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-----Japan On the Globe(182)  国際派日本人養成講座----------
          _/_/   
          _/      人物探訪:フレッド和田(上)〜二つの祖国
       _/_/      
_/ _/_/_/       敗戦後、肩身の狭い思いをしてきた日系人たちは、
_/ _/_/       祖国日本から来た水泳チームに熱い期待を抱いた。
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■1.日系人たちの期待■

     昭和24年8月13日早朝、選手8名からなる日本水泳チー
    ムがロサンゼルスに到着した。18日からの全米水泳大会に出
    場するスポーツ界戦後初の海外遠征である。
    
     当時、日本はいまだ占領下にあり、保有外貨はゼロ。民間人
    の海外渡航は難しい時代だった。それを可能としたのが在米日
    系人の支援であった。飛行機代と滞在費で2千ドルが必要なと
    ころ、日系人たちの寄付は3千ドル以上も集まった。
    
     ロスを中心とする西海岸だけで10万人以上の日系人が住ん
    でいたが、彼らは日本の敗戦で肩身の狭いをし、白人から「ジ
    ャップ」と蔑まれてきただけに、祖国日本の選手たちに熱い期
    待をかけていたのである。
    
     選手たちは出迎えたフレッド和田の車で、彼の自宅に向かっ
    た。和田は野菜や果実を中心としたファーマー・フレッズ・マ
    ーケット10店舗の経営者で、巨額のローンで2百坪の邸宅を
    購入したばかりだった。和田はそこで選手たちの宿泊から食事
    まですべて自費で面倒見ようと申し出ていたのである。

■2.身を立てる■

     フレッド・和田勇の父、和田善兵衛は明治25(1892)年に和
    歌山県からカナダのバンクーバーへ出稼ぎ漁師として移住、 
    その後、同郷の玉江と結婚し、1907(明治40)年にフレッドが生
    まれた時には、カナダ国境に近い米国ワシントン州ベリングハ
    ムで小さな食堂を経営していた。
    
     しかし生活苦のため、フレッドは4歳の時に和歌山の母方の
    祖父母に預けられた。9歳で米国に戻ったが、弟たちが次々と
    生まれ、居場所がなくなって、12歳の時からシアトル郊外の
    農園に住み込んで、雑役夫をしながら学校に通った。
    
     17歳の時に、農作物の小売りチェーン店に移ったが、仕事
    熱心なフレッドは1年で店長に抜擢された。店長時代にサンフ
    ランシシコ湾岸地域には、豊富な野菜や果物を陳列して販売し
    ている青果業者が一軒もないことをつきとめていた。2年後、
    フレッドは貯めこんだ2千ドルをはたいて、オークランド市内
    で野菜の屋台店を手に入れ、品揃えと陳列に工夫を凝らした青
    果店を始め、大いに繁盛した。
    
     1933年26歳の時に正子と結婚。祖国思いのフレッドは、生
    まれてきた長女には京都のミヤコにちなんで美弥子、長男には
    東京に音を似せて時雄と名付けた。
    
■3.二つの祖国■

     1941(昭和16)年34歳にして、25人の従業員と3軒の店
    を持ち、日系食料品約70店からなる協同組合の理事長になっ
    ていた。

     この年の12月初旬、和田は家族でロスへの小旅行に出た。
    7日夜、リトル東京近くで映画を見て外に出ると、日本人街を
    警官が取りまき、白人達が「ジャップ、ジャップ」と叫んでい
    る。急いでホテルに戻ると、ラジオで日米開戦を知った。
    
     10日間もホテルに閉じこめられた後、なんとかオークラン
    ドの自宅にたどり着いた。ロスの日系人幹部が根こそぎFBI
    に連行されたので、オークランドの日系社会のリーダーだった
    和田も危なかったが、拘引はされずに済んだ。
    
     その年の3月、弟のビルの陸軍志願が認められた時、フレッ
    ドは悪化する日米関係を懸念して、市長や地元有力者200名
    を招いて大規模な壮行会を開催していた。日系人のアメリカへ
    の忠誠を示すデモンストレーションだったが、それが認められ
    ていたのである。
    
     フレッドと正子は何度も夜通し語り合ったが、アメリカで生
    きていくためには、アメリカに忠誠を誓うしかない、という覚
    悟を決めた。

■4.ユタの開拓地へ■

     真珠湾を攻撃されて、次は太平洋沿岸か、と恐れる米政府は、
    ワシントン、オレゴン、カリフォルニア、アリゾナ州南部から
    の日系人追放を決め、翌年3月29日までに希望退去しないも
    のは、強制収容所行きとの布告がなされた。
    
     和田はユタ州の農園が人手不足で困っている事を聞きつけ、
    早速現地に赴いて、借地を選んだ。しかし、その許可を得るた
    めには、近隣市民を集めた公聴会で承認されなければならない。
    和田は訴えた。
    
         私が皆さんに申し上げたいことは、わたしたちの国が存
        亡の危機に瀕している今こそ、食糧を増産して、いささか
        なりとも勝利を支援したい、という一語に尽きます。わた
        しの友人たちの日系人は、ごくわずかな例外はありますけ
        れど、多くの人々が合衆国の市民であり、良きクリスチャ
        ンです。かれらは勤勉で、法を守り、コミュニティ活動に
        も進んで協力するでしょう。また、彼らは一人平均1500ド
        ルの現金、もしくはそれに相当する資産をこの地に持ち込
        み、政府の援助をあてにしないことを約束できます。
        
     和田の説明を聞いて、一人の夫人が発言を求めた。
    
         私はパール・ハーバーで2人の息子を亡くしました。以
        来、日本人を見かけるたびに怒りで身がふるえます。しか
        し、ミスター・ワダの話を聞いて、考えが変わりました。
        善良なジャップならユタに迎え入れてもよいと思います。
        私たちにとって、彼らは必要なのです。
        
     日系人たちが信用できるかどうか調べるために、オークラン
    ドへ出向いた調査員は、そこの地方検事にこう言われた。
    
         わたしは7年間、地方検事を務めているが、これまでに
        日系人を起訴したことはただの一度もなかった。それどこ
        ろか日系人で容疑を受けた者さえ、一人として存在しない。
        
     さらに共同募金会の幹事は、「日系人で救済金に依存してい
    る貧困者は一人もいない」と証言した。
    
■5.Food for Freedom■

     こうして和田の誓願は認められ、130人の大集団がユタ州
    に入植することになった。和田らは毎晩12時、1時まで働い
    て、雪に埋もれた石ころだらけの荒れ地を農地に整備していっ
    た。
    
     9月中旬には雪が降り始めるので、それまでに収穫を終わら
    ねばならない。12月には気温もマイナス10度から20度に
    下がる。過酷な環境の中で、フレッド達は着々と生活基盤を築
    きあげていった。
    
     農場に近いハイウェイには、星条旗とともに、"Food for 
    Freedom"の大看板を立てて、地元の評判になった。日系人達の
    作物と、近隣農家への作業協力は、地元住民にとってなくては
    ならないものになっていった。
    
     1945年8月15日、和田は市場で日本の敗戦を知った。蒼ざ
    めた顔で、すぐに帰宅して正子に伝えた。戦争は一日も早く終
    わって欲しかったが、日本にもアメリカにも負けて貰いたくな
    かった。二人は涙が止まらなかった。空襲で焼け野原になった
    と聞く祖国のことを思うと、胸がいたんだ。
    
     ほどなく和田一家はロスに移住して青果業を始め、持ち前の
    働きぶりで、またたくまに成功を収めた。日本からの水泳チー
    ムがやってきたのは、戦後4年目のことだった。
    
■6.和田夫妻の思い入れ■

     前年にロンドンで戦後初のオリンピックが開かれていたが、
    日本は参加できず、日本選手権を同時期に開催して記録の上で
    競うことにした。1500メートル自由形決勝で、1位の古橋と2
    位の橋爪が出した記録は、ロンドンの金メダリストより40秒
    以上も速い世界新記録だったが、公認されなかった。
    
     日本のプールは短いに違いないとか、日本のストップウォッ
    チは壊れているとか書き立てるアメリカの新聞に和田らは悔し
    い思いをしていた。そこで日本の選手たちに良い環境を提供し
    て万全の体調で臨んで貰おうと和田は考えたのである。妻正子
    は、茄子のみそ汁や牛肉の照り焼きなど、おいしく、栄養のつ
    く日本食でもてなした。
    
     日本で貧しい食事しかしていなかった選手たちは、正子のご
    ちそうに大喜びし、広いベッドで十分な睡眠をとった。選手の
    一人の橋爪は、フレッドや正子と同じ和歌山出身であり、故郷
    の茶粥に舌鼓を打った。練習のためのオリンピック・プールへ
    の送り迎えはフレッドが担当した。
    
     選手達は、日系人達の思いに、深く期する所があった。

■7.再建日本の姿■

     8月16日の大会初日、1500メートル自由形予選A組に橋爪
    が出場した。橋爪は最初から飛ばし、200メートルで早くも2
    位以下の米国勢に完全に水をあけた。飛ばしすぎではないか、
    途中で息切れするのではないか、と和田は心配した。
    
     しかし橋爪はそのまま2位を150メートル以上も引き離して
    ゴールインした。タイムは18分35秒。それまでの記録を一
    気に20秒以上も短縮した世界新記録である。
    
     続くB組ではライバルの古橋が好スタートを切った。1000メ
    ートルを過ぎたころから記者席がざわつき始めた。最後の100
    メートルでは腕でぐいぐい引っ張る泳法に変わった。疲労しき
    って、最後の力を振りしぼって頑張るときに見せる古橋独特の
    泳法である。和田は、必死に泳ぐ古橋の姿に胸を打たれた。
    
     18分19秒。橋爪が出したばかりの世界新をさらに16秒
    も縮める大記録である。スタンドのアメリカの選手たちは、全
    員ボーと眺めているのみであった。古橋と橋爪をたちまち50
    人ほどの白人が取り囲んで、「グレート・スイマー!」「フラ
    イング・フィッシュ・オブ・フジヤマ!」と賞賛した。
    
     両選手の大記録には日本でも号外騒ぎだった。読売新聞はこ
    う報じた。
    
         両選手の世界新レコードが場内にアナウンスされた瞬間
        こそ再建日本の姿がスポーツを通じて全世界に認識された
        瞬間であり、われわれは改めて両選手の功績に対して深い
        感謝の意を表するものである。

■8.一夜にしてジャパニーズ■

     翌日の決勝は古橋と橋爪のデッドヒートとなった。結局1位
    古橋、2位橋爪、3位田中と日本勢が独占した。観衆は総立ち
    で選手を讃え、そこここで日系人たちのバンザイの声がわき起
    こった。フレッドも正子もバンザイをしながら、止めどなく涙
    があふれた。
    
     結局日本チームは3日間で自由形6種目中5種目に優勝、9
    つの世界新記録を樹立し、個人では古橋が1位、橋爪が3位、
    さらに団体対抗戦でも圧倒的な得点で優勝を飾った。
    
     日本選手団がスタジアムを出ると、興奮さめやらぬ大勢の日
    系人が玄関で待ち受けていた。その中から年老いた一世の老婆
    が一団に近づき、「ありがとうございました」と拝むようなポ
    ーズをとって、ハラハラと涙を流した。会釈を返す選手たちも
    涙を誘われた。和田は再び胸が熱くなった。
    
     和田邸での内輪の祝賀パーティーて、乾杯のあとでフレッド
    は、涙を浮かべつつ、次のように挨拶した。
    
         さきほど監督さんが新聞社との電話で、在留邦人が理解
        してくれたおかげだと言うてくださいました。しかし本当
        にお礼を申し上げなければならないのは、私たち日系人な
        んです。古橋さんたちの活躍によって、ジャップと呼ばれ
        ておったのが、一夜にしてジャパニーズになり、みんな胸
        を張って街を歩けるようになりました。さっき一世のお婆
        さんが皆さんに手を合わせて感謝しておりましたが、拝み
        たくなる気持ちはよう分かります。

■9.東京にオリンピックを■

     全米水泳大会以来、和田は日本からやってくる各種競技選手
    団の面倒を見続けたが、1964(昭和39)年のオリンピックを東
    京に誘致することになり、岸首相から日系人でただ一人、東京
    オリンピック準備委員会委員を委嘱された。
    
     オリンピックを契機に、産業道路が整備され、それによって
    自動車産業が発展するなど、経済基盤、社会基盤の強化が進み、
    またアジアで最初のオリンピックを日本で開くことで、国民の
    精神作興も期待できる。和田は燃えた。
    
         僕は東京でオリンピックが開けるのなら、店のことなど
        どうなってもええ思うとる。東京でオリンピックやれば、
        日本は大きくジャンプできるのや。日本人に勇気と自信を
        持たせることができるやろう。
        
     しかし、デトロイトや、ウィーン、ブリュッセルなども立候
    補するという情報が入っていた。和田は中南米諸国の票がカギ
    を握っていると考え、自費で各国のオリンピック委員を自ら説
    得して回ろうと提案した。
    
     首相からの親書と、外務大臣の手配で、和田は特命移動大使
    級の権限を与えられた。昭和34(1959)年3月29日、フレッ
    ドは、正子と共に、プロペラ機に乗り込んで、10カ国を一ヶ
    月以上かけて廻る旅に出発した。
                                          (文責:伊勢雅臣)

■リンク■
a. 054 無言の誇り
   収容所に入れられた12万人の日系人 

■参考■(お勧め度、★★★★:必読〜★:専門家向け)
1. 「祖国へ、熱き心を」★★★、高杉良、講談社文庫、H4.5
   
_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/ おたより _/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/

     第2巻の予約受付を開始して1週間で250人以上の読者か
    らご注文をいただきました。御注文時に多数の方から温かいご
    声援をいただき、感激しています。この場を借りて御礼申し上
    げます。そのごく一部を紹介させていただきます。
                                                (伊勢雅臣)

    ・ 小学校の教師をしております。第1巻でも勉強させていた
       だきました。来年度は6年担任で歴史の指導もします。教
       室にも1冊おいておきたいと思っています。

    ・ 第一巻は、楽しんで読みました。メールより本のほうが、
       読みやすいです。今度は娘に、読ませたいです。

    ・ 第1巻を所々涙ぐみながら、あっという間に読み終えまし
       た.良い著作をありがとうございました.第2巻も期待して
       おります.

    ・ 当初からメールマガジンを愛読しています。これらがまと
       まった形となる書籍は、改めて読み直すと、日本人として
       の自信が湧いてきますし、もっと世界に向かって「われわ
       れ日本人のよい所」を発信していかなければと、勇気が湧
       いてきます。

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