資料−「市民ハンドブックあさか」
朝霞という名前の由来
昭和5年、東京世田谷区駒沢にあった「東京ゴルフ倶楽部」のゴルフ場が膝折村に移転することになった。そのことがきっかけで、村名を改称し、同時に町制を施行しようという機運が高まり、昭和7年5月1日に「朝霞町」が誕生する事になる。
改称に当たっては、当時東京ゴルフ倶楽部の名誉会長であった朝香宮殿下の名を頂き、香を霞に変えて「朝霞」とすることとなった。その朝霞町が市となり、今に至っているのである。
朝霞の歴史
石器時代から人が?
「朝霞」という名前そのものはかなり新しいのだが、この地の歴史はかなり古い。この地に始めて人が住むようになったのは、今から3万年前つまり旧石器時代であり、黒目川左岸の泉水や、同右岸の幸町の遺跡から石器や石器を作ったあとが発見されている。その当時はどうやら石器を使い、狩猟などをしていたらしい。
古墳が築かれた頃
今から約2千3百年前の弥生時代九州北部に稲作が伝わってきたが、朝霞市内でも、そのころの大集落が岡で発見されており、住居跡や方形周溝墓(ほうけいしゅうこうぼ)と呼ばれる墓からは貴重な鉄斧や鉄剣が出土している。
4世紀頃つまり、古墳時代では、岡の一夜塚古墳や柊塚古墳(ひいらぎづかこふん)などが、浜崎には八塚古墳・峡山古墳などが築かれ、このうち柊塚古墳は現在でも大切に保存されている。
新羅郡の設置
奈良時代の天平宝字2年(758)、渡来新羅人を移住させ武蔵の国に「新羅郡」が置かれた。この郡が置かれたのが現在の朝霞周辺であったといわれており、その後平安時代の中頃には「新座(にいくら)郡と名称が改められた。
この頃の大集落が岡で発見されており、多くの人々が住み着いていたことがわかる。
平安時代の「経塚」
経塚(きょうづか)とは仏教の末法思想により、経典保存を目的として造られたもので、書写した経典を銅製の筒などに入れ、さらに陶器などに納めて地中に埋めたところである。この経塚が宮戸で2カ所発見されている。
川越街道の膝折宿
膝折宿は、江戸時代に川越街道(川越往還ともいわれた)の宿場町として栄えた。川越街道の起源は明確ではないが、長禄元年(1457)頃に太田道真・道灌父子によって築かれた江戸・川越両城の連絡路として整備されたのが始まりであるとされている。
伸銅工業発祥の地
江戸時代の中頃以降、黒目川や野火止用水に沿って、水車が設けられ、米つき・粉ひき・油しぼりなどが行われていた。その後江戸時代後期頃に、奥住氏・徳生氏、そして大畑氏によって伸銅業が始められ、その後はこの三家を中心に伸銅工業が栄えた。このことから朝霞が、関東における伸銅工業発祥の地といわれている。
伸銅とは銅や真鍮の棒に熱をくわえて軟らかくして、それを水車の力を利用して細い針金を作ること。
朝霞市の誕生
明治22年、近隣の村々が合併して膝折村と内間木村が生まれ、膝折村は昭和7年朝霞町となり、さらに昭和30年に内間木村と合併。
その後埼玉県南部地区の要地として発展し、昭和42年3月15日、県下27番目の市として市制を施行された。
当時5万6千人余りであった人口も、平成8年には11万1千人の人口となっている。
第二次世界大戦後、米軍が進駐し、基地のまちとして知られるようになったが、現在ではその跡地に小学校、中学、高校をはじめ、陸上競技場、体育館、図書館、公園など各種の公共施設が整備され、市民のスポーツ・文化活動、さらには憩いの場として利用されている。
昭和48年には国鉄(現JR)武蔵野線が開通、昭和62年には東武東上線・営団地下鉄有楽町線の相互乗り入れ実現するなど都市としての利便性も一段と高まっている。
また、昭和59年に始まった市民まつりは、平成7年から「朝霞・彩夏祭(さいかさい)」の愛称で呼ばれ、朝霞の夏を彩る市内最大のイベントとして多くの人で賑わっている。
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