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川柳概説

鈴木重雅
(弘文堂書房 1944.3.20)

※ 明らかな誤植は訂正した。

    目次  緒言  第一章  第二章  第三章  第四章  第五章  結語  附録
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上古、天照大神、天の岩戸に入り給うてより、葦原の中つ國は、惡ぶる神の音なひ、狹蠅なす皆涌くといふ有樣であつたが、鈿女命の舞に興ずる八百萬の神の笑が、遂に、岩戸の開ける縁となつたとあるから、笑の力も亦大なりといはなければならぬ。戰時下に於て、笑を語るは不稽の樣であるが、今日の疲勞を癒し、明日の活力を吹き込むものは、健全にして明朗なる笑の外は無い。宜しく、之を以て、米英の洋夷を笑殺すべきである。笑殺碧眼蒙古兒とは、古人の風懷であるが、我等は、之を以て、洋夷討滅の一助としたいと思ふものである。果して然らば、天の岩戸、一度開くるや、日月光華あり、炳乎として、宇宙の間に照映し、妖氣、雲散霧消したるが如く、敵國降伏、怨敵退散、五大州茲に淨化せられむこと、期して待つべきである。茲に、之を前線の將兵、銃後の同胞に贈らんとするものである。


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川柳概説 目次


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緒言

日本文學に於ける滑稽味は、已にに現はれてはゐるが、八百萬の神々の笑を誘うた神樂は種々なる經緯を經て、眞面目なる能樂に進み、滑稽を主とした俳諧歌も、優雅なる連歌に轉ずる等、滑稽文學は、未だ大に興るに及ばずして、近世に及んだのであるが、江戸時代に入つて、文運開け、一般民衆が、文學に與るに至つて、特に、江戸つ兒の快活なる好笑癖から、滑稽趣味が、各種の文學に横溢する事となつた。近松の淨瑠璃、西鶴以下の小説は固より、宗鑑の跡を追ふ貞徳以後の俳諧や、洒落本、黄表紙其他みな滑稽味を一要素として持つてゐるのみならず、純粹の滑稽文學として、狂歌、滑稽本と共に、川柳も發生して來たのである。戰記物語に見ゆる武士の武勇も、平安朝の物語に見ゆる貴族の優雅も、萬葉集に見ゆる人々の忠誠も、人生の一面であるが、此等の人々とても、時には、我を忘れて一笑する時もあるにはあつたのであつて、滑稽も亦、嚴肅なる人生の一面である。人生のこの一面を透して、人生の全貌を察し、無限の教戒を體得することも、修養の一助となると思ふ。


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第一章 雜俳の源流

雜俳とは、雜な俳諧、簡易卑俗な俳諧の意味で、俳諧に似てはゐるが、俳諧の範圍に入りかねるやうな小詩形を總括していふのであつて、具體的にいへば、前句附・冠附(笠附)・沓附・五文字・詠込・折句・廻文・謎其他を指すのである。これらの中で、最も古いのは、前句附で雜俳の起源とせられてゐるのであるが、かやうな文學的遊戲は、各時代に發生し、色々な形で表はれて來てゐるのであつて、その源流に溯つて見れば、各時代に、その起源があるので、單に、前句附のみを以て、起源とする譯には行かない。
例へば、詠み込・・・とは、ある語句なり、文字なりを出して、之を歌又は句に詠み入れるので、「いわし」、「ひらめ」、「さけ」、「ゑひ」といふ課題を出せば、
いわしひらめ。。。。。。かしたるさけ。。ゑひ。。
といふ風に作るのであるが、この種のものは、夙く、萬葉集に見えて居る。
酢、醤、蒜、鯛、水葱を詠める歌
ひしほ酢に蒜つきかてゝ鯛願ふ吾にな見せそなぎのあつもの(卷十二)
醤は、ヒシホで、豆や麥で作つた麹に、鹽水を和して製したどろどろの半流動體の食べもの。肉を食ふ時に、つけて食べたもの。つきかてては、碎き交ぜてである。歌意は、醤と酢とに蒜を碎きまぜて、あへ物を作り終へて、さて、鯛も欲しいと願つてゐる吾に、水葱の汁などは見せて呉れるな。そんなものは欲しくないといふのである。
此は後の所謂三題話などと、同じ種類の興味から出てゐるもので、何の連絡もない數語を、一首の中に詠み込むといふ丈のものであるが、その流れは、平安時代に入つては、古今集以下の物名となつて來てゐる。
うつせみ
在原しげはる
浪のうつせ見。。。。れば玉ぞ亂れけるひろはば袖にはかなからむや(古今集卷十)
あさかほ
我宿の花のはにのみぬる蝶のいかなる朝かほ。。。かよりは來る(拾遺集卷七)
かるかや
源俊頼朝臣
我駒を暫しとかるかや。。。。ま城のこはだの里にありと答へよ(千載集卷十八)
當時の歌人達は、和歌の眞面目な、花鳥風月趣味に跼蹐することが出來ず、機智より出づる滑稽を喜んで、嚴肅なる勅撰集にさへも、かやうな遊戲的の部門を設けて居るので、その好笑癖の程も知られるのである。この種の歌は、古今集に四十六首、拾遺集に七十八首、千載集に十一首計百三十五首に及んでゐる。八代集以後に於ては、新勅撰集に二十六首、續後拾遺集に二十七首、新拾遺集に十首、新續古今集に二十六首、計八十九首ある。
りうたむをよみ侍りける
伊勢
風寒みなく雁のこゑによりうたむ。。。。衣をまづやかさまし(新勅撰集
俊頼朝臣
すまの浦や渚。。にたてるそなれ松しづ枝は波の打たぬ日ぞなき(續後拾遺集
苅萱
貫之
秋の野をわけつゝ行けば花も皆散りかかるかや。。。。袖にしむらむ(新拾遺集
すみれ
俊頼朝臣
ちるはなをあかす見れ。。。ばや旅人のしらぬ山路に日をくらすらん(新續古今集
これらは、萬葉集のそれに比較すると、單に、一語を讀み込むといふ事になつてゐる爲に、割合に、無理が無いので、萬葉集の如く、只、その數語を強ひて篏め込むといふ手法に比べて、流暢で、詩趣の稍〃認むべきものがある。
詠込より、稍〃難しいのは、折句・・で、和歌では、各句の上に課題の字を置くのである。最も古くて、且つ、名高いのは、例の
(上略)その澤にかきつばたいとおもしろくさきたり。それを見て、ある人のいはく、かきつばたといふいつもじを、くのかみにすへて、たびのこゝろをよめといひければよめる
ら衣 つゝなれにし ましあれば る\〃/來ぬる をしぞ思ふ (伊勢物語
であるが、古今集には、右の一首を採つてゐる外に、物名の部に、
朱雀院の女郎花あはせの時にをみなへしといふ五文字を句のかしらに置きてよめる
   
倉山 ねたちならし く鹿の にけむ秋を る人ぞなき (古今集卷十)
を採つてゐる。これによつて、この時代には、詠込と折句とを區別せず、一樣に、物名としてゐて、折句の項目を立てなかつたことが明かである。
而して、古今集成つてより、約二百八十年の後、千載集出づるに及んで、折句歌の項目が現はれたのである。三首を採録してある。
二條院の御時こいたじきといふ五文字を句の上におきて旅の心を
源雅重朝臣
なべて ざ見にゆかむ 田川 浪よする のあたりを
なもあみだの五文字を句のかみにおきて旅の心をよめる
仁上法師
にとなく のぞかなしき き風のしむ に夜半の の寢覺は
この後の勅撰集では、折句歌は、新拾遺集に六首、新續古今集に三首出てゐる。
この折句歌は、詞書が無い時には、ふと見ただけでは、その技巧に氣がつかず、從つて何かを人に求める場合に、好都合であるから、物品の贈與、貸與を求める時に、多く用ゐられてゐる。俊頼口傳集に、
折句の歌といふは、五文字ある物の名を、五句の上におきてよめる也。をのゝこまち、人のもとへ琴をかりにやるとてよめる歌
とのはも きはなるをば のまなん つをみよかし てはちるやと
返し
とのはは こなつかしき なをると べての人に らすなよ君
句ごとのはじめの文字をみて心うべし。
とある如く、「琴賜へ」といふに對して、「琴はなし」と答へたのである。これは、小野小町の作であるといふのであるから、かなり古いが、更に有名なのは、新拾遺集に見える贈答で、
藤原仲實朝臣の許にうしをかりに遣はしける時萩の枝につけて
むとは らでや鹿の きりには のはひえを にする
返し
めしと 鹿をないひそ が枝も 藻にしつゝ すとぞ見る
「牛しばし」といひやつたのに對して、「牛はかす」と答へてゐる。新續古今集には、
十三夜といふ事をよませ給ふける
後鳥羽院御製
賀の波や らわの月の ゆるよに かしこふらし まの秋風
折句歌を冠といふのに對して、各句の下に、課せられた文字を据ゑるのを沓といふのであるが、これは村上天皇の時代に既に行はれてゐた。村上天皇が、妃達に、一樣に次の歌を御下賜になつたが、
ふ阪 てはゆきき きもゐ づねてとひ なはかへさ
の冠と沓の技巧を發見されたのは、廣幡の御息所のみで、「あはせたき(冠)ものすこし(沓)」と判ぜられ、焚物を進獻せられたといはれてゐる。(榮華物語、月宴卷)
俊頼口傳集に、「冠折句の歌といへることあり、十文字あることを句の上下におきてよめるなり」とある。續草菴集にも、「くつかぶり」として出てゐるが、卷四に、雜體折句として、
   
兼好
もすず   ざめのかり     袖も秋   だてなきか
   
頓阿
るもう   たくわがせ   てはこ   ほざりにだ   ばしとひま
兼好は、「よねたまへ、ぜにもほし」といひ遣つたに對し、「よねはなし、ぜにすこし」と答へたので、この問答は、特に名高い。
廻文・・は、上から讀んでも、下から讀んでも、同じものをいふ。これも雜俳の一種であるが、俊頼口傳集に、
廻文歌といふものあり、草のはなをよめるなり
むらくさにくさのなはもしそなはらばなぞしも花のさくにさくらむ
とあり、奧儀抄(*藤原清輔)八雲御抄悦目抄(*作者未詳)などにも、同樣に出てゐる。
頓阿にも、この種の作がある。
とくたゝじ里のたかむら雪しろしきゆらむかたのとざしたゝくと(續草菴集
江戸時代に於ては、俳人でもあり、狂歌師でもあつた石田未得は、廻文歌が得意であつた。廻文歌は、大體が無理な企であるから、意味の流通しかねるものや、語調の雅馴ならぬものが多いのであるが、未得のには、その弊の少きものが多い。一二の例を示すと、
身の留守にきてはをりとる此の花はのこる鳥をば敵にするのみ
しら雪は今朝野の草の葉にもつも庭のさくらのさけばきゆらし
草ぐきの葉にふる霜に見やるなる闇にもしるう庭の菊さく
廻文百句俳諧をつかうまつりて貞徳といふおきなに見せにやるとて噂申せばそなたに鼻ひさせたまはん時にはこなたをも思ひ給へなどことばをかきて
むせうつり高鼻ひかん貞徳と出でむかひなばかたりつうぜむ
此等は、何れも明快平易で、不自然味無く、天衣無縫と評して宜いものである。
同じく貞徳の門人立圃も、廻文が得意で、
なつめを給りける當座の興に廻文
なる時もなつめにめづなもぎとるな
廻文
友の名は草かりかさく花のもと
のきさらん虫の音のしむ紫野
闇のみか見よき月よみ神の宮
宇治にて廻文
をひくだすよど川かとよすだく氷魚
單に、廻文句なるのみならず、更に、それを組立てて、複雜にしたのもある。
なみならぬ名を 飛梅のなかめ かな
か    は     か    み
め    の     な    な
か    つ     に    ぬ
なかなかにまれなる物よまつの は名
の    よ     れ    を
梅    物     な     
飛    る     る    飛
     な     物    梅
を    れ     よ    の
名は のつまよ物るなれまにかなかな
ぬ    に     つ    か
ら    か     の    め
な    な          
み    か     は    か
なか めかなの梅飛 を名ぬらなみな
謎は、拾遺集に、
なぞ\/物語しける所に
曾根好忠
わがことはえもいはしろの結び松千年を經ともたれか解くべき
とあるのが古い。枕草紙にも見える。


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第二章 前句附の源流

以上述べたところで明かな如く、史的發達を辿つて見れば、詠込・折句などは、前句附の前身なる連歌とは何の因縁もなくして、發生したものであるし、廻文・謎も亦、別に出來たものである。これら各種の遊戲文學が、雜俳といふ名目の中に流れ込んで、文學の一分野を占める事になつたに過ぎぬ。その雜俳の中で、最も古く發生し、且つ雜俳の主流を爲すものは、前句附・・・である。前句附を、廣義に解すれば、奈良朝時代、平安朝時代の連歌、鎌倉時代以後の長連歌、戰國時代の、かの犬筑波集の俳諧なども、含まれるのである。例へば、
大和の高佐士野を 七行く孃子ども 誰をしまかむ(
と、神武天皇が、問ひ給うたのに對して、大久米命が、
かつがつも いや先立てる ゑをしまかむ(
と答へたのは、短歌に對して、片歌を以てしたのであり、伊須氣餘理比賣が、大久米命に問ひ給うて、
あめつゝ ちどりましとと など黥ける利目(
大久米命が、
孃子に 直に會はむと 我が黥ける利目(
と、所謂片歌に片歌を以て答へてゐるものであり、又、ある尼が、
佐保川の水を堰き上げて植ゑし田を
と詠みかけたのに對して、大伴家持が、
刈る早飯はひとりなるべし(萬葉集卷八)
と繼いだのは、五七五に七七をつけたもので、併せて、短歌の形になつてゐる。平安朝になつては、連歌といへば、短連歌即ち、上下合せて、一首の短歌となるものをいつたので、右の家持と尼との唱和の歌の詞書に、
尼作2頭句1並大伴官禰(*宿彌か)家持尼續2末句等1和歌一首
とあつて、正しく「續ぐ」のであるから、附句は、頭句に依存してゐる。大久米命伊須氣餘理比賣との歌は、「歌ひてぞ答へける」とある如く、問ふ歌と答へる歌とは、それぞれ獨立してゐる。家持のは、連歌の本義に叶つてゐるので、之を起源とするのである。が、此等も、前句附の一種といへる。
平安時代になると、拾遺集によれば、小野宮實資が、八重紅梅を遣すとて、
流俗の色にはあらず梅の花
といつたのに對し、致方朝臣が、
珍重すべきものとこそ見れ
と答へたのであるが、これも、附句が、前句に對して、從屬的地位に立つてゐるのであつて、二句の連歌の古い型は、これであつたと思はれる。
又、變つたのでは、古今六帖に、
女をはなれて詠める
瀧つせにうき草の根はとめつとも人の心をいかゞ頼まん
の句につけて、
朝顔のきのふのはなは枯れずとも
空蝉をそめてともしにかひつとも
とりの子を十づゝ十はかさぬとも
かたなもて流るゝ水は斬りつとも
蜘蛛の網に吹くる風は留めつとも
吹く風を雲のふくろにこめつとも
ふる雪を空にとめては有りぬとも
置く露をけたで玉とはなしつとも
入る月を山の端にげて入れずとも

在原のしげはる

友則の外に、紀貫之凡河内躬恒等も同樣につけてゐる。
源順集に、
應和元年七月十一日四歳なる女ごを喪ひて同年八月六日又五つなるをの子を喪ひて無常の思ひ物にふれておこる悲びの涙乾かず古萬葉集中に沙彌滿誓がよめる歌の中に世の中を何に譬へむといへるをとりてかしらにおきてよめる
世の中を何に譬へむ夕露もまたで消えぬる朝顔の花
世の中を何に譬へむ飛鳥川定なき世にたぎつ水の泡
世の中を何に譬へむ轉寢の夢路ばかりに通ふ玉ぼこ
世の中を何に譬へむふく風は行へもしらぬ峰の白雲
世の中を何に譬へむ水早みかつ崩れゆく岸のふし松
世の中を何に譬へむ秋の野をほのかに照す宵の稻妻
(以下三首略)
それで、室町時代に於て、宗祇なども、
人の心のかはる世の中
といふ前句に、四季、戀、雜の句を、各々十數句つけ、春では、
うき身さへ時にやあふと春立ちて
老が身は若菜摘むにも袖濡れて
子の日せし野邊もさびしく松生ひて
などいふ樣に試みてゐるのは、源順集のと、形式は同じいのであつて、これらも、一種の前句附である。
これらは、即興として試みられたものであつたが、世間では、これが、大に行はれたのである。例へば、醒醉抄(*醒睡笑か)に、
貧々たる坊主の眠藏より、餅の半分あるをもちて兒にさし出す。請取りさまに、
十五夜のかたわれ月は未だ見ぬ
とありしに、師の坊、
雲にかくれてこればかりなり
この外、「昨日は今日の物語」などにあるのも同樣で、廣義の前句附といふべきである。


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第三章 川柳の歴史

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一、時代の區分

(一)前句附時代

元祿を中心として、延寶頃より延享頃まで(*1673−1747頃)、前後七十餘年間を指す。この時代は、一般に武道より、各種の文學が興つた時代で、源を俳諧に發した前句附が流行し、更に、雜俳即ち冠附、沓附、折句、折込(*あるいは詠込か)、五文字などの遊戲的文學が普及し、俳諧の宗匠達は、雜俳の點者を兼ねて、糊口の料とした。やがて、冠附の一種は、三笠附となり、景物、現金を以て、人心を惹き、遂には賭博にまで墮落するに至つた。

(二)川柳時代

川柳の黄金時代で、寶暦より、明和、安永、天明に至る(*1751−1789頃)に至る四十餘年間をいふ。幕府は質素儉約を勵行し、浮華淫靡の風を彈壓する爲、猥本を禁ぜんとし、賭博化しつつあつた前句附、五文字、三笠附を禁止したのであるが、田沼時代となるや、紀綱弛緩して、これらの遊戲的文學が、再び流行し、安永、天明の終に至る三四十年間は、極盛に達した。その頃の點者は、★露丸白龜机鳥鐵江收月圭女南花坊蝶々子等二十餘名の中、川柳が、最高權威として、斯界に君臨し、川柳が選評せし前句附は川柳點といはれ、いつしか、川柳と省略して呼ぶことになり、更に、前句附の異稱となり、遂に、前句より獨立した附句(十七字)をいふ事となつた。而して、その川柳を集録せる柳樽が出現して、斯界の準據となつた。

(三)狂句時代

文化文政を中心として、寛政より天保に至る(*1789−1844頃)五十餘年間をいふ。寛政の改革により、雜俳も彈壓を受け、既刊の柳樽の二十三册は改訂を命ぜられたが、文化文政の頽廢期に入るや、文學の一般的傾向に伴うて、語格、詞調、漸く低調に、内容は空疎となつて、所謂狂句と化し、天保の改革に災せられて、萎靡振はず、柳樽も廢刊となり、往時の盛觀は、全く地を拂ふに至つた。

(四)明治以後

幕末より維新にかけて、他種の文學と共に僅に命脈を保つのみの有樣であつたが、一般文學の復興に隨伴し、明治三十五六年頃より新川柳として、再興の氣運に向つた。而して、文學として研究するのみならず、江戸時代の文化を研究する上の資料として、學的に研究せらるることとなつたのであるが、最近の創作界を見ると、半は俳句の如く、半は川柳の如く、辛辣味も無ければ、奇警味もなく、清新味もなく、往時の狂句の二の舞を演じて、川柳の本質を失つてしまつた觀がある。
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二、前句附時代

中島隨流は、山崎宗鑑の事を敍して、「此人連哥師、歌をもよまれ、俗性よろしければ、上つかたにもまじはり、玄旨も念比に仕給ひけり。かる口にて、俳諧前句附をせられけり。犬筑波といふ道戲たる前句附は一休風のうつり侍りけり」(貞徳永代記)といつて居るのであつて、
うへにかた\/下にかた\/
うつほ木のもと末たゝく寺つゝき
みかつきの水にうつれる其姿
佛の弟子のこもる伽耶城
阿耨多羅三百餘騎を引供して
ゆみやのみやうかあらせたまへや
きりたくもありきりたくもなし
盜人をとらへて見ればわが子なり(下略)
右は俳諧創始時代の俳諧なのであるが、隨流は、之をしも、前句附と稱して居る。いかにも、此は、雜俳の前句附と、何等異なるものでは無く、その起源は、ここにありとせねばならぬ。和歌の花鳥風月趣味を脱した自由な、輕洒な連歌が、煩はしい法式に縛られるやうになつて、折角、連歌が出現した意味が沒却されることになつた時、再び、自由を求めて、所謂俳諧が發生したのであるが、貞徳時代に於て、又法式を喧しくいふ樣になり、ここに、再び、犬筑波集時代に復歸した姿に立ち戻り、通俗卑近な文學として、出現することになつた。
ところで、雜俳の前句附は、俳諧より、更に、格式の一段低いものと考へられて居たのであつて、畢竟、俳諧入門の一楷梯として扱はれて居つた。
若えびす」は、笠付、前句附を教へることを主としてゐるのであるが、卷末に、△四季發句の項を設け、★信徳鷺水如泉言水支考去來丈草の發句や、休計鷺水萬水の三吟などを載せてゐる。而して、
この一卷をいるゝ事は、笠づけに口ほどけたらんの前句附にうつり、まへ句より、句あはせを心がけ給はんたよりにもとおもひて、諸方の宗匠又は誹諧にすきたる人の句までかきつらねて發句のすがたをしらせ、猶歌仙の樣をも見ならひたまへとて、いさゝかの云すてをつらねたるなり
といつて居る。又、卷頭に、
誹諧の稽古に付てさま\〃/の習ひあり。人に上中下根あるに隨ひて、道に發句合、前句附、笠付あり、其の器量に應じて其教ふる格も別也。たとへば、皆目なる初心の人には笠付を以て平句を仕習はせ、一句の仕立樣を習はせ、扨少し功の行きたる時前句付を仕習はせ、付はだへを覺えさせ。。。。。。。。。。。。。。。。。。。 。。。。。。。。。。、それも功の行きたる時、發句合せをさせて、句作のよしあしを知らする事なり。猶此上に歌仙、源氏四十四、五十韻、百韻、千句、萬句などゝいふ習もあり。
とある如く、學ぶ者の文才に應じて、笠附より、前句附へ、前句附より發句合へ、更に附合へと進ましめたのである。その當初における作例を見れば、俳諧の附合と、全く同調であつた。例へば、
相伴にちかふめされし朝朗
御茶はことに宇治の川霧

由平物種集

併し、前句附の流行が漸次隆盛に赴くにつれて、俳諧附合の附け按排を覺えるといふことは忘れられて、俳諧から遠ざかり、前句が脱落して、十七音中心の川柳となり、形式は一段と簡單になつたが、更に、笠附沓附五文字等になつて、尚簡單となり、内容上からいへば、全く遊戲的なものとなつてしまつたのである。從つて、雜俳は、萬葉集の歌の如く、雄健高古の精神も無ければ、古今集以下の歌の如く、優婉温雅な情趣も無く、芭蕉以後の俳諧の如く幽玄閑寂の風韻も無いが、
江戸者の生れ損ひ金をため
は、宵越しの金を使はぬ江戸つ子の意氣を描いて、餘蘊なく、豪快奇警、人の肺腑を衝く。
舟の子へ蟹なげてやる蜆取
は、舟で待つてゐる子供へ、おもちやとして蟹を投げてやる蜆取の、父子の情合の濃やかなところを描いてゐて、惻々の情掬すべきものがあり、試に、
銀も黄金も玉も何せむに勝れる寶子にしかめやも
と比較して見るに、この歌は、清純婉雅であるが、聲調歌意、高きに過ぎ、且つ、一般的で、稍〃迫力に乏しい憾なきにしもあらずである。柳句の方は、特殊的敍事的で、手つ取り早く、簡易卒直で氣品には乏しいが、俚耳に入り易い。眞情に於て、憶良に劣らぬ。
どこへでもくツついて出る馬鹿亭主
女房にのろい男を冷罵する聲の辛辣味。
どけへ行こけへ行とて出られやす
内を外に、尻のすわらぬ亭主の風■(三に縦棒〈コン〉:ほう・ぼう・ふう:見目よいこと:大漢和76)見るが如し。これらは、いづれも、人情の機微に觸れてゐる點に於て、踵を萬葉に接し、源氏物語に接し、近松に接してゐるものである。一は、宮廷中心のものである爲に、高雅であり、一は、平民中心のものである爲に、卑俗であるにすぎぬ。人情に古今もなく、東西も無い。讀者をして、三省せしむる迫力がある。これらは、作品そのものとして、不朽の價値あるものであるが、更に、
役人の子はにぎ\/をよく覺え
は、江戸時代の役人の收賄の盛なりしこと、
檢校もたゞつき合へば殊勝なり
は、當時の檢校の、貪婪な高利貸であつたことを物語るもので、川柳が、風俗などを窺ふべき、文化史の補助資料となる點に於ても價値があるのである。
前句附の・・・・起源
上述の如く、犬筑波集は、前句附と銘うつてゐるのではないにしても、實質内容の上からいつて前句附の源流であるとしなければならぬ。前句附の起源として、菊岡沾涼本朝世事談には延寶時代、曳尾庵の「我衣」には貞享時代、太宰春臺獨語には元祿時代としてあるが、此等は、前句附と銘うつて世にあらはれたものに就いていつて居るのである。元祿十年出板の江戸土産に、
心なき鄙夫山賤も、月花雪にあはれを催し、多く前句を樂む。
とあり、前句附の流行の甚しい事を述べて居り、更に、元祿五年出板の貞徳永代記には、中島隨流が、
かゝるに今、皇の御代榮へ天下泰平に、いつくしみの水八島の外にながれて、風雨時をたがへず。片夷中の山賤も斧を枕にして發句を案じ、田夫は鍬杖にもたれて前句を味ふありさま、有がたき神國和光の時を得たり。
と、いつて居る樣に、片田舍の農民達の間にさへ、愛玩されてゐたことを傳へてゐる。
それで同書江州前句附之事の條に
當時前句附はやりて、都鄙遠國まで俳諧流布する中に、殊更さゞ波の國、濱の眞砂のかず\/なる俳士土をかへし玩ぶ。…
沖の島守までも、船をおし網を引ぬる片手にも、前句附の板行を四つも五つも懷中して、三公にもかつじ此江山と、漁村をたのしむありさま、實や民相應の誹諧、今此御代にあらはれたり。
とあつて、漁夫仲間も、前句附の刷り物を四五種も携帶してゐる位流行しつつあつたことを示してゐる。
元祿五年板の「難波土産」を見ると、江州の人の作が、多く出てゐるが、のと川、八まん、彦根、草津、土田、坂本、日野、畑村、水口、堅田、若狹の敦賀、伊勢の關、龜山などが多い。いづれも僻陬の地である。
又、「俳諧高天鶯」によると、和泉河内の國にも流行してゐたことが説かれてゐる。曰く、
抑此前句附といふ事京都より始りたるやうに書かれける草紙あり。全くさにはあらじ。我愚暗の身ながら若年の頃より此道に執心ありて此起りは知れり。星霜早二昔もや過ぎぬらん。去る萬治年中に泉州堺に池島成之といふ好士ありし、其頃河州小山村に日暮氏とやらん重與と名乘りたる能書有りし。此人成之の前句を取初めて六句附といふ事を始めたり。四季の句に戀にても名所の句にても加へて、六句に十銅づゝ集め、褒美といふ事もなく卷勝にして、河州の俳友是を樂めり。是ぞ此道の最初なる。予是を興ある事に思ひ、同じく成之の前句を取りて和州の清書を始めけり。次に和州下田村に葦葉といふ法師此道に妙なる有りし也。京都二條の住、高瀬氏梅盛公の前句を初めて取下し、六句付を仕次がれたり。其頃未だ京都に沙汰も無之時節なれば、點の致されやう脇書讃にまで取次筋ばかりにて初心なりし也。それよりして京も大阪も江戸も、諸國共に此道盛んになりぬ。(元祿九年
とあつて、前句附の起源は萬治年間における泉州、河州、和州の前句附にありとしてゐるのであるが、御國自慢の嫌があるのであつて、必ずしも、この地方のものが、起源といふのでは無い。が、かやうな田舍にも行はれてゐたといふことは、間違の無いことである。
その一例は、
かの土佐の「カブリ」「テニハ」も、同系統のもので、例へば「カブリ」として、
花盜人
と出せば、「テニハ」として
逃げな散るぞといはれたり
と附けるが如き、これである。「カブリ」は、「冠」の義で、此は、冠附である。此樣に、田舍では、教へを乞ふべき宗匠も乏しいので煩雜な附合は行ひ難く、簡易な前句附が、面白い上に時間もかからず、分り易いので、都會におけるより先に、發生發達を遂げることになつたのであらう。
前句附の發達・・・・・・
地方より起つた前句附が、都會地にも行はれるやうになつては、都會における俳諧の宗匠達も、片手間に、その指導をする事となり、上方では、例へば、★西鶴由平言水來山萬海才麿鞭石雲鼓團水鷺水文十海音伴自園女村女似船豐流遠舟常牧和及、江戸では、露水舟水調和不角蝶々子彩象南谷梅山竹丈鳳水紫川東菊。前句附の流行、更に、甚しきに及んでは、前句附の專門の點者も出て來た。
前句附が、俳諧の附合の練習の爲とせられてゐた關係から、用語からいつても、文語脈であり、内容からいつても、閑寂の情味の勝つたもので、初期の前句附は、全く、俳諧の附合と同じものであつた、(*ママ)例へば、
松壽軒西鶴翁點墨
只細ながう東路の果
都をば門出に髭を剃けるが
蔓につき金花さく山見えて
小盃又はゞかりの關越て


はてしもなげに見て計行
一日や二日は不二もおもしろい
たもつなら國にはこばむふじの雪
帆をまくはふじの颪のそよ\/と
かたちより心先だつふじの山(江戸土産
心もせくに連の道下手
散失はよし野も花の鳥邊山
御所櫻日影々々に持かへて
祇園會の跡の祭の神輿舁
腹切らば助けし人の義の失ん
志賀の花見ばあだ花に餘所見すな
此刀妻持て共に我抱ん
血刀を濯で筧の落たらず
など其方は弱るかほどのかすり疵
御孕はや介機嫌が花の醉(江戸土産
附味の上からいへば、俳諧の附合と同一である。前句につけるのであるから、その前句が五七五の場合もある。
約束の違はぬ事の嬉しけれ
尺八ふけばぬけて來る妹」
榮耀して今日一日はくらす也
我作病に醫者が禁物」
吃として扨も行儀のよい事よ
目ばかりうごく御番所の武士」
臆病な事やと誰もおかしがる
灸五つにさま\/の菓子」
これを「長前句」と稱して居る。附句における技倆を練磨するのが目的であるから、前句が長くて、附句が短いのでは工合が惡い。前句が、短句で、「恐ろしい事\/」といふやうな正體なき句なら、附ける方が、自由に腕を揮ひ得るが、長前句では、大抵、正體なき句は無く、意味の纒まつたものが多いから、前句附の練習には、やや不適當である。長前句は、かやうな譯で、多くは行はれなかつた。
前句が長短何れであるにしても、その前句だけで、一つの纒つた風景・情味を描いてゐるから、附句の方も、それに相應する風景、情味を以て附けるのである。但、指合去嫌、一卷の變化といふ樣なことは、二句間の附合のことであるから、考へる必要は無い。その結果、奇想天外より落つる底の句を以て附けて、奇才を誇ることになる。即ち、しんみりした情味よりも、頓智を働かした句を以てする方が、衆目を惹くことになり、一種の頓智問答式のものを喜ぶ傾向(*原文「碩向」)が出て來た。さうなると、前句に纒つた内容があると、附ける方が、それに拘束されて、窮屈になるから、前句としては、骨ぬきの、有れども無き樣な句が、つける方からいへば、望ましいことになる。附け易いことになる。そこで、點者の方でも、如才なく、附け易い樣に、ナンセンスなものを前句として出す事となつたが、今一つの理由は、俳人よりは、更に教養の低い人々に投ずる爲であつた。更に、點者自身の利己的な都合からも來てゐる。即ち、苦心して、前句を案ずることが無くてすむのである。例へば、
とくまいらふよ\/
持とても日傘は雨の役ならず
曲川 翠達
僧が身は布施とるまでが本意でなし
河州 壽軒
御符水力なければ我くまん
同  久内
朝脈に生死の一つ取しめん
道穗 龍水
蓮の香の酒に移るも朝の中
河州 岩船
はつ釣瓶此大村に井戸一つ
宇■(阜偏+施の旁:::大漢和) 松柏
飛たつばかり\/
大井川越す間は人に慾もなし
河州 一枚
泣れたり牛に追るゝ夢の中
今井 梅好
御免候へ\/
太刀取に聲からかくる助状
京西洞院 楓周

右は、高天鶯に見ゆるところで、同書の出た元祿九年には、已に、斯樣な疊句が出題せられてゐる事に注目すべきである。併しながら、この書に於ては、斯樣な前句は少く、他はすべて、内容の纒つたものである。元祿十年の「江戸土産」にも、
はづれたりけり\/
目ちがへや破軍の星の廻りよみ
妻手は弦左手は鈍き押心
枝ともに露はおられぬ闇の花
元祿十五年の「若えびす」には、
ちつと仕ひろげ\/
國はての人までひねる新一歩
新田は棹の入まで身の苦勞
さてもめづらし\/
歸朝して唐をみやげのおつとせい
二またの竹うみ生すちくぶしま
ふかい事かな\/
きりがみのなくてえ讀ぬよぶこ鳥

何れの書に於ても、この種の前句は少くて、疊語でない前句が、大部分である。が、やがて、疊語の前句が、一般の風潮となつて、所謂前句の型が定つていたのである。前句丈では、何の事とも分りかねるといふか、どちらにでもこぢつけ得るとでもいふべき前句に、附句をつけて、完成させるといふ風になつたのであるから、俳諧創始時代における
切りたくもあり切りたくもなし
淋しくもあり淋しくもなし
尊くもあり尊くもなし
上にかた\/下にかた\/

の如き、矛盾した内容を持つ句は、貞徳時代に於ては、正體無き句として禁ぜられてゐたのであるが、今や、再び前句として表はれて來ることとなつた。從來の前句は、意義内容が完備してゐたのであつて、之に照應して附句が出來、ここに渾然たる風景や情趣が釀成されるのであつたが、かやうな疊語風な前句が專ら行はれることになつてからといふものは、前句は、有つても無くても同樣な、無力なものとなつたから、附句だけでも優に獨立して、一つの纒まつた意義を成すこととなるのは、自然の勢である。例へば、
むこいりの日は姉君をいやがらせ(若えびす
は、聟の來る日に、聟さんが見たいといつて、當の姉をきまりわるがらせるといふ、妹なり弟なりからかひ(*ママ)を描いたものであるが、この前句は、
見たい事かな\/
とあるのである。前句は無くても、意味は取れる。又、
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