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-----Japan On the Globe(170)  国際派日本人養成講座----------
          _/_/   
          _/     Common Sense: 個人主義の迷妄
       _/_/                    〜「国民の道徳」を読む
_/ _/_/_/      奉仕活動をする青年も、援助交際をする女子高生も、
_/ _/_/        同じく「個人の尊厳」では、、、
-----H12.12.24  31,223部------------------------------------

■1.「国民の道徳」発刊■

     新聞を開けば、未成年による犯罪や、官庁・企業での汚職が
    毎日のように一面を飾っている。雑踏の中で中学生の一群が周
    囲の迷惑を顧みずにジベタリアンしている。道路には飲み物の
    空缶やタバコの吸い殻が散らかっている。
    
     最近の日本の社会はたががはずれてしまったようだ。「道
    徳」という言葉すら、最近は聞かなくなった。「道徳」の時間
    を人権教育や同和教育で済ませている学校も多いそうだ。
    
     そんな中で西部邁(にしべすすむ)氏の「国民の道徳」が発
    刊された[1]。厚さ4.5センチ、673頁の大著である。1日
    1万部売れているという広告が出ていたが、あちこちの書店で、
    店頭に山積みされている所を見ると、あながち誇大広告でもな
    さそうだ。
    
     内容もかなり高度なもので、寝転がって気楽に読めるような
    本ではない。こういう本がよく売れるという事は、道徳に関し
    て多くの人が危機意識を持っているという事だろう。この本の
    ごくさわりの部分を紹介しつつ、西部氏のメッセージを考えて
    みたい。

■2.戦後的腐儒の軛(くびき)■

         戦後的腐儒が日本的社会を爛(ただ)れさせていること
        はあまりにも明らかである。道徳論を戦後的腐儒の軛(く
        びき)から解き放って歴史の良識の上に据え直す、それが
        本書の狙いである。[p14]
        
     腐儒とは「腐れ儒者」、すなわち、儒教の教えを念仏の如く
    に唱えては、世過ぎの糧としている百害あって一利なしの儒学
    者を言う。日本国憲法に代表される戦後思想をお経の如く唱え
    ている「戦後的腐儒」が、わが国の社会を根っこの所から腐ら
    せている、というのが西部氏の問題認識である。
    
     批判されている戦後思想には、個人主義、民主主義、平和主
    義、進歩主義などがあるが、本編ではまず個人主義に絞って見
    てみよう。

■3.「個人の尊厳」に潜むトリック■

         なぜ現代はかくも深く不道徳によって彩られているのか。
        いろいろな理由が考えられるが、その最も根本的な理由は、
        道徳について考えないで済ましうるような人間観を、まる
        で観念のトリックのようにして、近現代社会が採用したと
        いう点にある。[p201]
    
     その人間観とは「個人の尊厳」である、と西部氏は指摘する。
    教育基本法の前文には、「個人の尊厳を重んじ、真理と平和を
    希求する人間の育成を期する」とあり、また日本国憲法では第
    13条で「すべての国民は、個人として尊重される。」とある。
    
         自分は尊厳に満ちた存在であると構えてしまえば、誰し
        も道徳とは何だろうか、価値的に力強く生きるとはどうい
        うことだろうか、とわざわざ考えなくてよくなる。つまり、
        生きていることそれ自体によって、すでに尊厳ある生き方
        を保証されている、と近現代人の多くは考えてきたのであ
        る。[p202]
        
     たしかに「個人の尊厳」と言ってしまえば、阪神大震災で被
    災者救援に立ち上がった青年達も、遊ぶ金欲しさに援助交際に
    走る女生徒も、尊厳性において変わりはない。
    
     「人間にとって大切なことは、単に生きることではなく、よ
    く生きることである。」として、「よく生きるとはどういうこ
    とか?」と問いかけた所から、ソクラテスの哲学は始まった。
    しかし「個人の尊厳」説は「単に生きること」だけで尊いとし
    て、ソクラテスの問いかけを棚上げにしてしまう。
    
■4.他者とは切り離された「個人」■

     さらに注目すべきは、「個人」という言葉である。我々は、
    たとえば親に対する息子であり、家庭では夫であり、職場では
    上司や部下や同僚を持つ、というように他者との関係の中で生
    きている。しかし「すべての国民は個人として尊重される」と
    言った場合の「個人」は、まるで虚空に浮かぶ原子のように、
    他者との関係をすべて断ち切られた孤立した存在である。
    
     西部氏はこれを「原子的個人主義」と呼び、それに対して日
    本においては「間柄」を重んじ、関係者とのつながり方を意識
    した上で、自分の独自性を主張する「相互的個人主義」がある
    とする。
    
     そう言われてみると、日本語には「間」を意識した言葉が多
    い。「人間」とか「世の中」、「世間」という言葉自体に、す
    でに「間」という意識が入っている。
    
     相互的個人主義では、個人と個人との間柄がネットワークと
    なって社会を構成し、個人の本領もその間柄の中で発揮される
    と見る。家庭では「良き夫、良き父」と愛され、友人からは
    「信頼できる男だ」と言われ、また職場では「頼れる奴」
    と評価される----「より良き生」とは、このように他者との間
    柄において発揮される。
    
     たとえば画家が良い絵を描きたい、と思うのは、純粋に個人
    的な営みのように見えるが、実はその絵に感動してくれる人が
    いるからこそ、画家としての生き甲斐も感じられるのであって、
    他者との間柄があればこそ、絵描きとしての「良き生」もある
    のである。

     従来は、欧米の個人主義に対して、日本の社会は「集団主
    義」と言われていたが、それは間違いであると西部氏は指摘す
    る。集団主義であれば全体だけが問題で、個人間の間柄という
    視点は不要である。「間柄」を気にするのは、それぞれが「個
    人」として自由に独自性・主体性を発揮する存在だと考えられ
    ているからこそである。

■5.タテとヨコの「間柄」■

     個人が家庭や職場・学校などを通じて、他者とのつながりを
    持つというヨコの間柄を「社会性」と呼ぶとすれば、もう一つ
    「歴史性」というタテの間柄がある。
    
     我々は、先祖から子孫へとつながる家系の中である位置をし
    め、また職場や学校の伝統の中で生きている。そして広くは日
    本民族の長い歴史の流れの中に生を与えられている。
    
    「わが国が侵略戦争をした」として罪悪感を抱く人は、わが国
    の先人に対してつながりを感じているからである。原子的個人
    主義から言えば、たとえばドイツのワイツゼッカー元大統領の
    次の発言のように、ナチスの罪でさえドイツ民族として引き受
    けることを拒否しうる。
    
         一民族全体に罪がある、もしくは無実である、というよ
        うなことはありません。罪といい、無実といい、集団的で
        はなく個人的なものであります。[a]
        
     原子的個人主義では、社会性も歴史性も意識されず、虚空の
    中で孤立した生を送っているという見方に導かれやすい。そう
    なると、麻薬に浸ろうと、援助交際しようと、自分さえ良けれ
    ばそれで良い、それが私という「個人の尊厳」だ、ということ
    になってしまう。
    
    「他人に迷惑をかけるな」とか「法律や学校のルールを守れ」
    といっても、それは他人や社会との「間柄」の問題なので、真
    の原子的個人主義者には通用しない。
    
     相互的個人主義なら「我が校の伝統を汚すな」とか、「ご先
    祖様に対して申し訳ない」とか、さらには「郷里の偉人に続
    け」「国威を発揚しよう」などと、「他者との間柄」がテコと
    なって、より良き生を目指す動機として働きうるのである。

■6.欧米の歴史の中から生まれた原子的個人主義■

    「個人の尊厳」を説く原子的個人主義の源をたどっていくと、
    1776年のアメリカ独立宣言における「造物主によって人は生ま
    れながらにして平等、自由、その他の天賦の権利を授けられて
    いる」という一節にいきあたる。
    
     造物主とはキリスト教のゴッドである。本来、人間は原罪を
    持つ罪深い存在であり、ゴッドのみが尊厳性を持っていたのが、
    やがてルネッサンスを機に、ゴッドから授かった理性と良心の
    力にこそ「個人の尊厳」がある、だから個人が「天賦の権利」
    を持つのも当然だと考えられるようになった。「個人の尊厳」
    説はアメリカ独立革命やフランス革命などで、専制政治と戦う
    上で重要な役割を果たした。
    
     このように原子的個人主義は、キリスト教を母胎とし、専制
    政治との戦いという欧米の歴史の中で発達した人間観なのであ
    る。しかし自由と民主が実現した後で、ゴッドの尊厳や人間の
    罪深さが忘れられ、「個人の尊厳」だけが言い続けられると、
    欧米諸国においても道徳の崩壊に悩まされることになる。
    
     まして初めからゴッドの観念など持たないわが国において、
    占領軍によって「個人の尊厳」を押しつけられ、なおかつ今ま
    での社会秩序の基盤であった相互的個人主義を破壊されたので
    は、現在のような道徳崩壊に陥るのは必然である。
    
    「個人の尊厳」は現代社会では、中国や北朝鮮のような国々で
    こそ、なおも叫ばれねばならないが、わが国のように自由も基
    本的人権も達成された社会において、それのみを念仏のように
    唱え続けるのは、まさに「戦後的腐儒の軛(くびき)」である。
    我々はまず原子的個人主義を唯一絶対、人類普遍の原理と信仰
    する迷妄から目覚めなければならない。

■7.道徳は歴史的慣習から生み出される■

     原子的個人主義が欧米社会の歴史を通じて形成されてきたよ
    うに、日本の相互的個人主義も、わが国社会の歴史伝統の中か
    ら生まれてきた智恵である。ここで思い出されるのが、教育勅
    語の次の一節である。

         父母ニ孝ニ、兄弟ニ友ニ、夫婦相和シ、朋友相信シ、恭
        倹己レヲ持シ、博愛衆ニ及ホシ、
    
    「父母に孝養をつくし、兄弟仲良くし、夫婦が相和し、友達同
    士で信頼しあい、人に対してうやうやしく、自分の行いは慎み
    深くし、博愛を広く社会に及ぼし」と、道徳の徳目が「個人道
    徳」ではなく、まず他者との「間柄」において具体的に説かれ
    ている。江戸時代以前から「間柄」を尊ぶ伝統を持つわが国社
    会にとっては、これらの徳目は違和感のないものであったろう。
    
     教育勅語復活云々の議論は別として、圧倒的な西洋文明の影
    響下にあっても、わが国の歴史伝統に根ざした徳目を選んだ、
    という点は、明治時代の我が先人たちの叡智を示すものである。
    
     道徳論を「歴史の良識の上に据え直す」という西部氏の主張
    は、この叡智に習って、我々自身の歴史と伝統の中から新しい
    時代にふさわしい道徳を発見していこう、ということであろう。

■8.おのれのことを「自分」と呼んでみよう■

         まずおのれのことを「個人」ではなく、「自分」と呼ん
        でみよう。[p216]
        
    と、西部氏は呼びかける。「自」とは「おのれ」という「個
    人」を表しているが、「分」は全体の中の一部であることを示
    す。「自」は個人として当然大切にされなければならないが、
    世間や職場や家庭との間柄において「分」を守る義務もある。
    良き生とは、この「自」と「分」とのバランスの上に成り立た
    ねばならない。ここにおいて相互的個人主義は、「個」と「集
    団」、「私」と「公」のバランスを回復させる道徳基盤となり
    うる。
    
     相互的個人主義は、さらにわが国の将来を導く豊かな価値観
    を内包している。
    
         相互の間柄を大事にするとき、彼我のあいだには何ほど
        かの平等性を確保しなければならない。そうでなければ、
        間柄そのものが壊れてしまう恐れが大きくなるからである。
        もっというと、平等主義が民主制の眼目だという点を考慮
        に入れるなら、相互的個人主義は民主制に馴染みやすい性
        質を持っているのである。[p92]
        
     国民の9割が中流意識を持つほどに、日本は世界に冠たる平
    等社会である[p85]、という現象も、この相互的個人主義から
    出てきているのである。
    
     さらに、西部氏は指摘していないが、国際社会も国と国との
    「間柄」によって成り立つために、「間柄」を尊重する相互的
    個人主義は国際協調主義への志向を持つ。現在のわが国が国際
    社会でエゴイスティックに国益を主張したり、特定のイデオロ
    ギーを押しつけたり、という事がほとんどないのも相互的個人
    主義の現れといえよう。
    
     このようにわが国の歴史伝統が生みだした相互的個人主義は、
    「個の尊重」のみならず、「平等」「民主」「国際平和」をも
    内包しうる懐の深さを持っているのである。それはまさに「道
    徳論を据え直す」に足る「歴史の良識」であると言える。

■リンク■
a. JOG(118) 戦後補償の日独比較
  ドイツは誠実、日本は逃げている?

■参考■(お勧め度、★★★★:必読〜★:専門家向け)
1. 「国民の道徳」★★★、西部邁、産経新聞社、H12.10
■「Common Sense: 個人主義の迷妄」について
                               Chocoさん(モスクワ在住)より

     他人との関係の中の自己認識はたしかに現代に最も欠けた部
    分でしょう。私自身の個人的な経験の中でも、同世代の多くの
    人が割合に、「個人主義」でやるべき「分」は果たさないのに、
    要求だけする人が多かったような気がします。
    
     私は、不器用な性格なのもあって、損をしても、「分」は果
    たさなければ気が済まない人間だったので、できる以上のこと
    を引き受けては苦労してきました。でも今になって、あのとき、
    無理してでも自分の「分」はせめて果たしてきたことが、現在
    の自信に繋がっているのだと感じます。

     ところで、私の近所にアパートの管理や修理の作業員のよう
    な一見怖そうなおじさんがいるのですが、そのおじさんに最初
    にお世話になったとき、「お前は中国人か、日本人か?」と聞
    かれて、「日本人だ」と答えると、一変して機嫌がよくなり、
    (顔つきまで一変するのが面白い)それから、饒舌になって、
    「日本とロシアは昔戦争したんだ。ずっと昔のことだけど。俺
    はコダマを尊敬している」としみじみ言っていました。

     なぜ、あのおじさんが、コダマが好きなのかは分かりません。
    多分、侍が好きなのと同じように、その精神性に惹かれるので
    しょう。でも、たいてい、ロシア人が日本人を見るとき、いま
    だに、「侍の末裔」と思うことが多いようです。実際、聞かれ
    た際に、「たしかに先祖は侍だ」と言っただけで、見る目が変
    わってくるくらい、侍の哲学に憧れがあるようです。

     長くロシアに住んでやっと、自分の先祖の偉大さが分かった、
    というのも皮肉なものですが、そのお陰で日々の自分の行動を
    律することができるとしたら、大変有難いことであり、外見は
    同じような東洋系の人々と、日本人を完全に別物として扱って
    くれる違いの分かるロシア人のお陰で、自覚し、反省しながら、
    暮らしています。

     彼らの思い描く”美しい日本の日本人”を汚さないようにし
    ていきたいものです。

■ 編集長・伊勢雅臣より

     コダマは児玉源太郎、日露戦争時の満洲軍総参謀長です。ロ
    シアの騎士道精神と、日本の武士道精神が感応しあう所があっ
    たのでしょう。国家のために「分を尽くす」精神は、国境を越
    えて通じ合うものです。

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