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太宰先生 諱は純、字は徳夫、春臺 と號す。物夫子 嘗て其の考〔亡父〕栢樹翁 の爲めに墓碑を作る。載て集に在り。考以上は焉に具はる。先生 は信陽の飯田に生る。幼くして考 に隨て東す。稍〃長じて出石侯に仕ふ。數年、疾て骸骨を乞ふ〔辭職を乞ふ〕。三たび許されず。乃ち自ら藩を去る。藩輙く去るを以て之を錮す。西のかた京畿に遊ぶこと十年。是の時、物夫子 復古學を東都に唱ふ。滕東壁 〔安藤東野〕・縣次公 〔山縣周南〕相助けて業を修す。而して次公 西に歸る。東壁 乃ち顧ふ、「夫子 の門、從游日に多し。然れども俊傑與に夫子 の道に適くべき者、猶未だ至らず。」と。東壁 幼にして嘗て已に先生 と同じく、書を■(手偏+爲:き・い:へりくだる:大漢和12716)謙野先生 (*中野■(手偏+爲:き・い:へりくだる:大漢和12716)謙)といふ者に受け、其の(*春台の)敏學に服す。因て先生 を思ひ、數〃書して之を招く。會〃錮も亦解けぬ。先生 遂に東に至る。則ち物夫子 を見て其の學を説び、以爲らく歸する所を得たりと。乃ち夫子 に事へ、東壁 二三子と古學を講習す。博文約禮敦く經典を尚ぶ。物夫子 歿して益〃先王の道・孔氏 の書を詳究し、鬱として大師と爲る。弟子は諸侯・大夫・草野の士に至るまで、日に益〃進む。先生 既に己が行を勵すに直方を以て自居す。從遊の徒名教を奉じて唯〃謹しまざるは莫し。畏るゝこと大府の如し。前後見る所、諸侯甚だ多し。未だ嘗て己を枉げて見ゆるを求めず。進退必ず禮を以てす。貧に安じ道を樂み、終に復た仕へず。然れども其の志は則ち曰く、「儒者の學、孔子 に折中す。孔子 祖述する所は、先王歴聖政治の道、具に焉に存す。之を用ゐれば則ち行ふ。如し我を用ゐる者有らば、何を以てせんや。故に未だ嘗て經世の用を忘れず。故沼田侯學を好み賢を愛し、先生 を禮遇す。先生 も亦深く相得。侯政府に在り。嘗て從容として侯に語て曰く、「方今不諱の朝に遭ふ。然れども時制の■(門構+亥:がい::大漢和41289)する所、下に居り疏を上て事を陳ぶるに路無し。純 微賤と雖も、幸に侯に因て若し一二の得失を言ふを得ば、或は又聞に觸れ賤人妄りに上を犯すを以て嚴刑を被るとも、萬一身を以て衆を濟ふに補ひ有らば、亦志の願ふ所のみ。識らず、可ならんや否や。」と。侯の曰く、「試みて乃ち可なり。」と。遂に封事〔意見書〕を上る。報せず。然れども世已に其の特立を異として、益〃其の記聞浮華の學に非ざるを敬仰す。先生 幼にして孝經 ・論語 を大翁 に受く。學成るに及んで、益〃焉を尊尚す。漢の孔氏傳の古文孝經 久しく彼方に亡びて、獨り吾が邦に存す。因て諸博士家傳る所を校訂して、音注を作り、之を刊す。復た沼田侯に因て諸を朝に獻ず。政府の諸公之を聞き、爭て侯に求む。侯爲に竝貽る。又師説に本き、更に見る所を加へて論語古訓 、及び外傳 を作る。又家語増注 を作る。以爲らく、「此の三者孔子 遺則を見るに庶し(*庶幾し)。」と。故に意を用ゐること特に勤む。先生 強記且つ事に於て精詳。其の書籍を考究するや、一字苟も過たず、必ず正に歸し、然して後止む。佗の著す所の書凡そ數十、亦皆學者傳尚す。書題併に平日規行は門人稻垣長章 誌を爲る。松崎維時 (*惟時か。松崎観海)行を状す。二文に詳かなり。延享丁夘 (*丁卯。延享4年)五月晦逝す。年六十八。東都の北谷中天眼寺栢樹翁 の兆に葬る。初め末松氏を娶る。子無し。再び前川氏を娶る。亦子無し。阿武家の子名は定保 を子養す。元喬 (*服部南郭)同盟を以て相識ること三十餘年、乃ち顧ふに、「夙昔物夫子 と二三子と已に先て逝す。天復た先生 を憖遺せず。」と。哀しいかな。因て銘を作りて曰く、學の道たる、師嚴然として後に道尊し。先生 の敬教へて人を成す。學立ち道存す。(*學之道。師嚴然後道尊。先生之敬教成人。學立道存。)
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ひがきのおうな〔檜垣の老女。平安時代の人。若き時は京都の妓女にて盛名あり。老いて肥後に下り、熊本の附近白川に住す。其歌「年ふればわがK髪も白川のみづはぐむまで老いにけるかな」〕のうた、その事をあはせて、後撰集 ・大和物語 にあらはれたれば、人みなしる處なり。「今はその跡寺となりてなんある。」といひ傳ふめり。肥後の曇龍上人 ふる里よりふたゝび東に向はんとて、ふるきを忍ぶかたくななる翁が心くせを思ひはかりて、かの寺の瓦を以て傳へあたへ給へり。朝夕なづさひみんに、硯になしてんとて、そのみちのたくみにことづけてこゝろむるに、「いとかたし。」とて、いなびたれば、とゞめにけり。さはれ、ひくとはなしに琴を手まさぐりて、過せしためしもあらざらめやは。さるはことがらのいみじうむかしおぼえて〔古風に〕、もてあそぶばかりも、こゝろひとつにをかしきわざなりや。おのれめでたしと見るのみかは。上人のはる\〃/、ふりはへ〔わざ\/〕たづさへたまへりし、こゝろづくし〔親切〕の海ふかき情もすてがたきまゝに、ならはぬ女もじして、かきつくれば、にげなくこそをこがましけれ〔馬鹿げたり〕。かつはかの白川のみづから思へば、老にける身の、今はた硯の墨のK髪にたちかへるべきすぢもあらずかし。硯ならでも〔唐庚古硯銘「硯之壽は世を以て數ふ。(*硯之壽以レ世數。)」〕、世をもてかぞふるものこそあれ、はかなきいのち毛の筆のすさみは、ながきもよしなしとて、かきさしてやみつ。
寶暦八年 七十六翁 花押
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於戲是の歳は何の歳ぞ。寶暦己卯 (*宝暦9年)夏六月二十一日、故の處士南郭服夫子 卒す。壽七十七。門人、某月日を卜して萬松山中少林院に葬る。哀しいかな。其の嗣名は雄 (*服部仲英)といふ者、余 に赴き、且つ之が誌銘を屬して曰く、「先人 公子 虚左の遇〔優待〕を蒙ること久し。今や木に就く〔死す〕。而れども先人 常に孤 に命じて曰く、『吾れ人の後事を圖ること多し。毎に筆硯に臨みて伯■(口偏+皆:かい::大漢和3910)〔伯■(口偏+皆:かい::大漢和3910)は後漢の蔡■(災の頭/邑:よう::大漢和39277)の字。蔡■(災の頭/邑:よう::大漢和39277)文名一時に高し。強ひられて董卓 に仕へ、之を匡救せんとして行はれず。遂に卓 の黨と目せられて誅せらる。〕の慚有り。一分腐生至微至賤、咎無く譽無く固に世の棄物と爲るを分とす。吾れ歿するの日、爾ぢ愼みて伊(*伯か。)の慚を人に貽す勿れ。幸に集の遺る有り。千百歳にして知る者は我を知らん。我に於て足れり。』と。然りと雖も、豈に彼の■(譯の旁:えき::大漢和23466)如たる者をして何人爲るを知らざらしむる、孤 が意に於て安んぞ而して之に從んや。之が事を状せんと欲す。先人 人と爲り、凡そ百の行事未だ嘗て一言妻子家人に對して之を語らず。少きよりして然り。往歳雄 一女を擧ぐ。先人 曰く、『我の生に先つこと若干日なり。』と。家人始て生日九月念四(*24日)なるを知る。他豈に知て状することを得んや。唯〃(*聞く)其の尾州津島七黨の一にして、曾祖父某越中高島に徙る。父諱は元矩 といふ者又京師に移る。山本氏を母と爲す。天和癸亥之歳 (*天和3年)に生る。生れて十四、東都に來る。後三年、柳澤侯 に事ふ。後十八年、臣爲るを致して退くと。雄 が母爲る者之を云ふ。孤 不肖裁する所を知らず。伏して乞ふ、公子 吾が先人 に遇する、終り有り。孤 が爲めに之を圖れ。」と。余 慘然として之に對へて曰く、「孝子雄 吾が縣官肺腑の末に從ふを以て、制の爲に拘せらる。笈を門下に負ふを得ず。幸に時〃眷顧の惠を蒙る。擁■(竹冠/彗:せい::大漢和26392)〔掃除して人を迎ふること〕■(手偏+區:こう::大漢和12638)趨〔衣をかゝげ堂におもむくこと〕、韶音〔徳音〕耳に在り。何の日か之を忘れん。今吾子 が言を聞き、高風を追憶す。夫子 誠に其れ然らん。夫子 の經術に於る、述べて論ぜず。曰く、『吾れ業を徠翁 に受く。今日授くる所は則ち昔日受くる所なり。遵奉唯謹むのみ。』と。或之を問ふに當世の事を以てすれば、則ち哂て曰く、『縫掖〔儒生〕の徒は事務を知らず。沾々人に對するに、空談を以て自ら喜ぶ。何ぞ蹇人〔あしなへの人〕道を謀るに異らん。吾敢てせず。』と。是れ謂はゆる易を善する者は易を論ぜざる者か。蓋し其の奧、蘊る所終世從遊の者と雖も之を測る能はず。宜なり、妻子家人其の平日の状に昧きこと。夫子 の徳業得て稱すべからず。余不佞 豈に敢て一辭を置かんや。且つ夫子 は他人の言を待つて後に顯るゝ者ならんや。物門の學天下を風靡す。夫子 與りて大に造する有るは固より論無し。余 を以て之を視るに、我が邦斯文有りてより、立言の業能く其の左契〔典據〕を執る。經緯横出煥乎洋々として、體を具へて大なる、夫子 より盛なるは莫し。顧ふに隆世の氣運釀す所、天實に之を成す。以て大東を華し、百世斯文に軌せんか。率土の濱、南郭服夫子 は何をか爲す者ぞと問へば、五尺の童と雖も、答ふるに天下の文宗〔文章の大家〕を以てす。口碑焉より尚きは莫し。而して吾子 屬する所も亦以て已むべからざる者有り。姑く吾子 と言ふ者を記し、之に係るに銘を以てして可ならん。」と。雄 唯々す。夫子 姓は服部氏、諱は元喬、字は子遷、南郭 は其の號なり。井出氏を娶り、三男五女を生む。今唯〃三女存す。其の著作する所、皆世に行はる。雄 、字は仲英。弱冠にして夫子 に師事す。夫子 晩に其の季女を配す。後を承けて能く家學を傳ふ。文采頗る夫子 の風有り。亦余 に歡すと云ふ。銘に曰く、飛毛羽翼に鳳あり。千仭に翔りて徳も亦至れり。吁夫子秀でゝ粹たり。古に遡り其の類に出づ。嶽立の若く斯の事を盛にす。仰げば彌〃高し功の次。鳳の章以て比すべし。斯の絢たる者天地に參る。(*鳳於飛毛羽翼。翔千仭徳亦至。吁夫子秀而粹。遡于古出其類。若嶽立盛斯事。仰彌高功之次。鳳兮章可以比。斯絢者參天地。)
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先生 姓は藤、諱は煥圖、字は東壁。其の先瀧田氏、奈須の著族爲り。父は玄佐君 、贅して〔入聟となる〕大沼氏を冒す。醫を以てK羽侯に仕ふ。先生 天和癸亥 (*天和3年)正月廿八日を以て、東野州に生る。故に學者之を稱して爾云ふ。幼にして孤となり、安藤氏に養はれ、遂に東都に籍して其の姓を冒す。後物夫子 に見えて、更に儒を業とす。猶初に復るに忍びず。曰く、猶ほ之れ藤氏のごときなり。寶永中 、甲侯に仕ふ。經を憲廟 に邸の宴に進講す。正徳元年 、病て免れ家居す。猶且つ甲の廩粟を致す。仕時の如し。辭すれば則ち又西臺侯士を喜ぶに値ふなり。廩乃繼ぐに西臺よりす。初め叡麓蓍園に家し、後商丘に移る。災に罹りて西臺の邸に寓し、以て卒す。享保己亥 (*享保4年)四月十三日なり。淺茅原に葬る。春秋三十有七。子無し。初め物夫子 の門に遊ぶ者殆んど海内の俊を盡す。而して先生 の具體を推さざる莫し。語は諸君の碑傳集序の中に具す。不佞 以正同郷に生るゝを以て、辱く志銘を命ぜらる。銘に曰く、盜發くこと勿れ。先生 の藏は金無し。牛羊踐むこと勿れ。先生 後無しと雖も、夫の友人の心を悲しめ。(*盜勿發。先生之藏無金。牛羊勿踐兮。先生雖無後乎。悲夫友人之心。)
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周南先生 、諱は孝孺、字は次公、一の字は少助、山縣氏なり。周の南、海北邑に生る。因て周南 と號す。考良齋 君、諱は長白。嘗て邑人を以て長門公の族海北君に事ふ。初め長門先侯青雲公 (*毛利吉広)海北君の嗣子と爲る。良齋君 師儒を以て焉に侍す。公 封を長門侯に繼ぐに、從て公朝に升る。移て萩府に入る。時に碩儒を以て公 の左右に在る、初めの如し。三男有り。長の文興君 早く卒す。先生 次子を以て考業を繼ぐ。天性穎悟、年甫めて■(齒+乙繞:::大漢和48585)〔齒のぬけかはる年頃、七八歳。〕、句讀を受く。輙ち誦して流るゝが如し。稍〃長じて四子五經の大義に通ず。良齋君 子弟の學を課する、頗る嚴なり。常に戒めて書を樓上に讀しむ。故無ければ下るを得ず。先生 強力專精、日夜樓に在り。手卷を釋かず。是に於て四部の群籍、百家の雜説、渉覽の功殆んど遍し。年十九、東遊し、物夫子 に師事す。夫子 修古を以て本と爲す。經義文章皆是より出づ。時に方に始て唱ふ。和者蓋し寡し。獨り藤東壁 (*安藤東野)の從ふ有り。先生 至れば則ち大に其の學を説く。東壁 と相視て切■(麻/非+立刀:び::大漢和53100)す。夫子 亦自ら其の人を得と稱す。爾後物家の學日に興り、從ふ者益〃盛にして、遂に海内靡然として風に郷(*嚮)ふに至る。吾が黨今に至るまで二子の羽翼を以て、傳て稱首と爲す。東に居ること三年、業成りて歸る。正徳三年 、韓使來聘す。朝其の經る所の群國に命じて、例當に賓使を饗すべし(*となす)。舟長門封疆赤馬關館に至る。侯 乃ち諸文學を遣して待接す。先生 焉に與る。先生 年尚少し。而も韓の諸書記と應酬敏捷、文才儁逸。韓人大に賞して之を異とす。對州の雨伯陽 〔雨森芳洲〕亦賓を擯す。坐次先生 に交歡す。目するに海西無雙を以てす。韓の三使先生 が作る所を睹て、伯陽 に因つて格外先生 を請ひ見るに至る。詳に問槎畸賞 及先生集 中に見ゆ。是に於て聲名籍々、海内に著聞す。是後侯 に侍す。東するに及び、世子 の讀に侍す。侯 朝勤〔江戸に參勤する〕すれば、則ち東に從ふ。國に就けば則ち西に從ふ。侯 先生 其の側を離るゝを欲せず。享保十三年 、良齋君 卒す。先生 喪に居て哀を極む。是の歳亦當に東に從ふべし。時に喪期既に■(門構+癸:おは:終:大漢和41430)る。然れども至哀の情已む能はず。假(*暇)を乞ひて志を竟ふ一年ならんを願ふ。許されず。強て起て焉に從ふ。泰桓公 (*泰相? 毛利吉元)・觀光公 (*毛利宗広)に歴仕す。間年西東蓋し歳多し。寵待益〃隆し。是に先つて先侯 命じて■(半+頁:はん::大漢和43400)宮〔諸侯の學宮〕を創建し、國人子弟をして游處せしむ。師導を設け、諸生を稟し、釋菜養老の禮、時を以てす。大に群書を聚め、且つ六藝武技諸の當に教習すべき者悉く其の中に備る。事皆古を稽へ式に據り、雜ふるに今の制を以てす。乃ち既に中國に巍然として成る。名けて明倫館と曰ふ。先生 先に已に侯 の爲に其の事を奬順し、其の制を與議す。是に於て崇化■(厂+萬:れい・はげし:激しい〈=礪〉・研ぐ:大漢和3041)賢の道大に行る。元文二年 館の祭酒倉尚齋 〔小倉尚齋〕卒す。先生 代て館事を督す。乃ち復た東せず。既に祭酒と爲り、益〃學規を立つ。訓■(厂+萬:れい・はげし:激しい〈=礪〉・研ぐ:大漢和3041)方有り。育英の效日に月に益〃進む。講誦習學絃歌の音斷えず。山子濯 (*山根華陽)・田望之 (*小田村■(鹿+邑:ふ::大漢和39604)山)・津士雅 (*津田東陽)・倉彦平 (*未詳)・縣子萼 (*滕子萼か。和智東郊)・田子恭 (*田坂■(三水+覇:は::大漢和54853)山)・仲子路 (*士路か。仲子岐陽)・曾子泉 (*曾有原。増野雲門)・林義卿 (*林東溟)・瀧彌八 (*瀧鶴台)・縣曾彦 (*魯彦か。縣子祺・山県洙川)・秦貞文 (*貞夫か。秦守節)の若き、彬々輩出し、咸く先生 の業を潤色して、學を以て世に顯る。其の餘の士大夫必しも學職を專にせず。而して傑然才を成し、名を知らるゝ者勝て計ふべからず。長門學を好むの俗、其の天性と雖も、葢し先生 教化の力、亦多しと云ふ。先生 人と爲り■(立心偏+豈:かい・がい:楽しむ・和らぐ・凱歌・開ける・大きい:大漢和11015)悌〔やはらぎたのしむ〕にして事へ易し。其の教諭するや、道つて牽かず。開いて達せず。循々誘掖其をして己よりせしむ。故を以て生徒群を樂み師を親む。遂に濟濟の盛を致す。先生 博聞の餘時事に歴練す。其の經を執り、侯の講筵に陪し、或は間燕〔間暇安息の際〕に侍して、啓沃〔心に思ふ所を開説して主君の心に注ぎ入るゝこと〕諷諭、陰に匡濟の益を盡す。或は大夫有司と、謀を出し慮を發し、忠告裨益す。大義を斷ずるに臨めば、則ち獨見の明に據る。侃々奪ふべからず。人盡く敬服す。喬 (*元喬。服部南郭)が視る所を以て、其の數〃東するや、同社の交固に弘し。先生 温厚にして長ずる所を以て人に加へず。毫も忌克無し。遊驩の際、恢宏賞會、言談怡々如たり。皆其の長者爲るを推尚せざる者無し。先生 嘗て侯命を奉じ、公室譜牒諸臣系譜を選す。他の著す所世に行はるゝ者、文集 ・爲學初問 ・作文初問 、若干卷有り。延享二年 、病を得、歳を經て已まず。凡そ褥に在ること八年、國相より之を憂ふる者百方治を求て驗あらず。寶暦二年 八月十二日を以て終る。年六十六。國を擧げて悼惜せざる莫し。國城の北古萩の里保福寺に葬る。初め松村氏を配とす。泰恒 ・元恒 を生み、卒す。再び長嶺氏を娶る。允升 を生み、卒す。又小野氏を娶る。子を生めども夭す。小野氏卒す。最も後に綿貫氏を娶る。政恒 ・忠恒 を生む。長泰恒 字は伯恒嗣ぐ。餘は皆出でて他族を繼ぐ。既にして伯恒 其の状を具して遠く余 に寄せ、託するに銘墓の事を以てす。長門固より學士大夫に富めり。余 敢て其の權を奪ふべからず。且つ髦夫業を廢し文する能はず。奚ぞ重きを爲すに足らん。然れども既に命あり。顧ふに久く兄弟の誼を辱うす。親好他に匪ず。今辭すべからず。乃ち其の状を承く。略〃始末を叙す。敢て係るに銘辭を以てす。其の辭に曰く、君に致すに道を以てすは、師儒之を得。學を興し民を化すは、維れ誰か之を力めん。君子有らずんば、焉んぞ其の國を大にせん。徳の朽ちざる、永く言に矜式す〔敬ひて法らしむ〕。(*致君以道。師儒之得。興學化民。維誰之力。不有君子。焉大其國。徳之不朽。永言矜式。)
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先生 姓は平、諱は玄中、字は子和。奧の人なり。因て金華 と號す。早く孤なり。既に冠して族人謀りて醫を東都に學ばしむること數年。其の志す所に非ず、更に儒と爲る。初て徂徠物先生 に從ひ、修辭を物先生 に問ふ。亦一隅を視するのみ。未だ幾ならず、其の爲す所を出す。未だ嘗て聞かざる所、諸を懷に探るが如し。是時物先生 方に英才を誘進す。乃ち大に之を寄(*奇)とし、顧みて喬 等に謂つて曰く、「未だ嘗て進取斯の如き人を見ず。古の狂簡〔志大にして事に疎略なり。〕なるかな。吾れ裁する所無し。乃ち日夜益〃憤勵す。著す所必ず己に機軸す。遂に大著作と稱すと云ふ。」と。人と爲り磊落、俶儻瑰■(玉偏+韋:い::大漢和21107)の事を好む。故に其の結撰毎に人を驚さんと欲す。又滑稽多端、一世を傲弄す。故を以て或は狂、奇を好むと謂はる。然れども性善を喜び惡を疾む。人の善を視る、啻〃(*啻に)自己のみならず、將に諸を膝に加へんとするが若くにして、置かず。飮酒■(立心偏+亢:こう::大漢和10403)慨時に或は激烈泣下に至る。一も惡聲其の善する所に及ぶ有れば、■(手偏+益:あく・やく::大漢和12497)■(堅の頭/手:かん::大漢和12259)〔奮激〕之に反らんと欲すること、己私より甚し。後乃ち稍々節を折く。然れども其の義氣心本に著く、時に感慨に發す。似て非なる者有り、君子を蠧害すれば、乃ち曰く、「彼れ何人ぞ。斯爾の居徒幾何ぞ。」と。■(口偏+喜:き::大漢和4276)笑するのみ。然れども亦其の絶を示すこと微し。文を作り、恆に稱す。「獨り斗量を見ずや。人容れざるに非ずして之を出す二參。我れ即ち一斗亦用ゐ、一石亦用ゐ、其の他を知らず。」(*と)。卒後其の家を探るに、素貧一書を藏せず、抄する所數卷のみ。人始めて其の才量に服す。後守山侯の儒臣と爲り、年四十五にして卒す。享保十七年 七月廿三日なり。東都城北蓮光寺に葬る。神田氏を配し、三男二女を生む。長は元幹 、字は國禮。女甫て十二。餘は皆未だ■(齒+乙繞:しん::大漢和48585)ならずして歿す。先生 貧甚し。而して其の善する所の者、鮮を撃ち驩を極むに至つては、未だ嘗て■(穴冠+婁:く・ろう・る・りょ:貧しい・苦しむ・窶れる:大漢和25628)を以て辭と爲さず。毎に急有りて去るを得ざらしむるに至る。其の人を愛する、亦天性に出づ。卒するに及び、知ると知らざると皆爲に流涕す。既に客死して親無し。(*無ければ)則ち姻家諸友義を爭ひ葬を營み、遂に石を立つ。守山の世子學を好み、先生 を師重す。是に先て其の稿を■(册+立刀:さん・せん:削る・除く:大漢和1917)りて世に行ふ。是に於て世子即ち文莊先生 と諡し、喬 に命じて碑を作らしむ。喬 已に友たること二十餘年、先生 率ね人を可さず。而して喬 を推して一日の長に居らしむ。亦其の義氣の許す所乃ち爾り。皆謂ふ、「眞の兄弟の如し。」と。素服弔を受くるに至るも、遂に敢て辭せず。銘を作りて曰く、天其の文を假して齒を假さず。千載慄々として神死せず。神死せず、其の理を安せ。先生 の墓此の里に觀す。(*天假其文不假齒。千載慄々神不死。神不死兮安其理。先生之墓觀此里。)
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○校點の書は、
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■(三水+旡2つ+鬲:せん・〈しん〉:人名:大漢和49237)水先生 諱は惠、字は子迪、南總の人なり。其の郷■(三水+旡2つ+鬲:せん・〈しん〉:人名:大漢和49237)水有り。因て焉を號とす。安永五年 丙申六月十六日、疾に罹り、八月九日逝きぬ。享年六十七。東都の城西四谷戒行寺の域に葬る。是に於て門人岡伯固 、本文卿、余 に造り且つ孤子業 の辭を致し、相與に謂ふ。「將に彼の■(澤の旁:えき::大漢和23466)如の者に石せんとす。請ふ爲に誌せよ。」と。余 不文を辭す。二子の曰く、「顧みるに、當今我が師と通家たる者、與に有ること幾くぞ。子 は三世の交誼有り。其れ辭を爲すべけんや。」と。余 因て其の譜を按ずるに、南總の岩熊の縣、宇佐美八左衞門 といふ者は先生 五世の祖爲り。其の先は宇佐美定行 の族なり。相傳ふ天正中、北越より南總に徙り、勇を以て聞ゆ。定行 は駿河守と稱す。祐茂 十二世の孫祐孝 、道盛孝忠 を生む。孝忠 定行 を生む。北越の謙信 に仕へ、數〃功有り。謙信 の爲めに信州上田の城主長尾政景 を誘ひ、舟を隙し之を湖中に沈め、而して共に死する者なり。詳に古記に存す。其の族は名稱録せず、得て知るべからず。岩熊宇佐美氏より、世々八左衞門 と稱す。考千里君 に至りて七左衞門 と稱す。吉野氏を娶り、先生 を生む。君 (*宇佐美千里)は一に習翁 と號す。性英敏、學を好む。始て總の人に教るに、桔槹〔はねつるべ〕を以て水を■(手偏+參:さん::大漢和12649)す。又南總の東海颶多く、漕粟の船時々覆沒するを見て謂く、「海口港を闢きて船を■(三水+旡2つ+鬲:せん・〈しん〉:人名:大漢和49237)水に容れば、則ち泊る所有り。以て患無かるべし。是れ私利に非ず。」と。之を官に聞すれども、事成らず。居民今に到りて之を惜む。履歴先生 著す所の君 の行状に詳なり。先生 寶永七年 庚寅正月二十三日を以て生る。十一歳句讀を同縣利倉壽仙氏 に受く。十七歳、千里君 命じて東都に至り、物子 (*荻生徂徠)に事へしむ。時に平竹溪先生 (*三浦竹渓)塾に在り。乃ち意ろ獨り識る、物家に忠ある者必ず先生 ならん。」と。相與に日に厚し。因て留ること三年にして物子 歿す。尚社友と講習すること凡そ六年にして歸る。是に於て一室を築き、暘谷と號し、書を其の中に讀む。其の歸るや、倉美中 (*美仲。板倉帆邱・板倉■(玉偏+黄:こう::大漢和21242)渓)を携へて之を養ふこと五年なり。蓋し以て切磋の友と爲すなり。享保中 、官物叔達 (*荻生北渓)に命じて、七經孟子考文 を校せしむ。先生 與りて力有り。金を賜ふ。先生 郷に在りて、十餘年を經。曾て西遊して名山古寺を探り、多く遺書を求む。而して再び東都に遊び、麹坊に居り、何くも亡く芝の三島街に遷る。學益〃精勤、從游甚だ多し。後雲藩(*出雲)に仕へ、儒官と爲る。恩遇殊に渥し。數〃政を爲すの要を上言して、毎に嘉納せらる。諸大夫と經濟を論ずるに及んでは、亦其の説に依て行ふ(*行はる)。大に補助有り。寶暦中 、侯命を奉じて比叡山の諸堂を繕修す。侯獻る所の銅燈先生 をして銘を作らしむ。賞有り。又酒食論を著さしめ、以て監戒と爲す。初め金剛氏を配す。一男一女を生みて卒す。男名は時敏 、女は幼にして歿す。再び中山氏を配す。子無し。亦先つて卒す。時敏 多病業を繼ぐこと能はざるを以て、姪徳修 字は子業を養ひ、嗣と爲す。先生 人と爲り忠臣嚴整、人の善を視ては若し惟〃己の若し。既に一世の儒宗と爲る。是を以て諸侯・大夫・士より以て庶人に至る。業を受くる者日に益〃多し。然れども師禮を執て之を請はざれば、諸侯と雖も復た答へず。小泉侯禮待尤も厚し。且つ先生 の策を用ゐ、旱歳水を得て乏しからざるに至る。夫の燕飮の若きは、則ち曰く、「學者各〃任重く道遠きを苦しむ。是に息ひ、是に游ぶ。唯〃何ぞ戚々せん。温顔物に接し申々如たり。」と。是に因て人畏れ愛す。先生 嘗て以爲く、「物子 の著作洽博、已に海内に布く。而して漸く年を歴て觀る所の者は或は典故に昧ければ、則ち其の義を會せざる有り。是に於て悉く其の書を取る。重ねて之を校定して、訓詁〔註解〕を研精して、炳として丹青〔彩色畫〕の如し。已に刊行する者有れば、其の未だ脱せざる者を、將に嗣て梓せんとす。他に自ら編著する所、詩書 ・小序 ・絶句解考證 ・補儲編 ・絶句解遺考證 有り、世に行はる。晩に■(艸冠+言+爰:けん:萱:大漢和32474)園を捜つて、物子 の著述書目載せざる所の遺稿數十冊を得。大に喜びて曰く、「我に數年を加して以て業を卒へしめば、猶以て夫子 の志を繼ぐべし。」と。物家の忠臣と謂ふべし。而して先生 逝きぬ。惜いかな。然りと雖も既已に儒宗と爲り、厚を後進に遺し、矜式する所の者有らしむ。豈に獨り物家に忠あるのみならんや。銘に曰く、周に非ば何ぞ成らん。勤めずんば誰にか倚らん。先生 の言行、懦夫〔心のおぢけたる者。孟子 「聞2伯夷 風1者、頑夫廉、懦夫有レ立レ志。」による。〕も志を立つ。(*非周何成。不勤誰倚。先生言行。懦夫立志。)