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-----Japan On the Globe(197)  国際派日本人養成講座----------
          _/_/   
          _/     地球史探訪:太平洋の架け橋となった人形たち
       _/_/      
_/ _/_/_/         日系移民排斥から悪化する日米関係を懸念して
_/ _/_/          1万2739体の人形がアメリカから贈られた。
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■1.史上空前のひな祭り■

     昭和2(1927)年2月、アメリカの子どもたちから送られた人
    形1万2739体が、前橋丸その他10便ほどの貨物船に積み
    込まれて横浜港や神戸港に続々と到着した。これらの人形達は
    自動車で「阪神国道を一路大阪へ」「晴れがましく乗り込ん
    だ」(朝日新聞、2月22日)など、各新聞は密着報道に余念
    がなかった。
    
     3月3日、東京の神宮外苑にある日本青年館大ホールには、
    皇族の令嬢たちと東京の小学校からの児童代表、アメリカンス
    クールの児童達千人余り、さらに岡田良平文部大臣、幣原喜重
    郎外務大臣、渋沢栄一子爵、チャールズ・マクベー米国大使な
    ど日米要人がさらに千人ほど集まって、「友情の人形」歓迎会
    が開かれた。
    
     ホールの正面には日米の国旗が掲げられ、向かって左にはひ
    な人形が飾られたひな段、右にはアメリカから贈られてきた多
    数の人形を飾った壇が設けられている。アメリカの児童達は、
    この日のために作られた Doll Song を合唱。その3番は以下
    のような歌詞である。
    
        子供同士の仲良しが だんだん深くなるにつれ
        国と国との親しみが 永久(とわ)に楽しく続きます
        
     日米の子供代表と高官たちが一堂に会してのひな祭りは、史
    上空前のことであった。東京日々新聞は「可憐な少女の手で結
    ぶ 日米親善のくさび お人形をまんなかに」と報道した。

■2.日本移民排斥を懸念して■

     「友情の人形」をアメリカの子どもたちから日本の子どもた
    ちに贈るというアイデアは、日本移民排斥に端を発した日米関
    係悪化を懸念したシドニー・ルイス・ギューリック博士と渋沢
    栄一子爵らが企画したものだった。
    
     1910年代、日本人移民は低賃金に甘んじつつ、持ち前の勤勉
    さで野菜の生産を主体に成功者が出始めていた。カリフォルニ
    ア州では農業生産の1割を日本人移民が供給していたほどであ
    る。
    
     アメリカ人労働者は、競合者としての反感と人種的偏見から、
    日本人移民を排斥し、銃撃や闘争が頻発した。カリフォルニア
    州議会は1913(大正2)年、外国人土地所有禁止法案を通過させ、
    日本人移民一世は、帰化権のない外国人として、借地権を奪わ
    れた。さらに1924(大正13)年には、連邦議会が「新移民法」
    を制定し、日本人移民に対して入国を禁止し、門戸を閉じてし
    まった。
    
     日本ではアメリカの人種差別的な新移民法に対して、抗議集
    会が開かれ、新聞も米国批判の論陣を張った。渋沢栄一翁も、
    日本人移民排斥を懸念して、自身で渡米したり、信頼する人物
    を派遣したりして、日米識者で協力して移民問題好転の道を探
    っていた。その過程で、かねてから懇意であったギューリック
    博士から人形贈呈の提案を持ちかけられたのである。

■3.アメリカに送られた「日本の宣教師」■

     ギューリック博士は、宣教師として明治21(1988)年に来日
    し、熊本、大阪、松山などで伝道生活を送り、明治39(1906)
    年から6年間、同志社大学神学部教授として学生の教育にあた
    った。多くの学生を育てて尊敬を集め、また日本語を流暢に話
    して、顔を見なければ日本人が話しているかのようだった。
    
     大正13年(1913)年、25年も暮らした日本を離れて母国に
    帰るが、その船中で「日米両国の平和のために余命を捧げよ
    う」と決意したという。博士はカリフォルニアの排日法案成立
    に驚き、ウィルソン大統領に会見したり、日系人移民への洞察
    と理解に満ちた著作「日米問題」を表して、日米間の友好回復
    を訴えた。
    
     博士は、アメリカは白人優位説を捨てて、アジア人との友好
    を計るべきだと説き、その言動を非難するものに対しては、
    「自分はアメリカに送られた『日本の宣教師だ』」と自負を持
    って応じていた。渋沢翁は、そのギューリック博士から、次の
    ような手紙を受け取った。
    
         日米親善は気永くやらねばならぬ。それには未来の国民
        がお互いに相知り相親しむことが必要であるから、これに
        資する為に米国からお人形を贈りませう。

■4.親愛なる日本の少女へ■

     博士の計画は、パンフレットにされて、全米各地の学校、教
    会、ガールスカウトなどの各種児童団体、婦人クラブなどに配
    布された。それには、日本のひな祭りの楽しさを述べ、さらに、
    「人形交流の本意」として、次のように書かれてあった。
    
         この計画のもっとも価値ある点は、多数の米国児童やそ
        の両親に国際的な考え方を認め、日本に興味を持たせる機
        会を与えるという点にある。随って、米国に対する好意が
        日本においても呼び起こされるという大いなる利益がある。
        
     男の子たちは、児童劇などを催してその入場料を集めて資金
    を作り、そのお金で買い入れた人形に、女の子たちが衣服を作
    って着付けをした。人形は身長約40センチ、寝起きさせると
    腹部の発声装置が働いて「ママー」と声を出すタイプのものが
    選ばれた。
    
     人形には、それぞれ名前をつけられ、盛大な送別会が各地で
    催された。そして子どもたちや親の手紙を添えられて日本に送
    り出された。山口県の湯田小学校にはミシガン州デトロイトか
    ら贈られた人形「エリナ・アン」とともに、次のような手紙も
    保存されている。
    
           親愛なる日本の少女へ
         私たちはとてもお人形を大事にしています。そのしるし
        にお人形を日本に贈ります。私たちは、日本のひな祭りの
        話を聞きました。そのお祭りを見たいものだと思つてゐま
        す。私は、黒い目をした美しい着物姿の日本人形を持って
        います。あなたのお顔も着てゐる物も、このお人形のやう
        でせうね。
        
         私はこの人形のお母さんみたいに、お人形を愛していま
        す。私と別れてお人形は日本に行くのです。私に負けない
        ほど、やさしいお母さんのところに行くやう祈つています。
        お人形の送別会は盛大に行ひました。早くご返事を下さい。
                                                エリナ・アン

■5.一しよにあそびたいです■

     日本に到着した人形達は、盛大な歓迎会のあと、その一部は
    両陛下に披露された。まだ2歳のご長女照宮様がしきりに人形
    に手を出されるのを制せられながら、天皇は「誠によいことを
    してくれた。国際親善のために結構なことだ」と言われた。ま
    た皇后陛下の御下賜金で、東京博物館に日本家屋と庭園からな
    る「人形の家」が作られ、展示されて、多くの観覧者を集めた。
    その後、1万3千体近くの人形は、日本本土、朝鮮、台湾、樺
    太などの小学校や幼稚園に分配された。

     京都府舞鶴市の明倫小学校に人形が届いたのは、5月11日
    だった。京都府庁から人形を受領してきた校長を、子どもたち
    が舞鶴駅まで迎えに行き、翌日に歓迎会が催された。人形は贈
    り主の名をとってマーガレット・ジュリア・チェンバレンと名
    付けられていた。4年生の女生徒は、次のような感謝の手紙を
    書いている。
    
         あのお人形は、おじぎをさせるとマーマーとなくのです
        ね。私はあまりいいので人間とおなじようにたましひがは
        いつてゐるやうなきがして、お人形と、うんどうばやなん
        かで一しよにあそびたいです。マーガレットさん、あのお
        人形はほんとにいいですね。
        
     童謡「青い目の人形」は、この「友情の人形」とは関係なく、
    その6年前、大正10年に野口雨情が発表し広く歌われていた。
    「やさしい日本の嬢ちゃんよ なかよくあそんでやつとくれ」
    という歌詞は、人形歓迎にぴったりで、盛んに歌われた。

■6.サクラ咲く国の国民から■

     ギューリック博士は「返礼の心配は平に無用」と伝えていた
    が、日本側ではアメリカほどの多くの人形は作れないものの、
    米国全州と6大都市には行き渡るように、58体の高級な日本
    人形を贈ることとした。そのために、人形受領校の女生徒25
    0万人から、一人一銭の拠金を得ることとなった。拠金は強制
    しないよう通達されたが、皇后からの御下賜金も含め、計画以
    上の2万7千円も集まった。
    
     一流の人形師たちを動員して作られた人形は、全国各県に一
    体づつ配送され、各地で送別会が行われたあと、アメリカに出
    立した。答礼人形達は、次のような文章の書かれたパスポート
    を持参していた。
    
         皆さんへの尊敬と友情をお届けする使節を受け入れ、優
        しくしてください。一生おそばで暮らし、ほんたうの友だ
        ちになるでせう。       サクラ咲く国の国民から
        
     人形は11月末にサンフランシスコに到着し、同市、および、
    対岸のオークランド市、バークレイ市で盛大な歓迎会が催され
    た。現地の新聞は次のように報じた。
    
         日本の人形は、いずれを取り上げても、まことに優美で
        ある。そして優しさのうちにも気品高く、穏やかな笑みを
        たたえた美しい顔、明るい色彩の着物のすばらしさ。人形
        たちの生まれ故郷の桜が咲く国を、心ゆくまで表した化身
        といってもよく、これは、東洋の大国の友情あふれた児童
        たちから、他の国のきょうだいたちへの愛をこめて贈られ
        た、ギフトでなくてなんであろう。

     答礼人形達は、半年の間に、479の都市で巡回展示され、
    千回余りの歓迎パーティが催された。その後は、各州の博物館
    や美術館で保管・展示された。

■7.仮面の親善使■

     人形交流の16年後、大東亜戦争も二年目に入った昭和18
    (1943)年2月19日、毎日新聞は「仮面の親善使 青い目をし
    た人形 憎い敵だ許さんぞ 童心に聞くその処分」という大見
    出しの記事を掲載した。
    
     記事では、青森県のある小学校で、5年生以上の児童約3百
    人にアメリカから人形が贈られてきた経緯を説明し、その処置
    を質問した結果を紹介していた。「焼いてしまう」が133名、
    「破壊する」89名などが上位を占めた。
    
     北海道のある国民学校では校長室に置かれていた人形が校庭
    に持ち出され、アメリカ、イギリスの国旗とともに、グラウン
    ド中央にはりつけのように置かれ、高等科の生徒の突撃が繰り
    返され、やがて火がかけられた。人形が焼かれて灰になると、
    生徒達はそれを踏んで、軍歌を歌って行進したという。このよ
    うにして多くの人形が破壊された。
    
     「友情の人形」を題材に戦後様々な物語が作られ、その中に
    は、憲兵が人形処分を命じ、教師や子どもたちの嘆願空しく、
    人形が破壊されるという設定がなされたものがある。「憲兵=
    悪役」という戦後のステレオタイプの図式だが、この歴史を2
    0年近くも調べている武田英子氏は、軍命令があったという証
    言は聞いていない、とし、「『軍命令』は追って行こうとすれ
    ばするほど遠のくのが実感である」[1,p142]と述べている。
    
■8.無言のうちに語りかけてくる人形■

     子どもたちにとっても、町村内でよく知る大人が戦死したり、
    無差別空襲に会ったり、さらに戦没者家庭での農作業を手伝っ
    たりして、敵国憎しの感情を抱くのは、無理のない事だったで
    あろう。それは米国社会においても、日本人を「イエロー・モ
    ンキー」や「リトル・イエロー・デビル」などと口汚く罵って
    いたのと同様である。
    
     しかし児童の中には、人形の処分を聞かれて、次のような意
    見を述べるものもいて、先生を驚かせた。
    
         ぼくたちはアメリカ兵をやっつけたいのだ。人形なんか
        空襲することも大砲を撃ってくることもできない。そんな
        ものを叩き壊しても勝ったことにはならない。人形なんか
        目にふれない所に置けばいいよ。
        
     この学校では、こうした意見が大勢を占めて、人形は裁縫室
    の物置にしまわれた。

     多くの人形が人々によって壊されたり、また空襲、原爆など
    で失われたが、また心ある人に保管されて、来日以来70年以
    上を経て現在までに残った人形は300体にのぼる。またアメ
    リカに贈られた答礼人形58体のうち、39体の所在が確認さ
    れている。
    
     戦後、答礼人形の修復の為に、ボルチモア市の日系2世のメ
    リー・トク・杉山さんが「ミス広島」を故郷に里帰りさせたこ
    とから、親善交流が復活した。昭和63(1988)年には、アメリ
    カから里帰りした答礼人形19体と、日本に残る「友情の人
    形」が一堂に会する展示会が国内10カ所で開催され、その後、
    同様の趣旨の展示会がアメリカ各地でも催された。展示会場に
    用意された感想ノートには、次のような思いが記されていた。
    
         無言のうちに語りかけてくる60年前の青い目の人形と、
        答礼人形を見て、とても感動しました。いつの世でも平和
        を愛する人たちはたくさんいるのですね。人間ってすばら
        しい。子供たちが人種を超え国境を越えて平和を愛してく
        れるように、そんな気持ちにさせてくれたお人形さん、あ
        りがとう。
                                          (文責:伊勢雅臣)

■参考■(お勧め度、★★★★:必読〜★:専門家向け)
1. 武田英子、「人形たちの架け橋」★★★、小学館文庫、H10
   
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