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■■ Japan On the Globe(283) ■ 国際派日本人養成講座 ■■■■

        人物探訪: 本田宗一郎と藤沢武夫の「夢追い人生」

         「世界一の二輪車メーカーになる」との夢を追い続けて
        二人は幸福な職業人生を生き抜いた。
■■■■ H15.03.09 ■■ 38,464 Copies ■■ 747,264 Views ■■

■1.「幸せだったな」■

     昭和48(1973)年夏、本田技研工業社長・本田宗一郎が中国
    出張中に「本田社長、藤沢副社長引退」との予期しないニュー
    スが流れた。本田が帰国すると、羽田空港には報道陣が押しか
    けていた。迎えに出た西田専務は藤沢副社長の辞意を伝えた。
    
     藤沢は創業25年を期に、後進が育ったことを見極め、また
    カリスマ社長・本田の限界を感じて、西田専務に「おれは今期
    限りでやめるよ。本田社長にそう伝えてくれ」と言っていたの
    である。
    
     本田はすぐに藤沢の意図を了解し、「おれは藤沢武夫あって
    の社長だ。副社長がやめるなら、おれも一緒。辞めるよ」と西
    田に言った。羽田での記者会見では笑顔で「前々からやめるつ
    もりで藤沢副社長と相談していた。それがたまたま外遊中にバ
    レてしまっただけだ」と語った。
    
     10月の株主総会で二人は正式に退任した。本田65歳、藤
    沢61歳。世間ではまだまだ現役で通用する年齢だったことに
    加え、お互いに息子は会社に入れずに、後継者は本田技研が町
    工場時代に大学卒第一号で入社した生え抜き河島喜好45歳だ
    ったこともあって、「さわやかなバトンタッチ」とマスコミは
    賛辞を送った。
    
     退任が決まった後のある会合で、本田は藤沢に言った。「ま
    あまあだな。」「そうまあまあさ。」と藤沢。「幸せだった
    な」「本当に幸せでした。心からお礼を言います」「おれも礼
    を言うよ。良い人生だったな」。これで引退の話は終わった。

■2.本田と藤沢の出会い■

     本田と藤沢が運命の出会いをしたのは昭和24年8月、焼け
    跡の残る東京阿佐ヶ谷のバラック小屋だった。戦争が終わって
    4年、人々は貧しい中にも、復興の希望に燃えていた。
    
    「浜松の発明狂」だった本田は「東京に出て本格的なオートバ
    イを作りたいが、金がない。」 福島で製材所を営んでいた藤
    沢は「夢のある技術を持った男と組んでモノを売りたい。」 
    初対面の二人は数分で意気投合し、「モノ作りは本田、カネの
    工面は藤沢」と役割分担を決めた。藤沢はその場で製材所を叩
    き売って、資金を作ることを決意した。
    
     それからの二人は、未来について夜中の12時頃まで話し込
    んでは翌朝7時頃から話し始めるという毎日を続ける。毎日毎
    日会っているのに、別れる時が辛かった。こういう状態を2、
    3年続けたので、二人は一生の分の話をしてしまい、その後は
    年に数回程度しか会わなくとも、連携してやっていけた。藤沢
    が「おれは辞める」と言ったとき、本田がすぐにその意図を察
    する事ができたのも、このためである。
    
     二人の出会いを、藤沢はこう記している。
    
         私はあの人の話を聞いていると、未来について、はかり
        しれないものがつぎつぎに出てくる。それを実行に移して
        いくレールを敷く役目を果たせば、本田の夢はそれに乗っ
        て突っ走って行くだろう、そう思ったのです。

■3.「今にウチは世界一の二輪車メーカーになる」■

     翌25年3月、藤沢の出資を得て、ホンダは東京に進出、八
    重洲に粗末な営業所を設けた。26年に大卒で入社した元副社
    長・川島喜八郎は、ホンダというオートバイを作っている面白
    そうな会社が営業マンを募集していると聞いて、浜松まで出か
    けた。作業服を着て、どう見ても町工場の親父さん然として本
    田が出てきて、いきなり、今にウチは世界一の二輪車メーカー
    になる、と事もなげに言う。
    
     営業希望なら東京に行って藤沢に会え、と言われて、八重洲
    の魚屋の隣の粗末な営業所に行った。魚屋からハエが飛んでく
    るので、ハエ叩きを持ちながら、藤沢は「本田宗一郎は必ず世
    界一になるような商品を作るだろう。それをいかに売るかが私
    の仕事なんだ」と言った。二人の人柄に強く惹かれて、川島は
    その場で入社を決めた。
    
     その頃の本田は新しいエンジンなどのアイデアを思いつくと、
    工場の床にしゃがみ込んで、チョークでスケッチを描いて社員
    たちに見せた。既存の製品のコピーなどは絶対に我慢できず、
    技術者たちの設計には、「どこが新しいんだ? どこがヨソと
    違うんだ?」と真っ先に聞いた。毎朝の朝礼では、ミカン箱の
    上に立って「世界一になる」。
    
■4.ドリーム号■

     それまで本田は旧陸軍の無線機発電用のエンジンを自転車に
    つけて売っていた。戦争直後、交通は混乱し、ガソリンも乏し
    い時代に、この補助エンジン付き自転車はよく売れた。しかし
    これではスピードも遅いし、耐久力もない。どうしても本格的
    なフレームを持った強い馬力のオートバイを作りたいと本田は
    思った。
    
     藤沢と出会った昭和24年8月、技術者たち全員の知恵を集
    めて完成したのがドリーム号だった。その名は、スピードに
    「夢」を託すという意味から本田自身がつけた。平成9年10
    月までにホンダは1億台のモーターサイクルを生産したが、そ
    の第一号がこのドリーム号であった。
    
     ドリーム号は好評で、作るそばからどんどん売れた。自分が
    工夫したものが人に喜ばれて役に立つことに、本田は無上の喜
    びを感じた。
    
■5.「良品に国境なし」■

     当時の日本製品は国際競争力がなく、産業界は政府に輸出振
    興と輸入制限を頼み込む状況だった。しかし、これではいずれ
    世界の自由化の波に飲み込まれるか、あるいは閉鎖市場として
    世界の進歩から取り残されるしかない。「良品に国境なし」、
    本田は技術を高め、世界一の製品を開発すれば、だれも外国製
    品を輸入しようとはしないし、黙っていても輸出は増えるはず
    だと考えた。
    
     世界一の製品を作るには優れた工作機械が必要だ。当時の国
    産の工作機械では十分な精度が出ない。のどから手が出るほど
    外国の工作機械を欲しがっている本田の気持ちを察して、藤沢
    は「社長、欲しい機械はどんどん買ってくれ」と資本金わずか
    6千万円の会社で4億5千万円もの機械を購入させた。しかし、
    その直後に昭和27、8年の不況が押し寄せ、藤沢は必死の資
    金繰りで会社を支える。
    
     当時は外貨が貴重だったが、たとえ会社が潰れても機械その
    ものは残るから、国民の外貨は決してムダにはなるまい、とま
    で本田は考えたのである。それから7年後、輸出が100万ド
    ルを超し、輸入外貨を取り戻した時に、新宿コマ劇場を借り切
    り、全国から社員を呼び集めて盛大な記念式をあげた。

■6.マン島のレースに挑戦■

     英国のマン島では毎年世界各国の優秀なオートバイ・メーカ
    ーが集まり、技術を競うTT(ツーリスト・トロフィー)レー
    スが開催されていた。昭和29年3月、本田はこのレースに挑
    戦することを宣言した。
    
         わたしの幼き頃よりの夢は、自分で製作した自動車で全
        世界の自動車競争の覇者となることであった。・・・
        
         日本の機械工業の真価を問い、此を世界に誇示するまで
        にしなければならない。吾が本田技研の使命は日本産業の
        啓蒙にある。ここに私の決意を披瀝し、TTレースに出場、
        優勝するために、精魂を傾けて創意工夫に努力することを
        諸君とともに誓う。右宣言する。
        
     TTレースへの挑戦は二つの意味があった。ひとつはこのレ
    ースで優秀な成績を得ない限り、世界のオートバイ市場をイタ
    リア、ドイツなどから奪い取ることは不可能であり、輸出振興
    の念願は達成できないこと。もう一つは、敗戦直後の日本人に
    希望を与えた水泳の古橋広之進選手のように、技術でグランプ
    リをとれば、日本人としてのプライドを持たせることができる、
    ということであった。[a]
    
     宣言の3ヶ月後、本田はマン島で実際のレースを見てびっく
    りした。ドイツやイタリアのオートバイはホンダと同じクラス
    のエンジンでも3倍もの馬力を出す。しかしすぐに持ち前の負
    けず嫌いが頭をもたげる。外人がやれるのに日本人ができなは
    ずはない。帰国後すぐに研究部を設けて、徹底的に研究を進め
    た。
    
     5年におよぶ研究の結果、昭和34年125ccでレースに
    初参加。初陣は6着に終わったが、36年にはTTのグランプ
    リレースに優勝、最優秀賞を獲得したほか、スペイン、フラン
    ス、西独各地のグランプリ・レースでも優勝。ここに世界一の
    オートバイを作り上げるという念願を遂げることができた。

■7.スーパーカブの大ヒット■

     本田の関心はもっぱらスピードと馬力のあるエンジンだった
    が、藤沢の方は市場を見ていた。折から電気洗濯機、掃除機、
    冷蔵庫が「三種の神器」として普及し、主婦が消費の主導権を
    握る時代になっていた。エンジンむき出しのごつごつとしたオ
    ートバイでなく、50ccで女性も乗れる家電感覚のオートバ
    イを作ってくれ、と本田に頼んだ。大衆向け商品の大量生産・
    大量販売を狙ったのである。
    
     本田は「そんな、、、。50ccで乗れる車なんか作れるも
    のか」と答える。藤沢は「これができなきゃ、本田技研は将来、
    そう発展しない」と吹き込む。外国にもそんなオートバイはな
    い、と本田が言うと「ないから、つくってくれというんだ。」
    
     藤沢の挑発に本田の持ち前の技術者魂が頭をもたげた。着手
    してから1年8ヶ月という長い開発期間をかけて昭和33年に
    完成したのがスーパーカブだった。日本中のオートバイ販売台
    数が月4万台という時代に、藤沢は月3万台を売ってようやく
    トントンという低価格をつけた。ポリエチレンを使って曲面を
    押し出したスマートなデザインと相俟って、スーパーカブは大
    ヒットした。藤沢が発案し、本田がものつくりの才能を傾注し
    た傑作「スーパーカブ」は、その後も大きなモデルチェンジを
    することもなく、44年目の昨平成14年暮れには累計生産台
    数3千5百万台を達成した。

■8.アメリカこそホンダの夢を実現できる主戦場■

     昭和34(1959)年には米国に販売会社「アメリカン・ホン
    ダ」を設立。スーパーカブの米国輸出を目指した。支配人とし
    て渡米した川島喜八郎は当初、米国は自動車の国で、オートバ
    イは革ジャンを着た暴れ者の乗り物というイメージを持たれ、
    年間6万台くらいしか売れていないことから、「アメリカより
    も東南アジアの方が手がけやすいのではないか」と提案してい
    た。
    
     だが藤沢の考えは違った。アメリカこそ、ホンダの夢を実現
    できる主戦場だと考えたのである。
    
         資本主義の牙城、世界経済の中心であるアメリカで成功
        すれば、これは世界に広がる。逆にアメリカで成功しない
        ような商品では、国際商品になりえない。やっぱりアメリ
        カをやろう。
        
     スーパーカブはアメリカでも人気商品となった。女性が乗っ
    てもスカートがめくれにくいデザインは、従来の暴走族イメー
    ジを変えた。250ドルという価格は、大学生がアルバイトで
    買える値段で、キャンパスへの移動手段として注目されはじめ
    た。グラフ誌「ライフ」に広告をうって、おしゃれで経済的な
    大衆商品であることをアピールした。
    
     昭和53年にはオハイオ州に工場を建設し、現地生産に乗り
    出す。その後、四輪車の現地生産も成功させ、日米貿易摩擦が
    激化した時も、「ホンダはアメリカ経済に貢献している」と評
    価された。
    
     現在、ホンダのバイクは日本では2割弱しか作っていない。
    藤沢の「アメリカで成功すれば世界に広がる」という考えは正
    しかったのである。

■9.99%の失敗■

     こうして本田と藤沢の夢は見事に実現したのだが、それは決
    して平坦な道ではなかった。退陣のあいさつで本田はこう言っ
    た。
    
         思えば、随分苦労も失敗もあった。勝手なことを言って
        みんなを困らせたことも多かったと思う。しかし、大事な
        のは、新しい大きな仕事の成功のカゲには、研究と努力の
        過程に99%の失敗が積み重ねられていることだ。これが
        分かってくれたからこそ、みんな、がんばりあってここま
        できてくれたのだと思う。・・・
        
         社是の冒頭にある「世界的視野」とは、よその模倣をし
        ないこと、ウソやごまかしのない気宇の壮大さを意味する。
        
         独創性を尊重し、取引き先、お客様、地域など、直接間
        接にかかわり合う社会全体を大切にする体質は、理解ある
        社外の人達の支えがあり、みんなの努力が実って定着した。
        ・・・
        
         これからも大きな夢を持ち、若い力を存分に発揮し、協
        力し合い、今より以上に明るく、そして働きがいのある会
        社、さらに世界的に評価され、社会に酬いることのできる
        会社に育て上げてほしい。
        
         明日のすばらしいホンダをつくるのは君たちだ。
        
     ホンダを日本と読み替えて、我々現代の日本人全体が味わい
    たいメッセージである。
                                          (文責:伊勢雅臣)

■リンク■
a. JOG(182)フレッド和田(上)〜二つの祖国
   敗戦後、肩身の狭い思いをしてきた日系人たちは、祖国日本か
  ら来た水泳チームに熱い期待を抱いた。 

■参考■(お勧め度、★★★★:必読〜★:専門家向け)
1. 本田宗一郎、「本田宗一郎 夢を力に」★★★、日経ビジネス
   文庫、H13
   
_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/ おたより _/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/
■「本田宗一郎と藤沢武夫の「夢追い人生」」について

     当方も趣味として20年来、バイクに乗っております。本田
    宗一郎の“生き様”には、正直感動を覚えます。それは、『日
    本人の手で、日本人が世界に誇れる“何か”を創る。』といっ
    た姿勢、かつて諸外国から『猿真似大国』のそしりを受けた日
    本と日本人が、いかにこの状況から脱却し、自立していくか、
    その手本を見せた。この一言につきると思います。

     ホンダがF−1でかつて“大旋風”を巻き起こしたのも、
    『日本人の手で、日本人が世界に誇れる“何か”を創る。』と
    いった精神がファンに伝わったからだ、というのは間違いあり
    ません。

     今の日本、そして日本人は何でも良いから、まず“ホンダ”
    “ソニー”に代表されるような“崇高な精神”を一人一人持つ
    事が大切なのではないでしょうか。?
                                          (VF−21さん)

■ 編集長・伊勢雅臣より

     本田宗一郎の「夢」は公に関わる大きな夢だった、という点
    が大切ですね。

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