志 半ばで逝った近代中国文学者 岡崎俊夫

1996年6月30日にNHKの「郁 達夫」−感情旅行−「ある中国人文学者の人生を追って 」が放映された。その冒頭に郁 達夫の「わが夢 わが青春」悲劇の誕生 自伝1の朗読があり、その翻訳者として岡崎俊夫の名前が出ていた。

郁 達夫、丁玲、巴金等近代中国文学者の最初の翻訳者として世に知られた岡崎俊夫は、1959年5月26日 鎌倉腰越5町目の自宅の書斎で忽然と世を去った。死因は心臓麻痺であった。「中国文学研究会」の仲間、竹内 好、武田泰淳、松枝茂夫、増田 渉らがその後目覚しい活躍を遂げたことからも、享年50歳というのはいかにも早すぎた死と言うほかはない。

盟友、竹内 好はその死を深く悲しんで、葬式で弔辞を読んだ。同席していた武田泰淳はあたり憚らず、慟哭したが、それ程に痛切な哀悼の言葉であった。

岡崎俊夫は仲間の中でも最も若々しく、元気であって行動的であった。一度として仲間を裏切った事がなく、最新の中国の事情を逸早く教えた。鋭い感受性とゆたかな理解力を備えた天性のジャ−ナリストであり、中国近代文学会の潤滑油として掛け替えのない人物であった。岡崎は仲間の肉体の一部であったと言う。それゆえ岡崎なき後の空漠感は埋めようがない。暗い時代には生き残った者が共同の志を継ごうと内心誓いあったが、幸い平和が訪れ、日中友好の時代がこれからという矢先に岡崎俊夫は逝ったのである。

岡崎俊夫が現在の腰越中学の近くに移住したのは、1949年の12月のことである。初めて、片瀬の海岸に立った時、「なんていいところなのだろう。」と今(1999年6月)なお健在の俊江夫人は、半世紀前をふりかえる。

その後、武田泰淳や松枝茂夫が岡崎俊夫の世話で、片瀬、腰越と岡崎の家から、文字どおり、指呼の間に住むようになった。岡崎、武田、松枝の三軒は三角形の頂点を結んだ位置にあった。

片瀬のお産婆さんの二階を借りていた武田泰淳の家に竹内 好、松枝茂夫、岡崎俊夫の四組の夫婦が集まって一晩飲み明かしたことがあった。岡崎俊夫は朝日新聞の編集局にいるかたわら、中国文学の翻訳をしていたが、あとの三人はまだ社会的にも、経済的にも不安定な状態であった。

だがこの一夜は、将来の夢を語り、文学を語り、互いに忌憚のない批評を交わして倦む事を知らなかった。独身者ならともかく、妻帯者でありながらこうして夜を徹して人生、文学を語り明かすなど、遅れた青春を楽しんでいたといえよう。住まいが近いことも彼らの往来を頻繁にした。彼らにとって、言わば雌伏の時代であった。

岡崎の「引力」の翻訳がでたばかりの時であったので、その2、3の誤訳がやり玉に上がり、その場をはずして、トイレから出てこなかった岡崎は、夫人連から「泣いているんじゃないかしら」と気をもました。松枝は岡崎の逝去の後、岡崎のそうした気の弱さが好きだったと言い、今となっては甚だ恥かしいと回想している。

岡崎俊夫は1909年に青森県南津軽郡の黄檗宗 法眼寺で生まれた。父親が僧籍にあったためや教育上のこともあって、山口県、福岡県と小学校を転々としたが、父親が東京芝区(現在の港区)白金の瑞聖寺の住職になったのを機に、同区の小学校に転校。高校は浦和高校で、在学中の1928年に小説「髑髏」を浦高学友会雑誌に発表したのが最初。

1930年に東大文学部支那哲学科に入学したが、ここでの授業は、哲学のテの字もでない漢学であたのに幻滅した。もうその時は遅かったという。

1932年に胡也頻の「同棲」を翻訳し、同人雑誌「集団」に掲載。その年の夏、浦和高校の時代の萩原文彦から、7、8の2カ月片瀬の別荘で、自分の代わりに中学生の家庭教師をやらないかと言われ、その時郁達夫の小説集を携えて行ったのが、腰越と郁達夫との最初の縁であった。

1933年に東大の文学部支那哲学科を卒業と同時に、時事新報に入社、横浜の裁判所詰め記者となった。1934年3月に代表の武藤山治が不慮の死を遂げたのを機に退社した。

その後、東京神田にあった東亜高等予備校(通称東亜学校)に就職。この予備校は中国の留学生が、旧制高校に入学するために、松本亀次郎が日中友好の一環として創立した予備校である。

岡崎俊夫は、このころ中国語を学ぶために、本郷にあった第一外語(夜学)に通って初めて中国現代文学に接した。教師は奥平定世であった。この学校で、浦和高校で面識のある武田泰淳に会う。この期間に中国人留学生と交換教授を行い、中国語の会話に励む。その時の留学生で、中国の映画スタ−と恋愛関係が生まれた。銀座を腕を組んで散歩することもしばしばで、岡崎の数すくないありし日のロマンスを彷彿とさせるエピソ−ドである。周囲も二人が結婚するものと思っていたが、岡崎に積極性がなかったので、結婚にまで至らなかった。

この1934年8月に周作人が来日した際、歓迎会を催したのを機会に、「中国文学研究会」が岡崎、武田、竹内の3人を中心に発足した。岡崎は1935年に「楽焼の郁達夫」を中国文学月報に書いている。武田と竹内は浦和高校で同級で岡崎は1年上であった。この会を通じて膠漆の交わりの関係が生まれたのである。

1936年6月朝日新聞に入社し、名古屋支社の整理部校閲課に配属される。この時代に岡崎俊夫は、旧制八高での体験を基に、青春の性の要求と霊肉の葛藤を描い作者、郁 達夫に会い、その生前の印象をこう語っている。「、、そのころ、40歳ぐらいのはずだが、痩せた小柄の貧相な風采で、また多分にオッチョコチョイのように感ぜられ、この人のどこを押せば、あんな思いつめたセンチな音色がでるのかしらと意外に思った。、、」

岡崎は浦和高校以来の友人、江原謙三の紹介によって、某出版社の文芸講座に現代中国文学についての寄稿が、商業雑誌に書いた始まりである。そしてこのことによって、「中国文学研究会」がジャ−ナリズムに進出するのに、岡崎の手腕が大きかったことも否定出来ない。江原謙三は太平洋戦争で、戦死したが、岡崎は江原に励まされつつ、ジャ−ナリズムの世界へ現代中国文学をひっさげて、一途に進んでいった。岡崎俊夫にとって忘れ難き旧友である。

1940年に青森県津軽郡金木町の高橋金吾の次女、俊江と結婚。1942年7月北京支局に転勤。「北京行状記」はその時の北京滞在中の体験を基にした随筆。1944年T月に帰社を命じられたので、妻子を朝鮮京城(現在のソ−ル)の妹の婚家先に預けて、一足先に帰国して、大阪、東京と移る。籍は出版部編集局。11月には家族を呼び寄せ、杉並高円寺に移る。1945年春に世田谷区大原町に移転したばかりで、5月25日の空襲で焼け出された。その前に妻子を青森に疎開させて、岡崎俊夫は吉祥寺の社員寮(前身座の家族寮)から、出社していた。1949年3月に家族が疎開先から、引き上げてきたので、目黒、品川と転居した。この間出版局図書編集部次長になる。

こうして1949年には腰越に移住。やっと安住の地を見つけた。その後は、社の要職にありながら、精力的に中国近代文学の翻訳を通して、最新の中国における文学の動向を紹介した。東大、文化学院などの講師や、講演にと正に水を得た魚の如き活躍ぶりであった。

郭沫若の「抗日戦回顧録」の翻訳が出版された直後1959年に、自宅の二階の書斎で不帰の人となった。竹内 好は、かって岡崎に、済南で求めた鵜板橋の石刷りの「小書斎」の扁額を懇望された。だが、それが掛っている質素な書斎を彼の生前に一度もおとずれなかったのは残念だったと言う。

葬儀は縁のある瑞聖寺で執り行なわれた。浦和高校時代の旧友、萱本正夫はその様子を次のように書いている。「 、、、、、本堂の石段の下にテントが張られ、新聞社関係、中国文学関係、一般知人関係の立札が建っている。、、、「中国文学研究会」発足のころ、白眼視し続けた漢学会関係の先輩たちの顔が見えていた。やがて本堂の前に立った私は、壇上高くおびただしい生花に埋もれた写真を眺め、今はもう何もかも私から、遠ざかってしまった旧友を焼香しながらはっきり意識した。」

岡崎俊夫の三回忌の1961年には、「天上人間」と題して、これまで雑誌や新聞に寄稿した随筆、評論と旧友や中国文学者、教え子らによる追悼文からなる文集が、出版された。この本はいくつかの出版社に交渉したが、不首尾に終わり、結局有志達の協力によって日の目を見るに至った。その岡崎俊夫を、懐かしむ有志たちのほとんども、今では鬼籍に入っている。奇しくも今年は岡崎俊夫生誕90年、逝去40年にあたる。腰越にとって中国近代文学者として忘れ得ぬひとである。