兼松又四郎正吉。 修理亮。 兼松清秀の子。
初陣は桶狭間の戦い。
下級の武士であったが功名をたて、徐々に知行を加増していった。
天正元年(1573)朝倉攻めで刀根山を攻撃した際のこと。
敵の首を持ち帰ったところ正吉が裸足であったので、信長は正吉の功名と意気込みを讃え足半を与えた。
足半は「あしなか」と読み、前半分だけの草鞋と思っていただければわかりやすい。
かかとの部分が無いのである。
実際、山を攻め登るときはかかとを使わないので、こういった足半を履くようである。
正吉は拝領した足半を家宝として残し、今でも伝えられているという。
石山本願寺攻めでは天満の森での戦いの際、毛利長秀と共に敵将・長末新七郎を突き伏せた。
長秀は正吉に首を取らせよとするが正吉は、これは長秀の功で自分は手伝っただけだと長秀に首を取るよう
に勧める。
そうこうしているうち混乱の中、機を失いどちらも首を取ることが出来なかった。
本能寺の変の後は羽柴秀吉、秀吉死後は徳川家康に仕えた。
松平忠吉の与力となり、忠吉の死後徳川義直の元、尾張藩士として仕えた。
墓所は平手政秀の菩提寺でもある政秀寺。
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