岐阜県人事委員会における
第7回公開口頭審理のあらまし
(1999年8月5日)
審理長、証人尋問打ち切りを通告!
8月5日、7回目を迎えた公開口頭審理は岐阜県シンクタンク庁舎5階大会議室で行われました。前回に引き続いての、私自身への尋問です。
真夏の太陽が容赦なく照りつけるこの日、32人にも及ぶ多数の皆さんが傍聴に駆けつけてくださいました。
尋問に先立って、申立人側から『飛騨美濃合併120周年記念事業 ひだみの文化の系譜』(1999年3月岐阜県発行)を追加書証として提出しました。申立人が調査担当者として発掘調査に当たった寺屋敷遺跡について、前々回に証人として証言した武山県教委文化課長(当時)は、「重要な遺跡であるという話をした覚えはない」と証言しています。それに対して同書の「第2章濃飛文化の夜明け」中の「寺屋敷遺跡」の項では、「寺屋敷遺跡では、鹿児島県で爆発した火山灰が、時間の尺度として使われ関心を集めた」「これは、旧徳山村での人々の生活のはじまりを示すものであり、同時に旧石器の編年研究上でも貴重な発見と言える。」との記述があり、岐阜県自身が発行した本書で貴重な遺跡であったことを認めていることを立証するものです。文化課長の証言が記憶違いによるものでないとすれば、岐阜県の文化財行政の重責を担う立場としての証言内容には首を傾げざるを得ません。
前回は「証人尋問」として宣誓を行った後に証言したものの、今回は冒頭に「証人尋問」ではなく本人尋問であり、宣誓は前回に遡って撤回する旨の通知がなされました。すでに証人尋問は終えているということなのかと、疑問を持ちながらも証言席へ。2時間以上の、前回と合わせると5時間近くに及ぶ証言を行いました。処分者側反対尋問は「報告書に学術的な検討・記述は必要ない」ことを、「であるから報告書は調査担当者でなくても作成は容易である」ことを強調するものであることが明らかで、証言しながら腹が立つやら、何と言っていいやら。加えて今回の解職・異動処分によって@金銭的な不利益が生じているかどうか、A通勤できない異動先であるかどうか、の2点に反対尋問が集中したといえます。これまで多くの書証を提出し、証言してきたことと全くかみ合わない尋問に、審理誘導の姿勢、すなわち申立人に経済的な不利益が生じたかどうかだけに限定して審理せよという姿勢がありありと伺えるものです。
水谷弁護士がまだ他にも申請証人が残っているので考慮願いたい旨を申し述べた後、暫時休憩。再開冒頭審理長は証人尋問打ち切りを宣言し、次回に申立人・処分者双方に最終意見陳述を求める旨を通知。ここに次回で公開口頭審理が終了することが確定しました。
以下は傍聴席からの桐生正市氏の審理メモと、守川久美氏からお寄せいただいた傍聴記です。
(篠田通弘)
(審理開始前の会場風景)
主尋問・・・・申立人代理人 水谷博昭弁護士
反対尋問・・処分者代理人 大塩量明弁護士
審理長・・・・県人事委員長 南谷信子弁護士
主尋問
水谷 前回の尋問の最後の部分で塚遺跡について本人が詳しく証言をした。そこては「塚遺跡の発掘はやってないが、報告書作成に携わって、調査段階での写真や図面が極めて少なくて困難だった。異動後できあがった報告書では「結語」が抜けていて、十分とは言い難い。」と証言した。発掘から報告書へのプロセスの問題だが、それは調査員の個人的の資質の問題なのか。センター側の調査体制の問題なのか。
篠田 塚遺跡の発掘は平成2年、3年に行われた。2年は県教育委員会事務局文化課が、3年は設立されたばかりの財団法人・岐阜県文化財保護センターが行った。この遺跡は、約1600平方メートルの狭いところから、約7万点もの遺物が発掘されている。東西の縄文土器のものさしの違いを解決する糸口になる。ところが、学術的な検討に耐えうる調査ではなかった。当時の職員などから聞くと、平成3年に塚遺跡、長吉遺跡、普賢寺跡の発掘を12月までに完了という厳しい日程で、学術的な検討はできないまま現場を移り、遺物を掘り出すだけとなっていたという。塚が終われば、長吉へ、それが終われば普賢寺へと、強行軍な日程を組まれたという。センターの設立時に、設立初年度から計画が狂うことがあってはならない、何が中でも期間内に調査を終われと命令されていたとも聞いている。これは調査員個人の資質の問題ではなく、遺跡のあり方を無視して決められた期間と予算内で終わらせることを最大の目標としていた設立当時のセンターの調査体制に問題があった、と考える。
水谷 寺屋敷遺跡について尋問する。本遺跡は揖斐谷ミニ学会の活動の中で平成元年に発見された。この発掘作業を始めたのはいつか。
篠田 センターに派遣となったのが平成5年で、当初は前年度の残務調査に従事していたため、寺屋敷遺跡の発掘調査を始めたのは7月から8月になってからである。
水谷 センターはどれぐらいの時間と費用をかけるつもりだったか。
篠田 この年のセンターの徳山ダム関係の遺跡調査体制はAとBの2つの班に分かれていた。その片方の班が山手宮前遺跡と寺屋敷遺跡の発掘を担当していた。私が発掘に着手した8月には、山手宮前遺跡の調査班を割いて寺屋敷遺跡の調査に取りかかった。「何も出ないだろうから、1か月ぐらいで調査を終わって山手宮前遺跡の調査に合流してほしい。」と言われていた。
水谷 寺屋敷遺跡からどういう事実が発見されたか。
篠田 揖斐谷ミニ学会で略測調査を行ったときは、うっそうと木が茂っていてわからなかった。しかし、山の尾根が切り開かれて平らになって、川原石が出ていること、寺屋敷という地名から、遺跡と判断した根拠が正しいことがわかった。調査を始めて、辺りの木を伐採して地表面を出したら、斜面が人為的に切り開かれ平らになっていた。4メートルのグリッドをつくり地区の設定をして、上から少しずつ表土を剥いでいったところ、最初から驚くべき発見があった。平安時代の灰釉陶器が出土してきた。これは我が国で初めて釉薬を塗り、焼いた陶器である。それまでは、徳山村には縄文時代に人が住んでいたが、それ以降人が住むようになったのは戦国時代になってからだといわれていた。だがこの発見では、平安時代に無人だったとは言えない。たいへん驚いた。
水谷 他に平安時代のものは。
篠田 さらに発掘を進め、表土から第U層へ。平成元年の略測の時に確認した川原石が礎石の一部になっていたことがわかった。その上に柱が立っていた、礎石建物跡が発掘された。
水谷 それはどのようなものであるのか。
篠田 平成5年の調査までは、徳山村で見つかった住居跡は掘立柱を持つものばかりで、礎石のある建物は初めてだった。礎石を持つ建物は柱を土中にささないので、大形でないと風で飛ばされる。掘立柱建物以上の大きな構造を持った建物があったと考えられる。この年には間口3間、奥行き3間の礎石が並んだ跡が発見された。中からは、焼けた釘が北東の方向に散らばっていた。建物が焼け落ちてそのまま放置されたと考えられる。愛知工業大学で古建築を研究しておられる岡野清先生に見ていただいたら、仏堂跡である可能性があるという見解を得た。
水谷 寺屋敷と地元の人に呼ばれていたことを合致するか。
篠田 はい。倒壊後に仏堂が再建されたとは考えられない。建っていたのは古く見ても9世紀末から10世紀にかけてのかなり限られた期間で、100年と建っていなかっただろう。その後、1000年あまり再建されなかったが、徳山村山手の人は1000年近く寺屋敷、観音屋敷と呼んできた。その言い伝えが証明されたことになる。
水谷 さらに発掘していったか。
篠田 礎石建物跡を検出した遺構面のさらに下にも縄文時代の遺構面があることがわかった。次から次へと土が積み重なり、その下に埋没している可能性が考えられた。それが平成5年の調査でわかってきた。
水谷 そして実際に縄文時代の遺跡が出てきた。
篠田 平安時代の遺跡の調査の過程で縄文時代の遺跡が見つかり、さらに山の方の斜面から石器が出てきた。尾根の上部からは約7000年前の縄文土器が出土していたが、層位的にその下の層から石器が多量に出土した。非常に驚いた。
水谷 それが旧石器時代のものか。
篠田 縄文時代早期の土器が出土した層よりもさらに下層ということで、旧石器時代の可能性が考えられた。実際に出土した石器にナイフ形石器が含まれていた。それを見たとき、手も足も震えるぐらい驚いた。
水谷 いつのものか。
篠田 その当時は約1万2000年から2300年前が縄文時代と考えられてきたが、『徳山村のあけぼのを求めて』には、それ以前の1万2000年より前の時代に人が住んでいた可能性があると書き、資料を紹介した。しかし、当時それは信じてもらえなかった。当時の学界の定説では、徳山のような山の奥に人が住み始めたのは約1万2000年前以降の縄文時代になってから、とされていた。だから、徳山村に住み始めたのは縄文時代になってからだろうと言われていた。だが、寺屋敷遺跡の発見で日本の考古学の定説を覆すことになる。非常に驚いた。
水谷 重要であることが平成5年の調査でわかったが、センターの方針は検討されたか。
篠田 寺屋敷遺跡が岐阜最古の遺跡である可能性があるので、検討をした上で所内会議に報告した。
水谷 当時のセンターの吉田理事長はどうだったか。
篠田 所内会議の前に、理事長に見てもらったところ、理事長は非常に喜んだ。「本当にいいことだ。うれしい」と。所内会議の冒頭にも、「徳山で極めて重要な発見があった。さらに努力してもらいたい」と言われた。
水谷 それはいつか。
篠田 平成5年の10月。
水谷 センターの事務方はどういう感想を持っていたか。
篠田 簡単に調査を終われなくなり、とりあえず11月まで継続することになった。さらに11月には現地説明会があり、それに先だって記者発表が予定されていた。しかし、センター専務理事兼事務局長に呼ばれて、こういわれた。
「篠田さん、あんたはいらんことをしてくれた。たいへん弱ったことをしてくれた。」
「こんな貴重なものを見つけてしまって、徳山ダムの建設に支障が出たらどう責任をとるんだ。職員の給料は水資源開発公団など起業者から出ている。その公団がこの予算で、この期間で調査をやれと言っているのに、どうするんだ。」
このようにかなり強い口調で言われ、記者発表を中止できないか、調査を打ち切れないかとも言われた。私は、命令なら中止するが、各地の研究者は寺屋敷遺跡から旧石器が出土したことを知っている。このことが知られたらたいへんな大ごとになる、と言うと専務理事は考えて「それなら仕方ない」と発表を認めた。
水谷 寺屋敷遺跡が重要なものであることを水資源開発公団側に伝えたか。
篠田 担当窓口と連絡を取って成果については常に伝えてきた。
水谷 調査期間は延長されたか。
篠田 公団は深い認識を示した。調査期間は翌年も延長された。
水谷 平成6年はどうだったか。
篠田 平成6年5月から11月いっぱいまで調査が継続された。
水谷 平成6年度の主な成果は何か。
篠田 前年度の調査で、3つの時代の遺跡が複合していることがわかっていた。前年度に検出した平安時代の遺構面を継続して掘ると、3間×3間の礎石建物跡の規模がさらに奥に広がることがわかった。最終的には3間×4間の大きな規模となることがわかった。礎石を取り除いて、その下層へ掘削を進めると、建物の真下から直径約4メートルの竪穴住居跡がすっぽり埋没していることがわかった。
水谷 徳山村でそのようなことがあったのか。
篠田 山の尾根で縄文時代の竪穴住居跡が見つかるのは初めてのこと。たいへん驚いた。
水谷 同じ場所から姶良火山灰が出たのか。
篠田 それで縄文時代の住居跡があることがわかったが、その下層には旧石器時代の石器を製作していた跡も確認された。しかし、出土した地点は縄文時代竪穴住居跡よりも尾根にそってやや登った所。つまり、当時は山の尾根ではなく、もう少し平らではなかったかと考えられた。現在は山の尾根の地表面から深いところに埋没している。旧石器製作跡は地表下2メートル50センチという、考えていたよりも非常に深く埋没していた。この地点は川の近くに発達し、その後埋没した河岸段丘であると考えられた。石器が出土した地層を5センチ間隔でサンプリングし、科学分析をした。石器が出土した第[層、その上のZ層を それぞれ上からa、b、c、dと分層した。第Za層から多量に火山ガラスが出てきた。分析の結果、それは約2万2000年から2万3000年前に九州の姶良カルデラが大噴火して降ったものであることがわかった。これが第Za層から発見されたことで、その下から出た石器の時代を確定する決め手になった。
水谷 その段階で火山灰の下から出てきたのか。
篠田 県内のこの他の遺跡では旧石器が出土したところで姶良火山灰が確認されていても、その多くは土が混ざり込んでいて、火山灰との上下関係が確認できず、出土した石器がいつのものか地層だけではわかりにくい。しかし、寺屋敷遺跡は火山灰にパックされていたため、姶良カルデラの噴火の前に作られた石器であるという目安になる。岐阜県にとどまらず、中部地方を代表する遺跡と考えられた。
水谷 平成6年11月までに調査は完了したか。
篠田 旧石器の層位が非常に深いため、斜面の上から人力で掘削することが困難になってきた。翌年度重機を使って土砂を除去し調査を継続する必要があった。
水谷 平成7年度は。
篠田 7年度は5月から11月に入ってまで調査を行った。バックホーが尾根に上がる重機道をつくって、土を取り除いて調査した。
水谷 7年度の成果は。
篠田 直径約5メートルに3000点を超す石器、剥片、砕片が検出された。基になった石核も散乱していることが明らかになった。実に生々しく残っていた。石材は地元のチャートが主だったがサヌカイトも含まれていた。肉眼では大阪と奈良の境にある二条山で産出するものと考えられた。その段階から、近畿地方と交流があったことがわかってきた。かなり大きなサヌカイトの原石が持ち込まれ、ここで石器がつくられていた。
水谷 公団は寺屋敷遺跡が学術的に重要であることについて対外的に宣伝したか。
篠田 非常に前向きに取り組んでいただいたと認識している。寺屋敷遺跡の写真を用いたパンフを作成した。約2万年前の少年がタイムスリップして現代に登場し、徳山ダムの内容を説明するという内容だった。さらにさまざまなPRをした。キャラクターの名前を公募して、石丸くんと徳丸くんと決まり、シールにして各小学校等に配布された。公団内の研修としても寺屋敷遺跡を訪れるなどの対応をした。
水谷 最後の年になって、公団の川本総裁がお忍びできたか。
篠田 平成7年10月24日火曜日。前日電話があって、東京からお忍びでお客さんがあるとの連絡だった。寺屋敷遺跡の説明をしてほしいと。どなたですかと尋ねると、ちょっと聞かないでほしいと言われた。
「県、センターへの連絡は。」
と聞くと、
「公表できないので、報告しないでほしい。」
とのことだった。当日は雨が降っていたので補助調査員と2人でプレハブ内で説明をした。マイクロバスで来て、その後ろに黒塗りのクルマがついてきた。用地課長、徳山ダム建設所長、公団中部支社長が乗っていた。ヘルメットをかぶった人に見覚えがあった。以前、東京で国土庁主催の「水の作文コンクール」の作文コンクールがあって、中学校教員当時に指導した生徒が最優秀賞を受賞したことがあった。その受賞式が都庁で行われ、生徒、保護者、県水資源課担当者と共に出席した。その後の受賞パーティーでお会いしたことがある。その人が、川本正知水資源開発公団総裁であった。
大塩 端的に言ってくれんかな。
篠田 総裁は、あ、あのときの先生でしたか、と覚えていてくれた。
水谷 何か話しをしたか。
篠田 プレハブで寺屋敷遺跡の説明をした。総裁は非常に熱心に質問をされた。総裁は、「今年度で終わると聞いているが大丈夫ですか。もし十分でないと来年度も延長できるよう、最大限努力します。ダムで水没すると二度と調査できなくなるので、できる限りの努力をしていただきたい。」
と言われた。
水谷 平成7年に調査は終わった。
篠田 一部分、平成8年度の5月に残務を行ったが。
水谷 寺屋敷遺跡の考古学的価値について、どういう評価になっているか。
篠田 正式には報告書が出され、その後に各方面で検討が進められて初めて評価がされる。現場段階だけでは十分でない。整理作業、報告書作成業務の中でさらに検討を進めなければならない。
水谷 報告書はまだ出ていないか。
篠田 まだ出ていないと思う。少なくとも私の所には送られてきていない。
水谷 報告書が出た段階で評価が定まるということか。
篠田 報告書作成のための整理作業は重要な調査過程である。
水谷 平成7年の秋に調査が終わって、通常は冬から報告書をまとめる作業となるが、その年の12月から塚遺跡の報告書作成作業があった。平成7年12月から、8年の1年間、9年の3月までかかった。これはピンチヒッターとしてやったのか。
篠田 当時、発掘調査を担当した職員はすでにセンターを離れていたから、誰かがやらねばということだった。
水谷 あなた一人が担当したのか。
篠田 はい。
水谷 寺屋敷遺跡もあなたがやるのか。
篠田 そうなると理解していたし、そうなるのが自然だと思っていた。
水谷 平成9年度はどうだったか。
篠田 あと3か月あれば、塚遺跡の報告書は何とかなると思っていたので、そのあと寺屋敷遺跡にとりかかれると考えていた。
水谷 平成9年度以降もセンターで寺屋敷の担当になると思っていたか。
篠田 はい。
水谷 希望調査がされたか。
篠田 平成9年度の用紙は平成8年の秋に配られた。学校に戻る意思の有無、戻るとすればどこに戻りたいかなどが書かれていた。
水谷 甲22号証。平成9年3月に作成された。寺屋敷遺跡・磯谷口遺跡の整理調査を希望している。これはどういう遺跡か。
篠田 寺屋敷遺跡のすぐ目の前にある遺跡で、かつて発掘がされた。平安時代の遺跡で集落があったと考えられ、その背後の寺屋敷に寺がありセットになっている遺跡である。
水谷 ところが、希望に反して池田小へ。そのことを告げられたのはいつか。
篠田 3月26日午後5時15分、篠田幸男理事長から電話があり、そう告げられた。
水谷 理由は聞いたか。
篠田 異動に納得がいかない理由として3点を述べた。来年度に寺屋敷遺跡の報告書をまとめる予定となっている。私がただ一人の調査員として発掘調査を実施した遺跡であり、異動によってその責任を果たせなくなること。これが第1点。第2点として、来年度の職員は増員する予定となっている。減少するということであれば、誰かがセンターをでなければならないが、私が出ることによってより多くの職員を入れなければならないことになる。それにまだ私は在職期間が4年しか経っていない。他に5年、6年、そして7年目を迎える職員もいるのに、なぜ私が異動しなければならないのか。これが第2点。第3点として寺屋敷遺跡の報告書作成に当たって、篠田の力量に疑問があり任せられないということであるならば、理由としては成り立たないわけではない。しかし、県教委が埋蔵文化財専門員を募集した要項のうち、年齢に関する条項以外はすべて該当していると理解している。したがって、3点目についても納得がいかない。
水谷 何かセンター側は理由を言った。
篠田 理事長は無言だった。ただ一言、あれ、寺屋敷は終わったんじゃないか、と言っていた。
水谷 平成9年4月1日の人事は、組合結成と関連があると推察しているか。
篠田 はい。
水谷 甲14号証の1。1995年3月27日、センター従業員の組合結成通知書に、支部長に長坂薫さんとある。これはあなたの奥さんか。
篠田 はい。
水谷 組合結成の背景に、労働条件の問題があったのか。
篠田 そう考えている。
水谷 センターの幹部は、結成されたことにあなたが関わっていると思っているか。
篠田 私がセンターに派遣となってすぐに作業員の雇用の実態が有給休暇がないなど労働基準法に違反している、労働安全衛生法や社会保健法などにも違反していることに気づいた。私は、センター所内会議でもセンターは不法状態にあって、このままではまずいことになると発言してきた。県の日々雇用職員の勤務並びに労働条件に関する要項に定められている賃金も支払われていないなどの実態があり、是正する必要が必要があると発言してきた。
水谷 センター側からどう言われたか。
篠田 当時の専務理事からは、
「違法状態であることは承知しているが、岐阜県には50余りの財団法人等外郭団体がある。予算措置がされておらず、ここだけ是正するわけにはいかない。」
と、その度いわれていた。結成通知が届けられたその日の夜、上司である調査課長から
「あなたは知っていて黙って隠していましたね。」
と言われた。何のことかと聞いたら、「組合のことです。一般労組です。あなたの奥さんが支部長ですね。あなたはそのことを知っていてこれまで黙っていましたね。」
と詰問された。夫婦であっても職場では別。自宅で職場のことを話すと、「不当労働行為になる」とも言われる関係であり、職場では通名を名乗り別姓を通していた。しかし、センター側の口調は私の関与を推察というより、明らかに決めつけていた。
水谷 センター内部では、組合の結成についてどうなったか。
篠田 非常に慌てていた。蜂の巣をつついたように、対応に苦慮していた。
水谷 県教育委員会はどう対応したか。
篠田 たいへん驚いたことに、組合結成の報道によって県教委の上層部が上からかなりお叱りをいただいたと聞いている。
水谷 上から?
篠田 文化課長と教育長が知事から呼ばれて、「どういうことだ」と叱責をされたと、聞いたと記憶している。
水谷 組合結成があなたの異動と関係あると考えているか。
篠田 客観的に見て、それ以外に思い当たることがない。
水谷 その「ある人」とは誰か。
篠田 もう定年で県職員を辞めておられる人である。「県職組ならとよかったが、岐阜一般(労組)なんかに組合をつくられて、大変や。」と聞いた。
水谷 教育委員会からセンターへ出向すると、役職が一格上がるのか。
篠田 センター発足当時は調査部はなく、調査1係2係という体制だった。私が派遣された年から調査部になって、部長に学校現場で校長職に相当する教員が派遣されてきた。文化課へ登用された年齢によって補職名が異なり、30代前半で教育主事として登用された者はセンターへ行くと、学芸主事になる。30代後半の学芸主事として登用された者は、センターでは課長補佐になる。
水谷 事務局内部では年度の途中で42歳になると、補職名が一格上がり、格上げになることがあるのか。
篠田 そういう例が多いと思う。勤続20年ということであるかもしれない。
水谷 あなたの場合、最初、徳山小学校の常勤講師。その年が算入されると仮定した場合、平成9年が20年になるか。
篠田 そうなる。
水谷 教育委員会の補職名が一格上がると、センターでも一つ上がるのか。課長になると管理職になる。
篠田 財団としては課長でも、県職員としては課長補佐であると思う。だが、財団では一つの職責は与えられる。
水谷 センターでは4年いた。他に4年以上いた職員はいたか。
篠田 ある。例は多い。私よりも前に派遣され、今年度もなおセンターにとどまっている者もいる。
水谷 4年の在職は特別長いわけではないか。
篠田 特別長いとは思っていない。
水谷 一格上がると給料もアップしたか。
篠田 上がらないとは考えにくい。
水谷 この点について他にはないか。
篠田 センターは長期的な視点で採用を行っているというが、私を出すことで課長にあげる人がいなくなった。そのために職員を一人、私と同年齢の教員を学校現場から登用し派遣して当てている。
反対尋問
大塩 池田小学校では校務主任となっている。平成9年4月1日の給料はどうか。
篠田 書面で出ている通りだと思う。
大塩 その給料が特別に、あなたと同じ時期の教員と少ないということはないか。
篠田 同年代の他の人に見せてくれと言ったことがないので、わからない。
大塩 センター時代よりは上がっておると思うか。
篠田 基準となっている給与表が違う。
大塩 高いことは間違いないか。
篠田 はい。
大塩 (塚遺跡の)報告書をまとめていて、不十分だとわかったというが、報告書が書けない程度に不十分だったのか。
篠田 形として出せばいいだけなら、出せないこともないが、後の世代に伝える役割を果たすには不十分である。
大塩 不十分のまままとめたと。
篠田 発掘をやり直すことはできない。これで十分であるという評価は、まずされない。
大塩 寺屋敷遺跡の調査は十分にできていると。
篠田 その時点での最大限の努力を尽くした。
大塩 調査員はあなたお一人。報告書はあなたでなければできないか。
篠田 ただ掘るだけという発掘調査をやることはありえない。問題意識をもって調査を行う。報告書はその延長で、本来調査と結びついている。それができて、最大限の発掘となる。
大塩 結語まで求めてない。まとめを書けばいいのではないか。
篠田 塚遺跡の報告書では、そのまとめもない。
大塩 文化庁の道路建設についての通達では、学術的研究には制限をしている。
篠田 学術的なまとめは必要である。
大塩 他の遺跡についても同じような報告書は学術的にはどうなのか。
篠田 結語はそろっている。指導調査員に指導をお願いしている場合、指導調査員が結語を書く場合もある。
大塩 学術的にはいいと思うか。
篠田 (結語が書かれているということでは)そう思う。
大塩 寺屋敷遺跡の報告書があれば、考古学界では重要視されると。そういうものは他にあるか。
篠田 遺跡はそれぞれが重要であり、どちらが重要と比べられないものがある。
大塩 寺屋敷遺跡の他に徳山では特筆すべきはあるか。
篠田 旧石器時代の遺跡など、寺屋敷遺跡に類するものは他にない。岐阜県全体として広げてもいい。
大塩 姶良火山灰より古い遺跡は他にはないか。
篠田 全国にある。遺跡のあり方として岐阜には明確なものはない。議論の分かれるものはあるが、誰でもわかるような明確なものは他にはない。
大塩 他の職員は絶対に報告書を作れないのか。
篠田 形としてだけつくれないことはないかもしれないが、それではなぜ私が報告書作成の責任を果たすことができないのかわからない。
大塩 ちょっと…。
篠田 どういう問題意識の基に調査して、どのような検討を加えていくかという、十分にその成果を引き出す報告書はまずできない。
大塩 お住まいはどちらか。
篠田 揖斐郡藤橋村。
大塩 現在、通勤として不便ということはないか。
篠田 片道25キロである。不便はない。
人事委員長の尋問
委員長 塚遺跡が終われば、寺屋敷遺跡の報告書作成命令が出されると思っていたか。
篠田 専務理事、調査部次長、課長が協議した結果、塚遺跡が終われば寺屋敷遺跡の整理作業に当たることになったと言われた。
委員長 それがそのまま生きていると思ったと。平成9年度になってからはどうだったか。
篠田 異動辞令によって果たせなかった。
委員長 平成9年4月から1年かけて寺屋敷遺跡の報告書作成業務に従事するはずであったと主張しているか、それは含まないことか。
篠田 塚遺跡報告書完成の後はすぐ寺屋敷遺跡にかかってくれ、と指示されていたことから平成9年度も継続してという意味であったと理解している。
委員長 処分者の方が労組の活動を嫌悪していたとしているが、あなたはその感触があったか。
篠田 あった。感触としては、当時の調査課長(後の次長)は私と組合との関係を推断していたと理解していた。
委員長 処分者はどうか。
篠田 直接、県の課長と顔を合わせる機会がない。
委員長 センターもそう思っているから出したと思っているか。
篠田 他などから漏れ伝わることから、いろいろな憶測が飛んでいるというような感触がある。組合問題以外の処分の理由は思い当たらない。自分は誠心誠意、仕事を果たしてきたつもりである。
委員長 不利益性の主張についてであるが、42歳に達した者は文化課の課長補佐になる。それに連動して、センターでも昇進できないのはおかしいということ、これも主張するか。
篠田 それまでの常例からして、前例にない処分であったと理解している。
委員長 不服を申し立てているのは、センターにとどまることを強く希望したが、文化財行政からも合理的ではないのに、4年で転任は違法であること。あなたの奥さんが組合を結成したことに対する報復と、この2点になるか。身分、給与などについて不利益は他にあるか。
篠田 発掘の成果は広く国民、県民に公開されなければならない。担当者と行政にはその大きな責務がある。調査の一貫性を欠く報告書は、県民が共有すべき成果が極めて不十分なものとなる。担当者の病気交代などやむを得ないことがあるなら仕方がないともいえるが、広く県民の立場からすれば県民にとって不利益が生じるといわざるをえない。
(傍聴席におけるメモより成文化したものです・・・・・桐生正市)
Q・・公開口頭審理って考古学教室?
A・・いえいえ、いろいろ学べる教室です。
守 川 久 美
仕事の都合がつかず、久しぶりの傍聴になってしまった今回の審理。傍聴人の顔ぶれも変わりなく、久しぶりに会う人達の顔を見ては、相変わらずの関心の深さに驚かされる。篠田さん本人の証人ということもあって、いろいろなことが聞かれるのではないかと、期待してしまう。
申立人主尋問は、篠田さん本人が担当した寺屋敷遺跡の話あり、センター労働組合の話ありでとてもおもしろかった。長時間の審理も篠田さんのハッキリした受け答えに、いつもの睡魔も退散してしまい、傍聴人みんなが固唾を飲んで見守っていた。
文化財保護センターの調査員と言えば聞こえは良いものの、実際は数週間前までは、小・中・高等学校の教員だった人が、なんの知識もないままに、4月からは発掘現場の指揮官として何人もの作業員に指示を出して仕事をさせるという、考えただけでも恐ろしいことをやっている。「教員という肩書きがなんぼの価値があるんや。」と言いたくなる。そんな者がしばらくして見よう見まねで報告書の差し障りのない部分を執筆する。そうして処分者側が言う「報告書は誰でも書ける」の中の一員となり、自分もいっぱしの調査員になったような気がしてくるのだろう。
「報告書は誰でも書けるし、専門職員も一杯いる」と言っていたにもかかわらず、塚遺跡の報告書はとてもおそまつなもののようだ。学術的評価はないに等しいもののようだ。調査員が考古学の専門者としてプライドを持ってもらうことは大いに結構だけれども、この報告書に関して感じたものは、この報告書が大学の恩師の目にとまった時、自分はこの程度の調査しかやれなかった、この程度の報告書しか作れなかったと思われるのがイヤだという、くだらないプライドだ。だからこの報告書の責任を篠田さんになすりつけたのだろう。同じセンターの職員同士でも専門職員は教員を何も知らないヤツと見下げているだろうし、教員で考古学に詳しい人がいても、所詮アマチュアであって自分たちとは同格にしたがらないだろうし、そういう専門職員の間にも大学の派閥があって自分たちの大学の方が秀でていると思っているのだろう。いやな世界だこと。
昨今、メディアを通じて日本各地の遺跡を知ることができる。近場であれば、現地説明会なるものにも出かけられるが、大勢の人だかりになると、現地にいてもなかなかその当時を感じることができない。しかし、今回、唯一の担当者であった篠田さんから、寺屋敷遺跡についての説明がなされた時、私は現地説明会にいるような臨場感さえ覚えた。山の尾根を削平して建てられていた平安時代のお寺、土器を携えて往来していた縄文人の竪穴住居、そして2万年以上昔の旧石器時代の人達が石器を作っていた跡、あんな山深い所に、そんな時代から歴史があったのかと感慨深くなったのは私だけだろうか。権威ある考古学者が動揺されるくらいだから、たいした遺跡なのだろう。寺屋敷の調査では夥しいほどの図面、写真がある。資料としては申し分ないほどの量であろう。これだけあれば、処分者側が、「誰でも報告書は書ける」と言った言葉は本当かもしれない。しかし、机上の勉強だけで、その担当者は大勢の考古学ファンを2万年前の寺屋敷へいざなうことができるであろうか。そして彼らは、私のように臨場感を味わうことができるであろうか。
学校では夏休みに子どもたちがいろいろな経験をするようにと親の職場で働かせたりしている。教育委員会がそのように指導しているのだろう。その経験が今後に役立てばいいということのようだが、経験をする、自分が身をもって体験するということを重視していくならば、今回の篠田さんの異動について疑問視する声があがってもいいではないかと思う。同じ教育委員会が矛盾したことをしているような気がしてならない。岐阜県の文化財行政だけでなく、教育行政にも大いに不満を抱く。
今回の篠田さんの発言の中で、センターに組合ができた当時の偉い人達のあわてぶりが興味深かった。梶原知事が相当頭にきていたらしい。一つの財団に組合ができると、その他多くの財団にまで波及していくので非常に困ったことだと言ったようだが、財団職員は違法の下で働いていていいのだろうか。労働法は適用されないのか。有給休暇もなく、社会保険にも加入せず、調査員の気持ち一つで作業員を勝手に解雇したりと違法行為が公然となされている事に対して、作業員が結束して抗議をするには、誰がどう考えても組合を組織することである。働く者が当然の権利を主張することに誰が文句をつけるのか。梶原の下で働いている者は、みんなが自治労の組合員ではないか。センターにいる専門職員も県の職員で、同じ組合員ではないか。それなのにセンターの組合に対する態度は、あからさまにひどいものらしかった。自分たちがいい加減にしてきたことを組合から指摘され、組合のおかげで随分しんどい思いをしていると言っては、組合に当たるとはお門違いもいいところだと言いたくなってしまう。こんな話を聞いていると、処分者側は、篠田さんと組合の支部長である長坂女史とが夫婦関係にあるということから、やはり篠田さんが一枚かんでいると判断して、今回の異動を命令したように思われるが、そんなことは私に言わせれば、篠田さんに対する逆恨みもいいとこだ。違法の下で、作業員を10数年も働かせてきた自分たちの責任を棚に上げて、人のせいにばかりにするところなんか、まさしくお役人のすることに相違ない。。
今回の反対尋問で処分者側は、篠田さんに対して、給料の等級を聞いていたが、向こうはあくまでも今度の異動では、なんら経済的不利益は生じていないということで、片を付けようとしているのは、目に見えてハッキリしている。しかし、私は、今回の件で篠田さんは岐阜県の文化財行政に対して、しっかりと警鐘を鳴らしたのではないかと思う。白日の下にさらされたおそまつな仕事を関係者は他人のした事とは思わず、もう一度自分が置かれている立場を見つめて、何のために仕事をしていくのかを考え直してほしい。
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