岐阜県人事委員会における
第6回公開口頭審理のあらまし
(1999年5月25日)

いよいよ本人尋問始まる!

 審理は冒頭に申立人側から証拠書証の追加提出を行い、これに続いて申立人側申請の本人尋問、すなわち私自身への尋問が行われました。最初に真実を述べる旨の宣誓を行った後、申立人代理人の水谷博昭弁護士による本人尋問へと進みました。尋問の概要は以下の通りですが、主尋問途中で時間切れとなり、次回に主尋問を継続することが決定。併せて反対尋問も行いたい意向が審理長より述べられ、この日の審理を終えました。(篠田通弘)

審理開始前の審理会場

水谷「岐阜地方裁判所に提出した甲38号証はあなたの記憶に忠実であるか。」
篠田「はい。」
水谷「甲3号証はあなたが作成したものか。」
篠田「はい。」
水谷「徳山に赴任して以来を編年式に書いたものだが、誤りはないか。」
篠田「はい。」
水谷「あなたが考古、埋蔵文化財の研究を始めたのはいつ頃か。」
篠田「中1から。」
水谷「それから研究を続けてきた。」
篠田「はい。」
水谷「岐阜大学出身か。」
篠田「はい。教育学部を卒業した。考古学の研究は地域の中で活用され、初めて意味を持つと思い研究を続けてきた。」
水谷「初めて赴任したのは昭和53年か。」
篠田「はい。」
水谷「甲3号証にあるように、赴任した時に「徳山村の歴史を語る会」が結成されているが、この会の活動に参加したか。」
篠田「はい。」
水谷「代表は根尾さんになっているが、根尾さんはどのような人か。」
篠田「根尾さんは徳山の本郷で青果業を営んでおられた。独学で考古学を勉強しておられた。」
水谷「あなたが会う前から独学で勉強おられた方。」
篠田「赴任してから2週間もたたない頃、根尾さんの噂を聞いて訪ねた。その直後に会を結成した。会を根尾さん方におくということで、代表をお願いした。」
水谷「会は何名だったのか。」
篠田「誰と誰が会員という制度をとっていなかったが、結成当時から一応中心となったのは4名であった。」
水谷「それで徳山の埋蔵文化財の調査を始め、5月に櫨原の試掘を実施した。」
篠田「はい。」
水谷「この年度中に遺跡を14か所発見したとあるが。」
篠田「はい。昭和51年に岐阜県教育委員会発行の『岐阜県遺跡地図』では徳山村の遺跡は2か所、内1か所は誤記であったから実質は1か所しか判明していなかった。その年の秋に水資源開発公団から第一次損失補償基準が提示された。公団の立ち入り調査後、水田等がどんどん耕作されなくなってきていたので、分布調査は困難になりつつあった。その前に慌て表採を行い、多くの遺跡を発見することとなった。」
水谷「ひたすら、地表を眺めて土器等を採集して、発見していったのか。」
篠田「はい。遺跡の存在が明らかでなかった櫨原で、家屋の拡張に先だって試掘を行い、その結果遺跡であることを確認したが、これ以外はすべて表面採集によるものである。」
水谷「昭和53年に発見した14か所の遺跡は、現在までにセンターが発掘調査を行っているものか。」
篠田「基本的には水没する遺跡は調査対象になっている。」
水谷「成果を学会に発表したか。」
篠田「はい。」
水谷「甲25号証。『古代文化』の発刊は(財)古代学協会となっているが。」
篠田「京都の古代学協会が発刊している学会誌である。当時では岐阜でこの雑誌に紹介されるのは少なかった。」
水谷「この書物にあなたが書いているのか。」
篠田「14か所の遺跡の概要を報告している。」
水谷「あなたがこの論文中で報告している遺跡で、県教委・センターが調査の対象としているのはどれか。」
篠田「ダム建設により水没する標高403m以下が調査対象となっている。いんべ遺跡は調査完了、報告書は未刊行。戸入村平、はいづめ、小の原の各遺跡は調査・報告書とも完了している。上原(小谷戸)遺跡は調査完了、報告書は未刊。宮ヶ原遺跡は調査途中、塚(塚村平)遺跡は調査完了、報告書も一応刊行された。櫨原村平、櫨原神向(櫨原上向い)、尾元の各遺跡は調査対象となっているが、まだ着手していない。上原遺跡は調査完了しているが、報告書は未刊。追分遺跡は調査、報告書とも完了している。本郷遺跡は調査対象であるが、着手していない。下開田村平遺跡は調査、報告書とも完了している。以上がこの論文執筆段階で確認し同論文に報告した遺跡のうち、水没線以下になっている遺跡である。」
水谷「昭和53年に14か所の遺跡を発見したことは水資源開発公団等に認められ、利用されたことはないか。」
篠田「昭和57年に電源開発株式会社・中部電力株式会社が行った『徳山発電所・杉原発電所環境影響調査書』の中の文化財の項に『古代文化』が引用され、報告したすべての遺跡が記載された。」
水谷「ダムで水没する前に調査しなければならないのか。」
篠田「この環境アセスメントは発電所建設に伴うものであり、ダム本体は水資源開発公団が建設を行うもので、直接ダム本体の建設による環境アセスメントではないが、「周知の遺跡」として認知されたと認識した。」
水谷「県教育委員会に利用されたことは。」
篠田「その後、『岐阜史学』に、また1984年に甲28号証である『徳山村のあけぼのを求めて』を自費で出版し、学会などで評価され、同年12月に県議会本会議においてこれを取り上げた質問が森真県議、現各務原市長によってなされた。これに対して当時県教育長であった吉田豊氏が答弁で、徳山の埋文調査に着手すると質問に答えている。」
水谷「甲28号証の例言によると、主として篠田が編集にあたったと記されているが。」
篠田「はい、その通りである。」
水谷「後にその著作物が、県教育委員会に評価されたか。」
篠田「はい。発行後、県教育委員会文化課にも持って行った経緯がある。」
水谷「県の徳山・杉原ダム分布調査報告書にも、あなたの成果が利用されているか。」
篠田「はい。」
水谷「どのような内容か。」
篠田「水資源から岐阜県が委託されて行った分布調査の報告書が刊行されている。昭和60年3月に出された甲35号証『揖斐川上流域徳山ダム・杉原ダム埋蔵文化財分布調査報告書』であるが、この1ページの吉田豊氏の序中に「昭和50年代に入って「徳山村の歴史を語る会」による遺物採集が続けられ、昭和59年8月には『徳山村のあけぼのを求めて』が刊行されました」とある。2ページにも同じことが書かれている。」
水谷「この中にはあなたが発見した遺跡も含まれているか。」
篠田「県議会本会議質問の前日に文化課職員から電話があった。県教委はこれまで地元の研究者に連絡をとってこなかったが、明日の答弁ではこれまで相談して分布調査を行ってきたというふうに答弁するので、もしマスコミから質問があったらその趣旨にあった返事をしてもらいたい、と連絡があった。私たちとしては県が前向きに取り組んでいただければそれでいいので、構わないと答えた。しかし、その後も連絡はなかった。県の分布調査報告書は私たちのそれまでの報告した遺跡をすべて網羅しているが、いんべ遺跡のみ遺跡の所在地を間違って県は報告している。それ以外は一致している。」
水谷「この冊子の主要文献の中にあなたが執筆した論文である、『古代文化』『岐阜史学』も紹介されているか。」
篠田「はい。」
水谷「吉田豊教育長が答弁の後、甲35号証が作成されたのか。」
篠田「1984年に『徳山村のあけぼのを求めて』を刊行し、同じ年に県議会の吉田氏の発言があり、翌3月に県の分布調査報告書が刊行されたという流れである。」
水谷「「徳山村の歴史を語る会」の調査に対して、県教育委員会が表彰した事実は。」
篠田「昭和60年3月に「岐阜県芸術文化特別奨励賞」を受賞した。」
水谷「「徳山村の歴史を語る会」の活動が考古学の専門誌で紹介されたことは。」
篠田「ある。例えば甲5号証。『考古学研究』は日本最大の会員を有する学会の学会誌であるが、この書評に「徳山村のあけぼのを求めて」が紹介された。」
水谷「115ページであるか。」
篠田「はい。膨大な数の報告書・論文・単行本が発表されているが、その中で『考古学研究』に掲載されることはまれなことである。」
水谷「岩波講座の『日本考古学』にも紹介されたか。」
篠田「はい。」
水谷「岩波の『日本考古学』とはどのようなものであるか。」
篠田「当時の考古学の粋を集めたもので、この中の別巻が日本の考古学研究の現状を総括している。このうち、各地域の研究の総括した部分で静岡の向坂鋼二先生が岐阜県の研究動向を紹介された中で取りあげられている。」

水谷「昭和62年に徳山村は廃村になり、徳山小も廃村になった。村として村の歴史を残す活動があったか。」
篠田「私は徳山村において合計55回にわたって広報『とくやま』に「遺跡の話」を連載していた。これを受けて、徳山村教育委員会は廃村前に全世帯に配布したいということで、村教委から依頼を受けて『大昔の徳山村』という本を執筆した。」
水谷「甲30号証、これが『大昔の徳山』という著作か。」
篠田「はい。」
水谷「この本はあなたが全体を作成しているか。」
篠田「原稿、図版、すべて私が作成した。」
水谷「村の歴史を残したいというのが、動機になっているか。」
篠田「はい。」
水谷「村の各戸に配布されたか。」
篠田「はい。各世帯に一冊ずつ配布された。」
水谷「学校でもそのようなことがあったか。」
篠田「はい。最後の年に私が編集を行った徳山小中学校廃校記念誌『徳山 伝芳の心永遠に』いう本である。」
水谷「甲35号証がそれか。」
篠田「はい。」
水谷「編集後記203ページに篠田氏らにお礼をのべた一文がある。」
篠田「はい。」
水谷「申立人は廃村間際に歴史を後世に残す活動を行っていたが、今日提出した甲42号証の「『広報とくやま』を合本として各戸に配ったもので、全体をコピーするのは大変なので、目次のみをコピーした。最初に始まったのはいつか。」
篠田「昭和55年からである。「遺跡の話」として連載している。」
水谷「一番最後が昭和61年6月。」
篠田「はい。」
水谷「あなたが長期にわたって埋蔵文化財の連載をした動機はなにか。」
篠田「徳山村は自然と豊かな文化に育まれたことを子どもたちに残していきたい、村の皆さんに知っていただきたいというのが動機だった。」
水谷「藤橋中には62年4月に赴任したか。」
篠田「はい。」
水谷「「徳山村の自然と文化と歴史を語る集い」とは。」
篠田「徳山は自然や歴史、文化の面で極めて重要な地域である。我が国の方言が揖斐川を境にして分かれるという説は特に有名であるが、それにとどまらず徳山は日本の東西南北の接点として重要な地域であった。それまで全国から徳山村に調査に来ておられた各分野の研究者に案内を出して、集まっていただいた発表の場がこの集いである。昭和58年8月から61年までの4年間は徳山で、以後は場所を藤橋村、久瀬村に移して「揖斐谷の自然歴史と文化を語る集い(揖斐谷ミニ学会)」へと発展させて、計14年間にわたって開催した。」
水谷「事務局は。」
篠田「裏方の皆さんの力を借りながら、私一人で行った。」
水谷「成果は。」
篠田「第1、2回は報告集を本にした。以後はレジュメ集を記録集として残している。」
水谷「地元の自治体の態度は。」
篠田「徳山村で開催していた当時は廃村が迫っていたので、村としても余裕が無かったと思う。藤橋村に移ってからは村長、村教委らの大きなバックアップがあった。」
水谷「吉田豊氏の発言は『美濃徳山村通信』に記載されているが。」
篠田「はい。」 
水谷「『美濃徳山村通信』もミニ学会が出したものか。」
篠田「はい。」
水谷「ミニ学会の活動が表彰を受けた事実はあるか。」
篠田「はい。平成5年11月25日にIB(アイビー)大賞を受けた。」
水谷「このIB大賞とは。」
篠田「イビの略で、町村の中での活動を表したもの。会長は揖斐郡町村長会長であった。」
水谷「甲8号証は平成元年に村長の名で表彰状が出ている。内容は。」
篠田「徳山廃村後、藤橋中学校へ異動したが、私の藤橋村における活動やミニ学会の活動に対して、村長から表彰を受けた。」
水谷「第9号証、県教育委員会表彰の内容は。」
篠田「へき地教育に10年以上従事した者に対して行われる。」
水谷「徳山の広報に埋文の記事を書いたが、藤橋の広報にも連載をしたか。」
篠田「はい。」
水谷「1983年10月から平成4年10、11月合併号まで40回にわたって連載している。」
篠田「はい。」
水谷「あなたは学芸員の資格を、藤橋中学校在職中に取っているか。」
篠田「藤橋中在職中に取得した。」
水谷「どのようにして取得したか。」
篠田「博物館学芸員資格認定試験で取得した。」
水谷「岐阜県小中学校の教員で持っているのは。」
篠田「岐阜大には博物館学芸員の資格を取得する講座がない。それ以外で取得しなければならないので、持っている者は少ない。」
水谷「センターで平成5年に持っていた者は。」
篠田「3分の1以下だったと認識している。」
水谷「平成5年に文化課からセンターに出向を命ぜられた経緯は。」
篠田「事務局登用試験が2月の終わりにあることを学校長から連絡され、その日のうちに西濃教育事務所でレクチャーがあった。その翌日試験が行われ、3月下旬に文化課異動の内示があった。。」
水谷「センター出向ということはわかっていたか。」
篠田「学校長から聞いていたのは指導主事として登用される、ということであった。私は文化財保護センターへの派遣ではないかと学校長に聞いたが、それはないだろうとの返事であった。しかし、試験当日に両脇に試験を受けに来た人はセンターに派遣されるということをあらかじめ聞いて試験を受けに来ていた。現にその通りであった。」
水谷「センターでは調査課課長補佐になったか。」
篠田「はい。」
水谷「センターで行った仕事は。」
篠田「徳山水没地区内の徳山ダム水没に伴う遺跡の調査である。」
水谷「発掘調査を担当したのは。」
篠田「寺屋敷遺跡である。」
水谷「寺屋敷遺跡が発見されたのは。」
篠田「「寺屋敷」という地名伝承地があった。徳山村在村当時は調査できなかったが、平成元年に「揖斐谷ミニ学会」で略測調査を行った結果、人為的な痕跡を認め、会から藤橋村教委を経由して県教育委員会に遺跡発見届を出した。」
水谷「センター調査員として、何年度にわたって寺屋敷を担当したのか。」
篠田「基本的には平成5、6、7年度である。平成5年度は上開田村平遺跡の残務調査を行った後の8月に寺屋敷遺跡に入ったが、その他の年は5月から11月まで現場で発掘調査を実施した。」
水谷「終わったのは。」
篠田「平成7年の11月。平成8年の春に若干残務を行った。」
水谷「調査員は。」
篠田「私一人である。」
水谷「最初から最後までそうか。」
篠田「私一人が担当した。」
水谷「平成5年の段階で寺屋敷の重要性は。」
篠田「当初は課長から、どうせ何もでないだろうから、1か月くらいで終わると指示された。」
水谷「予算は。」
篠田「予算化はされてはいたが、プレハブ、カメラ、測量などの器材は何もなかった。」
水谷「徳山は冬は調査はできないのか。」
篠田「11月いっぱいで現場の調査を終える。12月から4月までは積雪のため休んで毎年連休明けから始まるのが常だった。」
水谷「平成5、6年の冬は何をしたのか。」
篠田「それまでに発掘調査は終了している遺跡で、遺物整理が終わっていない普賢寺跡・長吉遺跡の整理作業と報告書の作成を行った。」
水谷「その報告書が完成したのは。」
篠田「平成7年3月。」
水谷「報告書中の例言7に編集したのは篠田とあるが。」
篠田「はい、そうである。」
水谷「この報告書の大半を執筆したか。」
篠田「はい。」
水谷「甲32号証の刊行に平成5〜6年の冬に従事したのか。」
篠田「はい。」
水谷「7年夏に寺屋敷遺跡、7年の冬は。」
篠田「平成2年、3年に発掘調査を終了しながら遺物整理が全く進んでいなかった塚遺跡の整理と報告書の作成業務に、揖斐川整理所で従事した。」

水谷「塚遺跡の特徴は。」
篠田「遺跡は大量の土砂をかぶっており、わずか1300uで約7万点の遺物が出土していた。」
水谷「長吉遺跡は。」
篠田「1600点ほどの出土だった。」
水谷「一ケタ違う。膨大な遺物だ。」
篠田「はい。」
水谷「考古学上の特徴は。」
篠田「縄文中期後葉〜後期前半の集落跡で、西日本には例が少ないものだ。東西日本や北陸の土器が大量に出土した。」
水谷「平成2〜3年に発掘調査を担当したのは。」
篠田「センターの調査員2名である。」
水谷「塚遺跡の発掘中に考古学上重要な遺跡であるという問題認識はあったか。」
篠田「担当者は気が付いていなかったのではないか、と考えられる。遺物出土状態の実測図、写真が数枚しかとられていなかった。」
水谷「発掘のやり方として少ない図や写真しかの残さないのは正常か。」
篠田「考えられないことだ。平成3年はセンターが設立された年であったため、強行軍で現場調査を行わざるをえなかったのではないか。」
水谷「寺屋敷を発掘した時の図面はどれぐらい残したか。」
篠田「3年間で250枚以上。」
水谷「写真は。」
篠田「予算の許す限り撮った。」
水谷「寺屋敷と塚の調査方法を対比した場合、塚の整理、報告書作成を行う際にどのような影響があったか。」
篠田「学術的な検討を加える上では、致命的といわざるをえない。」
水谷「塚遺跡の遺物整理は申立人がこれに従事する前はどうなっていたか。」
篠田「2年間くらい整理が行われていたが、基本的には殆ど手つかずというのが実態だった。」
水谷「塚の報告書作成にはいつからいつまで携わったか。正規の時間を越えて従事することもあったか。」
篠田「平成7年12月から本格的に従事し、平成9年3月まで行った。」
水谷「甲23号証。整理、報告書の作成のために使った時間を書き込んだものだが、なぜこのようなものを書いたか。」
篠田「整理所の勤務の記録を入り口においていた。そのメモを記したもの。」
水谷「1月1日も仕事をしている。」
篠田「調査部の次長、課長から寺屋敷遺跡の整理作業に平成8年度中に着手したいので、12月中に塚遺跡報告書を作成してほしいという要望があった。困難であることは当初から伝えていたが、できないといってすますわけにはいかないので、自分ができる限りのことをした。」
水谷「いつ完成するはずだったのか。」
篠田「当初は平成8年12月までと命じられていた。」
水谷「平成9年4月1日付けで解職されたが、平成9年3月末の段階で塚遺跡報告書作成作業は終わっていなかったか。」
篠田「はい。」
水谷「引き続き、その作業を行っていたら、いつ頃できたのか。」
篠田「図版の半分は終わっていた。後3か月あればいけると思っていた。」
水谷「実際に配布されたのは甲40号証、1998年3月31日と奥書にあるが、実際に届けられたのは。」
篠田「1998年11月初め。」
水谷「なぜ、遅れたのか。」
篠田「塚遺跡の遺物は難しい時期で、量が多く、調査段階での不備もあり、困難な作業だった。引継の時に残りを勤務時間外で仕事を完成させたいと申し出た。一度は了承されたが、4月12日の早朝に次長から電話があり、前言を撤回し、関わることを認めないという通告があった。その旨を文章で出してもらいたいと要望したが、文書は出されなかった。最低限、分類の見直しのためあと1日半ほど行いたいと申し出たが、調査員が超過勤務してつきあうことはできないということだった。それでは夏休みにさせてもらいたいと申し出たが、6月に出版する予定であるとのことで断られた。」
水谷「武山氏はあなたの引継が不十分で報告書が遅れたとあったが。」
篠田「4月12日になって次長から電話連絡があり、その後すべて返却している。」
水谷「できあがった報告書の感想は。」
篠田「分析に相当する結語が欠落している。遺物のほとんどをしめる縄文土器については、私に連絡がないまま私が残したメモ書きがそのまま転載され、自分が筆頭編著者として扱われていて、驚いている。」
水谷「報告書の仕様書があり、結語を書かなければならないが、結語とは何か。」
篠田「遺物、遺跡、調査の総括。外すことのできないものと考えられる。」
水谷「塚の報告書に結語に当たるものはあるか。」
篠田「ない。」
水谷「例言に事実のみの記載にとどめたとあるが。」
篠田「縄文中〜後期の集落であるという記述もない。」
水谷「学問的評価はどうか。」
篠田「悲しい思いである。水没する遺跡がきちんと評価されることもなく片づけられてしまい、残念としかいいようがない。」

(正式な速記録が届いていないため、傍聴席からのメモ書きをまとめたものであることをお断りします・・・・M・K)

篠田通弘本人尋問傍聴記
「大河小説」が始まった
桐生正市

審理終了後の報告会にて
(左が申立人、右が水谷博昭弁護士)

 篠田氏側は意図していないかもしれないが、財団法人岐阜県文化財保護センター(以下、センター)側の主張に対して、長編の大河小説をぶつけた感じがする。小説でいえば、短編とデュマの『モンテ・クリスト伯』ほどの違いだろうか。しかも中身もおもしろい。いや、おもしろいといったら不謹慎だろう。これは、ダムに沈む村の歴史を地域の人たちと解明した男の物語である。センター側や支援者だけではなく、むしろ徳山ダムをつくろうとしている人たちが聞かなければならない壮大なストーリーだ。

設立されたセンターに真摯な姿勢はあったのか

 この尋問は、篠田氏が徳山村の遺跡発掘をするまでの経緯とその遺跡の重要性、考古学における徳山の重要性、そして設立直後のセンターがいかに調査をやる気がなかったかを明らかにした。
 証言で篠田氏は、いにしえの徳山は西と東の接点で、そこを明らかにしないと西も東もわからないほどの特異なところという。塚遺跡では約7万点の遺物が発見され、その中から、東・西・北陸からの土器が見つかっている。縄文土器は、西と東では年代のモノサシが一致しない。これは考古学上の謎とされている。だが、その接点になる徳山での研究によっては、謎が解けるかもしれない。
 これほど重要なところならば、しっかりとした発掘調査が必要になる。そこで、文化財保護センターに真摯な調査姿勢があったのかが問題になってくる。
 たとえば、7万点もの膨大な遺物が出土した塚遺跡では、土器の出土の写真は数枚しかなかった。遺物の出土状態を示す図面はたった1枚だけだった。これについて、報告書作成作業の調査途中から担当になった篠田氏は「ほとんど致命的」という。
 篠田氏が担当した寺屋敷遺跡はどうだったか。ここでは、3年間の調査で図面が250から300枚、写真は予算の許す限り何千枚も撮られている。しかし、その調査は容易なものではなかったようだ。初年度現場にはプレハブもトイレもない。それどころか、測量器材もカメラもない。ないないづくしの状態で、ただ1人の担当者の篠田氏が自分の器材を持って行き調査をしたのである。
 これだけを見ても、どちらに真摯な調査姿勢があるか明白だろう。

まともな調査など期待できない

 これまで、センター側は、寺屋敷遺跡の報告書をまとめるのに、篠田氏がいなくても支障がないと準備書面で主張している。県教育委員会の武山文化課長は、前回の尋問で塚遺跡の報告書に「結語」がないことは、前任者からの引継ぎがうまくいかなかったからだと述べた。
 これらが正しいなら、なおさら寺屋敷遺跡の調査はおぼつかない。塚遺跡の報告書担当者は篠田氏だからである。引き渡しをうまくやらなくて、欠陥報告書の原因をつくった〃前科〃がある人物が、寺屋敷遺跡の担当を引継ぎができるだろか。これで、まともな報告書が作成できるのだろうか。担当者を代えるより、そのまま報告書作成まで継続させた方が無難ではないか。それとも、寺屋敷遺跡の引き渡しはしっかりできるという確証があるのか。
 篠田氏の名誉のためにいっておくが、センターから池田小学校へ異動させられるにあたって、塚遺跡の資料は全てセンターに返還されている。だから、欠陥報告書の原因は篠田氏ではなく、センター側にある。
 それにしても、この審理は本当におもしろい。考古学という未知の分野が、この公開審理を通して勉強できる。ここで審理を打ち切ってしまうのではなく、さらに証人をよんで、人事委員の方々も一緒に勉強するのはどうだろう。せっかくのいい機会を無駄にするのは惜しい。