[トップページ] [平成12年一覧][Common Sense] [371.6 学級崩壊


-----Japan On the Globe(166)  国際派日本人養成講座----------
          _/_/   
          _/     Common Sense: 教室から失われたもの
       _/_/                    〜縦と横とのいのちのつながり
_/ _/_/_/     高校生たちの作文には気のきいた人生観やしゃれた
_/ _/_/      風刺はあっても、何かが決定的に欠けていた。
-----H12.11.26  30,606部------------------------------------

■1.学問に対するきびしさとよろこび■

         個性を尊重するという前に、個性を強くたくましく鍛え
        るためにはどうすればいいか、それが問題なのにその訓練
        の方法を誰ひとり教えてはくれない。[p42]
        
         子供は子供で、「自由にのびのびと」といっても、水泳
        の基本も教わらないままに水の中に放り込まれたようで、
        何をどう書いていいか分からない。[p33]
    
     昭和25年から、30年余にわたって、福岡県立修猷館高校
    で教育にたずさわってこられた小柳陽太郎先生の新著「教室か
    ら消えた『物を見る目』、『歴史を見る目』」の一節である。
    
     修猷館高校は、天明4(1784)年、黒田藩の藩学として創設さ
    れ、戦後も教育改革の波に洗われることなく、「猷(みち)を
    修む」という校名も、校風も維持されてきた学校であった。
    その校風を、小柳先生は次のように描写される。
    
         職員室の中にも授業以前に「学問」に対するきびしさと
        よろこびがあふれていたし、校則はルーズなところもあっ
        たが、教師と生徒との間の深い信頼関係には、それを補っ
        てあまりあるものがあった。このような校風、それは戦前
        の旧制高校にも通う、学問をよろこびとする教育の、いわ
        ば原点というべきものであろう。[p229]
    
     「学問に対するきびしさとよろこび」、「教師と生徒の深い
    信頼関係」、、、戦後の教育改革の中で、我々がすっかり忘れ
    去ってしまった世界がここにはある。教育改革の方法論がさか
    んに議論されているが、その大前提として我々が忘れ去ってし
    まった教育の原点を、小柳先生の言葉を通じて再発見したい。
    
■2.私は生かされている。野の草と同じである。■

     高校一年生の現代国語の時間に、風景画家・東山魁夷(かい
    い)の自伝「風景との対話」の一文を授業で取り上げた時のこ
    とである。信州八ヶ岳の高原で絵を描き続けていた頃、昨年の
    芒(すすき)が冬が過ぎても細く立っているのを、東山魁夷は
    不思議に思う。
    
         やがて、再び春が巡ってくる。さて、あの芒は----雪が
        降ってきた時は、だんだん下から積もって、そのまま倒れ
        ずにいるうちに、しまいには、すっぽりと雪の中に蔽いか
        くされてしまう。雪が解けると、頭の方から出てきて、こ
        うして春に残るのである。私はこの弱々しいものの、運命
        に逆らわないで耐えている姿に感動した。
        
     こうした体験から、東山魁夷は自らの人生観を次のように述
    べる。
    
         私は生かされている。野の草と同じである。路傍の小石
        とも同じである。生かされているという宿命の中で、精い
        っぱい生きたいと思っている。精いっぱい生きるというこ
        とは難しいことだが、生かされているという認識によって
        いくらか救われる。
    
     この一文に、生徒の驚きは大きかった。一人の生徒はこう感
    想を述べた。
    
         僕は東山魁夷の考え方に驚きを感じた。彼は自分を生か
        されていると見ているのだ。僕は自分自身をそういう考え
        方でとらえたことは今まで一度もなかった。
    
■3.いのちにふれる道■

     共鳴するにしろ、反発するにしろ、大部分の生徒の受け止め
    方は、このような驚きで共通していた。小柳先生は次のように
    述べられる。
    
         その率直な感想は大切だと思うが、生徒たちが、「生か
        されている」という考え方にいま始めて出会ったというよ
        うなことでいいのだろうか。これが現代の子供たちに共通
        した感想であるとすれば、現状の教育からは人間としての
        一番大切なポイントが外されている、と思われてならない
        のである。

    「人間としての一番大切なポイント」とは何か?

         いのちを大切にするという。戦後の教育ではこのことは
        きわめて強調されてきたようである。しかしそれが一見ま
        ことしやかに見えながら、結局のところ、自己の生へのあ
        くなき執着に終わっているのはなぜか。
        
         いのちの尊さ、いのちの大切さ---それを身にしみて感
        じるのは、他のいのちとのつながりに目覚めるときではな
        いか。空ゆく雲に、路傍の花に、草蔭にすだく虫の音に無
        限の命を感じ、その命とのつながりの中に、つつましく自
        己のいのちのありようをかみしめてきたのが、日本人の伝
        統であった。自己の欲望をいかに荒々しく追求しようとも、
        それは決していのちにふれる道ではない。自分だけがこの
        世に生きているのではない----。そういう痛感の中に生か
        されている自己の姿を見つめてきたのが、日本人の珠玉の
        伝統であった。[p53]
        
     ともに「生かされている」という共感の中で、「他のいのち
    とのつながり」を感じ、その中で「自己のいのちのありよう」
    をかみしめる、東山魁夷の個性的、独創的な画風はそこから育
    っていったのだろう。「生かされている」という一見受け身的
    な姿勢が、実は強くたくましく個性につながっているのである。

■4.何かが決定的に欠けている■

     また別の時に、小柳先生は高校3年生の作文を読まれていて、
    そこには気のきいた人生観やしゃれた風刺はあっても、何かが
    決定的に欠けている、と思われた。
    
         それは、どんなに幼くてもいい、未熟でもいい、ともあ
        れその生徒なりに受け止めた人生の美しさ、厳しさ、そう
        いう生きていく上でのひとつの「核」になるようなものと
        いっていいだろう。
        
     なぜ、こんな事になったのか、考えていくうちに、小柳先生
    は終戦直後にはじめて教壇にたったころ、国語の教科書に掲載
    されていた高村光太郎訳の「ロダンの言葉」の一節を思い出し
    た。
    
        「フィディアスとミケランジェロとの前には平伏せよ。前
        者の神々しい明浄、後者の猛烈な惨痛を讃歎せよ。讃歎は
        高い精神に対する一つの醇酒です。」
        
         今の生徒に決定的に欠けているもの、それはこの「讃
        歎」という言葉であり、偉大なものの前にひれ伏す心の姿
        勢ではないか。[p38]
        
■5.動物に欠けているもの■

         アランは、「人間論」の中で次のように言っている。
        
        「昆虫のはたらきは、われわれをおどろかす。そして、こ
        れからも分かるように、昆虫のもつ感覚の鋭敏さは、われ
        われにおとらず、また、その体の機構はきわめてうまくで
        きている。だがよく考えてみると、彼らがすべてに欠けて
        いるものは、記念物である」
        
         その記念物とは、
        「家であり、寺院であり、墓であり、・・・・伝説であり、礼
        拝と彫像であり、要するに『生者に対する死者の支配』で
        ある」。「動物に欠けているもの、それはこの記念物の父
        である墓の前に立ち止まり、それに石をひとつ重ねること
        である」[p39]
        
     先人に対する謙虚さ、節度、敬虔さ、それが「生者に対する
    死者の支配」であり、文化はそこから生まれる。それが人間と
    動物をわかつ基本なのである。
    
         美しい行為を美しい行為として感じ取ることのできる心
        を、子供たちの胸に養わねばならぬ。そんなことを言うと、
        現代の教育者は「型」にはめてはいけないと非難する。
            
         しかし、あらゆるスポーツも、楽器を扱う手先も、型か
        ら入らないものが一体どこにあるのか。型の中で鍛えられ
        たものだけが、型を破って本来の個性を伸ばす可能性を内
        に秘めているのだ。
            
         だが今の子供たちは権威の失われたむなしい世界の中で、
        型を身につけることもなく、勝手におしゃべりを始める。
        それを大人たちは勝手に個性と名づける。こうして荒涼た
        る精神の風土が、今高校の生徒たちの心中に果てしなく拡
        がっていく。[p42]
    
■6.教育者の傲慢■

     先人に対する謙虚さの欠如は、文字の使い方一つにも見てと
    れる。ある現代国語の教科書には、柳田国男の「清光館哀史」
    という、東北の漁村に生きる名もない人々に注ぐ深々とした愛
    情のこもった一文が掲載されていた。しかし、原文の漢字は大
    幅に削除されている。
    
         また月の光を浴びて踊っている女の子の髪飾りが「月の
        光に光ったりかげったりしている」という個所で、「かげ
        る」は原文では「翳る」となっているが、もちろんこの字
        も消されているし、「大きな波の音を聴きながら」は「聞
        きながら」に改められている。「翳る」という字は舞を舞
        う時に頭にかざす羽の意から来ているのだが、薄絹のよう
        な羽根にさえぎられるかすかな光のかげろいを巧みにとら
        えた美しい文字であって、とりわけこの文章では捨てがた
        い字なのである。「聴く」は言うまでもなく「聞く」と違
        って心のこもった聴き方なのだ。[p25]
        
     このような改変を平気で行う教科書執筆者の心の中に潜む異
    常な文化感覚、すなわち、「過去の文化遺産に対する徹底した
    傲慢さ」を小柳先生は指摘する。
    
■7.「真に教ふべきこと」■

     小柳先生は、はじめて教壇に立つ若き高校教師への手紙の形
    で、真の教育者の役割について、吉田松陰の次の言葉をしるべ
    として述べられる。
        
        「必ず真に教えるべきことありて師となり、真に学ぶべき
        ことありて師とすべし」
    
     吉田松陰が黒船に乗り込もうとして失敗し、捕らえられて萩
    の野山獄に入れられた際に、獄中で11人の囚人たちに孟子の
    講義を始めた。その講義録である「講孟餘話」の一節である。
    ふたたび世に出ることのない囚人たちに対してさえ、あえて何
    事かを語らざるをえなかった熱気のこもった言葉である。

         ではその「真に教ふべきこと」とは何か。私はそれを端
        的に言えば文化だといっていいと思う。文化というとわか
        りにくければ、人類のすべてが今日の日まで積み重ねてき
        たいっさいの歴史だといってもいい。教師とは実はかかる
        歴史を、文化を後世に伝えるべき役割を担っているのです。
        (中略)
        
         教育の根幹においては、それはいま教えようとしている
        のが一首の歌であり、一個の漢字であっても、それは長い
        歴史を通して伝えられてきた文化の断面なのだ。従って私
        たちはそれをできる限り正確に、私たちの恣意を交えない
        で、生徒に伝えなければいけない、そういう役割が与えら
        れているのです。一首の歌の意味を取り違えるということ
        は、そういう先人に申し訳ないことではないのか、もしそ
        れが誤って伝わるようなことになったり、いい加減に扱わ
        れるなら、それは文化の名において責められるべきことで
        はないか。ちょっと大げさな表現になってしまいましたが、
        何かそのような気迫、それが松陰先生の言われる「真に教
        ふべきこと」ではないかと思うのです。
        
         もちろんそのことは一首の歌にとどまらない。人間の生
        き方そのものを後世に伝えるということも全く同じことで
        す。松陰先生が「士規七則」の中で「人の禽獣に異なる所
        以を知るべし」と言われたのも、結局は、人間の築き上げ
        てきた文化にめざめよという願いなのです。[p102]
        
■8.失われた「縦と横のいのちのつながり」■
    
     野の草や路傍の石に、ともに「生かされているもの」と共感
    する東山魁夷が「いのちの横のつながり」の中にいるとすれば、
    死者の墓に石を重ねるアランは「いのちの縦のつながり」の中
    に立っていると言えるであろう。
    
     野山獄で釈放される見込みもない囚人たちに、孟子を講ずる
    吉田松陰は、孟子との縦のいのちのつながりから得られた言葉
    を、囚人達との横のいのちのつながりを通じて、伝えようとし
    ているのである。
    
     あるいは、「翳る」という一字に込められた先人の思いを生
    徒らに説く小柳先生の姿も、また同じく縦横の豊かないのちの
    つながりの交差に立たれている。教育の原点とは、まさしく生
    徒に縦と横のいのちのつながりに目覚めさせ、その中で人とし
    ての生き方を学ばせる、ということではないのか。
    
     授業中に後ろの方でボール遊びをしたり、廊下を自転車で走
    り回る生徒たち、それに背中を向け黒板に向かって黙々と字を
    書く教師[a] 、、、現代の学級崩壊した教室に決定的に失われ
    ているのは、まさしくこのような縦横のいのちのつながりだと
    言えよう。
    
     教育改革を論ずるにも、まず教室において、縦と横のいのち
    のつながりをいかに回復するか、という所から考えられなけれ
    ばならないだろう。
    
■リンク■
a. JOG(065) 閉ざされたクラスルーム
   バラバラに遊び回る生徒達、「生徒に背中を向け」黒板に字を
  書き続ける先生、お互いの心のつながりを失った荒涼たるクラス
  風景である。なぜこんなことになったのか。

b. JOG(127) 学級崩壊からの救出
   現在 の学校教育は子供の自由や人権だけを考えているため、
  かえって現代の子供たちは真の自由を失っている。

■参考■(お勧め度、★★★★:必読〜★:専門家向け)
1. 「教室から消えた『物を見る目』『歴史を見る目』」、★★★
   小柳陽太郎、草思社、H12.6
   
_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/ おたより _/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/
■「教室から失われたもの」について          梅姫さんより

    「翳る」と「かげる」、「聴く」と「聞く」とをを平気で改変
    してしまう教科書執筆者に対するご指摘、まさにその通りだと
    思います。それは文化に対する冒涜であると考えます。当然こ
    れは執筆者のみならず、認可している文部省までもがそのよう
    な異常な文化感覚を持っているということになります。
    
     以前テレビの報道で「おっは〜」という流行の言葉を文部大
    臣が子供達と一緒にやっているのを見ました。そのとき正直深
    い落胆を覚えました。日本の教育を総括する文部省の長が、威
    厳の欠片も無い弛んだ顔で子供達と一緒に「おっは〜」と言う。
    そしてそれをほほえましい映像として報道するマスコミ。間違
    いなく歪んでいると思います。

     昨今頻繁に横行している少年犯罪。その原因は大人たちの威
    厳の無さからきているのでは無いかと思います。間違いを間違
    いと言えない大人たち。子供達は大人を恐れることを知らず、
    そして道を誤っても修正する術も知らず歳を重ねていく。そん
    なことで今後の日本は成り立っていくのでしょうか? 非常に
    不安を覚える次第で有ります。

■ 編集長・伊勢雅臣より

     この文部大臣の姿から、「精神的にはからっぽになってしま
    っているんだぞ」という三島由紀夫(次号)の叫びが思い起こ
    されました。

■長島(ポーランド在住)さんより

     僕は今ポーランドでボランティアとして小中学校で体育の教
    師をしています。昨年7月にポーランドに来て、これまで幾度
    と無く差別を身をもって体験した事でしょう。ただアジア人と
    言うだけで、唾をはきかけてきたり、差別用語を言われたり、
    最初は我慢していました。しかしポーランドの歴史、民族的特
    徴など調べて行くうちに、この差別がアジア人=中国人と言う
    構図である事がはっきりしてきました、つまりこれまでよく会
    った差別は私を中国人だと思ってしているらしいのです。

     ポーランドは20年前までは共産党独裁でした、だから共産
    党とロシアには異常なまでのアレルギーが今も根強くよくあり
    ます。そして今世界で最大の共産党とも言える中国も嫌いです。
    
     子供たちにアジアの事を聞くと、中国も、韓国も、台湾も、
    ベトナムも、タイもフィリピンも、日本も全てごちゃ混ぜなん
    です。それぞれの国が独自の文化を持ち、言葉も違うし、人種
    も違います、その事を子供たちが知らない。だから私が差別用
    語と感じる言葉も平気で言ってきます。
    
     でもその時私はこう言います、「確かに貴方たちから見れば
    アジア人はみんな同じに見えるでしょう、でも私たちから見た
    らポーランド人をドイツ人なのかロシア人なのか見分ける事は
    出来ない」こう言うと、(歴史的にドイツとロシアには病的な
    まで猜疑心を持っていますから一緒にされるほど屈辱的な事は
    無いのです。)子供たちはじゃあなにが違うのか聞いてきます。
    それをできるだけ答えて行くと、子供たちは「始めて知った。
    」とよくいいます。これは大人にも当てはまります。
    
     僕の任期はあと8ヶ月です、それまで精一杯子供たちに体育
    を通じて、正しい情報を提供します、そして任期終了後日本で
    教員になりたいと思います。私はまだ24歳の若造です。始め
    て海外に来て、生活をし、いろんな体験を通じて、始めて自分
    が日本人なんだと言う事を自覚しました。それまで日本なんて
    国はどうでもいいと思っていました、自分の国なのに。今は違
    います、日本人としてプライドと責任を感じています、だから
    こそ日本で教師になりたいのです。自分の体験した事を、学ん
    だ事を子供たちに伝えたい、そして日本を少しでも良くしたい
    と思っています、なんと言っても母国ですから。

■ 編集長・伊勢雅臣より

     異国の地での「横のいのちのつながり」と、母国との「縦の
    いのちのつながり」を強めていらっしゃる長島さんに声援を送
    ります。

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