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________Japan On the Globe(258)  国際派日本人養成講座_______
          _/_/   
          _/     The Globe Now: 北朝鮮高官の決断
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_/ _/_/_/         金正日の圧政から人民を救うために黄は亡命
_/ _/_/          を決断した、愛する家族をあえて犠牲にして。
_______H14.09.15_____39,333 Copies_____567,416 Views________

■1.金正日への宣戦布告■

     1997年1月30日朝、平壌。黄長火華(正しくは火へんに華
    の一字)北朝鮮労働党秘書は、家を出るときに、妻に言った。
    「行ってくるよ。2月12日ごろには戻ってこれるだろう。」
    
         結局その短いひと言がわたしと妻との最後の別れとなっ
        たのだった。わたしたちは若いころ、はるか遠い異国のモ
        スクワで出会い、愛と信頼で50年間をともに過ごしてき
        た。そんな妻にたいし、もしかしたらこの世でもう二度と
        会えなくなるかもしれない別れぎわに、そんな言葉しか口
        に出せないわたしの心は悲痛の極みだった。しかしわたし
        はそんな素振りは見せなかった。[1,p10]
        
     戻ってこれるだろう、と言ったその2月12日午前9時頃、
    黄と腹心の金徳弘は、北京の韓国大使館に亡命した。黄の亡命
    を知った途端、北朝鮮は数百人の保衛部(秘密警察)要員を動
    員して、韓国大使館に乗り込もうとしたが、中国政府は120
    0名の武装警察と装甲車を動員して、それを防いだ。
    
         金正日国防委員長の憤怒も大きく「黄狗(黄長華前秘書
        を指す)の首を刎ねよ」という命令が下された、という説
        もあり、黄氏の直系家族はもちろん、八代を滅ぼしたとい
        う話が出回るほどに、大々的な粛清が断行されたことが伝
        えられられる。処刑されたり、政治犯収容所の会寧22号管
        理所などで黄氏の親戚、知人、同僚が大挙して連行され、
        職場を失ったり、ひどい場合には離婚させられた人まで含
        めば、1万名以上が黄長火華の亡命事件で被害に遭ったと
        される。 [2]

     これだけの犠牲を払ってまで、なぜ黄は亡命したのか。黄は
    その心境を「金正日への宣戦布告」という著書で明らかにして
    いる。その軌跡を辿っていくと、これから小泉首相が訪朝して
    会談する金正日という人間がどのような人間なのか見えてくる。
        
■2.金正日の独裁権力と経済破壊■

     黄は主体思想研究所を統括して、金日成や金正日の名で論文
    を代筆したり、国際秘書として北朝鮮外交を指導するなど長ら
    く政界の中枢で活躍していた。1987年末には文書整理室をまか
    されたが、そこには北朝鮮での各種統計データが揃っていた。
    
     北朝鮮当局は、金正日の指示で虚偽の数字を金日成に報告し、
    外部にも偽りの発表をしていた。しかし、文書整理室にある正
    確な統計では、北朝鮮経済の悪化傾向が如実に現れていた。金
    正日が後継者として浮上した1975年から下降線をたどり始め、
    とくに金正日がすべての実権を掌握することになる1985年以降
    からは急激に悪化している。
    
     金正日は70年代に実権を握ると、自分の力を誇示するため
    に、初歩的な経済学も無視して、がむしゃらに人民を生産に駆
    り立てて、設備を酷使し資材と労力を浪費して、国家経済に致
    命的な打撃を与えた。たとえば石炭産出に高い目標を要求する
    ので、関係者はすでに掘進されていた鉱脈からのみ石炭を掘り
    出し、手間のかかる新たな鉱脈の掘進は放棄した。その結果、
    石炭生産がストップしかけたが、金正日は自分の功労を誇張し
    て金日成に報告するのがお決まりだった。

     金正日は独裁権力を掌握することしか関心がなかったので、
    現実の経済を心配する実務者たちは敗北主義だとして遠ざけら
    れ、経済を知らない、しかも金正日に無批判に付き従う党幹部
    たちが経済運営を牛耳った。

■3.北朝鮮経済は完全に止まってしまうだろう■

     ソウルでオリンピックが開かれると、金正日は平壌でも開く
    のだと騒いで、国力を無視して多くのスポーツ施設を気の向く
    ままに作らせた。またソウルオリンピックに対抗するために世
    界青年学生祝典を開催して、無数の人民を動員した。さらに平
    壌を世界第一級の近代都市にすると言って、光復通り、統一通
    りなどの建設に人民を駆り立てた。
    
     副首相たちですら、黄と一緒に出張にいくと、北朝鮮経済が
    このまま進んでいけば、近いうちに完全に止まってしまうだろ
    うと断言して、やるせない心情を吐露した。
    
     黄は中国の珠海などの開放地域を訪れ、改革開放政策の成果
    に深い感銘を受けていたが、金正日は北朝鮮人民がそれらの地
    域を訪問することを禁じた。こうした中で、中国に倣った改革
    開放路線を主張することは、自殺行為であった。
    
     ソ連の崩壊は北朝鮮に衝撃を与えたが、金正日は驚きを隠し、
    朝鮮式社会主義の必勝不敗を宣伝する文章をあいついで発表し
    た。しかし、韓国の運動圏(反体制運動)の学生の動揺は、そ
    の程度の論文ではおさまらず、結局、黄が文書整理室の要員た
    ちを指導して「社会主義建設の歴史的教訓とわが党の総路線」
    という論文をまとめて、金正日名で発表すると、学生たちの沈
    静化に多大の効果があった。
    
         こうしてわたしはまた、韓国の世間知らずの運動圏の学
        生たちを欺瞞する罪をもう一つ犯すことになった。
        [1,p273]
        
■4.とるに足りない経歴も嘘でだます者らが、、、■

     1992年には金日成が80歳、金正日が50歳を迎えた。金日
    成はもはや元気も失せ、どうすれば息子に権力を移譲できるか、
    という事しか念頭になかった。そして息子に露骨なおべっかを
    使うようになった。
    
     その例が、息子の50歳の誕生日をたたえる詩を書き、これ
    を碑石に刻んで白頭山の小白水にでっち上げた金正日の「生
    家」付近に建てたことだ。金正日がロシアで生まれ「ユーラ」
    という名前で幼年を過ごしたことは世間周知のことであった。
    
     息子が生まれた頃、金日成はハバロフスク周辺に待避し、ソ
    連軍特殊工作部隊の青年幹部として訓練されていた。その頃の
    抗日パルチザン出身者たちを呼んで、金正日が生まれた白頭山
    密営を探せと命じたが、存在しない場所を見つける事はできな
    かった。すると、金日成は自分で直接出向いて、景色も適当で
    それらしい場所を見つけて、ここだと指摘した。
    
     そのうしろの山を「正日峰」を名付け、党歴史研究所は大き
    な岩にその名を書いて、山の上においた。さらにスローガンの
    木をそこに用意した。これは金日成パルチザン部隊が国内に入
    ってゲリラ工作を行った時に、木の皮をはいで「金日成将軍万
    歳」「朝鮮独立万歳」などと墨で書いたというものである。19
    74年に金正日が実権を掌握した途端に、金日成の神格化を高め
    るために、「スローガンの木」発見運動を全国的に展開したの
    だが、それに倣ったものであった。こうした仕業に黄はいらだ
    った。
    
         とるに足りない経歴も嘘でだます者らが、どうして人民
        のために犠牲的に働くことができようか。[1,p285]
    
■5.拍手が少ないと危険■

     1992年4月、金日成の80回目の誕生日を祝うために主体思
    想国際討論会が東京で盛大に開かれ、その後、外国人学者たち
    はチャーター機で平壌に招待された。経済的に苦しかったのに、
    こんな事をしたのは、北の人民に外国からこれほど多くの人々
    が「首領様」の誕生日を祝うために来ているのだ、ということ
    を見せつけるためだった。
    
     金正日は自分専用の宴会場に学者たちを招いて、盛大な宴会
    を催し、これまた専属の芸術団の公演を見せた。それは堅実な
    思想を持つ人たちの目には嫌悪感を催すものであった。黄がし
    きりに拍手するのを見て、隣に座っていた生真面目な井上周八
    教授が訪ねた。
    
        黄先生は本当に面白くて拍手しているのですか?
        
        いいから無条件に拍手しなさい。命令だよ。
        
     黄と兄弟のように親しい井上教授は、この言葉に従い、いや
    いや拍手をした。金正日は自分専属の芸術団の公演で拍手が少
    ないとひどく腹を立てた。黄はカメラを通して自分が監視され
    ているのを知っていたので、常に力いっぱい拍手するのが常だ
    った。
    
     1994年7月8日、金日成が死んだ。黄は金日成が残した負の
    遺産を考えると、悲しみの気持ちなど起こらなかったが、全人
    民が「泣き競争」を繰り広げている時に、一人だけ眼が乾いて
    いるのは危険だった。無理に涙を流さざるを得なかったが、子
    供たちは葬儀に参列した黄をテレビで見て、泣き方が少なかっ
    たとなじった。
    
     病院に入院中で葬儀に出られなかった者は、病状に関わらず
    処罰され、主体科学院のある有能な博士は金日成が死んだのに
    自転車を修理していたとしてクビになった。

■6.広がる食糧難■

     95年に入ると食糧難が深刻になり、餓死者が大量に出始めた。
    食糧狙いの強盗殺人が急増し、はなはだしくは党幹部が夜道で
    軍人たちに乗っていた車を壊され、持ち物を略奪される事件ま
    で起きた。
    
     ある時、黄が台所で妻の弁当箱を見たら、飯が半分ほどと、
    おかずは大根のキムチがいく切れか入っているだけだった。妻
    は自分の仕事を持ち、家では孫たちの面倒を見たり、家庭菜園
    を作物を作らなければならない。
    
         なぜ飯をこんなに少ししか入れずにでかけるのか? こ
        んなものを食ってどうして仕事ができるのか?
        
         そんなことおっしゃらないで。これでも持っていったら
        一人で食べるのが申し訳ないくらいですよ。みんな草ばか
        りのお弁当を持ってきているのよ。
        
     96年の年末、近くに住む3番目の娘の家に、ある朝、幼い二
    人の児童がやってきて、汚れた手を差し出して「ご飯をくださ
    い」と言う。娘が事情を尋ねると、「お母さんもお父さんも飢
    えてふせっているので、ぼくたちだけでも外で物乞いして生き
    ていけと言うので南浦(平壌から40キロほど西の港町)から
    歩いて来ました。」
    
■7.年間100万人の餓死者■

     黄は娘からその話を聞いたあと、側近に命じて、餓死者の統
    計をとっている組織部の幹部から、データを出させた。
    
         組織部幹部の話によると、95年には党員5万人も含め
        て50万人が餓死した。96年には11月中旬現在で、す
        でに100万人ほどが餓死したとのことです。[1,p335]
        
     金正日はこういう惨状を気にもせずに、金日成の死体を保存
    する宮殿を飾りつける事に莫大な資金と資材を投じ、建設現場
    で人民を労働に駆り立てている。96年の穀物生産は210万ト
    ンにしかならなかったが、宮殿を飾り付ける費用の3分の1を
    節約しただけで、200万トンのトウモロコシを買い、食糧不
    足は解決できるのだった。
    
     食料を求めて、平壌でも女性を自転車の荷台に乗せて走る光
    景が見られるようになった。金正日はこれを見て、「朝鮮の美
    風良俗に合わないから禁止させよ」と命じた。以後、女性は自
    転車の荷台に乗れなくなった。金正日は放蕩三昧の生活をしつ
    つ、人民の苦しみを増すような事しかしなかった。

■8.黄の決断■

     軍部指導者たちは、米軍が韓国にいても、戦争をすれば確固
    たる勝算があるとして、経済が完全に破綻する前に戦争を仕掛
    ける事を主張していた。こんな情況の中で金正日に追従しつつ
    ける事は、歴史と民族の前に取り返しのつかない罪を犯すこと
    になると黄は思った。
    
     今後、南(韓国)を主体として、民族の統一されるのは間違
    いない。自殺も考えたが、どうせ命を捨てるなら、南側の人た
    ちと連携して、戦って死ぬことが北朝鮮の同胞たちを救い出す
    助けになるだろう。
    
     しかし、黄が南に行ってしまえば、これまで中心幹部の身内
    として栄誉と幸福を享受してきた黄の家族には、反逆者一族と
    しての処刑や迫害の運命が待っている。いつも食事をしている
    と、二歳になる孫の智成が「あーあー」と小さな口を開けて、
    食べさせてくれとせがむ姿が思い浮かぶ。しかし、このまま何
    もしなければ、未来の歴史家はこう言うだろう。

         あのとき、北朝鮮ではあれほどひどい暴力と非合理が人
        民を打ちのめしていたのに、堂々と批判したり、抵抗した
        知識人はただの一人もいなかった。
        
■9.わたしを呪ってくれることを願っている■

     黄は決断した。小さな「わたし」を殺し、大きな「わたし」
    と生かす道へと。97年2月12日、黄は北京の韓国大使館に亡
    命した。2月17日、北朝鮮は「変節者は去らば去れ」との声
    明を発表した。同じ日、黄は韓国大使館の中で、妻宛の遺書を
    書いた。
    
         わたしのために君や愛する息子、娘たちがひどい迫害の
        中で死んでいくのだと思うと、自分の罪がどれだけ大きい
        かを骨身にしみて感じている。わたしはもっとも愛する君
        と息子、娘、孫たちの愛情に背いたのだ。わたしは許しを
        請うのではなくて、むしろわたしをもっとも過酷に呪って
        くれることを願っている。・・・
        
     しかし、これだけの思いをして亡命した韓国では、当初こそ
    出版や講演など言論闘争ができたが、99年夏頃からは金大中大
    統領のもとで金正日と融和する太陽政策が進められ、以降、黄
    は「身辺保護」という名目で執筆も講演もできない「事実上の
    軟禁状態」に置かれた。黄は最近の心境をこうもらしている。
    
         金正日と争って死のう、と家族も捨てたまま命をかけて
        韓国にきたのに、私たちをがちがちに縛って置いてどうす
        るのか。私の武器は文章を書いて講演することだけなのに、
        武器がなくなったのと同じでないか。[2]
                                          (文責:伊勢雅臣)

■リンク■
a. JOG(137) 金正日の共犯者
   核武装に突っ走る北朝鮮・金正日政権を育てた責任はアメリカ
  と日本にある
b. JOG(072) 温室の隣の飢餓地獄
   人口2300万人の北朝鮮で、すでに3百万人の国民が餓死、
  病死したと推定されている。
c. JOG(055) 北朝鮮、管理された飢餓地獄
   数十万人規模の餓死がここ数年続いている

■参考■(お勧め度、★★★★:必読〜★:専門家向け)
1. 黄長華、「金正日への宣戦布告」★★、文藝春秋、H12
2. 週刊朝鮮、「黄長火華氏、事実上『軟禁』状態」、2000年11月9日
   
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