マイナー武将列伝・織田家中編 




 桑原甚内 
 くわはら じんない 
 生没年   ?〜1560   主君・所属   織田信長 
主な活躍の場  桶狭間の戦 
 
 
 武田信玄の重臣の一人原虎胤の三男。
 兄の原盛胤の命によって駿河に入り、臨済寺の雪斎和尚の弟子となる。
 雪斎和尚は太原雪斎と呼ばれ、今川義元の養育係であり今川義元の家督継承後も  懐刀として力を発揮していた人物である。
 桑原甚内は小僧として菩提寺に入り今川義元とも顔を会わせている。
 ところが今川家の近習七人と口論となることがあり、口論では収まらず下僕の弥蔵と共に 相手五人を殺してしまい逃げる身となった。
 尾張の落合村に隠れ住んだという。
 落合村は桶狭間の近く。現名古屋市緑区か豊明市あたり。
 
 さて桑原甚内には二つの説話がある。
 どちらも良質の文献の資料ではないので判断には困るが両方掲げてりる。
 
 永禄三年(1560)桶狭間の戦。
 ここまでは同じ。
 
 織田信長が出陣すると熱田神宮で信長を待ちかまえている者がいた。
 信長が訪ねると桑原甚内だと名乗る。
 そして甚内は自分の素性を語り、自分なら今川義元の顔を知っている。
 だから義元の首級を確実に捉えることが出来ると。
 
 信長は大いに喜び直ぐに甚内を召し抱え戦列に加えた。
 また、別に喜んだ者がいた。
 服部小平太毛利新介である。
 桑原甚内と行動を共にすれば自分にも今川義元を狙う機会がまわってくるのだと。
 
 そして信長の一軍は桶狭間で休息中の今川義元の陣を奇襲する。
 混乱に陥る今川義元の陣中で桑原甚内は義元を見つけることができた。
 すぐさま襲いかかるが今川義元の近習に阻まれ斬られてしまう。
 その隙に服部小平太が今川義元に斬りかかり一番槍をつけ、服部小平太が義元に斬られた直後、 毛利新介が今川義元を組み伏せ見事、首級を打取ったのである。
 服部小平太と新介は功名を得たが桑原甚内は戦死してしまっていた。
 
 また、『塩尻』という書には真偽の程は定かではないと注釈をつけながら次のように記している。
 あらかじめ尾張方に内通していた桑原甚内は今川義元の隊の近習達に近づいた。
 もとより近習達の中には菩提寺時代からの顔見知りも多く、それを利用したのである。
 些細な出来事で罪を犯し出奔したのであるが、自分の非と不義を詫び、改めて家臣として 仕えたい。
 宜しく取り繕ってはくれぬだろうか。
 等という様な話でもしたのだろうか。
 次第に今川義元に近づき、今川義元の側まで来ることができると突然襲いかかり刺した。
 近習達は慌てて甚内を斬り殺したが、既に今川義元の息は絶えていた。
 下僕の弥蔵は傷を負いながらもうまく逃げ延び甲州へ帰ができ、この話を伝えたという。
 
 さて後者の話は俄には信じがたい。
 それ故、殆どの文献にも取り上げられてはいない。
 甚内は桶狭間で戦死したのが事実で主を死なせてしまった弥蔵が話を作り上げて語ったと 見た方が真実に近いと思うのだけれども。
 

  補足 
 信長の家臣に桑原姓の武将が何人かいる。
 その内、尾張の出身であろう人物は家次、吉蔵・九蔵兄弟など。
 共に甚内との関係は不明。ただの同姓であろう。
 



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