[トップページ] [平成10年上期一覧][人物探訪][210.58 迫り来る西洋列強]
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        _/  _/    _/  _/           Japan On the Globe (38)
       _/  _/    _/  _/  _/_/      国際派日本人養成講座
 _/   _/   _/   _/  _/    _/    平成10年5月23日 2,512部発行
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_/_/      人物探訪:欧米から見た日本の開国−吉田松陰
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_/_/           ■ 目 次 ■
_/_/       1.日本開国のニュース
_/_/       2.密航を企てた日本の青年
_/_/       3.ペリーの共鳴
_/_/       4.英雄的な一国民
_/_/       5.決死の密航の目的
_/_/       6.明治日本を生みだした精神
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■1.日本開国のニュース■

         私が日本に来る一二年も前のことである。日本では当時
        ペリイ提督が神奈川にやってきて、将軍の太平の眠りを覚
        ましてゐた。私はといへば、生れ故郷のリョンの八五五に
        住み、国立高等中学の四年で気楽な青年であった。フラン
        スやイギリスでは、帝国日本が鎖国を解いてヨオロッパに
        開国したといふニュースが、大変な評判となってゐた。新
        聞には、熱っぽい賛辞が並んだ。といふのも此の高貴な国
        は、一六世紀にフランシスコ・ザビエルの手紙に熱っぽく
        紹介されてからといふもの、ヨオロッパ、就中(なかんづ
        く)ローマにおいては忘れ去られたことがなかったからで
        ある。[1]

 開国後、最初に日本に派遣されてきたカトリック宣教師の一人エ
メ・ヴィリヨン神父の回想である。当時の日本の開国が、欧米諸国
で大きなニュースとなっていた様が窺われる。その矢先に、欧米人
の胸に強く日本人の特性を印象づける事件が起こった。

■2.密航を企てた日本の青年■

     さて、或る日の夕方のことであった。判事を勤める兄が裁判
    所から帰宅すると、例によって兄は「センチュリイ」といふ新
    聞を読んでゐた。そして突然「ほおっ」といふ声をあげたので
    ある。

    「何とも面白い記事があるよ。−−アメリカのフリーゲート艦
    ミシシッピイ号が江戸湾に到着した。と或る日の夕方、きりっ
    とした身なりの貴高き風貌の日本の青年が、ちっぽけな小舟を
    漕いで、同艦に乗り込んで来た。アメリカで勉学をしたい、船
    に乗せて連れて行ってほしい、これはたっての願ひである、と
    いふことを、青年は非常に丁寧に懇願した。−−提督はこの勇
    敢なる青年の懇請をけって、頑固に反対し、断固として拒絶す
    るのである。青年は、もしも陸に送り帰されると、将軍の迫害
    追及の手がどこまでも延びてきて、生命の危険すらあると述べ
    た。かかる立派な申し出にたいし、アメリカの提督は、強情に
    も、この申し出に応じようとはしなかった。本当に残念なこと
    である。その青年が出国したところで、厳重な鎖国下の専制政
    治に傷がつくこともあるまいに云々と、新聞は非難してゐると
    言ふ。

     父もそれを受けて、同じく提督の硬直ぶりを非難した。「こ
    の規則一点張りの馬鹿さ加減こそ度しがたいものだ。いかにも
    アメリカ人のやりさうなことだ」。私もそれに付け加へて青年
    らしい意見を言った。「実際アメリカの士官たちが馬鹿なんだ。 
    気の毒なのはこの青年。あとで余り厳しく罰せられなければよ
    いが−−」。その当時、名前こそ新聞には出てゐなかったが、
    この青年こそほかならぬ吉田松陰だったのである。[1]

 吉田松陰と同行者金子重之助の、死を賭しても欧米諸国の知識を
学ぼうと、ペリーの船に乗り込んだ事件がヨーロッパでも大きく報
道されていたのである。この事件を当時の欧米人の目から、追って
みよう。

■3.ペリーの共鳴■

 ペリー提督と士官達は、ヴィリヨン神父が思ったほど、頑迷では
なかった。松陰の勇気ある行動に共鳴していたのだが、日本との外
交関係を考えて、残念ながらその願いを拒否せざるをえなかったの
である。「ペリー日本遠征記」の著者ホークスは次のように事件を
描写している。[2]

     港には高いうねりがあったので、(松陰達は)かなり苦労を
    して旗艦へたどり着いたが、階梯に足をかけ舷門まで上るがは
    やいか、小舟は、偶然か、あるいは、わざとそうさせたのか、
    船艦から漂って離れていった。

     甲板までやってくると、士官は二人の来たことを提督に通告
    した。提督は通訳をさし向けて話し合わせ、この時ならぬ訪問
    の目的を知った。彼らの目的は、合衆国へ連れて行ってもらっ
    て、国内を旅行し、世界を見たいという希望を満足させること
    だと、率直に告白した。彼等は陸で士官たちに会い、その一人
    に手紙を渡したあの二人の男だと認められた。

     小舟でやってきたため、ひどく疲労してみえた。立派な地位
    の日本の紳士だとは分かったが、着物は旅でだいぶくたびれて
    いた。・・・彼等は教養を身につけており、流暢に、また、見
    た眼に優雅に標準的な漢文を書いた。動作は礼儀正しく、非常
    に洗練されていた。

     提督は来艦の目的を知ると、日本人をアメリカへ同行させた
    いのはやまやまであるが、受けいれるわけにいかないことを残
    念に思うと伝えた。彼等が幕府から許可を得るまでは−−艦隊
    はまだしばらく下田港に停泊するから、許可を得る機会は十分
    にあるであろうから−−提督は二人を拒絶せざるを得ないと語
    った。

 送り返された松陰は、いさぎよく幕府に自首し、囚われの身にな
る。ペリーは、「その犯行をいかに些細なものと考えているかを日
本の役人に印象づけようと注意深く努力をして、その犯行に対して
服すべき刑罰を軽くしてほしいと願った。」

■4.英雄的な一国民■

 ホークスは、この事件から受けた日本人の印象を次のように語っ
ている。[2]

     この事件は、厳しい国法を犯し、知識をふやすために生命ま
    で賭そうとした二人の教養ある日本人の激しい知識欲を示すも
    のとして、興味深いことであった。日本人は確かに探究好きな
    国民で、道徳的・知的能力を増大させる機会は、これを進んで
    迎えたものである。この不幸な二人の行動は、同国人に特有の
    ものだと信じられる。また、日本人の激しい好奇心をこれほど
    よく示すものは他にはあり得ない。・・・
    
     日本人のこの気質を考えると、その興味ある国の将来には、
    何と夢にあふれた広野が、さらに付言すれば、何と希望に満ち
    た期待が開けていることか!

 吉田松陰のような人物を生みだした国民に、素直な驚きを寄せて
いるのである。同じ事は、次の「宝島」の作者・文豪ロバート・ル
イス・スティーヴンソンの言葉にも窺われる。

 スティーヴンソンは明治11〜12年頃、英国に出張中の正木退
蔵(13歳の時に松陰に師事した)から、松陰の話を聞いて感銘を
受け、英国でも広く知られるべき人物だとして、"Yoshida Trajiro
" という文章を遺している。その文章は次のような一節で結ばれて
いる。[3]

     一言付け加えておかねばならない。これは英雄的な一個人の
    話であるとともに、ある英雄的な一国民の話だということを見
    損じないでほしいと願うからである。吉田のことを脳裏に刻み
    込むだけでは十分ではない。あの平侍のことも、日下部のこと
    も、また、熱心さのあまり計画を漏らした長州の18歳の少年
    ノムラ(野村和作)のことも忘れてはならない。このような広
    大な志を抱いた人々と同時代に生きてきたことは、歓ばしいこ
    とである。

■5.決死の密航の目的■

 しかしホークスが吉田松陰の行動を「激しい知識欲」から来たも
のだと捉えたのは、正しくない。ハインリッヒ・デュモリン上智大
学名誉教授は、その動機を次のように記している。[1,p24]

     ペリイの率ゐるアメリカの遠征艦隊が、強いて日本を開国さ
    せようとして、日本の鎖国の扉を初めて叩くのが、ちょうどそ
    の頃であった。従って志士たちの国土防衛の努力は、今や新た
    な意義を帯び、未来の漠然とした不安といったものでは決して
    なく、現今の焦眉の問題となった。松陰はアメリカの艦隊を浦
    賀で初めて眼のあたりにして、外国の軍事的優勢について、認
    識を大いに新たにしたのである。
    
     直ちに松陰には、外国の兵制を根本から研究することが、不
    可避の急務と感じられた。外国旅行の計画は、早くも、機が熟
    したのである。江戸の著名な兵学者である佐久間象山も、松陰
    を励ました。国家の急務といふ観点からすれば、幕府の海外渡
    航の禁令など、取るに足らないものと映じてゐたのである。

 シナのアヘン戦争敗北の情報はただちに日本に伝えられ、欧米帝
国主義の実態は十二分に認識されていた。自ら兵学家であった松陰
は、国家の独立を維持するためには、何よりも欧米の軍事力に追い
つかなければならないと考えた。決死の密航は、そのためのものだ
ったのである。

■6.明治日本を生みだした精神■

 幕府に自首した吉田松陰は、郷里の萩に送られ、やがて蟄居の身
ながら、近隣の子弟の教育を始める。有名な松下村塾である。

 ここから、桂小五郎(後の木戸孝允、幕末維新の功労者、文部
卿・内務卿・参議)、高杉晋作(奇兵隊総督)、山県狂介(有朋、
日露戦争時の参謀総長、陸軍大将・元帥)、伊藤利介(博文、首相、
憲法制定に参与)など、文字通り、維新を断行し、明治の日本を作
った人々が輩出した。

 日本が近代世界史に登場したその直後に敢行された吉田松陰の密
航事件は、スティーヴンソンをして「英雄的な一国民」と感嘆させ
たのだが、それはやがて現実となって、世界史の奇跡と呼ばれる明
治日本の躍進をもたらしたのである。

[参考]
1. 吉田松陰−明治維新の精神的起源、ハインリッヒ・デュモリン、
  東中野修道編訳、南窓社、S63
2. ペリー日本遠征記、ホークス、吉田松陰全集、別巻、S49
3. 吉田寅次郎、スティヴンソン、吉田松陰全集、別巻、S49

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