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生母は生駒家宗の娘・吉乃。
五徳とは炭火等で鍋や鉄瓶を沸かすときに用いる三脚若しくは四脚の輪状の道具である。
他に儒教的に徳の意味合いをもつ言葉でもあるが、多分、前者の方であろう。
信長は子に変わったの名を用いることが多い。
嫡男信忠が生まれた時は、赤ん坊を見て「奇妙だ」と言った為であるとも伝わる。
信雄は茶筅。
他に人・縁・酌等。
生まれた五徳と対面した時、側に五徳が置いてあったからという人もいるが、それは定かではない。
徳川家康の嫡男信康に嫁ぐ。
家康は居城を浜松へ移したが、正室である築山殿とその子信康は岡崎城にのこっている。
築山殿は家康が今川義元の人質であった頃迎えられた妻で今川の一族の娘である。
今川家は桶狭間の戦いで義元が討死してから急速に破滅の一途をたどる。
そんな今川家を見限りさらに宿敵である織田信長に家康は急接近した。
築山殿はよい感情を抱くはずもない。
そこへ宿敵信長の娘が息子の嫁として嫁いできたのである。
築山殿が徳姫を暖かく迎えてくれるはずもない。
単に感情的に嫁姑のいがみ合いではすまされぬ程、憎しみの情があったのであろう。
天正七年(一五七九)徳姫は父・信長に12ヶ条の訴状を送る。
徳姫の侍女を信康が無残に殺した等などの悪行を並べたものである。
それにより、信康は切腹せねばならなくなった。
なぜ、このような事が起きてしまったのであろうか。
いかに嫁姑の中が悪かろうと夫をみすみす死に追いやる妻が居るであろうか。
徳姫はまさか父・信長が夫・信康の切腹を命じるとまでは考えていなかったのであろう。
築山殿は徳川家にとって屈辱の時代であった頃の今川家の象徴でもあり、
今は敵となり没落していった今川家の遺物でもある。
そしてまた夫・家康からも疎んじられた母を不憫におもうことは信康にとっても当然の感情であろう。
威勢をほこる信長の娘を愛していたとしても、いざ嫁姑があらそうと母をかばってしまうことは
想像できよう。
事実そうであったのかもしれない。
当然、徳姫はおもしろくない。
妻をあしらい母ばかりをかばう夫を父からこらしめてもらおう。
そんな思いで訴状を書いたのかもしれない。
信康の死後、父信長のもとへ戻る。
尾張岩倉で三千石の扶持をあたえられる。
その後の事はよくわからない。
彼女が自分の行った行為をどう思い、それによって招いた結果をどう考えてたのか。
切腹を命じた信長、それを受けた家康に対する感情。
それらはみな想像のうえでしか知るよしがない。
晩年は京都ですごし岡崎殿と呼ばれていたという。
寛永一三年正月、78歳で没する。
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