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■■ Japan On the Globe(384)■ 国際派日本人養成講座 ■■■■

         人物探訪:サムライ化学者、高峰譲吉(下)

             「日本は偉大な国民の一人を喪ったとともに、米国
             は得難き友人を、世界は最高の化学者を喪った」
■■■■ H17.02.27 ■■ 33,051 Copies ■■ 1,495,283 Views■

■1.「これこそ醸造界の革命です」■

     高峰譲吉は試験管を人々の前に高く掲げて見せた。その中の
    液体は、窓から差し込む陽光を吸収して黄金色に見えた。人々
    の声にならない感嘆が実験室に満ちた。1891(明治24)年、
    シカゴのとある醸造所での事であった。

     その試験管の中の液体が小さなグラスに注がれ、それを技師
    達が口に含むと、感嘆が驚きの声に変わった。「素晴らしい!
    信じられない」 譲吉の発明した新しい醸造法で作られたウイ
    スキーは、従来のものよりも味も香りも良かった。

     従来のモルト・ウイスキーは、6ヶ月もかけて大麦を栽培し、
    それを6日間かけて大量に発酵させて作っていた。それに対し、
    譲吉の発明した方法では、麦粉製造過程の廃棄物として出る麦
    皮、すなわちフスマを利用し、日本古来から伝わる麹(こうじ)
    を作る。その糖化素の力はモルトよりも強く、わずか48時間
    でウイスキーができるのである。

     ウイスキー・トラストの代表者グリーン・ハットが、つかつ
    かと譲吉に歩み寄り、その手を握って言った。「素晴らしい。
    これこそ醸造界の革命です。どうか、我々のために成功させて
    ください。」

■2.「あんたが、日本から新しい酒を造りにきた人かね」■

     シカゴから南西に向かって約350キロの小都市ピオリア。
    大規模な醸造工場が軒を並べるウイスキー・トラストの本拠地
    である。ここに譲吉は妻子と共に移り住んで、新しい醸造法に
    よるウイスキーの量産化に取り組んでいた。

     試験的に量産化したウイスキーを町のいくつかの酒場に置い
    てもらった。譲吉が訪れると、酒場の主人は相好を崩して「評
    判は上々です」と迎えた。一人の老人客が話しかけてきた。

         あんたが、日本から新しい酒を造りにきた人かね。この
        歳になって、うまくて新しい酒を飲めることに感謝するよ。

    と言ってグラスを上げると、数人の客が同調した。譲吉は胸が
    熱くなった。

     しかし譲吉が酒場を出ようとすると、出口を塞いでいた3人
    の男が汚い言葉を投げつけてきた。譲吉が無視して通り過ぎよ
    うとすると、背後からその足をすくい、譲吉は階段を転げ落ち
    た。妻キャロラインが言った。「あなた、ここはアメリカです。
    日本のように謙譲の心は通じません。たとえ負けても、戦うと
    きに戦わないと、かえって信頼を失います。」

     譲吉は足を救った男を階段から投げ飛ばし、他の一人がナイ
    フで襲いかかってくると、これも地面に叩きつけた。譲吉の手
    には男から奪ったナイフがあった。柔術を知らないアメリカ人
    たちは、魔法でも見たように言葉を忘れて立ちすくんでいた。

■3.漆黒の夜空を焦がす炎■

     この3人は、譲吉の新しい醸造工場が完成すれば、職を奪わ
    れるモルト職人だった。自分の発明を喜んでいる人々がいる一
    方で、困る人々が出てくる。それが時代の流れだとは、譲吉に
    は割り切れなかった。

     譲吉はグリーン・ハットに頼んで、これらのモルト職人を従
    来より高い賃金で新工場で採用する事ととし、真っ先にあの3
    人を雇って貰った。これでモルト職人たちの譲吉に対する敵意
    は雲散霧消した。

     しかし、譲吉の新工場を恨んでいたのはモルト職人だけでは
    なかった。モルト工場に巨万の資金をつぎこんでいた醸造所の
    所有者たちは、なんとか譲吉の新醸造法を止めさせる手だては
    ないかと、密かに会合を持っていた。

     いよいよ本格的に量産を始めた日の夜、誰もいないはずの工
    場から、突然、火の手が上がった。譲吉が駆けつけると、すで
    に工場の3分の2が激しい炎に包まれていた。

    「モルト業者の仕業に違いない」「犯人は警察がきっとつかま
    えるから、力を落とさないように」と駆けつけた人々は譲吉を
    慰めた。しかし、この火事がモルト業者の仕業であるにしても、
    不思議と彼らを恨む気持ちは湧かなかった。

     漆黒の夜空を焦がす炎の凄まじい咆哮を聞きながら、譲吉は
    幼い頃に父の背で見た「泣き一揆」の人々の空腹を訴える叫び
    声を思い出していた。「自分の発明は、すべての人々に役立つ
    ものでありたい」と譲吉は改めて思った。

■4.タカジアスターゼの発明■

     1894(明治27)年、ウイスキー造りをあきらめた譲吉は、シ
    カゴに移って、化学の研究に没頭した。キャロラインが陶器類
    の下絵を描く仕事をして、苦しい生計を支えた。

     譲吉はウイスキー造りの経験からヒントを得て、モルトから
    デンプンを分解する酵素(ジアスターゼ)を取り出し、消化を
    助ける薬を作り出した。譲吉の取り出した消化酵素は「タカジ
    アスターゼ」と命名された。「タカ」は高峰の「高」とよく誤
    解されるが、ギリシャ語の「最高」「優秀」という意味である。

     譲吉は各地の医学会でタカジアスターゼの学術的な意義と薬
    としての応用を訴えて歩いた。それに応えて、ハーバード大学
    の研究室がその治療上の効果を実証してくれた。

     1897(明治30)年春、デトロイトに本社をおくパーク・デー
    ビス製薬会社からタカジアスターゼの全世界の「独占販売権」
    を買いたいとの申し出があった。自分の発明した薬が世界の人
    々の役に立つと、譲吉は喜んで申し出を受け入れた。しかし
    「日本における販売権だけは除外して欲しい」との条件をつけ
    た。日本だけは日本の会社にまかせたいという、明治日本のサ
    ムライらしい気持ちからだった。

     新薬が売り出されると、胃のもたれがなくなると全米で大評
    判となった。

■5.塩原又策と三共商店■

     この薬を日本で販売しようと決心した塩原又策という若者が
    いた。友人を通じて、タカジアスターゼの日本での販売を許可
    して貰えるよう依頼すると、譲吉はすぐに承諾した。塩原は、
    友人たちとともに3人共同で始めた会社という意味で「三共商
    店」を興した。

     明治35(1902)年、ヨーロッパへの講演旅行の途上、譲吉は
    日本に立ち寄って、塩原と初めて会った。塩原は夜更けまでタ
    カジアスターゼの瓶詰め作業をしていて、不審に思った警官に
    踏み込まれた時の話をした。

     塩原が警官たちに譲吉の業績と人となりを敬愛をこめて説明
    し、「今、アメリカはおろかヨーロッパでも、日本人として高
    峰博士は、大きな尊敬を受けておられます。その博士が発明さ
    れた薬を、私どもは、国内で販売するために頑張っているので
    す」と語ると、警官たちは感動をあらわにした、と言う。

     こうした苦労話を屈託なく語る塩原に、譲吉は感激して、幼
    い日に見た「泣き一揆」の事を語り、そして塩原の手を握りつ
    つ言った。

         塩原君、私はね、その時以来、医師になることをあきら
        め、化学者になる決意をしたんですよ。私の発明するもの
        が、わずかでもいい、すべての人に役立つものであってほ
        しい、と思い続けて、今日まで歩いてきたと考えるし、こ
        れからも歩いていきたいと願っています。今、幸いにして、
        医学に少しでも貢献できたことを、私は喜ばしいと思って
        おります。そして日本で、そんな私の発明品を普及するた
        めに努力してくださっている君に、心からお礼を申し上げ
        たい。

     塩原は後に譲吉を社長として、薬の製造までも行う三共株式
    会社を興す。現在、「新三共胃腸薬」などで有名な国内第2位
    の製薬会社である。

■6.20世紀の医学の幕開け■

     1900(明治33)年、パーク・デービス社の技術顧問となって
    いた譲吉は、研究助手・上中啓三とともに、アドレナリンの純
    粋結晶の創製に成功した。

     当時の医学界では外科手術がめざましい発達を遂げていたが、
    血圧の上昇抑制と止血作用がうまくできず、出血多量で死亡す
    るケースが多かった。副腎から分泌されるホルモンが止血作用
    に効果があるという所まで分かっており、動物の副腎からエキ
    スをとって医薬として使っていた。これは変質腐敗しやすく、
    また不純物が多いために副作用を起こす危険があった。

     副腎ホルモン抽出は、世界中の医者や生物学者の間で激しい
    研究開発競争が繰り広げられていた。それに割り込んだ譲吉が
    3年間の上中との研究によって、いち早く副腎ホルモンの結晶
    化に成功したのである。譲吉はこれを「アドレナリン」と名付
    けた。

     アドレナリンは従来の副腎エキスの200倍もの効果を発揮
    して、医学界を驚かせた。ライバルだった世界の研究者たちか
    らも祝福の電報が寄せられた。

     アドレナリンは、内科、外科だけでなく、耳鼻咽喉科、歯科、
    眼科、皮膚科など、あらゆる分野で用いられるようになった。
    また世界最初のホルモンの結晶抽出成功は近代ホルモン学の基
    礎となり、ここから20世紀の医学が発展していった。

■7.「無冠の大使」■

     タカジアスターゼとアドレナリンの発見によって世界的な名
    声を博した譲吉だが、個人的な成功に酔っている余裕はなかっ
    た。1904(明治37)年2月10日、新聞の一面に踊る「日本
    とロシア開戦」との見出しに、譲吉は「とうとう始まったか」
    と息をついた。

     2週間後の朝、駐米公使の高平小五郎から電話があった。ア
    メリカで親日世論を起こして米国を味方につけるべく派遣され
    た全権大使・金子堅太郎がニューヨークに着いたので、ぜひ会っ
    てほしい、というのである。

     譲吉は金子に、ロシアが独立戦争や南北戦争でアメリカを援
    助してくれたことから米国民の8割はロシアに好意を持ってい
    ることを話し、難しい使命だと語った。しかし、祖国のために
    死力を尽くそうと誓い合った。

     その3日後、ニューヨーク・プレス紙の日曜版が市民を驚か
    せた。「日本における諸科学の驚くべき発達」と全段抜きの見
    出しのもとで、譲吉の寄稿記事が掲載されていた。そこでは日
    本人がいかに平和を愛しているかを説き、その証拠に明治維新
    後、わずか30余年で近代医学を発展させ、北里柴三郎による
    血清療法の発見という世界的な貢献をなした事を紹介していた。
    これが譲吉が「無冠の大使」として活躍した第一歩であった。

■8.日米の架け橋■

     この後、譲吉は妻キャロラインとともに、講演で全米を飛び
    回り、また自宅でのパーティに政財界人を招待して、親日世論
    の醸成に努めた。一方の金子堅太郎も、精力的な講演活動を続
    ける傍ら、ハーバード大学での同窓ルーズベルト大統領に働き
    かけて、日本に有利な局面でロシアに講和を働きかけて貰うこ
    とに成功する[a]。金子は後にこう語った。

         まことに、このようなご夫婦は、日本にとって国の宝で
        ある。もし、あの戦争の時、高峰博士と夫人とがいなかっ
        たら、私は、あれだけの仕事に成功することはできなかっ
        たでしょう。

     譲吉とキャロラインの民間外交は、日銀副総裁・高橋是清の
    外債募集にも大きな効果を及ぼした。その目標額は2千万ポン
    ドであったが、高橋が同盟国イギリスで集められたのはその半
    分であった。米国では目標としていた500万ドルの5倍もの
    資金が集まった。ユダヤ財閥の支援もあったが、譲吉が種を蒔
    いた親日世論が大きく育っていた成果でもある。[b]

     こうした民間外交の重要性を経験した譲吉は、1905(明治3
    8年)3月、自らが会長となってニューヨークに「日本クラブ」
    を作り、以後、日米間の相互理解と親善に力を尽くした。

■9.セント・パトリック教会の「君が代」■

     しかし、日露戦争後は日米両国の利害対立が目立ち、関係が
    悪化していった。カリフォルニアでは日系移民排斥が激化した。

     1921(大正10)年、第一次大戦後の軍縮問題と極東問題を討
    議するためにワシントン会議が開かれることになった。日本か
    らの使節団と一緒に訪米した渋沢栄一が、譲吉を訪問した。譲
    吉は、寄る年波と日米友好のための激務で、体を壊し静養中だっ
    た。アメリカに渡って30年、懐かしい故郷に帰って老後を過
    ごしたいと弱音を吐く譲吉に、渋沢は涙を流しながら言った。

         私は心を鬼にして言わねばならない。あなたが骨を折っ
        てこられた日米関係は、あなたの学問的成功に比べては、
        ほど遠いということです。絶えず紛議を生じ、太平洋に暗
        雲を漂わせているのです。この日米間の暗雲を取り除ける
        のは、高峰さん、あなたしかいない。・・・どうか、日米
        親善という大目的のために、これからも尽くしてほしいの
        です。私も、老躯にむち打って働くつもりです。

     譲吉はただ黙って頷くしかなかった。そして主治医の止める
    のも聞かず、「これが最後のご奉公になるかもしれない」とキャ
    ロラインに言い残して、ワシントンに向かった。そして日本の
    使節団を米政府高官や政財界の有力者に紹介して回った。

     ワシントン会議が始まって一ヶ月、譲吉は倒れて、そのまま
    意識を戻すことなく、大正11(1922)年7月22日、68年の
    生涯を閉じた。ニューヨーク5番街にあるセント・パトリック
    教会での葬儀には、日米600名もの人々が集まった。柩を墓
    地に送り出そうとする時、キャロラインが日本人の会葬者たち
    に呼びかけた。「ジョウキチが愛してやまなかった、日本の国
    歌で送ってあげて下さい」

    「君が代」の静かな大合唱が聖堂に響き渡る中を、譲吉の柩は
    担ぎ出された。翌日、ニューヨーク・ヘラルド紙は譲吉の死を
    こう悼んだ。

         日本は偉大な国民の一人を喪ったとともに、米国は得難
        き友人を、世界は最高の化学者を喪った。
                                         (文責:伊勢雅臣)

■リンク■
a. JOG(365)  ポーツマス講和会議
    国民の怒りを買うことを覚悟して、小村寿太郎は日露講和会
   議に向かった。
b. JOG(291) 高橋是清 〜 日露戦争を支えた外債募集
    莫大な戦費の不足を補うために欧米市場で資金を調達する、
   との使命を帯びて、是清は出発した。

■参考■(お勧め度、★★★★:必読〜★:専門家向け)
  →アドレスをクリックすると、本の紹介画面に飛びます。
1. 真鍋繁樹『堂々たる夢』★★★、講談社、H11
2. 山嶋哲盛『日本化学の先駆者 高峰譲吉』★★★、
   岩波ジュニア新書、H13

_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/ おたより _/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/
■「サムライ化学者、高峰譲吉(下)」について

                                               遠賀さんより
     このように素晴らしい日本人化学者がいたということはほと
    んど知られていません。譲吉さんの幼い頃に父の背で見た「泣
    き一揆」の人々の空腹を訴える叫びを彼は生涯忘れることなく、
    重大な局面での判断のよりどころにされた崇高な精神に感動し
    ました。

     このように人間は幼い日の強烈な体験や学習がその人の生涯
    で物事の判断をする場合に大きく影響することは多く証明され
    ています。幼児或いは低学年時の教育の大切さをもっと認識し
    ないといけないと思います。そのためにこのような良書をもっ
    ともっと普及させるような活動が必要と思っています。

                                               Kazyさんより
     高峰譲吉博士については、小学生のときに購読致しておりま
    した「学研の学習」の付録にて名前とタカジアスターゼ発見の
    業績については知っておりましたが、ここまでの偉業を為した
    方とは存じませんでした。

     子は親を見て育ちますが、社会に生きていく上で高峰譲吉博
    士のような偉人たちは、「社会においての親」であり人生の模
    範を示す存在であると思います。そのような方々の事を教えず
    に来たことが、最近の「未来に希望を持てない若年層」を増や
    したことの一因でもあると思います。

     もし、彼らが、幼少期に、高峰譲吉博士のような方のことを
    聞いていて、かつ、分野や程度は違えどそれと同じこと或いは
    それ以上のことが成し遂げられる素質を、同じ日本人である自
    分達は持っているのだと言い聞かされていたのであれば、今の
    彼等の姿ももしかしたら違ったものになっていたのかもしれな
    いと思うことしきりです。

                                               Yasuさんより
     高峰譲吉博士については、タカジアスターゼのことしか知り
    ませんでした。アドレナリンの発明や日本の化学肥料の父など
    大変な活躍をした人物なのですね。あまり偉人伝などでも見か
    けませんが。

     それにしても、子供のころ、偉人伝みたいな本には「うそ臭
    さ」を感じて、殆ど読まなかったことを今更ながら惜しまれま
    す。1年ほど前、NY日本クラブの(100周年?)記念誌を見る機
    会があり、高峰博士が初代会長というのを読んだ記憶はありま
    すが、なぜ彼がNYにいたかも知らなかったのですから、無知と
    は恐ろしいものです。博士のような日米友好のために働く人が
    続けば、あの不幸な戦争も避けられたのかもしれませんね。

■ 編集長・伊勢雅臣より

     高峰博士のような偉人を抹殺してきた戦後教育が、青少年の
    心を蝕んできたのですね。

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