[トップページ] [平成11年一覧][人物探訪][210.80 平成][319.8 戦争と平和]

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        _/  _/    _/  _/           Japan On the Globe (75)
       _/  _/    _/  _/  _/_/      国際派日本人養成講座   
 _/   _/   _/  _/    _/   _/   平成11年2月20日 6,557部発行
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_/_/         人物探訪:秋野豊さん
_/_/  〜シルクロードの平和構築に命を捧げた行動派学者〜
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_/_/           ■ 目 次 ■
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_/_/  1.世界の人々の悩みと悲劇に関心を向ける日本人に
_/_/  2.タジキスタンの悲劇
_/_/  3.行動する学者
_/_/  4.最後のサムライ
_/_/  5.秋野さんの最期
_/_/  6.引き継ぐものがあれば
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■1.世界の人々の悩みと悲劇に関心を向ける日本人に■

     国連の今の悩みは、PKOはこれまでのように比較的安全な
    場所にしか派遣しないという原則でいいのか、という問題だ。
    ・・・ところが、日本はこうした国際社会の悩みと無縁なところ
    で、重箱の隅をつつくような論議を重ねている。・・・国連第一
    主義を掲げるのなら、国連と同じ水準で世界の悲劇に関心を持
    ってほしい。・・・同時代の世界の人々の悩みと悲劇に関心を向
    ける日本人であって欲しい。[1]

 元・国連事務次長の明石康氏の言葉である。「比較的安全」とは
言っても、PKOに伴う死者は、98年6月までで1551人にも達する。
日本人としては、カンボジアでの国連ボランティア要員・中田厚仁
さん[2]、および、文民警察官・高田晴行さんの二人だったが、昨
平成10年7月20日、中央アジアのタジキスタンで秋野豊さんが、
3人目の犠牲者となった。

 秋野さんは、「同時代の世界の人々の悩みと悲劇に関心を向ける
日本人」であった。

■2.タジキスタンの悲劇■

 タジキスタンでは、91年のソ連からの独立以降、旧共産党系政府
と、イスラム系野党の間で、内戦状態が続いていた。数千人が死亡
し、数十万人が家をうしなったという。94年に停戦合意が成立した
のを機に、国連はタジキスタン監視団(UNMOT)を派遣した。
軍事監視要員81人と文民要員百数十人(98年5月現在)という陣
容だ。

 停戦合意が成立したとはいえ、それに従わない反政府武装勢力も
いる。また内戦状態を利用して、麻薬密輸を行っている無法集団も
おり、国連による和平プロセスそのものに反対している。

 98年2月には、国連と赤十字国際委員会の職員、ジャーナリスト
ら16人が反政府勢力に誘拐される事件がおきた。その後も、国連
職員であるフランス人夫妻が誘拐され、政府軍の救出作戦の中で夫
人が死亡するという事件が起きている。

 我が国にも、専門家の派遣を求める要請があり、外務省は筑波大
学の国際政治学者・秋野豊助教授に相談した。秋野さんはソ連崩壊
後に独立国家が誕生した中央アジア地域を研究対象にしてからは、
年に数回ほど現地を歩き、日本では数少ない中央アジア研究の第一
人者だった。

 20人ほどの候補者リストがあったが、危険な現地に行こうとい
う人はなく、秋野さんは自らが行こうと決意し、妻と娘を説得した。

     今回は正直言って不安です。日本政府に骨を拾ってもらうこ
    とになるかも知れません。

 出発前に、友人に語った言葉が、現実となってしまった。[1]

■3.行動する学者■

 平成9年に当時の橋本首相が「ユーラシア外交」を提唱した。こ
れはタジキスタンなどシルクロード地域の安定と発展に関与する外
交方針である。小渕外相(当時)は秋野さんと共に6月から7月に
かけて中央アジア地域を視察し、これがユーラシア外交の原点とな
った。

 10年来の同僚だった岩崎美紀子筑波大助教授は、秋野さんの構
想を次のように語っている。
 
     中央アジアには、石油、天然ガス、鉱物資源が豊富である。
    欧州と東アジアを結ぶ最短ルートであるこの地域にパイプライ
    ンを通し、さらにパイプライン沿いに鉱物資源の精錬工場や砂
    漠地帯には太陽光発電パネルを設置するエネルギー回廊構想を
    秋野氏は熱っぽく語っていた。
    
     それが日本にとってどういう意味があるのかよくわからない
    私や学生に、この回廊が生みだす経済活動や農地緑地の拡大が
    民族間の憎悪を和らげ紛争の芽をつむこと、ユーラシアの安定
    は日本にとっても安全保障上重要であること、大陸における化
    石燃料の無秩序な利用は大気汚染ばかりでなく酸性雨となって
    日本の環境を破壊することなどを説明してくれた。そうした可
    能性に気づいたからこそ、国連タジキスタン監視団に加わった
    のである。[3]

 こうした戦略を描いた上で、秋野さんは行動を決意した。

     中央アジアに日本のプレゼンスを示さない理由はない。しか
    し日本が戦略をもって、地域の安定化のために協力することが
    必要だ。
     日本政府は私に、シルクロードの平和と繁栄に向けた日本の
    貢献は金だけでないことを示すために、汗をかくように期待し
    ている[3]

 秋野さんの弔問に訪れた小渕外相は次のように言葉をつまらせな
がら語った。

     秋野さんはロシア・ユーラシア地域についてわが国で最も深
    い学識を持った人で、自ら実践的に行動する学者だった。・・・
    ユーラシア外交をこれから大きく展開するときに、秋野さんを
    失ったことは日本にとって大きな損失。誠に残念だ。[4]
    
■4.最後のサムライ■

     「交渉が決裂し、反政府軍の人たちが山にこもってしまった。
    今から話を聞きに行き、できれば連れ戻したい。心配しない
    で」と話し、「アスファルトの道の両側は地雷だらけ。用を足
    すときも全部道の上ですよ」などとジョークを交えながら答え
    たという。[5]

 こうした危険の中で、秋野さんは現地の人々と対話に努めた。気
軽に住民の家に立ち寄っては「不自由はないか」と聞いて回り、柔
道で身につけた骨接ぎやマッサージ術で、老人の腰痛や子どもの骨
折を治療した。

 捕虜交換の監視作業中に、イラン式レスリングをするゲリラ兵か
ら挑戦を受け、柔道で見事3人もの勝ち抜きをした。兵士達は、秋
野さんを抱き締め、「お前はおれたちと同じムジーク(真の男)
だ」と賞賛したこともあった。[1]

     いま、私のニックネームは最後のサムライです。タジキスタ
    ンのあらゆる地域、ことに争いがくすぶっているような場所に
    行っています。先週、アフガニスタンから戻りました。アフガ
    ニスタンにいるタジキスタン兵士の帰還準備のため、情報を集
    めていたのです。・・・ 明日、またそこに行き、百トンの弾薬と
    武器とともに二百人の捕虜を連れてタジキスタンに戻り、その
    あとガリム地域に送ります。・・・ これは大きな作戦で、成功す
    れば、和平プロセス前進の一助になると言えます。しかし、そ
    のあと反政府勢力の要さいであるガリムの山岳地帯に二か月滞
    在しなければなりません。電子メールは使えません。骨休みに
    わずかでも日本に戻りたいと願ってます。
    
 これが最後の電子メールとなった。[6]

■5.秋野さんの最期■

 この反政府勢力の要塞で、秋野さんは指導者ニゾーモフ氏を訪れ
た。それまでの活動で厚い信頼を勝ち得ていた秋野さんは、熱烈な
もてなしを受けた。

 悲劇は、その帰路に起きた。一行の車を待ち伏せした一味が至近
距離からマシンガンで銃撃した。目撃者によると、この時、秋野さ
んは車から飛び出し、捨て身で犯人らに何かを訴えた。いつも対話
に努めていた姿勢である。しかし正面から頭や胸に8発の銃弾を浴
びた。犯人らは、一行4人全員を殺害した後、車ごと崖下に転落さ
せた。[1]

 その後、犯人3人は、反政府勢力に捕まえられ、政府に引き渡さ
れた。内戦状態を利用した無法者の集団が、国連による和平推進を
妨害しようとして、政府、反政府の両方から信望の厚い秋野さんの
殺害そのものを狙った犯罪ではないかと伝えられている。

■6.引き継ぐものがあれば■

 昨年11月20日、亡くなった秋野さんに第五回「読売国際協力
賞」が贈られた。遺影に見守られながら、代理受賞した夫人洋子さ
んは、夫の著書から、次の一節を引きながら、「ぜひ後に続く人を。
なお平和への努力を」と訴えた。[7]

     歴史の声に従った自分の死が犬死にではないと感じれば、そ
    の死は無駄ではなくなる。「引き継ぐ」ものがあれば、死は克
    服できる。

 現代ロシア論を専攻される袴田茂樹・青山学院大学教授は、秋野
さんの提起した問題は、「国連の要請に応じられる人材が、日本に
は彼以外には政府内にも民間にも誰一人いなかったということだ」
として、次のように指摘されている。

     悔しいことだが、しばしば日本が出した資金で欧米諸国の人
    たちが国際機関やNGOで活躍し、その国際貢献に対する評価
    も、日本ではなく彼らが得ているのだ。[8]

 1億2千万の人口を抱え、教育大国の我が国に人材がいないとい
うのは、いかにも不可思議な事だ。日本さえ他国を侵略しなければ、
世界は平和が保たれるという自虐的な一国平和主義、反戦反核を唱
えていれば、平和は実現するという念仏平和主義、これでは「同時
代の世界の人々の悩みと悲劇に関心を向ける日本人」は育たないだ
ろう。

 平和とは、自らの智恵と汗によって、そして時には血を流すこと
も覚悟して構築するものだ。秋野さんは身をもって、そう示したの
ではないか。

[参考]
1. タジキスタンの散った『最後のサムライ』−秋野豊さんの志を
   偲ぶ、田中和子、祖国と青年、H10.10
2. JOG(32) 現代青年の威厳
3. 「平和構築」探った秋野氏、読売新聞、1998.09.15
  東京朝刊 23頁
4. 毎日新聞、1998.07.27 東京夕刊 8頁
5. 読売新聞 1998.07.22 東京夕刊 19頁
6. 読売新聞 1998.08.09 東京朝刊 35頁
7. 読売新聞 1998.11.22 東京朝刊 1頁
8. ユーラシア研究と人材育成、読売新聞
  1999.01.12 東京朝刊 15頁

_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/★★読者の声★★_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/

              台湾の田舎を旅したamabeさんより

 私は数年前、3泊4日の台湾観光に行ったことがあります。台北
から田舎の方にも廻ったのですが、その間、十数回、台湾人に声を
かけられました。向こうの人には、こちらが日本から来たオノボリ
さんであることは、すぐ分かるようでした。声をかけてきたのは、
すべて日本語教育を受けた初老の人たちです。

 ある駅長さん:「こんな田舎まで、何をしに来たのですか?台北
には行ったですか?」ええ、台北に宿泊してますよ。

 田舎町に観光に来たおばさん:「貴方の麦わら帽子はどこで買い
ましたか?」下の土産物屋ですよ、とても安かったですよ。

 基隆の漁師のオジサン:「貴方、日本人ですか。私の兄は大阪外
語学校から第八連隊に行きました。またも負けたか八連隊ですよ
!」あ、ぼくの父も大阪外大です。

 みんな、とても親しげに、そして丁寧な日本語で話してくれまし
た。そしてこちらの顔をじっと覗き込んで、必ず最後に聞くのです。
「私は日本の教育を受けました。私の日本語わかりますか?」

 ええ、とても良く分かります、と答えると、満足して、ちょっと
誇らしそうな顔になりました。短い期間にたくさんの人に声をかけ
られて、ドギマギしましたが、心温まる体験をしたことを、今でも
よく思い出します。

編集長・伊勢雅臣:心温まる体験談をありがとうございました。
 私も行ってみたくなりました。

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