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四郎。加賀守。
千秋季光の子、或いは弟。
熱田の宮、つまり熱田神宮の大宮司。
神官でありながら武士として信長に仕えた、戦国期ならではの人。
熱田の宮は尾張の豪族尾張氏が神職を務めてきた。
尾張氏は地方豪族でありながらも歴史の随所で名が記される家系でもある。
古くは日本建命(ヤマトタケル)神話でも登場する。
ヤマトタケルが熱田氏の娘宮簀姫(美夜受姫)を娶ると記紀に記されている。
ヤマトタケルは後に三種の神器の一つとなる草薙の剣を宮簀姫に預け伊吹山の大蛇退治に赴く。
そしてその際に亡くなってしまうのだが、魂は白鳥に姿を変え宮簀姫の元へやってくる白鳥神話が残る。
織田信長が桶狭間出陣の際、熱田の宮から白鳥が舞ったという逸話がある。
実話か後世の創作かは不明だけれども、熱田と白鳥にはこの様な繋がりがあるのが、いかにも創作らしいところだろう。
この尾張氏の裔、員職の娘、松御前を藤原季範が娶り熱田の大宮司職を得ることになる。
藤原季範の孫憲朝・信綱が千秋を称すと『尾張國誌』にある。
千秋氏の由来は三河国の領地にあると聞くが出典不明。
藤原季範は額田冠者とも呼ばれていた様で三河国額田郡に領地があった事は推察される。
千秋憲朝の子孫が本編の千秋季忠となる。
先に余談が続くが藤原季範と松御前の間には娘(由良御前?)も産まれている。
この由良御前は源義朝に正室として迎えられ誕生したのが源頼朝である。
(つまり尾張からは信長・秀吉の先に頼朝と、三人もの天下人を輩出した訳だ。)
さて。
千秋季忠の家系図で不明瞭な点がある。
『織田信長家臣人名辞典』によれば、父は季光。兄として季直が記されている。
陸軍参謀部『桶狭間の役』では季光は兄であり、天文十六年(1547)九月二十二日に織田信秀の稲葉山攻めに加わり討死と詳細が記されており、欄外に「熱田大宮司系図によれば季忠は季光の子とある」と注釈が付けられている。
兎も角、千秋季光の戦死により、季忠が跡を継いだ(或いは一旦兄季直の家督を経て)のだろう。
千秋季忠は知多半島南端の羽豆崎に城を構えていた。
羽豆崎城は羽豆城とも幡豆崎城とも呼ばれる。
地形的に海路の要所であり南北朝時代にも輸送路の要でもあったようだ。
それ故か海賊の多い地でもあり、千秋季忠の海賊懐柔の逸話が残る。
十万貫という大金を用意し、海賊の長に商談を持ちかける。
熱田の宮の復興の為、紀伊から木材を取り寄せたいと頼んだ。
日頃は荒くれた海賊ではあるが、熱田の宮は尾張の民の振興も篤く、その大宮司たっての依頼でもあり、商談としても悪い話ではない。
海賊は舟を全隻連ねて紀伊へ木材を求めに渡った。
手薄になったこの海賊の村に千秋季忠は密かに火を掛けたのである。
しかも、千秋季忠はそ知らぬ顔で消化にあたり、海賊の村に残った村人達を助け住まいを焼け出された民を労わった。
海賊達が紀伊から戻ってみると村は焼け、千秋季忠の計らいで民は生き延びたという。
災いの火種が千秋季忠自身だとは知らぬ海賊達は手厚い対応に感謝し、木材と運搬の代金十万貫も返してしまう。
さらに棲家を失い路頭に迷う海賊達に海から離れた場へ土地を与えてやった。
こうして羽豆崎の海から海賊は消え、熱田の宮復興用の木材もタダで手に入れたという。
これが実話であれば、千秋季忠。
神官としては、あるまじき行為ではあるが、領主としては途轍もない策士である。
桶狭間の戦では佐々政次と共に300の兵を率いて鳴海方面の今川方の先鋒隊を攻め討死。
この先鋒隊を攻める策は、佐々政次・千秋季忠の抜け駆けとみる説と、織田の奇襲本隊の動きを察知されない為の陽動作戦であるとみる説がある。
子は季信。
成人後、家督相続を認められ父同様、神官と信長の馬廻を掛け持ちする。
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