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     _/    _/_/      _/_/_/    国柄探訪:共感と連帯の象徴
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       _/  _/    _/  _/  _/_/                           15,656部 H11.11.06
 _/   _/   _/   _/  _/    _/  Japan On the Globe(112)  国際派日本人養成講座
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■1.沖縄をたづねて果さむつとめ■

   昭和62年、秋の国体で沖縄を訪問される直前、昭和天皇は病
  に倒れ、手術の3日ほど後、「もう、だめか」と言われた。それ
  を聞いた医師たちは、ご自分の命の事かと思ったが、実はそうで
  はなかった。「沖縄訪問はもうだめか」と問われたのである。昭
  和天皇の痛恨の御心は次の御製(天皇の御歌)にうかがわれる。
  
      思はざる病となりぬ沖縄をたづねて果さむつとめありしを
  
   昭和天皇は、戦後の困難な時期に、国民を親しく励まそうと日
  本全国を巡幸されたのだが、長らく米軍占領下にあった沖縄が残
  されていた。内地で唯一の戦場となった沖縄に行って、戦没者の
  霊を弔い、遺族を励ましたい、それが昭和天皇終生の御念願であ
  った。
  
   沖縄戦を指揮した大田實中将は、自決の前に海軍省に電報を打
  つ。「一木一草焦土ト化セン、糧食六月一杯ヲ支フルノミナリト
  イフ、沖縄県民斯ク戦へり」と述べた後、県民に「後世格別ノ御
  高配ヲ賜ラン事ヲ」と訴えて、この電報を結んだ。
  
   昭和天皇の「たづねて果たさむつとめ」というお言葉は、太田
  中将の「格別ノ御高配ヲ」という願いにつながっているかのよう
  である。

■2.この地に心を寄せつづけていく■

      戦火(いくさび)に焼き尽くされし摩文仁(まぶに)が岡
      みそとせ(=三十年)を経て今登り行く
      
   昭和50年7月、皇太子時代に、今上陛下は沖縄海洋博へのご
  臨席のため、初めて沖縄を訪問された。左翼過激派が跋扈する中、
  「たとえ石を投げられても」とのご決意だった。途上、摩文仁が
  岡に登られる。沖縄本島の南端、激戦終結の地である。
  
   太田中将の最期の電報から、すでに30年。「みそとせを経て
  今」ようやく、戦没者の霊を慰めに、その岡を「登り行く」。昭
  和天皇の「たづねて果たさむつとめ」につながる緊張感が感じら
  れる。
  
   その岡には魂魄の塔が立つ。生き残った人々が、散乱している
  遺骨を集め、敵味方の隔てなく納骨し、慰霊の塔として祀ったも
  のだ。陛下はこの塔に献花された時の思いを、次のような琉歌
  (琉球の古歌)に詠まれた。
  
      花よおしゆげやん (花を捧げましょう)
      人知らぬ魂    (人知れず亡くなっていった
                多くの人々の魂に対して)
      戦ないらぬ世よ  (戦争のない世を)
      肝(チム)に願て (心から願って)

   陛下は、かねてから、歴代琉球王の琉歌を一冊の大学ノートに
  びっしり書き写して、琉歌を学ばれてきた。ここに沖縄の人々の
  霊に、沖縄の言葉で、鎮魂の歌を捧げる事がかなったのである。

   沖縄滞在中、陛下は次のようなメッセージを国民に向けて発表
  された。
  
       払われた尊い犠牲は、一時の行為や言葉によってあがなえ
      るものではなく、人々が長い年月をかけて、これを記憶し、
      一人ひとり、深い内省の中にあって、この地に心を寄せ続け
      ていくことをおいて考えられません。
      
  「この地に心を寄せつづけ」られた陛下は、皇太子時代に5度、
  沖縄を訪問されている。

■3.また一緒懸命やろう■

   平成5年4月、全国植樹祭ご臨席のため、陛下は即位の後、は
  じめて天皇として、沖縄を訪問された。飛行機の中では、しきり
  にペンを動かされ、原稿を書き直された。摩文仁が岡の平和祈念
  堂で遺族に直接語りかけたお言葉である。
  
       即位後早い機会に沖縄県を訪れたいという念願がかない、
      今日から4日間を沖縄県で過ごすことになりました。・・・
  
   「即位後早い機会に」と言われるのは、昭和天皇の「たづねて
  果さむつとめ」を次代の天皇として正式に果たしたい、というお
  気持ちであろう。お言葉は続く。
  
       先の戦争では実に多くの命が失われました。なかでも沖縄
      県が戦場となり、住民を巻き込む地上戦が行われ、20万人
      の人々が犠牲になったことに対し、言葉に尽くせぬものを感
      じます。ここに深く哀悼の意を表したいと思います。
      
       戦後の沖縄の人々の歩んだ道は激しいものがあったと察せ
      られます。そのような中でそれぞれが痛みを持ちつつ、郷土
      の復興に立ち上がり、今日の沖縄を築き上げたことは、深く
      ねぎらいたいと思います・・・

   原稿を見ずに、直接語りかける陛下のお言葉に、一部のかたく
  なだった遺族の心も開かれた。「県遺族連合会」の妻代表、新垣
  曽用(そよ)さんは、「これで戦後は終わりません」と語ってい
  たのだが、お言葉を聞いた後、次のように述べた。
  
       長い間ご苦労というお言葉をもらったので満足しています。
      お言葉には戦没者へのいたわりが感じられました。夫の霊前
      に報告したい。陛下の言葉でまた一緒懸命やろうという気持
      ちが湧いてきた。[3,p25]
      
■4.焦土での植樹祭■

   植樹祭の会場になった米須地区は、摩文仁が岡のすぐ横で、住
  民約15百人のうち、生き残ったのは僅かに110人という激戦
  地。激しい艦砲射撃で焼き尽くされ、焦土と化したこの地には、
  戦後47年を経ても木が生えていなかった。
  
   陛下は、戦前から沖縄の豊かな緑が守られてきたことについて、
  次のように述べられた。
  
       これは、今から250年の昔、蔡温(さいおん)によって
      保護、造林に意を用いられるようになって以来、人々が森林
      を大切にする心を持ち続けてきたからではないかと思われま
      す。
      
       残念なことに、先の戦争でこの森林が大きく破壊されまし
      た。多くの尊い命が失われた、ここ糸満市では、森林が戦火
      によってほとんど消え去りました。戦後、県民の努力により、
      森林を守り育てる様々な運動が進められていることを誠に心
      強く感じております。

   那覇商工会議所会頭の田場典正氏は、このお言葉を聞いて、次
  のように語った。
  
       250年前の蔡温の造林に触れられたことに驚いた。激戦
      の地、米須で植樹祭が行われたことは意義深い。・・・沖縄
      の将来を考えて、木を育て、ほかの面を育てていくことが我
      我の務めではないか。[3,p31]

■5.沖縄の人々の痛みを分かち合うようになってほしい■

   昭和62年8月の記者会見では、次のようなご発言があった。

       本土から大勢の人々が訪れますが、沖縄の人々の痛みを分
      かち合うようになってほしい。それが本土復帰を願った沖縄
      の人々に対する本土の人々の道であると思います。
  
   沖縄の人々に、本土の人々に対するわだかまりがあるとすれば、
  それは、唯一戦場となった事もさることながら、それ以上に、戦
  後も、沖縄の人々の悲しみや、苦しみに、本土の人々があまりに
  も無知、無関心であったという事であろう。
  
   そのわだかまりを解くには、「この地に心を寄せ続けていくこ
  と」しかない。戦没者を慰霊し、遺族を励まし、琉歌を学んで沖
  縄の人々の心を知り、蔡温などの郷土の偉人の事跡を顕彰する、
  これらすべて、皇太子時代から20年以上も、陛下が沖縄に寄せ
  つづけてこられた御心のあらわれである。
  
■6.うちのおばあちゃんは偉い!■

   この4日間のご滞在期間中、沿道で奉迎した県民の数は、13
  万人(警察発表)。県民の10人に一人が出迎えたことになる。
  その一人仲村さん(25)は、おばあちゃんの姿に感動して、奉
  迎に出たという。
  
       うちのおばあちゃんは白梅隊の生き残りで、80近くで今
      リハビリ中なんだけれども、天皇陛下がこられるからと病院
      を抜け出して、椅子持参でお迎えしたんですよ。うちのおば
      あちゃんは偉い!
  
  「沿道に多くの人がいる場合はゆっくり走ってください。もっと
  多い時は停まって下さい。」と陛下は運転手に声をかけられてい
  たのだが、沿道はずっと人垣が続いて、どこで停まったらよいか
  分からず、結局、車はゆっくり走りつづけた。[3,p5]

   地方紙「琉球新報」が事前に行った電話調査では、天皇の御来
  県賛成は74%、反対は5.3%であった。[3,p23]
  
   陛下の沖縄への深い思いにより、多くの沖縄の人々が、日本国
  民としての同胞感を再確認した。「後世格別ノ御高配ヲ」という
  太田中将の願いから47年、昭和天皇の「たづねて果たさむつと
  め」は、この時、ようやく果たされたと言えよう。

■7.苦難を共にした10年間■

   ご即位後10年、度重なる天変地異に、陛下は国民と苦しみを
  共にしてこられた。平成3年7月、普賢岳の噴煙いまだ収まらな
  い島原半島に、両陛下はヘリコプターでお見舞いに駆けつけられ
  た。
  
      人々の年月かけて作り来しなりはひ(=生業)の地に灰厚く
      積む

   長崎県の高田知事は、噴火後、15ヶ月間に7回も招きを受け、
  被災地や住民の状況の説明を求められた。この災害のことを日本
  で一番心配されているのは両陛下だと、知事は言う。[4]
      
         雲仙普賢岳噴火の被災地を訪れて(平成7年)
      四年(よとせ)余も続きし噴火収まりて被災地の畑に牧草茂
      る
      
   平成5年7月の北海道南西沖地震で、大きな被害を受けた奥尻
  島には、2週間後に現地をお見舞いされ、
  
      壊れたる建物の散る島の浜物焼く煙立ちて悲しき
      
   平成10年8月には、北海道知事から復興状況をお聞きになり、
  
      五年(いつとせ)の昔の禍(まが)を思ふとき復興の様のし
      みてうれしき
  
   平成7年1月、阪神・淡路大震災にも、ヘリコプターで被災地
  を慰問され、焼け跡となった長田地区では、深々と頭を下げられ、
  皇后陛下が御所のお庭で摘まれた水仙の花を捧げられた。
  
     なゐ(=地震)をのがれ戸外に過す人々に雨ふるさまを見る
    は悲しき

■8.連帯と協力■

   陛下は、皇太子時代の昭和58年、50歳のお誕生日を前に、
  東宮御所での記者会見で次のように述べられている。
  
       政治から離れた立場で国民の苦しみに心を寄せたという過
      去の天皇の話は、象徴という言葉で表すのに最もふさわしい
      あり方ではないかと思っています。私も日本の皇室のあり方
      としては、そのようなものでありたいと思っています。
  
   人々の苦しみ、悲しみに、天皇が心を寄せ、御製やお言葉によ
  って慰められる。それによって、他の国民がそれらの人々と苦し
  みや悲しみを分かち合う。こうして天皇の御心を通じて、国民全
  体の心が通い合う。この相互の共感が国民統合の基盤である。そ
  のような思いやりのできる国民となってはじめて、外国との心の
  通いあう国際親善も可能となる。
  
   阪神大震災では、被災者同士の助け合い、自衛隊、民間企業、
  ボランティアの若者たちの献身的な救援活動が展開された。この
  点について、
  
       救援のために日夜尽くしている関係者の労苦を思うととも
      に、この不幸な時期を皆が強い連帯と協力の下に乗り越え、
      ・・・

  と表現された。国民相互の共感に基づく「連帯と協力」こそ、国
  家という共同体を維持発展させる生命力である。今上陛下は身を
  もって、その「国民統合の象徴」としての役割をたゆまずに果た
  されつづけている。

■参考■
1. 「道 天皇陛下御即位十年記念記録集」、宮内庁、日本放送出
   版協会、H11.10
2. 「今上陛下の御歌を拝して」、小柳陽太郎、「祖国と青年」、
   H2.11
3. 「天皇陛下の祈りの旅」、「祖国と青年」、H5.6
4. 「アンテナ」、官庁速報、時事通信社、H4.10.8

■リンク■
★ JOG(012) 仁
  「この魚は、日本のチャオ・ファー・チャイ(皇太子)が持って
  きてくれたんだ」この魚の漢字名は「仁魚」という。華僑系市民
  がこの話に感動して、陛下のお名前(明仁)をとって命名した由
  である。

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