[トップページ] [平成12年一覧][国柄探訪][210.761 戦後:占領下の戦い][311 皇室の祈り][911 詩歌]


---------------Japan On the Globe(136)  国際派日本人養成講座
        _/_/         
         _/          国柄探訪:復興への3万3千キロ
        _/
  _/   _/   「石のひとつでも投げられりゃあいいんだ」占領軍の             
   _/_/     声をよそに、昭和天皇は民衆の中に入っていかれた。 
-----------------------------------------H12.04.29  23,557部

■1.石のひとつでも投げられりゃあいいんだ■

         ヒロヒトのおかげで父親や夫が殺されたんだからね、旅
        先で石のひとつでも投げられりゃあいいんだ。
        
         ヒロヒトが40歳を過ぎた猫背の小男ということを日本
        人に知らしめてやる必要がある。神さまじゃなくて人間だ、
        ということをね。
        
         それが生きた民主主義の教育というものだよ。
        
     昭和21年2月、昭和天皇が全国御巡幸を始められた時、占
    領軍総司令部の高官たちの間では、こんな会話が交わされた。
    [1]

     しかし、その結果は高官達の"期待"を裏切るものだった。昭
    和天皇は沖縄以外の全国を約8年半かけて回られた。行程は3
    万3千キロ、総日数165日。各地で数万の群衆にもみくちゃ
    にされたが、石一つ投げられたことはなかった。
    
     イギリスの新聞は次のように驚きを率直に述べた。
    
         日本は敗戦し、外国軍隊に占領されているが、天皇の声
        望はほとんど衰えていない。各地の巡幸で、群衆は天皇に
        対し超人的な存在に対するように敬礼した。何もかも破壊
        された日本の社会では、天皇が唯一の安定点をなしている。
    
     イタリアのエマヌエレ国王は国外に追放され、長男が即位し
    たが、わずか1ヶ月で廃位に追い込まれた。それに対して、日
    本の国民は、まだ現人神という神話を信じているのだろうか?
    欧米人の常識では理解できないことが起こっていた。[2]
    
■2.全国を隈無く歩いて、国民を慰め、励ましたい■

     昭和天皇が全国御巡幸の決意を示されたのは、敗戦直後、昭
    和20年10月であった。宮内府次長加藤進氏に次のように指
    示された。
    
         この戦争により先祖からの領土を失ひ、国民の多くの生
        命を失ひ、たいへん災厄を受けた。この際、わたくしとし
        ては、どうすればよいのかと考へ、また退位も考えた。し
        かし、よくよく考へた末、全国を隈無く歩いて、国民を慰
        め、励まし、また復興のために立ちがらせる為の勇気を与
        へることが自分の責任と思ふ。このことをどうしても早い
        時期に行ひたいと思ふ。ついては、宮内官たちはわたくし
        の健康を心配するだらうが、自分はどんなになってもやり
        ぬくつもりであるから、健康とか何とかはまつたく考へる
        ことなくやってほしい。宮内官はその志を達するやう全力
        を挙げて計画し実行してほしい。[3,p23]
    
     御巡幸の打診を受けた占領軍総司令部は、冒頭で紹介したよ
    うな魂胆もあって、許可した。

■3.「食べ物は大丈夫か」「家はあるのか」■

     昭和21年2月19日の最初のご訪問の地は、昭和電工・
    川崎工場であった。食糧増産に必要な化学肥料の硫安を生産し
    ていたが、空襲で70%の設備が破壊され、社員は必死で復旧
    に努めていた。
        
     一列に並んだ工員たちに、昭和天皇は「生活状態はどうか」、
    「食べ物は大丈夫か」「家はあるのか」と聞かれた。感極まっ
    て泣いているものも多かった。案内していた森社長は、天皇が
    身近な質問ばかりされるので、宮中で安楽な生活をされていた
    ら、こんなことは口だけでは言えまい、と急に深い親しみを感
    じた。[4,p376-381]
    
     二度目の御巡幸は、2月28日、都内をまわられた。大空襲
    で一面、焼け野原である。新宿では、昭和天皇の行幸を知った
    群衆が待ちかまえ、自然に「天皇陛下、万歳」の声が巻き起こ
    った。昭和天皇が帽子をとってお応えになると、群衆は米兵の
    制止も振り切って、車道にまでなだれこんだ。これ以降、巡幸
    される先々で、このような光景が繰り返された。[3,p61-62]
    
■4.あつさつよき磐城の里の炭山に■

     昭和21年には、関東、東海地方の各県を廻られ、22年6
    月には、大阪、兵庫、和歌山。そして8月の酷暑の中を東北全
    県の巡幸を希望された。側近が驚いて、涼しくなってからでは、
    と延期を願ったが、「東北の運命(食料の増産)は、真夏にか
    かっている。東北人の働くありのままの姿を是非この目に見て
    激励してやりたい」と許されなかった。

     敗戦直後で、宿舎がままならず、列車の中や、学校の教室に
    泊まられた事もあった。「戦災の国民のことを考へればなんで
    もない。十日間くらゐ風呂に入らなくともかまはぬ」と言われ
    て、行幸を続けられた。
    
     出炭量の40%を占める重要なエネルギー供給基地福島県の
    常磐炭坑では、地下450mの坑内を歩かれ、40度の中を背
    広、ネクタイ姿で、上半身裸の鉱夫たちを激励された。深い坑
    内で万歳の声が轟いた。この時の御製(お歌)である。
    [3,p123-127]
    
        あつさつよき磐城の里の炭山にはたらく人をををしとぞ見
        し
    
■5.浅間おろしつよき麓にかへりきて■

     この2ヶ月後には休む暇なく、甲信越地方9日間の御巡幸に
    出られた。最初に浅間山の初雪の中を2キロも歩かれて、山麓
    の大日向開拓村を訪問された。大日向村は満洲への分村移民を
    全国で最初に実行した村である。しかしソ連の満洲侵略により、
    移民694名中、ようやく半数の323名が生き残って、村に
    帰ってきた。そして標高1095mの荒れ地を切り開いて、入
    植していたのである。
    
     天皇をお迎えした開拓団長堀川源雄の奏上は、幾度となく涙
    でとだえた。昭和天皇のお顔も涙に濡れた。[3,p163-165]
    
        浅間おろしつよき麓にかへりきていそしむ田人とふとくも
        あるか 

■6.老人(おひびと)をわかき田子らのたすけあひて■

     この年、11月から12月にかけてには、さらに鳥取、島根、
    山口、広島、岡山をまわられた。島根県では新川開拓村で3万
    人の奉迎に応えられた後、伊波野村で農作業をご覧になられた。
    農業会長が、働いている老夫をさして、「我が子を二人とも失
    いましたが、村人の助けも得て、屈することなく働いておりま
    す」と説明すると、天皇は次のようなお言葉とお歌を賜った。
    
         この度は大事な二人の息子を失いながら、猶屈せずに食
        糧増産に懸命に努力する老農の姿を見、一方又、これを助
        ける青年男女の働きぶりを見て、まことに心うたれるもの
        があった。このやうな涙ぐましい農民の努力に対しては深
        い感動を覚える。いろいろ苦しいこともあらうが、努力を
        続けて貰ひたい。[3,p201-203]
        
        老人(おひびと)をわかき田子らのたすけあひていそしむ
        すがたたふとしとみし

■7.ああ広島平和の鐘も鳴りはじめ■

     12月5日、広島に入られる。広島市では戦災児育成所の原
    爆孤児84名に会われた。原爆で頭のはげた一人の男の子の頭
    を抱えるようにして、目頭を押さえられた。周囲の群衆も静ま
    りかえって、すすり泣く。
    
     爆心地「相生橋」を通過されて、平和の鐘が鳴る中を元護国
    神社跡で7万の奉迎を受けられた。周囲には黒こげの立木、あ
    めのように曲がった鉄骨が残る中で、天皇はマイクで次のよう
    に語られた。
    
         このたびは皆のものの熱心な歓迎を受けてうれしく思ふ。
        本日は親しく市内の災害地を視察するが、広島市は特別な
        災害を受けて誠に気の毒に思ふ。広島市民は復興に努力し、
        世界の平和に貢献せねばならぬ。
        
        ああ広島平和の鐘も鳴りはじめたちなおる見えてうれしか
        りけり
        
     この中国地方行幸にお目付役として同行していた占領軍総司
    令部民政局のケントは、原爆を落とされた広島の地ですら誰一
    人天皇を恨む者がいないことに、ただただ驚くばかりであった。
    もともと天皇制廃止を目論んでいた民政局は、兵庫県で小学生
    達が禁止されていた日の丸を振ってお出迎えしたのを「指令違
    反」であるとして、以後の御巡幸中止を命じた。
    
     しかし、御巡幸を期待する九州、四国地方からの嘆願や議会
    決議が相次ぎ、昭和天皇も直接マッカーサーにお話しされた模
    様で、翌々年に再開が許可された。[3,p212-238]

■8.子らに幸あれ■

     昭和24年5月18日から6月10日にかけては、九州全県
    を巡幸された。5月22日に立ち寄られた佐賀県基山町の因通
    寺には、40余名の戦災孤児のための洗心寮があった。孤児た
    ちの中に、位牌を二つ胸に抱きしめていた女の子がいた。
    
     昭和天皇は、その女の子に近づかれて、「お父さん、お母さ
    ん?」と尋ねられた。「はい、これは父と母の位牌です」とは
    っきり返事をする女の子に、さらに「どこで?」。
    
     「はい。父はソ満国境で名誉の戦死を遂げました。母は引き
    上げの途中病のためになくなりました。」
    
     天皇は悲しそうな顔で「お寂しい」と言われると、女の子は
    首を横に振って、「いいえ、寂しいことはありません。私は仏
    の子です。仏の子供は亡くなったお父さんとも、亡くなったお
    母さんともお浄土にいったら、きっともう一度会うことができ
    るのです。・・・」
    
     昭和天皇は、すっと右の手を伸ばされ、女の子の頭を2度、
    3度と撫でながら、「仏の子供はお幸せね。これからも立派に
    育っておくれよ」と言われた。数滴の涙が畳の上に落ちた。
    「お父さん」、女の子は小さな声で昭和天皇を呼んだ。[5]
    
        みほとけの教へまもりてすくすくと生い育つべき子らに幸
        あれ

■9.天皇陛下さまを怨んだこともありました■

     因通寺の参道には、遺族や引き揚げ者も大勢つめかけていた。
    昭和天皇は最前列に座っていた老婆に声をかけられた。「どな
    たが戦死をされたのか」
    
    「息子でございます。たった一人の息子でございました」声を
    詰まらせながら返事をする老婆に「どこで戦死をされたの?」
    
    「ビルマでございます。激しい戦いだったそうですが、息子は
    最後に天皇陛下万歳と言って戦死をしたそうです。・・・天皇
    陛下様、息子の命はあなた様に差し上げております。息子の命
    のためにも、天皇陛下さま、長生きをしてください」
    
     老婆は泣き伏してしまった。じっと耳を傾けていた天皇は、
    流れる涙をそのままに、老婆を見つめられていた。
    
     引き揚げ者の一行の前では、昭和天皇は、深々と頭を下げた。
    「長い間遠い外国でいろいろ苦労して大変だったであろう」と
    お言葉をかけられた。一人の引き揚げ者がにじり寄って言った。
    
         天皇陛下さまを怨んだこともありました。しかし苦しん
        でいるのは私だけではなかったのでした。天皇陛下さまも
        苦しんでいらっしゃることが今わかりました。今日からは
        決して世の中を呪いません。人を恨みません。天皇陛下さ
        まと一緒に私も頑張ります。
        
     この言葉に、側にいた青年がワーッと泣き伏した。「こんな
    筈じゃなかった。こんな筈じゃなかった。俺がまちがっておっ
    た。俺が誤っておった。」
    
     シベリア抑留中に、徹底的に洗脳され、日本の共産革命の尖
    兵として、いち早く帰国を許されていた青年達の一人であった。
    今回の行幸で、天皇に暴力をもってしても戦争責任を認めさせ、
    それを革命の起爆剤にしようと待ちかまえていたのである。天
    皇は泣きじゃくる青年に、頷きながら微笑みかけられた。[5]

■10.復興のエネルギー■

     九州御巡幸では約190カ所にお立ち寄りになり、各県とも
    6、7割の県民が奉迎したので、約700万人とお会いになっ
    た。
    
     御巡幸はその後も、四国、北海道と昭和29年まで続き、8
    年半の間に昭和天皇は沖縄をのぞく、全都道府県をまわられ、
    お立ち寄り箇所は1411カ所におよんだ。奉迎者の総数は数
    千万人に達したであろう。
    
        戦のわざはひうけし国民を思ふこころにいでたちてきぬ
        わざはひをわすれてわれを出むかふる民のこころをうれし
        とぞ思ふ
        国をおこすもとゐとみえてなりはひにいそしむ民の姿たの
        もし (*なりはひ=しごと)
        
     大日本帝国が崩壊して、始めて国民は間近に天皇を拝する機
    会を得た。驚くべき事に、それは人々と共に悲しみ、涙を流す
    天皇であった。一人ひとりが孤独に抱えていた苦しみ、悲しみ
    に、天皇が涙を流された時、人々は国民同胞全体が自分達の悲
    しみ、苦しみを分かち合ってくれたと感じ、そこからともに頑
    張ろう、という気持ちが芽生えていった。戦後のめざましい復
    興のエネルギーはここから生まれた。

     昭和63年9月、昭和天皇が病床につかれると、全国の御平
    癒祈願所に約9百万人が記帳に訪れた。40数年前の御巡幸で
    昭和天皇に励まされた人々も少なくなかったであろう。
    
     昭和天皇は病床で「もう、だめか」と言われた。医師たちは、
    ご自分の命の事かと思ったが、実は「沖縄訪問はもうだめか」
    と問われたのである。御巡幸の最後の地、沖縄に寄せられた昭
    和天皇の御心は、今上陛下によって平成5年に果たされた。
    [a]

■リンク■
a. JOG(112) 国柄探訪:共感と連帯の象徴

■参考■(お勧め度、★★★★:必読〜★:専門家向け)
1. ★★「天皇家の密使たち−占領と皇室」、高橋紘・鈴木邦彦、
  文春文庫、H1.3
2. ★★「天皇裕仁の昭和史、河原敏明、文芸春秋社、S58
3. ★★★「昭和天皇の御巡幸」、鈴木正男、展転社、H4.9
4. ★★★「天皇家の戦い」、加瀬英明、新潮文庫、S60.7
5. 「天皇さまが泣いてごじゃった」、調寛雅、祖国と青年、H11.4
_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/ おたより _/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/
■「国柄探訪:共感と連帯の象徴」について 
                                    岡さん(広島県在住)より

     今回の記事を中学1年の長女に読んでやりながら、わたしも
    子供も、涙が流れてなりませんでした。世界に誇るべき天皇陛
    下のおられる日本の国民として生まれ育っていることが嬉しく
    てなりませんでした。

     我が家では日本人の誇りの大切さを子どもたちに教えたいと
    思っていますが、広島県に在住し、公立の小・中学校に子供を
    通わせています。ここでの人権重視・反日教育に怒りを感じま
    す。
    
     先日も、小学校の先生の反日的な発言、偏った意見に抗議し
    ました。幸いにも教頭先生が理解があり、受け止めて下さるの
    には感謝しています。

     しかし傷つきやすい子どもたちの力になるようなこんな記事
    を、もっともっと読んでやりたいと思っています。これからも
    すばらしい記事をよろしくお願いします。

■編集長・伊勢雅臣より

     偏向教育の犠牲になっている広島の子どもたちに、力を与え
    られたとしたら、何よりうれしい事です。教育関係者には、本
    講座総集編を差し上げています。ホームページからお申し込み
    下さい。

[トップページ] [平成12年一覧][国柄探訪][210.76 戦後][911 詩歌]

© 平成12年 [伊勢雅臣]. All rights reserved.