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東關紀行

尾上八郎解題、植松安校訂(群書類従に依拠)
校註日本文學大系 3(國民圖書株式會社 1925.7.23)

※ 章題を任意に施した。

 1 序  2 逢坂の關  3 琵琶湖  4 尾張  5 三河  6 遠江  7 駿河  8 伊豆  9 箱根山  10 鎌倉  11 帰還
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1 序
齡は百歳(もゝとせ)の半に近づきて、鬢の霜〔白氏文集十八「櫻桃昨夜開雪、■(髪頭+兵:びん:「鬢」の俗字:大漢和45469)髪今年白似雪。」〕漸く冷(すゞ)しと雖も、爲す事なくして、徒らに明し暮らすのみにあらず、さして何處(いづく)に住み果つべしとも思ひ定めぬ有樣なれば、彼の白樂天の、「身は浮雲に似たり、首(かしら)は霜に似たり〔白氏文集十八「身似2浮雲1■(髪頭+兵:びん:「鬢」の俗字:大漢和45469)似霜。」〕。」と書き給へる、哀れに思ひ合せらる。もとより、金張七葉(きんちゃうしちえふ)の榮え〔左思の詩に「金張籍舊業、七葉珥2漢貂1」とある樣に金日■(石偏+單:::大漢和)張安世の族が七代の榮華を恣にした故事〕を好まず、たゞ陶潛五柳〔陶淵明は天性酒を好んで貧を憂へず、自ら五柳先生傳を作つた。〕のすみかを求む。然(しか)はあれども、深山の奧の柴の庵(いほ)までも〔金葉(*集)雜上相模「いかにせむ山田にかこふ垣しばのしばしの間だに隱れなき身を」〕、暫く思ひやすらふ程なれば、憖(なまじひ)に都の邊(ほとり)に住ひつゝ、人なみに世に經る道になむ列れり。是れ即ち身は朝市にありて、心は隱遁にある謂(いはれ)なり。かゝる程に、思はぬ外に、仁治三年の秋八月十日あまりの頃、都を出でて、東(あづま)へ赴くことあり。まだ知らぬ道の空、山重なり、江重なりて〔朗詠集に「山重江複」といふ句がある〕、はる\〃/遠き旅なれども、雲を凌ぎ霧を分けつゝ、屡前途の極りなきに進む。終に十餘りの日數を經て、鎌倉にくだり著きし間、或は山館野亭の夜のとまり、或は海邊水流の幽(かすか)なる砌(みぎり)に至るごとに、目に立つ所々、心とまるふし\〃/を書き置きて、忘れず忍ぶ人もあらば、自ら後のかたみにもなれとてなり。
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2 逢坂の關
東山の邊なる住家(すみか)を出でて、逢坂の關打ち過ぐる程に、駒引きわたる〔公事根源八月十六日の條に「今日は信濃の敕旨牧の駒を六十疋奉るなり。もとは十五日にて侍りしかども朱雀院の御國忌に當るによりて十六日になさる。」とあり。〕望月の頃も、漸く近き空なれば、秋霧立ちわたりて、深き夜の月影ほのかなり。木綿付鳥(ゆふつけどり)〔鷄〕かすかにおとづれて、遊子猶殘月に行きけむ函谷のありさま〔猛嘗君の故事〕思ひ出でらる。昔蝉丸といひける世捨人、この關の邊に藁屋の床を結びて、常に琵琶を彈きて心をすまし、大和歌を詠じて思ひを述べけり。嵐の風烈しきをわびつゝぞ過しける〔蝉丸「逢坂の關の嵐のはげしきにしひてぞ居たる世を過すとて」〕。或人の云ふ、「蝉丸延喜第四の宮にておはしける故に、此の關のあたりを、四ノ宮河原と名づけたり。」と云へり。
古のわらやの床のあたりまで心をとむる逢坂の關
東三條院(ひがしさんでうのゐん)石山に詣でて還御ありけるに、關の清水を過ぎさせ給ふとて、詠ませ給ひける御歌、
あまたたび行きあふ坂の關水に今日をかぎりの影ぞ悲しき
と聞ゆるこそ、如何なりける御心の中(うち)にかと、哀れに心細けれ。〔此の章逢坂の關から以下は源平盛衰記卷十二大臣以下流罪の事の中、妙音院太政大臣師長の東下りの條に採つたものである。〕(*入力者改段)
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3 琵琶湖
關山を過ぎぬれば、打出の濱、粟津の原なんどきけども、未だ夜のうちなれば、定かにも見わからず。昔天智天皇の御代、大和の國飛鳥の岡本の宮より、近江の志賀の郡(こほり)に都うつりありて、大津の宮を造られけりと聞くにも、此の程は、舊き皇居の跡ぞかしと覺えて、あはれなり。
さゝ波や大津の宮の荒れしより名のみ殘れる志賀の故郷
曙の空になりて、勢多の長橋うちわたす程に、湖遥かにあらはれて、彼の滿誓(まんせい)沙彌が、比叡山にて、此の海を望みつゝ詠めりけむ歌〔萬葉集「世の中は何に喩へむ朝開きこぎいにし船のあとなきがごと」〕、思ひ出でられて、漕ぎ行く船の跡のしら波、誠にはかなく心細し。
世の中を漕ぎ行く船によそへつゝ眺めしあとをまたぞ眺むる
此の程をも行き過ぎて、野路といふ所に到りぬ。草の原露しげくして、旅衣いつしか袖の雫所狹し〔ところせまい(*ところせき)まで一面に濡れた貌をいふ〕。
あづま路の野路〔野路は野原の意にかけた詞〕の朝露けふやさは袂にかゝる初めなるらむ
篠原といふ所を見れば、西東へ遥かに長き堤あり。北には里人住家を占め、南には池の面長く見えわたる。向ひの汀、緑深き松の羣立(むらだ)ち、波の色も一つになり、南山の影を浸さねども、青くして滉瀁(くゎうやう)たり〔白氏文集三「昆明春昆明春、春池岸方春流新影浸2南山1青滉瀁云々。」〕。洲崎(すさき)所々に入り違(ちが)ひて、葦かつみなど生ひ渡れる中に、鴛(をし)、鴨の打ち羣れて飛びちがふさま、葦手〔歌を葦の折れ靡いた樣に散らし書きする事〕を書けるやうなり。都を立つ旅人、此の宿(しゅく)にこそ泊りけるが、今はうち過ぐる類のみ多くして、家居もまばらになりゆくなど聞くこそ、變り行く世の習ひ、飛鳥の川の淵瀬〔古今集雜下讀人不知「世の中は何か常なる飛鳥川昨日の淵ぞ今日の瀬になる」〕には限らざりけめと覺ゆ。
行く人もとまらぬ里となりしより荒れのみまさる野路の篠原
鏡の宿(しゅく)に到りぬれば、昔七(なゝ)の翁の寄り合ひつゝ〔尚齒會の事で名目抄に、「尚齒會七叟作文也」とある樣に老人七名が相會して詩歌を詠みつゝ遊び暮すのである〕、老いをいとひて詠みける歌の中に、
鏡山いざ立ちよりて見て行かむ年へぬる身は老いやしぬると
といへるは、この山のことにやと覺えて、宿も借らまほしく覺えけれども、猶奧ざまに訪ふべき所ありて、うち過ぎぬ。
立ち寄らで今日は過ぎなむ鏡山知らぬ翁の影は見ずとも
行き暮れぬれば、むさ寺といふ山寺のあたりに泊りぬ。まばらなるとこ〔近江の鳥籠(とこ)山を床にかけた言葉〕の秋風、夜更くるまゝに身にしみて、都にはいつしか引きかへたる心地す。枕に近き鐘の聲、曉の空におとづれて、彼の遺愛寺の邊の草の庵の寢覺も、かくやありけむ〔白氏文集卷十六中の秀句「遺愛寺鐘欹(*原文頭注「■(奇+攵:::大漢和)」)枕聽、香爐峯雪撥簾看」から取つたもので屡我が國文の中にも現はれる〕とあはれなり。行末遠き旅の空、思ひつゞけられて、いといたう物悲し。
都出でて幾日(いくか)もあらぬ今宵だにかたしきわびぬ床の秋風
此の宿を出でて、笠原の野原打ち通る程に、老曾の杜といふ杉むらあり。下草深き朝露の、霜にかはらむ行末も、はかなく移る月日なれば、遠からず覺ゆ。
かはらじな我がもとゆひにおく霜も名にしおいそ〔地名老曾にかけた詞〕の杜の下草
音に聞きし醒が井を見れば、陰暗き木の下の岩根より流れ出づる清水、餘り涼しきまで澄みわたりて、實(げ)に身にしむばかりなり。餘熱未だ盡きざる程なれば、往還の旅人多く立ち寄りて涼みあへり。班■(女偏+捷の旁:::大漢和)■(女偏+予:::大漢和)(はんせふよ)が團雪の扇、秋風にかくて暫し忘れぬれば〔この成句は朗詠集納涼大江匡衡班■(女偏+捷の旁:::大漢和)■(女偏+予:::大漢和)團雪之扇、此岸風會長忘」から出たものである〕、末遠き道なれども、立ち去らむことは物憂くて、更に急がれず。彼の西行が、「道のべに清水ながるゝ柳陰しばしとてこそ立ちとまりつれ〔新古今集夏題不知西行法師の歌〕。」と詠めるも、斯樣(かやう)の所にや。
道のべの木陰の清水むすぶとて暫し涼まぬ旅人ぞなき
柏原といふ所を立ちて、美濃の國關山にもかゝりぬ。谷川霧の底におとづれ、山風松の梢にしぐれ渡りて、日影も見えぬ木(こ)の下道、哀れに心細し。越え果てぬれば、不破の關屋なり。萱屋の板廂年經にけりと見ゆるにも、後京極攝政殿の、「荒れにし後はたゞ秋の風〔新古今集雜中にあつてその上句は「人すまぬ不破の關屋の板廂」〕。」と詠ませ給へる歌、思ひ出でられて、この上は風情もめぐらし難ければ、いやしき言の葉を殘さむもなか\/に覺えて、此處をば空しく打ち過ぎぬ〔後京極攝政の歌が實感を詠じてゐるのでこれ以上には到底趣向もめぐらしかねるから拙い歌も詠まないで過ぎたの意〕。
株瀬(くひぜ)川といふ所にとまりて、夜更る程に、川端に立ち出でて見れば、秋の最中の晴天、清き川瀬にうつろひて、照る月なみも數見ゆばかり〔拾遺(*集)源順の、「水の面に照る月なみを數ふれば今宵ぞ秋のもなかなりける」から取つた句らしい〕澄み渡れり。二千里の外の故人の心〔白氏文集卷十四「三五夜中新月色、二千里外故人心。」〕、遠く思ひやられて、旅の思ひいとゞ抑へがたく覺ゆれば、月の影に筆を染めつゝ、「花洛を出でて三日、株瀬川に宿して一宵、しば\/幽吟を中秋三五夜の月に傷ましめ、かつ\〃/遠情を、先途一千里の雲に送る。」など、或家の障子に書い附くる序に、
知らざりき秋のなかばの今宵しもかゝる旅寢の月を見むとは
萱津の東宿の前を過ぐれば、そこらの人集まりて、里も響くばかりに罵りあへり。今日は市の日になむ當りたるとぞいふなる。往還のたぐひ、手毎に空しからぬ家土産(いへづと)も、彼の、「見てのみや人に語らむ〔古今(*集)春上素性「みてのみや人に語らむ櫻花手ごとに折りて家づとにせむ」〕。」と詠める、花のかたみには樣變りて覺ゆ。
花ならぬ〔市人と家づととにかゝる〕色香も知らぬ市人のいたづらならで歸る家づと
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4 尾張
尾張の國熱田の宮に到りぬ。神垣(かみがき)のあたり近ければ、やがて參りて拜み奉るに、木立年ふりたる杜の木の間より、夕日の影たえ\〃/さし入りて、朱(あけ)の玉垣色を變へたるに、木綿四手(ゆふしで)〔垂れ下つた御幣〕風に亂れたることがら〔有樣〕、物に觸れて神さびたる中にも、塒(ねぐら)あらそふ鷺羣(さぎむら)の、數も知らず梢に來居るさま、雪の積れるやうに見えて、遠く白きものから、暮れ行くまゝに靜り行く聲々も、心すごく聞ゆ。或人の曰く、「この宮は素盞嗚尊(すさのをのみこと)なり、初めは出雲の國に宮造りありけり。八雲立つ〔(*「)八雲たつ出雲八重垣妻籠に八重垣つくる其の八重垣を(*」)(古事記)〕と云へる大和言葉も、これより始まりけり。その後、景行天皇の御代に、この砌に跡を垂れ給へり。」と云へり。又曰く、「この宮の本體は、草薙と號し奉る神劒なり。景行の御子、日本武尊と申す、夷(えみし)を平げて歸りたまふ時、は白鳥となりて去り給ふ、劒(つるぎ)は熱田に止り給ふ。」とも云へり。一條院の御時、大江匡衡重光の子、七歳で書を讀み九歳で詩を賦した秀才、尾張權守となつた時の記事〕といふ博士ありけり。長保の末に當りて、當國の守にて下りけるに、大般若を書きて、この宮にて供養を遂げける願文〔本朝文粋卷十三に出て居る〕に、「吾が願ひ既に滿ちぬ、任限亦滿ちたり。故郷に歸らむとする期(ご)、未だ幾何(いくばく)ならず。」と書きたるこそ、哀れに心細く聞ゆれ。
思ひ出のなくてや人のかへらまし法(のり)のかたみを手向けおかずば
この宮を立ち出でて、濱路に赴く程、有明の月影ふけて、友なし千鳥、時々おとづれ渡れる旅の空の愁へ、すゞろに催して、哀れかた\〃/深し。
故郷は日を經て遠くなるみ潟〔故郷の日一日と遠くなるのを鳴海潟にかけた詞〕いそぐ潮干のみちぞくるしき
やがて夜の中(うち)に、二村山にかゝりて、山中などを越え過ぐる程に、東やう\/白みて、海の面遥かにあらはれ渡れり。波も空もひとつにて、山路に續きたるやうに見ゆ。
玉櫛笥(くしげ)〔玉は美稱、櫛笥は髪道具の箱、蓋があつて開けるので、あくひらく、或は笥の身の意からを起しみむろと山みむろの山などの枕詞となつてをる〕二村山のほの\〃/と明けゆく末は波路なりけり
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5 三河
行き\/て三河の國八橋のわたりを見れば、在原業平、杜若の歌よみたりけるに〔「ら衣きつゝ(*原文頭注「きつ」に傍点を付す。)なれにし妻しあればるばるきぬるびをしぞ思ふ」伊勢物語〕、皆人かれいひ〔ほしいひ〕の上に涙落しける所よと思ひ出でられて、其のあたりを見れども、彼の草〔杜若〕と思しきものは無くて、稻のみぞ多く見ゆる。
花ゆゑに落ちし涙のかたみとや稻葉の露を殘しおくらむ
源嘉種(よしたね)が、この國の守にて下りける時、とまりける女〔源平盛衰記に「遊女力壽」とある〕の許に遣しける歌に、「もろともに行かぬ三河の八橋を戀しとのみや思ひわたらむ〔この歌は拾遺和歌集に「源のよしたねが參河の介にて侍りけるむすめのもとに母のよみて遣しける」とある故に、嘉種が女の許に遣しけると書いたのは是を思ひ誤つたものである〕。」と詠めりけるこそ、思ひ出でられて哀れなれ。
矢矧(やはぎ)といふ所を出でて、宮路山越え過ぐる程に、赤坂といふ宿あり。此處に在りける女ゆゑに、大江定基が家を出でけるも、哀れに思ひ出でられて、過ぎがたし。人の發心する道、その縁一にあらねども、飽かぬ別れを惜しみし迷ひの心をしもしるべとし、誠の道に赴きけむ、有り難く覺ゆ。
別れ路に繁りもはてで葛の葉のいかでかあらぬ方にかへりし
本野が原にうち出でたれば、四方の望み幽(かすか)にして、山なく岡なし。秦甸(しんでん)の一千餘里〔朗詠集「秦甸一千餘里凛々氷鋪、漢家之三十六宮澄々粉飾。」〕を見わたしたらむ心地して、草土(さうど)共に蒼茫たり。月の夜の望み如何ならむと床しく覺ゆ。茂れる笹原の中に、數多踏み分けたる道ありて、行末も迷ひぬべきに、故武藏の前司、道の便りの輩(ともがら)に仰せて、植ゑ置かれたる柳も、未だ陰と頼むまではなけれども、かつ\〃/〔まづまづ、不十分ながら〕まづ道のしるべとなれるもあはれなり。唐土の召公■(大の両脇に百:::大漢和)(せうこうせき)は、周の武王の弟なり。成王の三公〔太師、太傅、太保の事〕として、燕といふ國を司りき。陜(せん)の西の方を治めし時、一つの甘棠(かんだう)のもとを占めて〔詩經召南篇「蔽■(艸冠/市:::大漢和)甘棠、勿剪勿伐、召伯所■(艸冠/友:::大漢和)。」〕、政を行ふ時、官人(つかさびと)より始めて、庶(もろ\/)の民に至るまで、そのもとを失はず、あまねく又人の患(うれ)へをことわり、重き罪をもなだめけり。國民(くにたみ)擧(こぞ)りて其の徳政を忍ぶ。故に召公去りにし後までも、かの木を敬ひて敢て伐らず、歌〔前述の詩をいふ〕をなむ作りけり(*ママ)。後三條天皇東宮にておはしましけるに、學士實政(さねまさ)任國に赴く時、「州(くに)の民は縦令(たとひ)甘棠の詠をなすとも、忘るゝことなかれ多くの年の風月の遊び。」といふ御製を賜はせたりけるも、此の御心にやありけむ、いみじく辱(かたじけな)し。彼の前の司〔泰時〕も此の召公の跡を追うて、人をはぐゝみ物を憐むあまり、道の邊の往還の陰までも思ひよりて植ゑおかれたる柳なれば、これを見む輩、皆彼の召公を忍びけむ國の民の如くに、惜しみ育てて行末の蔭と頼まむこと、その本意は定めて違はじとこそ覺ゆれ。
植ゑおきし主なきあとの柳原なほそのかげを人やたのまむ
豐川といふ宿の前をうち過ぐるに、或者のいふを聞けば、「此の道をば、昔よりよくるかた無かりし程に〔寄らずに過ぎる道もなかつたが〕、近頃より、俄に渡津(わたふづ)の今道といふ方に、旅人多くかゝる間、今は其の宿は、人の家居をさへ外にのみ移す。」などぞいふなる。舊きを捨てて新しきに就く習ひ、定まれることと云ひながら、如何なる故ならむと覺束なし。昔より住みつきたる里人の、今更ゐうかれむ〔落ちつかずに浮かれ出す〕こそ、彼の伏見の里ならねども、荒れまく惜しく覺ゆれ〔古今(*集)雜下讀人不知「いざこゝにわが世は經なむ菅原や伏見の里のあれまくもをし」〕。
おぼつかないさ豐川のかはる瀬を如何なる人の渡り初めけむ
三河遠江の境に、高師の山と聞ゆるあり。山中に越えかゝる程に、谷川の流れ落ちて、岩瀬の波こと\〃/しく聞ゆ。境川とぞいふ。
岩づたひ駒うちわたす谷川の音もたかし〔高しと高師とにかけた詞〕の山に來にけり
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6 遠江
橋本といふ所に行き著きぬれば、聞きわたりし〔評判でかね\〃/聞いてをつた處の〕甲斐ありて、氣色いと心すごし。南には潮海(てうかい)あり、漁舟波に浮ぶ。北には湖水あり、人家岸に連なれり。その間に洲崎遠くさし出で、松きびしく〔密接して生ひ繁る貌〕生ひ續き、嵐しきりに咽ぶ。松の響波の音、何れと聞き分き難し。行く人心を傷ましめ、泊る類〔泊る人々〕、夢を覺さずといふことなし。湖に渡せる橋を濱名と名づく。舊き名所なり。朝立つ雲の名殘、何處よりも心細し。
行きとまる旅寢はいつも變らねどわきて濱名の橋ぞ過ぎうき
さても此の宿に、一夜とまりたりし宿あり〔これで筆者は以前に東海道を旅行してこの宿に泊つた事が明かである〕。軒ふりたる藁屋の、所々まばらなる隙より、月の影隈もなくさし入りたる折しも、君ども〔遊女の事〕あまた見えし中に、少しおとなびたるけはひにて、「夜もすがら床(ゆか)の下に晴天を見る〔朗詠集三善宰相「向晩簾頭生2白露1終宵床底見2青天1。」〕。」と、忍びやかにうち詠じたりしこそ、心にくく〔奧床しく〕覺えしか。
言の葉の深きなさけは軒端もる月のかつらの色に見えにき〔月の光によつてこの遊女の物のあはれを知る心がわかつた。〕
名殘多く覺えながら、此の宿をもうち出でて、行き過ぐる程に、舞澤〔後の舞坂の事〕の原といふ所に來にけり。北南は渺々と遥かにして、西は海の渚近し。錦花繍草〔美しい花や草〕の類は、いとも見えず。白き眞砂のみありて、雪の積れるに似たり。其の間に松絶え\〃/生ひ渡りて、潮風梢におとづれ、又怪しの草の庵所々に見ゆ。漁人釣客などの栖にやあるらむ。末遠き野原なれば、つく\〃/と眺め行く程に、うち連れたる旅人の語るを聞けば、「何時の頃よりとは知らず、つく\〃/と眺め行く程に、うち連れたる旅人の語るを聞けば、「何時の頃よりとは知らず、此の原に木像の觀音おはします。御堂など朽ち荒れにけるにや、苟(かりそめ)なる草の庵の中に、雨露もたまらず年月を送る程に、一年望むことありて、鎌倉へ下る筑紫人ありけり、此の觀音の御前に參りたりけるが、若し此の本意〔鎌倉へ下る念願〕を遂げて故郷へ向はば、御堂を造るべき由、心の中に申し置きて侍りけり、鎌倉にて望む事叶ひけるによりて、御堂を造りけるより、人多く參る。」なんどぞいふなる。聞きあへず〔その話を聞きも終へぬ中に〕其の御堂へまゐりたれば、不斷香の煙〔平家物語小原御幸の條に「いらか破れて霧不斷の香をたき、とぼそ落ちては月常住の燈をかゝぐ。」とある樣に、香煙の斷えないのをいふ〕、風にさそはれうち薫り、閼伽の花〔閼伽は梵語で佛に奉る水又は香水の意〕も露鮮かなり。願書とおぼしきものばかり、帳(ちゃう)の紐に結びつけたれば、弘誓(ぐぜい)の深きこと海の如し〔法華經「弘誓深如海、歴劫不思議」四弘誓願と稱して第一に衆生無邊誓願度、第二に煩惱無邊誓願斷、第三に法門無盡誓願學、第四に佛道無上誓願成の四種がある〕と云へるも、頼もしく覺えて、
頼もしな入江に立てるみをつくし深きしるしのありと聞くにも
天竜と名づけたる渡りあり、川深く、流れ激しく見ゆ。秋の水漲り來て、舟の去ること速かなれば、往還(ゆきき)の旅人、容易(たやす)く向ひの岸に著き難し。此の河水まされる時、舟なども自から覆りて、底の水屑(みくづ)となる類多かりと聞くこそ、彼の巫峽の水の流れ〔白氏文集「巫峽之水能覆舟、若比2君心1是安流。」〕、思ひよせられて、いと危き心地すれ。然(しか)はあれども、人の心に比ぶれば、靜かなる流れぞかしと思ふにも、喩ふべき方なきは、世に經る道の嶮しき習ひなり。
此の河のはやき流れも世の中の人の心のたぐひとは見ず
遠江の國府(こふ)今の浦に著きぬ。此處に宿かりて、一日二日止りたる程、海人の小舟に棹さしつゝ、浦のありさま見めぐれば、潮海(しほうみ)湖の間に洲崎遠く隔たりて、南には極浦(きょくほ)の波袖を濕(うるほ)し、北には長松の嵐心を傷ましむ。名殘多かりし橋本の宿にぞ相似たる。昨日の目移りなからずば、是も心とまらずしもあらざらましなどは覺えて、
浪のおとも松の嵐も今の浦にきのふの里の名殘をぞ聞く
ことのまゝと聞ゆる社〔十六夜日記「二十四日ひるになりてさやの中山こゆ。事のまゝとかやいふ社の程紅葉いと盛りに面白し。」〕おはします。其の御前(みまへ)を過ぐとて、聊か思ひつゞけられし。
木綿襷(ゆふだすき)〔かけてにかゝる〕かけてぞ頼む今思ふことのまゝなる神のしるしを
小夜の中山は、古今集の歌に、「よこほり臥せる〔古今集二十東歌「甲斐が根をさやにも見しかけゝれなく(*こゝろなく)よこほりふせるさやの中山」〕。」と詠まれたれば、名高き名所なりと聞き置きたれども、見るにいよ\/心細し。北は深山(しんざん)にて、松杉(しょうさん)嵐烈しく、南は野山にて、秋の花露稠(しげ)し、谷より嶺に移る道、雲に分け入る心地して、鹿の音涙を催し、蟲の恨み哀れ深し。
踏み通ふ峯のかけはしとだえして雲にあととふ小夜の中山
此の山をも越えつゝ、猶過ぎ行く程に、菊川(きくがは)といふ所あり。去にし承久三年の秋の頃、中御門中納言宗行と聞えし人の、罪ありて東へ下られけるに、此の宿に泊りけるが、「昔は南陽縣の菊水、下流を汲んで齡を延ぶ〔荊州記「■(麗+邑:::大漢和)縣北有2菊水1、其涯芳菊被岸、水甚甘馨、胡廣久患2風贏1此疾遂■(病垂/廖の旁:::大漢和22453)。」〕。今は東海道の菊川、西岸に宿(しゅく)して命を失ふ。」と、或家の柱に書かれたりけりと聞きおきたれば、最(い)と哀れにて、其の家を尋ぬるに、火の爲に燒けて、彼の言の葉も殘らずと申す者あり。今は限りとて殘し置きけむかたみさへ、跡なくなりにけるこそ、はかなき世の習ひ、いとゞ哀れに悲しけれ。
書きつくる形見も今はなかりけりあとは千歳〔源平盛衰記「水莖の跡は千代もありなんとは是やらんと。」〕と誰かいひけむ
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7 駿河
菊川を渡りて、幾程もなく、一村の里あり、二濱とぞいふなる。此の里の東のはてに、少し打ち登るやうなる奧より、大井川を見渡したれば、遥々と廣き河原の中に、一筋ならず流れ分れたる川瀬ども、とかく入りちがひたるやうにて、洲流(すながし)〔衣紋蒔繪などの一法で俗にすみながしとも云ふ〕といふものをしたるに似たり。なか\/渡りて見むよりも、よそめ面白く覺ゆれば、彼の紅葉みだれて〔古今(*集)秋下讀人不知「立田川紅葉亂れて流るめり渡らば錦中や絶えなむ」〕流れけむ竜田川ならねども、暫しやすらはる。
日數ふる旅のあはれは大井川わたらぬ水も深き色かな
前島の宿を立ちて、岡部の今宿をうち過ぐる程、片山の松の陰に立ち寄りて、餉(かれいひ)など取り出でたるに、嵐冷(すさま)じく梢に響きわたりて、夏のまゝなる旅衣、うすき袂も寒く覺ゆ。
これぞこのたのむ木(こ)のもと岡部なる松の嵐よ心して吹け
宇津の山を越ゆれば、蔦楓は茂りて、昔の跡絶えず。彼の業平が修行者(すぎゃうじゃ)にことづてしけむ〔伊勢物語「京にその人の許にとて文書きてつく。云々。」〕程は、何處(いづく)なるらむと見行く程に、道の邊に札を立てたるを見れば、無縁の世捨人ある由を書けり。道より近きあたりなれば、少し打ち入りて見るに、僅なる草の庵の中(うち)に、一人の僧あり、畫像の阿彌陀佛を掛け奉りて、淨土の法文〔淨土は極樂淨土で穢土に對するもの〕などを書けり。其の外にさらに見ゆる物なし。發心の始めを尋ね聞けば、身はもと此の國のものなり、さして思ひ入りたる〔深く思ひ込んだ〕道心も侍らぬうへ、其の身堪へたるかたなければ〔學問技藝にも達しないので〕、理を觀ずるに心闇(くら)く、佛を念ずるに性懶(ものう)し、難行苦行の二つの道、ともに缺けたりと雖も、山の中に眠れるは、里に在りて勤めたるにまされる由、或人の教へにつきて、此の山に庵を結びつゝ、數多の年月を送る由を答ふ。昔叔齊が首陽の雲に入りて、猶三春の蕨を採り〔兄伯夷と共に周の武王が殷を討つのを諌めたが容れられず、共に周の粟を食ふのを恥ぢて首陽山にのぼり蕨を採つて食べて居つたが遂に餓死したといふ故事〕、許由が潁水の月にすみし、自ら一瓢の器をかけたり〔古の隱者でが天下を讓らうとするのを聞き、耳を潁水に洗つて箕山に隱れたといふ故事〕と云へり。此の庵のあたりには、殊更煙立てたるよすがも見えず、柴折りくぶる慰めまでも、思ひ斷えたるさまなり。身を孤山の嵐の底にやどして、心を淨域の雲の外にすませる、言はねどしるく見えて、なか\/あはれに心にくし。
世をいとふ心のおくや濁らましかゝる山邊のすまひならでは
此の庵のあたり、幾程遠からず、峠といふ所に到りて、大きなる卒塔婆の年經にけると見ゆるに、歌ども數多書きつけたる中に、
吾妻路はこゝをせにせむ〔ここを東海道第一としよう。せにせむは最上としようの意〕宇津の山あはれも深し蔦のした道
と詠める、心とまりて覺ゆれば、其の傍に書きつけし、
我もまたこゝをせにせむ宇津の山分けて色あるつたのした露
猶打ち過ぐる程に、或木陰に石を高く積みあげて、目にたつさまなる塚あり。人に尋ぬれば、梶原〔景時、景清の子で頼朝の寵を受け姦譎であつて諸將を陷れ恨みを買つた〕が墓となむ答ふ。道の側(かたはら)の土となりけりと見ゆるにも、顯基中納言の口ずさみ給へりけむ、「年々に春の草のみ生ひたり〔古事談顯基中納言後一條寵臣也、天皇崩御之後忠臣不2二君1、(中略)尋常之時常詠2白樂天1、古墓何世人、不2姓與1名、化爲2道傍土1年年春草生。」〕。」と云へる詩、思ひ出でられて、是も亦舊き塚となりなば、名だにも殘らじと哀れなり。羊大傅(やうたいふ)〔羊■(衣偏+古:::大漢和)字は叔子、學徳竝び高く民人の尊敬を受けその死後彼の碑を仰いで流涕しないものがなく杜預が墮涙碑と名づけたといふ事である〕が跡にはあらねども、心ある旅人は、此處にも涙や落すらん。かの梶原は將軍二代の恩に驕り、武勇三畧の名を得たり。傍に人なくぞ見えける。如何なることにかありけむ、かたへ〔同輩〕の憤り深くして、忽ちに身を亡すべきになりにければ、ひとまども〔ひとまづの意らしい〕延びむとや思ひけむ、都の方へ馳せ上りける程に、駿河の國黄河(きがは)といふ所にて討たれけりと聞きしが、さは此處にてありけるよと、哀れに思ひ合せらる。讚岐の法皇配所へ赴かせ給ひて、彼の志度といふ所にて崩(かく)れさせましましける御跡を、西行修行の序に見參らせて、
よしや君むかしの玉の床とてもかゝらむ後は何にかはせむ
と詠めりけるなど承るに、まして下ざまの者のことは申すに及ばねども、さしあたりて見るには、いと哀れに覺ゆ。
哀れにも空にうかれし玉鉾の〔空にうかれし魂と枕詞の玉鉾にかけた〕道のべにしも名をとゞめけり
清見が關も過ぎうくて〔景色に見惚れて通り過ぎにくくて〕、暫しやすらへば、沖の石むら\/汐干にあらはれて波に咽び、磯の鹽屋ところ\〃/風にさそはれて、煙たなびけり。東路の思ひ出ともなりぬべきわたりなり。昔朱雀天皇(てんわう)の御時、將門といふ者、東にて謀叛おこしたりけり。これを平げむために、民部卿忠文を遣しける。此の關に到りて止りけるが、滋藤(しげふぢ)といふもの、民部卿に伴ひて、軍監〔軍防令「凡將帥出征兵、滿2一萬人以上1將軍一人、副將軍二人軍監二人云々。」〕といふつかさにて行きけるが、「漁舟の火の影は寒くして浪を燒き、驛路の鈴の聲は夜山を過ぐ。」といふ、唐(もろこし)の歌を詠じければ、民部卿涙を流しけると聞くにも哀れなり。
清見潟せきとは知らで行く人も心ばかりはとゞめおくらむ
此の關遠からぬ程に、興津といふ浦あり。海に向ひたる家に宿りて侍れば、磯邊に寄する波の音も、身の上にかゝるやうに覺えて、夜もすがら寐ねられず。
興津潟いそべに近きいはまくらかけぬ波にも袖は濡れけり
今宵は更にまどろむ間だになかりつる、草の枕〔旅の枕詞で又旅の意を生じた〕のまろぶし〔著たままでごろねをする〕なれば、寢覺ともなき曉の空に出でぬ。岫(くき)が崎といふなる荒磯の、岩のはざまを行き過ぐる程に、沖津風烈しきに、うちよする波もひまなければ、急ぐ汐干の傳ひ道、かひなき心地して、ほすまもなき袖の雫までは、かけても思はざりし〔思ひも掛けなかつたところの〕旅の空ぞかしなど、うち眺められつゝ、いと心細し。
沖つ風けさ荒磯の岩づたひ波わけごろもぬれ\/ぞ行く
神原(かんばら)といふ宿の前を打ち通る程に、後れたるもの待ちつけむ〔待合せよう〕とて、或家に立ち入りたるに、障子に物を書きたるを見れば、
旅ごろも〔裾野にかゝる〕すそ野の庵のさむしろに積るも著(しる)き富士の白雪
といふ歌なり。心ありける旅人のしわざにやあるらむ。昔香爐峯の麓に、庵をしむる隱士あり〔白樂天の故事〕。冬の朝簾をあげて、峯の雪をのぞみけり。今富士の山のあたりに、宿を借る行客(かうかく)あり。さゆる夜衣をかたしきて〔獨り寢をして〕、山の雪を思へる、彼も此も共に心すみて覺ゆ。
さゆる夜に誰こゝにしも臥しわびて高嶺の雪を思ひやりけむ
田子の浦に打ち出でて、富士の高嶺を見れば、時わかぬ〔不斷の〕雪なれども、なべて〔凡て〕未だ白妙にはあらず。青うして天(そら)によれる姿、繪の山〔繪の樣な山〕よりもこよなう見ゆ。貞觀十七年冬の頃、白衣(びゃくえ)の美女二人ありて、山の頂に竝び舞ふと、都良香富士山の記に書きたり〔本朝文粹十二都良香富士山記「富士山者在2駿河國1峯如2削成1直聳天(中畧)仰觀2山峯12白衣美二女12舞山顛上1嶺一尺餘土人共見。」〕。如何なる故にかと覺束なし。
富士の嶺の風にたゞよふ白雲を天つ少女の袖かとぞ見る
浮島が原は、何處(いづこ)よりもまさりて見ゆ。北は富士の麓にて、西東へ遥々と長き沼あり、布を引けるが如し。山の緑影を浸して、空も水もひとつなり。蘆刈小舟所々に棹さして、羣れたる鳥多くさわぎたり。南は海の面遠く見わたされて、雲の波煙の波〔盛衰記二十四「遠帆雲の波にこぎまがひ巨海茫々としては眺望煙波に眼遮れり。」〕、いと深き眺めなり。すべて孤島の眼に遮るなし〔海がはる\〃/と擴つて一の島もない〕。僅に遠帆(ゑんはん)の空につらなれるを望む。此方彼方の眺望、何れもとり\〃/に心細し。原には、鹽屋の煙絶え\/立ちわたりて、浦風松の梢に咽ぶ。此の原昔は海の上に浮びて、蓬莱の三(みつ)の島〔蓬莱、方丈、瀛州(*えいしゅう)の三神山をいふ〕の如くにありけるによりて、浮島となん名づけたりと聞くにも、自ら神仙の棲處(すみか)にもやあらむ、いとゞ奧ゆかしく見ゆ。
影ひたす沼の入江に富士のねのけぶりも雲もうきしまがはら
やがて此の原につぎて、千本(せんぼん)の松原といふ所あり。海の渚遠からず、松遥かに生ひわたりて、緑の影際もなし。沖には舟ども行き違ひて、木の葉の浮けるやうに見ゆ。彼の、「千株(しゅ)の松の下(もと)雙峯寺(さうほうのてら)、一葉の舟の中(うち)萬里の身〔白樂天が香山寺隱居中の詩句で朗詠集山寺に出てをる〕。」と作れるに、かれもこれも〔松も舟も〕はづれず、眺望いづくにもまさりたり。
見わたせば千本(ちもと)の松のすゑ遠み緑につゞく波の上かな
車返といふ里あり。或家に宿りたれば、網釣など營む賎しき者の住家にや、夜のやどりありかことにして、床のさむしろも闕けるばかりなり〔賎しい漁民の家で夜具のものもないといふ有樣である〕。彼の縛戎人〔白氏文集卷三にある詩〕の夜半の旅寢も、斯くやありけむと覺ゆ。
これぞこの釣するあまの苫びさしいとふありかや袖に殘らむ
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8 伊豆
伊豆の國府(こふ)に到りぬれば、三島の社の御注連(しめ)〔日本書紀倭名抄では標、萬葉(*集)では標繩と書いてある〕内拜み奉るに、松の嵐小暗くおとづれて、庭の氣色も神さびわたれり。此の社は、伊豫の國三島大明神を遷し奉ると聞くにも、能因入道、伊豫守實綱が命によりて、歌よみて奉りけるに、炎旱の天より雨俄に降りて、枯れたる稻葉も、忽ちに緑にかへりける〔盛衰記に依れば事實らしく、その歌は「天下るあらひと神の神ならば雨下し給へ天下る神」〕、現人神(あらひとがみ)の御名殘なれば、ゆふだすき掛けまくも〔口にかけ申すのも〕かしこく覺ゆ。
せきかけし苗代みづのながれ來てまたあまくだる神ぞこの神
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9 箱根山
限りある道なれば、此の砌をも立ち出でて猶行き過ぐる程に、筥根の山にも著きにけり。岩が根高く重なりて、駒もなづむ〔捗らない〕ばかりなり。山の中に至りて、湖廣く湛へり。筥根の湖と名づく。また蘆の湖(うみ)といふもあり。權現垂迹の基〔この地に出現し給うた基〕、けだかく尊し。朱樓紫殿の雲に重なれる粧(よそほひ)、唐家驪山宮(りさんきう)〔白氏文集「高々驪山上有宮朱樓紫殿三四重云々。」〕かと驚かれ、巖室石龕(せきがん)の波に臨める影、錢塘の水心寺〔錢塘は浙江省杭州府の地、水心寺は湖心寺の思ひ誤りらしい〕とも謂ひつべし。嬉しき便りなれば、「憂き身の行方しるべさせ給へ。」など祈りて、法施(ほふせ)奉る序に、
今よりは思ひみだれし蘆の海の深きめぐみを神にまかせて
此の山も越えおりて、湯本といふ所にとまりたれば、大山颪烈しく打ちしぐれて、谷川漲りまさり、岩瀬の波高く咽ぶ、暢臥房(ちゃうぐゎばう)の夜の聞き〔臥は師の誤り。白氏文集「六月灘聲如2猛雨1、香山樓北暢師坊、夜深起倚2欄干1立、滿耳潺湲滿面凉。」〕にも過ぎたり。彼の源氏物語の歌に、「涙催す瀧の音かな〔上句「吹きまよふみ山おろしに夢さめて」〕。」と云へる、思ひよられて哀れなり。
それならぬたのみは無きを故郷の夢路ゆるさぬ瀧のおとかな
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10 鎌倉
此の宿をも立ちて、鎌倉に著く日の夕つかた、雨俄に降りて、みかさ〔みのかさの誤りらしい〕も取りあへぬほどなり。急ぐ心にのみ進められて、大磯、江島、もろこしが原など聞ゆる所々をも、見留むるひまもなくて、打ち過ぎぬるこそ、いと心ならず覺ゆれ。暮れかゝる程に、下り著きぬれば、なにがしのいりとかやいふ所に、あやしの賎(しづ)が庵を借りてとゞまりぬ。前は道に向ひて門なし。行人征馬〔通行の人馬〕簾のもとに行違ひ、後(うしろ)は山近くして窗に臨む。鹿の音蟲の聲、垣の上にいそがはし。旅店の都に異なる、さまかはりて心すごし。かくしつゝ明し暮す程に、徒然も慰むやとて、和賀江(わかえ)の築島、三浦の三崎などいふ浦々を行きて見れば、海上の眺望哀れを催して、來し方に名高く面白き所々にもおとらず覺ゆ。
さびしさは過ぎこしかたの浦々もひとつ〔同じ〕眺めの沖の釣ふね
玉よする〔浦の序詞〕三浦がさきの波間より出でたる月のかげのさやけさ
そも\/鎌倉の始めを申せば、故右大將家と聞え給ふ、水の尾の御門の九つの世のはつえ〔九代の後胤。はつえは末葉などと同じ意〕を猛き人にうけたり。去りにし治承の末に當りて、義兵を擧げて朝敵をなびかすより、恩賞頻りに隴山の跡〔李廣の故事から將軍となつたのをいふらしい。朗詠集「隴山雲暗李將軍家、潁水浪閑蔡征勇之未仕。」〕を繼ぎて、將軍のめしを得たり。營館を此の處に占め、佛神を其の砌に崇め奉るより以來(このかた)、今繁昌の地となれり。中にも鶴岡(つるがをか)の若宮は、松柏の緑いよ\/しげく、蘋■(艸冠/繁:::大漢和)(ひんぱん)〔浮草の一種、支那の祭時に用ひる〕の供へかくる事なし。陪從(べいじう)を定めて四季の御神樂怠らず、職掌に仰せて、八月の放生會(はうじゃうゑ)〔八月十五日は例祭〕を行はる。崇神(すうじん)のいつくしみ、本社にかはらずと聞ゆ。二階堂〔永福寺〕は、殊にすぐれたる寺なり。鳳(ほう)の甍〔鳧の鐘に對せしめたのである〕日に輝き、鳧(ふ)の鐘霜に響き、樓臺の莊嚴より始めて、林池のありどに至るまで、殊に心とまりて見ゆ。大御堂(おほみだう)と聞ゆるは、石巖のきびしきをきりて、道場のあらたなるを開きしより、禪僧庵を竝ぶ。月おのづから紙窗(しさう)の觀(くゎん)をとぶらひ、行法座をかさね、風長(とこしな)へに金磬〔磬は樂器〕の響きをさそふ。しかのみならず、代々の將軍以下造り添へられたる松の社蓬の寺〔神社佛閣〕、町々にこれ多し。其の外由比の浦といふところに、阿彌陀佛の大佛を造り奉る由語る人あり、やがて誘(いざな)ひて參りたれば、尊くありがたし。事の起りを尋ぬるに、本は遠江の國定光上人といふものあり。過ぎにし延應のころより、關東の貴(たか)き賎しきを勸めて、佛像を造り堂舍を建てたり。其の功既に三が二に及ぶ。烏瑟(うひつ−ママ)高くあらはれて、半天の雲に入り、白毫新に磨きて、滿月の光をかゞやかす〔梵語烏瑟膩(*沙)の畧で頂上に髻の形をしてゐる肉がある、佛の二十二相の一、佛像の高大で儀容儼然として眉間の白毫が光を放つてゐるのを形容したのである〕。佛は則ち兩三年の功、速かに成り、堂は又十二樓の構へ〔寺宇の壯麗を崑崙仙宮の十二樓に比べたもの〕望むに高し。彼の東大寺の本尊は、聖武天皇の製作、金銅十丈餘の盧舍那佛なり。天竺震旦にも、類なき佛像とこそ聞ゆれ。此の阿彌陀は、八丈の御長(おんたけ)なれば、彼の大佛の半よりもすゝめり。金銅木像のかはりめこそあれども、末代にとりては、此も不思議と謂ひつべし。佛法東漸の砌に當りて、權化〔佛菩薩のかりに人と現れたもの〕力を加ふるかと有り難く覺ゆ。(*入力者改段)
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11 帰還
かやうの事どもを見聞くにも、心とまらずしもはなけれども、文にも暗く武にも缺けて、遂に住みはつべきよすがもなき、數ならぬ身なれば、日を經るまゝには、唯都のみぞ戀しき。歸るべきほどと思ひしも、空しく過ぎ行きて、秋より冬にもなりぬ。蘇武李陵共に漢書列傳にある武人〕が漢を別れし、十九年の旅の愁へ、李陵が胡に入りし、三千里の道の思ひ、身に知らるゝ心地す。聞きなれし蟲の音もやゝ弱りはてて、松吹く峯の嵐のみぞ、いとゞ烈しくなりまされる。懷土(くゎいど)の心に催されて、つく\〃/と都の方を眺めやる折しも、一行(つら)の鴈がね、空に消えゆくも哀れなり。
歸るべき春をたのむ〔頼むを田の面にかけた詞〕の鴈がねもなきてや旅の空に出でにし
かゝる程に、神無月の二十日あまりの頃、はからざるにとみの〔俄の、急の〕事ありて、都へ歸るべきになりぬ。其の心の中、水莖の跡〔文字〕にも書きながし難し。錦を衣(き)る境は、固より望む所にあらねども、故郷に歸るよろこびは〔身に美しい衣を著けはしないが折しも秋の道中故思ひがけない紅葉の錦を著て故郷に歸るよろこび〕、朱買臣〔呉の人で貧しさのあまり妻にも捨てられた程であつたが後天子に重く用ゐられ、會稽太守の印綬を懷にして故郷に歸つて家人郷黨を驚かしたといふ事が漢書列傳にある〕に相似たる心地す。
ふるさとへ歸る山路の木枯に思はぬほかの錦をや著む
十月二十三日の曉、既に鎌倉を立ちて都へ赴くに、宿の障子に書きつく。
馴れぬれば都を急ぐ今朝なれどさすが名殘の惜しき宿かな

東關紀行

 1 序  2 逢坂の關  3 琵琶湖  4 尾張  5 三河  6 遠江  7 駿河  8 伊豆  9 箱根山  10 鎌倉  11 帰還
[INDEX]