。亦子無し。阿武家の子名は定保を子養す。元喬(*服部南郭)同盟を以て相識ること三十餘年、乃ち顧ふに、「夙昔物夫子と二三子と已に先て逝す。天復た先生を憖遺せず。」と。哀しいかな。因て銘を作りて曰く、
學の道たる、師嚴然として後に道尊し。先生の敬教へて人を成す。學立ち道存す。(*學之道。師嚴然後道尊。先生之敬教成人。學立道存。)


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服部南郭

南郭服部氏、名は元喬、字は子遷、俗稱は小右衞門と云ふ。南郭と號す。又不忍池の邊に住みてより、芙■(艸冠/渠:::大漢和31962)館とも號す。其の先祖は尾州津島七黨の一(いつ)なりといふ。曾祖に至り越中に移り、父を元矩といひ、北村季吟の門人にて、和歌を善す。南郭も此の道を究む。天和三年京師に生れ、年十四にして江戸に來り、十六にして柳澤侯(*柳沢吉保)に仕へ、繪事(ゑのこと)と和歌をもて出づるとなり。三十四の時致仕す。是より儒をもて生理をなす。徂徠に學びて、古文辭を修(しゅ)し殊に詩に長ず。門人の束脩、およそ年分に金百五十兩餘に及ぶとぞ。其の盛んなるたぐひなし。徂徠歿して後は、經義は太宰春臺を推し、詩文は南郭を稱す。自らも又肯て講説を事とせず、また經濟を言はず、獨詩文にのがれ、雅致をもて生涯とす。嘗て唐詩選を校刻して、作家の模範(ぼはん)をひらき、折に觸れては、繪の事を樂みとし、寶暦九年卒す。年七十七。品川、東海寺中、少林院に葬る。

○「南郭謝安〔字は安石。陳國陽夏の人。晉書に傳あり。〕に似たる人にて、喜怒色にあらはさず、人に構はず、我がもの好を立てられし人なり。」と高子式(*高野蘭亭)の評なり。又「近來の學者皆酒量あり。仁齋のみ下戸、東涯も上戸、闇齋淺見(*浅見絅斎)も上戸、徂徠は下戸、南郭春臺上戸なり。」と、松君脩(しょうくんしう)(*松崎観海)云はれたりと。

南郭ある日、猗蘭侯(*猗蘭子。本多忠統)の別業〔別莊〕うきすやしきにて、「數十年歌よまざるにふと詠じたり。」とて、

靜なる池の心を水鳥のうきす〔浮巣〕の波の立つとしもなし

また「檜垣寺古瓦の記」、「假名文めづらし。」と南畝莠言(いうげん−ママ)に載する、其の記に、
ひがきのおうな〔檜垣の老女。平安時代の人。若き時は京都の妓女にて盛名あり。老いて肥後に下り、熊本の附近白川に住す。其歌「年ふればわがK髪も白川のみづはぐむまで老いにけるかな」〕のうた、その事をあはせて、後撰集大和物語にあらはれたれば、人みなしる處なり。「今はその跡寺となりてなんある。」といひ傳ふめり。肥後の曇龍上人ふる里よりふたゝび東に向はんとて、ふるきを忍ぶかたくななる翁が心くせを思ひはかりて、かの寺の瓦を以て傳へあたへ給へり。朝夕なづさひみんに、硯になしてんとて、そのみちのたくみにことづけてこゝろむるに、「いとかたし。」とて、いなびたれば、とゞめにけり。さはれ、ひくとはなしに琴を手まさぐりて、過せしためしもあらざらめやは。さるはことがらのいみじうむかしおぼえて〔古風に〕、もてあそぶばかりも、こゝろひとつにをかしきわざなりや。おのれめでたしと見るのみかは。上人のはる\〃/、ふりはへ〔わざ\/〕たづさへたまへりし、こゝろづくし〔親切〕の海ふかき情もすてがたきまゝに、ならはぬ女もじして、かきつくれば、にげなくこそをこがましけれ〔馬鹿げたり〕。かつはかの白川のみづから思へば、老にける身の、今はた硯の墨のK髪にたちかへるべきすぢもあらずかし。硯ならでも〔唐庚古硯銘「硯之壽は世を以て數ふ。(*硯之壽以世數。)」〕、世をもてかぞふるものこそあれ、はかなきいのち毛の筆のすさみは、ながきもよしなしとて、かきさしてやみつ。
     寶暦八年           七十六翁 花押

南郭門下の諸生あつまりて、狂詩を作るといふ。「何の題ぞ。」と問へば、夜發(やほつ)を詠ずといふに、南郭微笑して、「二十四文(もん)明月の夜」と朗吟して過ぎられしとぞ。また常に語りて云ふ、「日本の畫は古法眼雪舟を最上とすべし。異國より來るとて人の賞する八種畫譜は、いはゆる町繪にして、見るに足らず。畫論は津逮秘書中にあるにておすべし。」と。南郭畫風は雪舟より出づる。周雪と號せり。今少林院に二三幅ありと。

南郭著書目、

大東世語  南郭文集  同絶句  遺契  文筌小言  燈下書  儀禮圖抄 

また校刻せる書は、
左傳白文  郭注莊子  張注列子  新刻蒙求  十八史略  唐詩品彙七律  同絶句  唐詩選  唐詩事略  明詩選 

南郭墓石には南郭先生墓の五字を鐫(ゑ)るのみなり。源頼順といふ卿の撰す墓誌を此に記す。

於戲是の歳は何の歳ぞ。寶暦己卯(*宝暦9年)夏六月二十一日、故の處士南郭服夫子卒す。壽七十七。門人、某月日を卜して萬松山中少林院に葬る。哀しいかな。其の嗣名は(*服部仲英)といふ者、に赴き、且つ之が誌銘を屬して曰く、「先人公子虚左の遇〔優待〕を蒙ること久し。今や木に就く〔死す〕。而れども先人常にに命じて曰く、『吾れ人の後事を圖ること多し。毎に筆硯に臨みて伯■(口偏+皆:かい::大漢和3910)〔伯■(口偏+皆:かい::大漢和3910)は後漢の蔡■(災の頭/邑:よう::大漢和39277)の字。蔡■(災の頭/邑:よう::大漢和39277)文名一時に高し。強ひられて董卓に仕へ、之を匡救せんとして行はれず。遂にの黨と目せられて誅せらる。〕の慚有り。一分腐生至微至賤、咎無く譽無く固に世の棄物と爲るを分とす。吾れ歿するの日、爾ぢ愼みて伊(*伯か。)の慚を人に貽す勿れ。幸に集の遺る有り。千百歳にして知る者は我を知らん。我に於て足れり。』と。然りと雖も、豈に彼の■(譯の旁:えき::大漢和23466)如たる者をして何人爲るを知らざらしむる、が意に於て安んぞ而して之に從んや。之が事を状せんと欲す。先人人と爲り、凡そ百の行事未だ嘗て一言妻子家人に對して之を語らず。少きよりして然り。往歳一女を擧ぐ。先人曰く、『我の生に先つこと若干日なり。』と。家人始て生日九月念四(*24日)なるを知る。他豈に知て状することを得んや。唯〃(*聞く)其の尾州津島七黨の一にして、曾祖父某越中高島に徙る。父諱は元矩といふ者又京師に移る。山本氏を母と爲す。天和癸亥之歳(*天和3年)に生る。生れて十四、東都に來る。後三年、柳澤侯に事ふ。後十八年、臣爲るを致して退くと。が母爲る者之を云ふ。不肖裁する所を知らず。伏して乞ふ、公子吾が先人に遇する、終り有り。が爲めに之を圖れ。」と。慘然として之に對へて曰く、「孝子吾が縣官肺腑の末に從ふを以て、制の爲に拘せらる。笈を門下に負ふを得ず。幸に時〃眷顧の惠を蒙る。擁■(竹冠/彗:せい::大漢和26392)〔掃除して人を迎ふること〕■(手偏+區:こう::大漢和12638)趨〔衣をかゝげ堂におもむくこと〕、韶音〔徳音〕耳に在り。何の日か之を忘れん。今吾子が言を聞き、高風を追憶す。夫子誠に其れ然らん。夫子の經術に於る、述べて論ぜず。曰く、『吾れ業を徠翁に受く。今日授くる所は則ち昔日受くる所なり。遵奉唯謹むのみ。』と。或之を問ふに當世の事を以てすれば、則ち哂て曰く、『縫掖〔儒生〕の徒は事務を知らず。沾々人に對するに、空談を以て自ら喜ぶ。何ぞ蹇人〔あしなへの人〕道を謀るに異らん。吾敢てせず。』と。是れ謂はゆる易を善する者は易を論ぜざる者か。蓋し其の奧、蘊る所終世從遊の者と雖も之を測る能はず。宜なり、妻子家人其の平日の状に昧きこと。夫子の徳業得て稱すべからず。余不佞豈に敢て一辭を置かんや。且つ夫子は他人の言を待つて後に顯るゝ者ならんや。物門の學天下を風靡す。夫子與りて大に造する有るは固より論無し。を以て之を視るに、我が邦斯文有りてより、立言の業能く其の左契〔典據〕を執る。經緯横出煥乎洋々として、體を具へて大なる、夫子より盛なるは莫し。顧ふに隆世の氣運釀す所、天實に之を成す。以て大東を華し、百世斯文に軌せんか。率土の濱、南郭服夫子は何をか爲す者ぞと問へば、五尺の童と雖も、答ふるに天下の文宗〔文章の大家〕を以てす。口碑焉より尚きは莫し。而して吾子屬する所も亦以て已むべからざる者有り。姑く吾子と言ふ者を記し、之に係るに銘を以てして可ならん。」と。唯々す。夫子姓は服部氏、諱は元喬、字は子遷、南郭は其の號なり。井出氏を娶り、三男五女を生む。今唯〃三女存す。其の著作する所、皆世に行はる。、字は仲英。弱冠にして夫子に師事す。夫子晩に其の季女を配す。後を承けて能く家學を傳ふ。文采頗る夫子の風有り。亦に歡すと云ふ。銘に曰く、
飛毛羽翼に鳳あり。千仭に翔りて徳も亦至れり。吁夫子秀でゝ粹たり。古に遡り其の類に出づ。嶽立の若く斯の事を盛にす。仰げば彌〃高し功の次。鳳の章以て比すべし。斯の絢たる者天地に參る。(*鳳於飛毛羽翼。翔千仭徳亦至。吁夫子秀而粹。遡于古出其類。若嶽立盛斯事。仰彌高功之次。鳳兮章可以比。斯絢者參天地。)


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安藤東野

東野安藤氏、名は煥圖(くゎんと)、字は東壁、俗稱仁右衞門と云ふ。東野と號す。本姓は瀧田氏、その先は下野那須の一族なり。父を玄佐といひ、醫をもてK羽侯に仕ふ。東野天和三年下野に生る。服南郭と同年に生る。幼にして父母に別れ、孤身となり、安藤氏に養はる。よりて其の姓を冒す。また安を省きて藤東野と號す。初め春臺と同じく、中野■(手偏+爲:き・い:へりくだる:大漢和12716)謙に學び、寶永中柳澤侯に仕へ、書記となる。物徂徠に師事して、詩文ともに■(合+廾:えん・かん・こん:覆う・合わせる、ここは人名:大漢和9610)州〔明の王■(合+廾:えん・かん・こん:覆う・合わせる、ここは人名:大漢和9610)州〕を追暮〔追慕か。〕して、■(艸冠+言+爰:けん:萱:大漢和32474)園中の能文なりと釋大典も褒稱す。初め徂徠復古の學、古文辭を唱ふるに當りて、世の學者猶舊聞に牽かれ、これを信ぜず。然るに東野并に山縣周南の二人早く徂徠の説に歸服し、是を贊翼せりとぞ。故をもて、徂徠も始終此の二子を遇する事他に異れり。東野詩文はさらなり、書を工みにし、また音律を善せり。年二十九の時致仕して駒籠(こまごみ)白山に隱居す。是より自ら商丘丈人と稱せり。致仕の後も、柳澤侯よりなほ粟(ぞく)を送り優待せり。又猗蘭侯も是を殊に憐みたり。享保四年卒す。三十七。淺草淺茅が原福壽院に葬る。

安藤東野の肖像

東野は文藝の暇に音律を學び、よく笛を吹きたりとぞ。又此の肖像を見るに、容顔清らかに、鬚もなく、殆美少年に類せり。尤鬚なきことは徂徠猗蘭侯に呈する書中に、「且つ之の子鬚無く、豈に字をして鬚有らしむるを容んや。(*且之子無鬚豈容俾字有鬚乎。)」の語あり。證とすべし。

東野遺稿三卷あり。是は徂徠其の名の終に朽ちんを恐れ、二三子(じさんし)に命じて、四方に散佚せるを集録せる者なり。歿後二十年にして始めて成れりとなん。

東野は子なし。死後同盟の人々合貲(がっし)して、墓石を營みしなり。墓石に其のよしを記す。誠に才學衆に超え、徂徠も稱して「之に假すに年を以てすれば、豈に不佞の能く及ぶ所ならんや。(*假之以年豈不佞之所能及哉。)」と云はれし程にて、生涯貧窶にてありしは、■(艸冠+言+爰:けん:萱:大漢和32474)園徒中の不遇なる人物、惜むべし。

東野の墓碑文は服南郭撰す。又誌銘は秋澹園(*秋本澹園)撰す。澹園文に、

先生姓は藤、諱は煥圖、字は東壁。其の先瀧田氏、奈須の著族爲り。父は玄佐君、贅して〔入聟となる〕大沼氏を冒す。醫を以てK羽侯に仕ふ。先生天和癸亥(*天和3年)正月廿八日を以て、東野州に生る。故に學者之を稱して爾云ふ。幼にして孤となり、安藤氏に養はれ、遂に東都に籍して其の姓を冒す。後物夫子に見えて、更に儒を業とす。猶初に復るに忍びず。曰く、猶ほ之れ藤氏のごときなり。寶永中、甲侯に仕ふ。經を憲廟に邸の宴に進講す。正徳元年、病て免れ家居す。猶且つ甲の廩粟を致す。仕時の如し。辭すれば則ち又西臺侯士を喜ぶに値ふなり。廩乃繼ぐに西臺よりす。初め叡麓蓍園に家し、後商丘に移る。災に罹りて西臺の邸に寓し、以て卒す。享保己亥(*享保4年)四月十三日なり。淺茅原に葬る。春秋三十有七。子無し。初め物夫子の門に遊ぶ者殆んど海内の俊を盡す。而して先生の具體を推さざる莫し。語は諸君の碑傳集序の中に具す。不佞以正同郷に生るゝを以て、辱く志銘を命ぜらる。銘に曰く、
盜發くこと勿れ。先生の藏は金無し。牛羊踐むこと勿れ。先生後無しと雖も、夫の友人の心を悲しめ。(*盜勿發。先生之藏無金。牛羊勿踐兮。先生雖無後乎。悲夫友人之心。)


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山縣周南

周南山縣氏、名は孝孺、字は次公(しこう)、俗稱は少助と云ふ。周防の南鄙に生る。よりて周南と號す。父を良齋と云ふ。萩府の文學にて、濂洛の學をもて士大夫に唱ふ。周南貞享四年に生れ、母は松村氏にて、第二子なりし〔なりきの誤。本書この類の語法多し。〕。兄歿す〔歿するをもての誤、また存す。〕をもて嗣となる。幼より穎敏常兒に異なり。殊に父良齋周南を教諭して箕裘の業〔父祖の業〕を續がしめんを(*と)欲し、毎日書を樓上に登せ、讀誦せしむ。その間は梯子を去りて下る事を許さず。年十九のとき携へて江戸に來り、徂徠に師事せしむ。居ること三年、業成りて國に歸る。其の頃徂徠の學業いまだ大いに振はず。たゞ東野周南の二子のみ、互に羽翼となりて、是を輔く。故をもて後徂徠大家を成すに至りても、二子をあつかふこと群弟子に異れりと。周南國に歸り、韓使李東郭洪鏡湖等の學士來聘することあり。筆語唱酬して大いに國光を觀(しめ)すとぞ。又國學明倫館の學規等を議し、祭酒〔學政を司る長〕となる。後病に臥す事前後八年、寶暦二年八月十二日卒す。年六十六。府城の北古萩里(こはぎのさと)保福寺に葬る。

原田東岳嘗て諸子を評して云ふ。「徂徠東涯二先生は匹なり。然れども徂徠は堂にあり。東涯は室にあり。これその別(わかち)なり。南郭春臺二子は匹なり。しかれども南郭は戸にあり。春臺は門にあり。蘭嵎周南は匹なり。然れどもみな廊廡の下にあり。金華士新(*宇野明霞)二子は匹なり。しかれども皆門牆を望んで其の中に入ること能はず。宇氏最劣等なり。其の才の適當大抵此の如し。」と筆疇(*東岳筆疇)に見ゆ。優劣はしらず、何れも稱首〔中間に傑出せるもの〕たる事見るべし。

周南の詩、金華が參州にゆくを送るに、

唱ふを休めよ、陽關三疊の詞。陽關三疊悲みに勝へず。君を送る多馬河邊の柳。折りて南枝より北枝に至る。(*休唱陽關三疊詞。陽關三疊不勝悲。送君多馬河邊柳。折自南枝至北枝。)

周南著書目に、

周南文集  同詩集  爲學初問  養子説  講學日記  作文初問 

周南の事歴は服南郭の撰ぶ碑文、瀧長涯〔長■(立心偏+豈:かい・がい:楽しむ・和らぐ・凱歌・開ける・大きい:大漢和11015)の誤〕(*瀧鶴台)の撰ぶ行状等に悉(くは)し。碑文に、

周南先生、諱は孝孺、字は次公、一の字は少助、山縣氏なり。周の南、海北邑に生る。因て周南と號す。考良齋君、諱は長白。嘗て邑人を以て長門公の族海北君に事ふ。初め長門先侯青雲公(*毛利吉広)海北君の嗣子と爲る。良齋君師儒を以て焉に侍す。封を長門侯に繼ぐに、從て公朝に升る。移て萩府に入る。時に碩儒を以ての左右に在る、初めの如し。三男有り。長の文興君早く卒す。先生次子を以て考業を繼ぐ。天性穎悟、年甫めて■(齒+乙繞:::大漢和48585)〔齒のぬけかはる年頃、七八歳。〕、句讀を受く。輙ち誦して流るゝが如し。稍〃長じて四子五經の大義に通ず。良齋君子弟の學を課する、頗る嚴なり。常に戒めて書を樓上に讀しむ。故無ければ下るを得ず。先生強力專精、日夜樓に在り。手卷を釋かず。是に於て四部の群籍、百家の雜説、渉覽の功殆んど遍し。年十九、東遊し、物夫子に師事す。夫子修古を以て本と爲す。經義文章皆是より出づ。時に方に始て唱ふ。和者蓋し寡し。獨り藤東壁(*安藤東野)の從ふ有り。先生至れば則ち大に其の學を説く。東壁と相視て切■(麻/非+立刀:び::大漢和53100)す。夫子亦自ら其の人を得と稱す。爾後物家の學日に興り、從ふ者益〃盛にして、遂に海内靡然として風に郷(*嚮)ふに至る。吾が黨今に至るまで二子の羽翼を以て、傳て稱首と爲す。東に居ること三年、業成りて歸る。正徳三年、韓使來聘す。朝其の經る所の群國に命じて、例當に賓使を饗すべし(*となす)。舟長門封疆赤馬關館に至る。乃ち諸文學を遣して待接す。先生焉に與る。先生年尚少し。而も韓の諸書記と應酬敏捷、文才儁逸。韓人大に賞して之を異とす。對州の雨伯陽〔雨森芳洲〕亦賓を擯す。坐次先生に交歡す。目するに海西無雙を以てす。韓の三使先生が作る所を睹て、伯陽に因つて格外先生を請ひ見るに至る。詳に問槎畸賞先生集中に見ゆ。是に於て聲名籍々、海内に著聞す。是後に侍す。東するに及び、世子の讀に侍す。朝勤〔江戸に參勤する〕すれば、則ち東に從ふ。國に就けば則ち西に從ふ。先生其の側を離るゝを欲せず。享保十三年良齋君卒す。先生喪に居て哀を極む。是の歳亦當に東に從ふべし。時に喪期既に■(門構+癸:おは:終:大漢和41430)る。然れども至哀の情已む能はず。假(*暇)を乞ひて志を竟ふ一年ならんを願ふ。許されず。強て起て焉に從ふ。泰桓公(*泰相? 毛利吉元)・觀光公(*毛利宗広)に歴仕す。間年西東蓋し歳多し。寵待益〃隆し。是に先つて先侯命じて■(半+頁:はん::大漢和43400)宮〔諸侯の學宮〕を創建し、國人子弟をして游處せしむ。師導を設け、諸生を稟し、釋菜養老の禮、時を以てす。大に群書を聚め、且つ六藝武技諸の當に教習すべき者悉く其の中に備る。事皆古を稽へ式に據り、雜ふるに今の制を以てす。乃ち既に中國に巍然として成る。名けて明倫館と曰ふ。先生先に已にの爲に其の事を奬順し、其の制を與議す。是に於て崇化■(厂+萬:れい・はげし:激しい〈=礪〉・研ぐ:大漢和3041)賢の道大に行る。元文二年館の祭酒倉尚齋〔小倉尚齋〕卒す。先生代て館事を督す。乃ち復た東せず。既に祭酒と爲り、益〃學規を立つ。訓■(厂+萬:れい・はげし:激しい〈=礪〉・研ぐ:大漢和3041)方有り。育英の效日に月に益〃進む。講誦習學絃歌の音斷えず。山子濯(*山根華陽)・田望之(*小田村■(鹿+邑:ふ::大漢和39604)山)・津士雅(*津田東陽)・倉彦平(*未詳)・縣子萼(*滕子萼か。和智東郊)・田子恭(*田坂■(三水+覇:は::大漢和54853)山)・仲子路(*士路か。仲子岐陽)・曾子泉(*曾有原。増野雲門)・林義卿(*林東溟)・瀧彌八(*瀧鶴台)・縣曾彦(*魯彦か。縣子祺・山県洙川)・秦貞文(*貞夫か。秦守節)の若き、彬々輩出し、咸く先生の業を潤色して、學を以て世に顯る。其の餘の士大夫必しも學職を專にせず。而して傑然才を成し、名を知らるゝ者勝て計ふべからず。長門學を好むの俗、其の天性と雖も、葢し先生教化の力、亦多しと云ふ。先生人と爲り■(立心偏+豈:かい・がい:楽しむ・和らぐ・凱歌・開ける・大きい:大漢和11015)悌〔やはらぎたのしむ〕にして事へ易し。其の教諭するや、道つて牽かず。開いて達せず。循々誘掖其をして己よりせしむ。故を以て生徒群を樂み師を親む。遂に濟濟の盛を致す。先生博聞の餘時事に歴練す。其の經を執り、侯の講筵に陪し、或は間燕〔間暇安息の際〕に侍して、啓沃〔心に思ふ所を開説して主君の心に注ぎ入るゝこと〕諷諭、陰に匡濟の益を盡す。或は大夫有司と、謀を出し慮を發し、忠告裨益す。大義を斷ずるに臨めば、則ち獨見の明に據る。侃々奪ふべからず。人盡く敬服す。(*元喬。服部南郭)が視る所を以て、其の數〃東するや、同社の交固に弘し。先生温厚にして長ずる所を以て人に加へず。毫も忌克無し。遊驩の際、恢宏賞會、言談怡々如たり。皆其の長者爲るを推尚せざる者無し。先生嘗て侯命を奉じ、公室譜牒諸臣系譜を選す。他の著す所世に行はるゝ者、文集爲學初問作文初問、若干卷有り。延享二年、病を得、歳を經て已まず。凡そ褥に在ること八年、國相より之を憂ふる者百方治を求て驗あらず。寶暦二年八月十二日を以て終る。年六十六。國を擧げて悼惜せざる莫し。國城の北古萩の里保福寺に葬る。初め松村氏を配とす。泰恒元恒を生み、卒す。再び長嶺氏を娶る。允升を生み、卒す。又小野氏を娶る。子を生めども夭す。小野氏卒す。最も後に綿貫氏を娶る。政恒忠恒を生む。長泰恒字は伯恒嗣ぐ。餘は皆出でて他族を繼ぐ。既にして伯恒其の状を具して遠くに寄せ、託するに銘墓の事を以てす。長門固より學士大夫に富めり。敢て其の權を奪ふべからず。且つ髦夫業を廢し文する能はず。奚ぞ重きを爲すに足らん。然れども既に命あり。顧ふに久く兄弟の誼を辱うす。親好他に匪ず。今辭すべからず。乃ち其の状を承く。略〃始末を叙す。敢て係るに銘辭を以てす。其の辭に曰く、
君に致すに道を以てすは、師儒之を得。學を興し民を化すは、維れ誰か之を力めん。君子有らずんば、焉んぞ其の國を大にせん。徳の朽ちざる、永く言に矜式す〔敬ひて法らしむ〕。(*致君以道。師儒之得。興學化民。維誰之力。不有君子。焉大其國。徳之不朽。永言矜式。)


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平野金華

金華平野氏、名は玄仲、字は子和(しくゎ)、俗稱は源右衞門といふ。金華と號せしは、もと東奧の人ゆゑ、金華山を表徳せるなり。元祿元年に生れ、幼にして孤(みなしご)となる。才鋒人に勝れ、初め東都に來り、醫を學びしが、素より其の志にあらず。後徂徠に見ゆるに及びて、忽刀圭〔醫業〕を擲ちて、儒生となり、修辭復古ををさむ。其の人となり豪飮を好み、劉伯倫のごとく、家産是が爲に乏しけれども、聊意とせず、頗る任侠〔をとこだて〕の義氣ありしとぞ。儒生といへども、架上には唯僅に左傳禮記莊子通鑑等の抄録數冊ありしのみにて、文章を撰べるに及んでは先此の書冊を數篇閲して、後一時に筆を下して、人を驚すの語を吐出せりとぞ。後に守山侯の記室となり、享保十七年七月二十三日卒す。年四十五。駒籠(こまごみ)蓮光寺に葬る。私諡(わたくしにおくりな)して文莊先生といふ。

金華は尤奇を好む人にて、其の家に一妾一僕ありて、妾の名を月小夜といひ、僕の名を染之助といひしよし。又猫を好みて十八疋ありしとぞ。又妻の衣服を著して君に見え佳節の賀を述べしことありしとぞ。實(げ)に世を傲弄する〔馬鹿にする〕一奇人なり。されば南郭の送る序にも、「子和は東奧の一奇士なり。(*子和者東奧一奇士也。)」といひ、また「滑稽窮まらず。人々之を屈すること能はず。(*滑稽不窮。人々不能屈之。)」などいへり。春臺の送る序にも、「子和は狂生なり。又助くるに酒を以てす。(*子和狂生也。又助以酒。)」など見えたり。

金華の著書、金華文集、是は守山侯の集録して上木せりとぞ。金華訓點の劉向新序あり。猶此の外も有るべし。金華嘗て得意の文章一篇を持ちて、室鳩巣に謁し、強て改正を乞ふ。鳩巣よりて其の中二十字を除き、五字を加へたり。金華喜ばず、南郭に質す。又決定(けつぢゃう)の評なし。二通に寫し徂徠に示す。徂徠、「何樣(なにさま)十五字餘れり。」とて嘆賞す。これより南郭金華室氏を稱美せしと。

金華早(つと)に深川を發する詩に、

月落ちて人烟曙色分る。長橋一半星文を限る。天に連りて忽下る深川の水。直に總州に向ひて白雲と爲る。(*月落人烟曙色分。長橋一半限星文。連天忽下深川水。直向總州爲白雲。)

徂徠自ら、此の詩ならびに南郭の墨水を下る詩、蘭亭(*高野蘭亭)の叉江(さかう)に泛ぶ詩と三首を寫し、壁に貼して、「鏘然(さうぜん)たる玉振の聲、得易からざるものなり。」と稱せしとぞ。

金華の碑文は服元喬(*服部南郭)の撰なり。

先生姓は平、諱は玄中、字は子和。奧の人なり。因て金華と號す。早く孤なり。既に冠して族人謀りて醫を東都に學ばしむること數年。其の志す所に非ず、更に儒と爲る。初て徂徠物先生に從ひ、修辭を物先生に問ふ。亦一隅を視するのみ。未だ幾ならず、其の爲す所を出す。未だ嘗て聞かざる所、諸を懷に探るが如し。是時物先生方に英才を誘進す。乃ち大に之を寄(*奇)とし、顧みて等に謂つて曰く、「未だ嘗て進取斯の如き人を見ず。古の狂簡〔志大にして事に疎略なり。〕なるかな。吾れ裁する所無し。乃ち日夜益〃憤勵す。著す所必ず己に機軸す。遂に大著作と稱すと云ふ。」と。人と爲り磊落、俶儻瑰■(玉偏+韋:い::大漢和21107)の事を好む。故に其の結撰毎に人を驚さんと欲す。又滑稽多端、一世を傲弄す。故を以て或は狂、奇を好むと謂はる。然れども性善を喜び惡を疾む。人の善を視る、啻〃(*啻に)自己のみならず、將に諸を膝に加へんとするが若くにして、置かず。飮酒■(立心偏+亢:こう::大漢和10403)慨時に或は激烈泣下に至る。一も惡聲其の善する所に及ぶ有れば、■(手偏+益:あく・やく::大漢和12497)■(堅の頭/手:かん::大漢和12259)〔奮激〕之に反らんと欲すること、己私より甚し。後乃ち稍々節を折く。然れども其の義氣心本に著く、時に感慨に發す。似て非なる者有り、君子を蠧害すれば、乃ち曰く、「彼れ何人ぞ。斯爾の居徒幾何ぞ。」と。■(口偏+喜:き::大漢和4276)笑するのみ。然れども亦其の絶を示すこと微し。文を作り、恆に稱す。「獨り斗量を見ずや。人容れざるに非ずして之を出す二參。我れ即ち一斗亦用ゐ、一石亦用ゐ、其の他を知らず。」(*と)。卒後其の家を探るに、素貧一書を藏せず、抄する所數卷のみ。人始めて其の才量に服す。後守山侯の儒臣と爲り、年四十五にして卒す。享保十七年七月廿三日なり。東都城北蓮光寺に葬る。神田氏を配し、三男二女を生む。長は元幹、字は國禮。女甫て十二。餘は皆未だ■(齒+乙繞:しん::大漢和48585)ならずして歿す。先生貧甚し。而して其の善する所の者、鮮を撃ち驩を極むに至つては、未だ嘗て■(穴冠+婁:く・ろう・る・りょ:貧しい・苦しむ・窶れる:大漢和25628)を以て辭と爲さず。毎に急有りて去るを得ざらしむるに至る。其の人を愛する、亦天性に出づ。卒するに及び、知ると知らざると皆爲に流涕す。既に客死して親無し。(*無ければ)則ち姻家諸友義を爭ひ葬を營み、遂に石を立つ。守山の世子學を好み、先生を師重す。是に先て其の稿を■(册+立刀:さん・せん:削る・除く:大漢和1917)りて世に行ふ。是に於て世子即ち文莊先生と諡し、に命じて碑を作らしむ。已に友たること二十餘年、先生率ね人を可さず。而してを推して一日の長に居らしむ。亦其の義氣の許す所乃ち爾り。皆謂ふ、「眞の兄弟の如し。」と。素服弔を受くるに至るも、遂に敢て辭せず。銘を作りて曰く、
天其の文を假して齒を假さず。千載慄々として神死せず。神死せず、其の理を安せ。先生の墓此の里に觀す。(*天假其文不假齒。千載慄々神不死。神不死兮安其理。先生之墓觀此里。)


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宇佐美■(三水+旡2つ+鬲:せん・〈しん〉:人名:大漢和49237)

■(三水+旡2つ+鬲:せん・〈しん〉:人名:大漢和49237)水宇佐美氏、名は惠、字は子迪、俗稱惠助(ゑすけ)と云ふ。上總夷■(三水+旡2つ+鬲:せん・〈しん〉:人名:大漢和49237)郡(いしみごほり)(*夷隅郡)の人、よりて■(三水+旡2つ+鬲:せん・〈しん〉:人名:大漢和49237)水と號す。其の先祖は越後の勇士にして、謙信に從ひ、數度軍功をあらはす。中葉南總に移り、世々豪富をもて聞ゆとぞ。■(三水+旡2つ+鬲:せん・〈しん〉:人名:大漢和49237)水寶永七年に生れ、十七歳の時、江戸に來りて、徂徠に師事し、その塾に居る事僅に三年、師徂徠歿す。夫より社友と共に切磋して、その學を修めたり。江戸に在る事六年にて、古郷に歸り、その後再び江戸に出でて、遂に儒をもて出雲侯に仕ふ。かく■(三水+旡2つ+鬲:せん・〈しん〉:人名:大漢和49237)水徂徠の教諭を受くる淺しといへども、師恩を報いんをもて任とし、その遺書を校刻して世に廣むる志厚く、遂に徂徠四家雋(せん)・古文矩文變考絶句解南留別志等の書みな其の手に成りて刻行す。徂徠高足の弟子も、其の巧(*功)には遙に及ばずとぞ。其の厚義尤賞嘆すべし。■(三水+旡2つ+鬲:せん・〈しん〉:人名:大漢和49237)水一男ありといへども、多病にて家學を繼ぐ能はず。ゆゑをもて嘗て片山兼山を養うて子とせんとす。然るに兼山も(*は)徂徠の説を喜ばず。こゝをもて終に不諧〔不調〕に及び、後姪(をひ)徳修を養うて嗣とす。安永五年六月十六日卒す。年六十四。四谷戒行寺に葬る。

■(三水+旡2つ+鬲:せん・〈しん〉:人名:大漢和49237)水雲州侯(*出雲侯)に仕へて、一時に名高く、從遊する者も多く、中岡豐洲等の門人も出來たり。此の節力士嵯峨ヶ嶽(たけ)同じく雲州侯にありて、角牴場(すまふば)に名高し。されば「嵯峨ヶ嶽と御同藩故かめつたに名は高けれど、元の出が一農夫」などの誹謗もありしなり。また此の比は■(艸冠+言+爰:けん:萱:大漢和32474)園の徒みな\/物故〔死す〕して、■(三水+旡2つ+鬲:せん・〈しん〉:人名:大漢和49237)水のみ生殘りて、よく物氏の遺訓を守れば、人の尊尚も又多し。彦根の野公臺(*野村東皐)、曾て物門の徒の追々下世せるを傷みて、■(三水+旡2つ+鬲:せん・〈しん〉:人名:大漢和49237)水に贈る詩あり。因に記す。

■(艸冠+言+爰:けん:萱:大漢和32474)園夫子の尊を仰慕すれども、生來其の門に遊ぶに逮ばず。室家の美見難しと雖も、人に私淑して飽くまで恩を受く。信陽(*太宰春台)已に歿して周南(*山県周南)逖かなり。二子の風流覿るべからず。曾て南郭服先生に見ゆ。夫子の道目撃に存す。又高生(*高野蘭亭か。)に就て詩を作るを問ひ、後餘子(*餘熊耳)に從ひて辭を屬するを論ず。高生服生相繼て逝く。今年餘子忽然として萎す。龜山の松子は(*松崎観海)我が畏友なり。切磋問難交已に久し。往歳倏ち地下の郎と爲る。天之に才を假して壽を假さず。斯文寥々長く已みぬ。耆徳唯餘す宇■(三水+旡2つ+鬲:せん・〈しん〉:人名:大漢和49237)水。此の翁七十矍鑠〔老健〕なるかな。躬斯文に任じて力未だ弭まず、家萬卷を藏して積て山の如し。群書を考索して手自ら■(册+立刀:さん・せん:削る・除く:大漢和1917)る。斷簡殘編日に緒に就く。■(艸冠+言+爰:けん:萱:大漢和32474)園の遺草人間〔世間・社會〕に出づ。梁壞〔こゝは徂徠の死。禮記檀弓「泰山其頽乎。梁木其壞乎。哲人其萎乎。」に本づく。〕以來五十年、典刑獨り此の翁の傳ふ有り(*有るのみ)。酒間且つ説く牛門〔江戸牛込〕(*徂徠学派)の事。享保の風流目前に在り。君見ずや、世儒紛々道を知る希に、各門戸を持ちて是非を爭ふ。物換り星移りて人代〃改る。君微せば吾輩誰と與に歸らん(*歸せん?)。 (*仰慕■園夫子尊。生來不逮遊其門。室家之美雖難見。私淑於人飽受恩。信陽已歿周南逖。二子風流不可覿。曾見南郭服先生。夫子道存于目撃。又就高生問作詩。後從餘子論屬辭。高生服生相繼逝。今年餘子忽然萎。龜山松子我畏友。切磋問難交已久。往歳倏爲地下郎。天假之才不假壽。斯文寥々長已矣。耆徳唯餘宇■水。此翁七十矍鑠哉。躬任斯文力未弭。家藏萬卷積如山。考索群書手自■。斷簡殘編日就緒。■園遺草出人間。梁壞以來五十年。典刑獨有此翁傳。酒間且説牛門事。享保風流在目前。君不見世儒紛々知道希。各持門戸爭是非。物換星移人代改。微君吾輩與誰歸。)

と見えたり。
詩中に云へる■(艸冠+言+爰:けん:萱:大漢和32474)園の徂徠享保十三年に死す。信陽の春臺延享四年死す。南郭元喬寶暦五年死す。高生の蘭亭寶暦七年死す。餘子の熊耳〔大内熊耳、姓は餘。〕は安永五年死す。此の年■(三水+旡2つ+鬲:せん・〈しん〉:人名:大漢和49237)水も死せり。

■(三水+旡2つ+鬲:せん・〈しん〉:人名:大漢和49237)水歿せる安永五年には、有名の人多く謝世す。餘熊耳を初め、鹿門大雅堂(*池大雅)・藤益道(*伊藤華岡)・鵜子寧(*鵜殿士寧)・田村元雄(げんゆう)・物道濟(*物金谷、荻生金谷)・鈴木煥卿(*鈴木■(三水+壇の旁:::大漢和18416)洲)・蘆東山(ろとうざん)(*蘆野東山)等なり。されば澁井太室が知己五人を悼む五哀の詩あり。(*中に)宇■(三水+旡2つ+鬲:せん・〈しん〉:人名:大漢和49237)水を哭する詩あり。

松有り、爰に高山の雲に在り。企て及ぶべからず、唯〃同じく聞く。蹊を開て終身子是れ勤む。子を呼びて應ぜず、且つ何ぞ去る。心腸苑結〔積み結ぼれて解けず。〕迂なるかな、紛たり。(*有松爰在高山雲。企不可及唯同聞。開蹊終身子是勤。呼子不應且何去。心腸苑結迂哉紛。)

■(三水+旡2つ+鬲:せん・〈しん〉:人名:大漢和49237)水著書目に、

絶句解考證  辨道考  辨名考  古文矩文變考  補儲編  ■(艸冠+言+爰:けん:萱:大漢和32474)園録  訓點千字文

○校點の書は、

絶句解  同拾遺  南留別志  王注老子 

■(三水+旡2つ+鬲:せん・〈しん〉:人名:大漢和49237)水墓碑銘は服元立(*服部仲山)の撰文なり。

■(三水+旡2つ+鬲:せん・〈しん〉:人名:大漢和49237)水先生諱は惠、字は子迪、南總の人なり。其の郷■(三水+旡2つ+鬲:せん・〈しん〉:人名:大漢和49237)水有り。因て焉を號とす。安永五年丙申六月十六日、疾に罹り、八月九日逝きぬ。享年六十七。東都の城西四谷戒行寺の域に葬る。是に於て門人岡伯固、本文卿、に造り且つ孤子の辭を致し、相與に謂ふ。「將に彼の■(澤の旁:えき::大漢和23466)如の者に石せんとす。請ふ爲に誌せよ。」と。不文を辭す。二子の曰く、「顧みるに、當今我が師と通家たる者、與に有ること幾くぞ。は三世の交誼有り。其れ辭を爲すべけんや。」と。因て其の譜を按ずるに、南總の岩熊の縣、宇佐美八左衞門といふ者は先生五世の祖爲り。其の先は宇佐美定行の族なり。相傳ふ天正中、北越より南總に徙り、勇を以て聞ゆ。定行は駿河守と稱す。祐茂十二世の孫祐孝道盛孝忠を生む。孝忠定行を生む。北越の謙信に仕へ、數〃功有り。謙信の爲めに信州上田の城主長尾政景を誘ひ、舟を隙し之を湖中に沈め、而して共に死する者なり。詳に古記に存す。其の族は名稱録せず、得て知るべからず。岩熊宇佐美氏より、世々八左衞門と稱す。考千里君に至りて七左衞門と稱す。吉野氏を娶り、先生を生む。(*宇佐美千里)は一に習翁と號す。性英敏、學を好む。始て總の人に教るに、桔槹〔はねつるべ〕を以て水を■(手偏+參:さん::大漢和12649)す。又南總の東海颶多く、漕粟の船時々覆沒するを見て謂く、「海口港を闢きて船を■(三水+旡2つ+鬲:せん・〈しん〉:人名:大漢和49237)水に容れば、則ち泊る所有り。以て患無かるべし。是れ私利に非ず。」と。之を官に聞すれども、事成らず。居民今に到りて之を惜む。履歴先生著す所のの行状に詳なり。先生寶永七年庚寅正月二十三日を以て生る。十一歳句讀を同縣利倉壽仙氏に受く。十七歳、千里君命じて東都に至り、物子(*荻生徂徠)に事へしむ。時に平竹溪先生(*三浦竹渓)塾に在り。乃ち意ろ獨り識る、物家に忠ある者必ず先生ならん。」と。相與に日に厚し。因て留ること三年にして物子歿す。尚社友と講習すること凡そ六年にして歸る。是に於て一室を築き、暘谷と號し、書を其の中に讀む。其の歸るや、倉美中(*美仲。板倉帆邱・板倉■(玉偏+黄:こう::大漢和21242)渓)を携へて之を養ふこと五年なり。蓋し以て切磋の友と爲すなり。享保中、官物叔達(*荻生北渓)に命じて、七經孟子考文を校せしむ。先生與りて力有り。金を賜ふ。先生郷に在りて、十餘年を經。曾て西遊して名山古寺を探り、多く遺書を求む。而して再び東都に遊び、麹坊に居り、何くも亡く芝の三島街に遷る。學益〃精勤、從游甚だ多し。後雲藩(*出雲)に仕へ、儒官と爲る。恩遇殊に渥し。數〃政を爲すの要を上言して、毎に嘉納せらる。諸大夫と經濟を論ずるに及んでは、亦其の説に依て行ふ(*行はる)。大に補助有り。寶暦中、侯命を奉じて比叡山の諸堂を繕修す。侯獻る所の銅燈先生をして銘を作らしむ。賞有り。又酒食論を著さしめ、以て監戒と爲す。初め金剛氏を配す。一男一女を生みて卒す。男名は時敏、女は幼にして歿す。再び中山氏を配す。子無し。亦先つて卒す。時敏多病業を繼ぐこと能はざるを以て、姪徳修字は子業を養ひ、嗣と爲す。先生人と爲り忠臣嚴整、人の善を視ては若し惟〃己の若し。既に一世の儒宗と爲る。是を以て諸侯・大夫・士より以て庶人に至る。業を受くる者日に益〃多し。然れども師禮を執て之を請はざれば、諸侯と雖も復た答へず。小泉侯禮待尤も厚し。且つ先生の策を用ゐ、旱歳水を得て乏しからざるに至る。夫の燕飮の若きは、則ち曰く、「學者各〃任重く道遠きを苦しむ。是に息ひ、是に游ぶ。唯〃何ぞ戚々せん。温顔物に接し申々如たり。」と。是に因て人畏れ愛す。先生嘗て以爲く、「物子の著作洽博、已に海内に布く。而して漸く年を歴て觀る所の者は或は典故に昧ければ、則ち其の義を會せざる有り。是に於て悉く其の書を取る。重ねて之を校定して、訓詁〔註解〕を研精して、炳として丹青〔彩色畫〕の如し。已に刊行する者有れば、其の未だ脱せざる者を、將に嗣て梓せんとす。他に自ら編著する所、詩書小序絶句解考證補儲編絶句解遺考證有り、世に行はる。晩に■(艸冠+言+爰:けん:萱:大漢和32474)園を捜つて、物子の著述書目載せざる所の遺稿數十冊を得。大に喜びて曰く、「我に數年を加して以て業を卒へしめば、猶以て夫子の志を繼ぐべし。」と。物家の忠臣と謂ふべし。而して先生逝きぬ。惜いかな。然りと雖も既已に儒宗と爲り、厚を後進に遺し、矜式する所の者有らしむ。豈に獨り物家に忠あるのみならんや。銘に曰く、
周に非ば何ぞ成らん。勤めずんば誰にか倚らん。先生の言行、懦夫〔心のおぢけたる者。孟子「聞2伯夷1者、頑夫廉、懦夫有志。」による。〕も志を立つ。(*非周何成。不勤誰倚。先生言行。懦夫立志。)

先哲像傳 
*巻4了

 太宰春台  服部南郭  安藤東野  山縣周南  平野金華  宇佐美■(三水+旡2つ+鬲:せん・〈しん〉:人名:大漢和49237)

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《凡例》
〔〕原文の割注・旁記
詩・賛の書き下し文は、漢字平仮名交り文に改めた。詩の場合は、緑色で白文を併記した。
緑色はその他にも心覚えのために任意に付したものがある。(<font color="#008B00">・・・</font>タグ)

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