武将列伝番外編・女性列伝・堀尾金助の母 




 堀尾金助の母  
 ほりおきんすけのはは  
 生没年   ?〜1621   主君・所属   堀尾金助の母
 
 
 堀尾金助の母。名は不詳。紀州生まれと伝わる。
 
 織田家臣に堀尾吉晴(可晴)という武将がいる。
 木下(豊臣)秀吉の与力となり、豊臣政権下では中老の地位まで上る。
 その堀尾吉晴の叔父が堀尾方泰。方泰の子を金助という。
 つまり堀尾吉晴と金助は従兄弟にあたる。
 金助は堀尾吉晴の養子になっていたとも。(「熱田裁断橋物語」)
 堀尾方泰も金助も、然程メジャーな人物ではない。
 そして、この頁の主役は方泰の名もわからぬ妻、金助の母である。
 
 時は秀吉の隆盛期。小田原城を攻め天下取りへ大手を掛けた頃。
 堀尾吉晴にも出陣の命が下る。
 堀尾一族・郎党を率いて小田原へ向かう。
 この時、堀尾方泰は病に臥せっていた。
 金助は病で戦に参陣出来ない父に代わって戦場へ赴き武功をたてる事を望んだ。
 そしてこれが金助の初陣ともなる。
 
 尾張国御供所(現:丹羽郡大口町。小牧山の北西 2〜3km )から金助は伯父の堀尾泰次に連れられ戦に向った。
 金助の母は我が子を熱田まで見送りに赴いた。
 病に伏せる夫の事も心配であっただろうが、それ以上に我が子の事が気掛かりであったのだろう。
 齢は18。初陣するには十分な歳。
 心も逸り、うずうずしている年頃であろう。
 そんな金助を頼もしく思い。
 戦場等へは行かせたくない思い。
 武功をたて名を挙げて欲しいと願う思い。
 不安と期待。
 
 熱田の裁断橋まで母は見送った。
 
 金助は傷病に倒れ、天正十八年(1590)六月、帰らぬ人となった。
    (六月十二日説、十八日説あり)
 既に堀尾方泰も没していたという。
 
 翌十九年(1591)。母は金助と別れた裁断橋を修復する。
 壊れかけたこの橋を修復することが我が子金助の供養に繋がると。
 
 やがて歳月は流れ橋も再び老朽化していく。
 老いた母は私財を投げ打ち再び橋の修復を行った。
 元和七年(1621)の事。
 そして修復工事の完成を見ぬまま、金助の母は亡くなった。
 
 裁断橋の擬宝珠には母の金助を思う言葉が刻まれていた。
 
 
 
  てん志やう十八ねん 二月
  十八日に をだわらへの
  御ちん ほりをきん助と
  申す十八になりたる子を
  たたせてより 又ふた目
  とも見ざる悲しさの
  あまりに 今 この橋を
  かけるなり 母の
  身には落涙と
  もなり そくしんじょう
  ぶつしたまへ
  いつかんせい志ゆんと 後
  の世の又後まで この
  かきつけを見る人ハ
  念仏申したまへや 三十三
  年のくやう也

 
    (違ってたらごめんなさい)
 
   天正十八年二月十八日に
   小田原への御陣 堀尾金助と申す十八に
   なりたる子をたたせてより また
   ふた目とも見ざる悲しさのあまりに
   今 この橋をかけるなり
   母の身には落涙ともなり
   即身成仏したまへ
   逸巖世俊(金助の法名)と 
   後の世のまた後まで
   この書き付けを見る人は念仏申したまへや
   三十三年の供養なり

 
 
 裁断橋はその橋が架かる川、精進川が埋め立てられ不用の物となった。
 欄干のみが残り移築された。
 また、金助の里に「堀尾跡公園」が出来、裁断橋が復元されている。
 
 
 
  補足   
 近年、歴史に埋もれていた多くの女性にも光があたり物語やドラマの中で様々な人間模様を演じてきています。  その多くは大名・有名武将の母・妻・娘であるが、無名に近い武者達の名もない母にも注目したいものである。
 
 
 



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