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■■ Japan On the Globe(396)■ 国際派日本人養成講座 ■■■■

     地球史探訪:ブラジルの大地に根付いた日本人(上)

           家族のために「大儲けして、一日も早く広島に戻らん
          といけんなあ」と二人はブラジルに出発した。
■■■■ H17.05.29 ■■ 33,395 Copies ■■ 1,624,361 Views■

■1.「オブリガード(ありがとう)」■

     テキサスのダラス空港に着いて、サンパウロ行きの飛行機に
    乗り換えるには、一度、米国への入出国手続きをしなければな
    らない。入国審査で日本のパスポートを見せ、「サンパウロへ
    の乗り換えです」と言うと、「ブラジルに住んでいるのか?」
    と聞かれた。「いや、出張です」と答える。

     手荷物検査でまたパスポートを見せると、「オブリガード
    (ありがとう)」とポルトガル語で言われた。ここでも日系ブ
    ラジル人だと思われたらしい。しかし悪い気はしない。我が同
    胞がブラジルで活躍している事が、アメリカまで伝わっている
    と思えば、ちょっぴり誇らしげな気分となる。

     後で知ったのだが、ブラジルの日系人には日本との二重国籍
    を持つ人が少なくない。ブラジル国籍では米国ビザをとるのは
    難しいと聞いたが、日本のパスポートを持っていれば、ビザな
    しで入れる。日本のパスポートを見せてブラジルの日系人かと
    思われたのはこのせいらしい。

     しかし苦労して異国の大地に根を張った日系人たちのために、
    祖国が多少なりとも報いる事ができているとすれば、これまた
    喜ばしいことである。

■2.「大儲けして、一日も早く広島に戻らんといけんなあ」■

     それにしてもブラジルは遠い。ちょうど地球の裏側である。
    飛行機に乗っている時間だけでも20数時間である。20世紀
    の初め、日本からの移民は船で2ヶ月もかけてブラジルにたど
    り着いた。それもインド洋を横断し、アフリカの喜望峰を回っ
    て、大西洋を渡る、というコースである。

     野村峯夫17歳が、妻サヨ、弟・繁行16歳とともに、移民
    船に乗り込んだのは、大正2(1913)年8月のことであった。妻
    サヨとは移民を決心してから、あわてて見合い結婚した。ブラ
    ジル政府が移民の条件として、一世帯3人以上の労働力を要求
    していたからである。

     峯夫・繁行兄弟は広島県安芸郡仁保村(現・広島市)の小作
    農家に生まれた。父母と6人の弟妹で、一生懸命田畑を耕して
    も、食べていくのが精一杯だった。そこに「ブラジル移民」の
    話を聞いた。ブラジルにはアメリカのような日本人排斥もなく、
    土地も肥沃で日本の日雇い労働者の2倍も稼げるという。

    「大儲けして、一日も早く広島に戻らんといけんなあ」という
    のが、峯夫の気持ちだった。ブラジルで数年働いて、札束を持
    ち帰り、父母や弟妹を楽にさせてやりたい、という決心である。
    移民というより、「出稼ぎ」のつもりだった。移民船には、こ
    ういう人々が527家族、1937人も乗り込んでいた。

■3.「着いたのう。ついに着いた。ここはブラジルじゃ」■

     船室は蚕棚のようなベッドが並び、それも素板にござを敷い
    ただけである。2ヶ月の航海で、赤ん坊が生まれたり、幼児が
    病死したりして、その度に船中は一喜一憂した。

     10月24日、移民船はサンパウロ近くのサントス港に入港。
    峯夫たちがタラップを降りながら振り返ると、船員たちが手を
    振っている。急に胸が熱くなり、涙がこみ上げてきた。船には
    まだ母国の名残があった。しかし、このタラップを降りると、
    そこはもう異国なのだ。地面を踏みしめて言った。「着いたの
    う。ついに着いた。ここはブラジルじゃ」

     移民たちは列車でサンパウロの移民収容所に送られた。ここ
    に滞在する間に、農場を選んで契約をする。出された食事は、
    ソーセージと、油で炒めたご飯に煮豆をかけたもので、日本人
    の口には合わなかった。それでも体力を保たねばと、無理に喉
    に流し込む。しかし初めて口にするコーヒーは苦くて、とても
    飲めなかった。

     峯夫たちはサンパウロの北西300キロほども内陸部に入っ
    た所にあるコーヒー農園と契約した。10数時間も列車に揺ら
    れ、迎えにきた馬車に荷物を積んで、歩く。馬車の後ろでは赤
    い土煙がもうもうと舞い上がった。「ブラジルの土はなんと赤
    いんじゃろうのう」 波のうねりのように見える丘陵のはるか
    彼方に、燃えるような夕陽が沈もうとしていた。

■4.コーヒー農園■

     着いた所は、何十万本というコーヒー樹が規則正しく並ぶ広
    大なコーヒー農園だった。煉瓦造りのヨーロッパ風の大邸宅は
    農場主のものだろう。そこからかなり離れた一角に粗末な小屋
    が十数棟並んでいる。峯夫たちは、その一つをあてがわれた。

     農場での一日は午前4時の鐘から始まる。鐘の音に目を覚ま
    し、朝食を済ませて6時から農作業にかかる。コーヒー樹の下
    に湧き上がるように生えてくる雑草を取り除くのが、この時期
    の仕事だった。午前9時と、午後2時の休憩時間以外は、日没
    まで働きづめである。汗を流し、疲れ切った体が甘いものを要
    求するので、いつのまにか砂糖をたっぷり入れたコーヒーを飲
    むようになった。

     年が明けてまもなく、日本の実家から手紙が届いた。出発の
    時に病床にあった父親が亡くなった、という知らせである。三
    人は東の空に向かって手を合わせた。涙が幾筋も頬をつたう。
    実家に残っているのは、老母と5人の弟妹たち。男手はまだ11
    歳の弟一人である。「金を稼いで、一日も早く帰らねば」とい
    う焦りが渦巻いた。

     一回目の賃金の精算が1月末に行われた。除草の賃金から、
    農場の売店で買った食料や日用品の値段が引かれ、差し引き赤
    字だった。「これじゃ、いくら働いても、金が貯まるどころか、
    借財が増えるだけじゃ」

■5.「どうしても米作りをするなら、わしと別れてくれ」■

     その後、空いている低地を借りて、米を植えて自分たちの食
    べる分くらいは採れるようにするなど、努力を重ねたが、一年
    の終わりの収支は黒字ではあったが、1ヶ月の生活費にも満た
    ない額だった。ちょうど第一次大戦が始まり、コーヒーの輸出
    が減少して、価格も下落していた時期であった。

     このままコーヒー農園で働いていても、飢え死にしないだけ
    で、金は貯まらない。繁行が言った。

         兄さん。ここを出たとしても、ブラジル人の農場に入れ
        ば、同じ事の繰り返しになるけ。日本人だけの植民地が造
        られると聞いたが、そこに入植したらどうじゃろうか。

     二人は130キロほども奥地のリオ・グランデ河流域の低湿
    地帯で、日本人が米作を始めているという話を聞いて、そちら
    に移ろうと決めた。米作りなら自信があった。

     しかし、サヨはサンパウロに出て、給仕などの仕事で現金を
    稼ごうと思った。彼女には彼女の帰りを待っている家族がいた
    のである。サヨは「どうしても米作りをするなら、わしと別れ
    てくれ」と、額を床にこすりつけるように懇願した。「わかっ
    た。離婚しよう。それがお互いのためかもしれん」。峯夫はそ
    れ以上、何も言わなかった。

     別れてから後、サヨと再会することはなかった。消息を聞く
    こともなかった。

■6.黄金色に輝く稲穂■

     兄弟はリオ・グランデ河が目前を流れるなだらかな傾斜地を
    借り、まず自分たちが寝泊まりする小屋を作った。泥で壁を塗
    り、屋根には茅や椰子の葉を並べる。

     それから大人の背丈ほども伸びた雑草を鎌で刈る。刈った草
    を4、5日放置して、からからに乾燥したところで、火をつけ
    るとあっという間に燃え上がる。焼け残った草の根を掘り起こ
    して取り除き、地主から借りたラバで畝立てをする。これでよ
    うやく籾を蒔ける。

     照りつける太陽のもとで滝のように汗が流れたが、物心つい
    た時から体で覚えた米作りを思うままにできるのは、嬉しかっ
    た。やがて稲は順調に伸びて、穂が黄金色に輝いた。

     その年、ブラジルに渡って2年目の収穫は、利益を上げるほ
    どではなかったが、一年分の自給分は確保し、翌年に希望をつ
    なぐことができた。

■7.「同じ村からブラジルまで来ているのも何かの縁じゃ。」■

     来年の準備をしている頃、別の日本人一家が近くに入植して
    きた。沖田京一、その妻と幼児、それに妹テルコの4人家族で
    ある。峯夫・繁行兄弟と同じ村の出身と分かり、すぐに親しく
    なった。

     男手が一人しかない沖田家では耕作面積が限られてしまう。
    見かねた峯夫が言った。

         京一さん、わしらの方はどうにか来年の見通しはたって
        いるけ、もし、差し支えなきゃ、わしらにも少し手伝わし
        てくれんかのう。

     京一が「支払う労賃の余裕はないけ」とためらうと、

         そんなもんは心配せんでもいい。同じ村からこんなブラ
        ジルまで来ているのも何かの縁じゃ。わしらもブラジルに
        来た時は何もわからんで、広島の人にいろいろ世話になっ
        たけ、今度はわしらの番じゃ。

     二人が沖田家を手伝うようになると、いつしかテルコが二人
    の小屋で食事の世話をするようになった。男だけで暮らしてい
    た二人は、テルコの料理に心を和ませた。

     夏の盛りに正月を迎えると、二人は沖田家に招待された。テ
    ルコがありあわせの材料で作った雑煮に舌鼓を打つ。サトウキ
    ビから作ったピンガという酒を飲む。京一が移民の間で流行っ
    ていた歌を歌い出した。

        ブラジルよいとこ、だれが言うた
        移民会社にだまされて 地球の裏側にきてみれば
        聞いた極楽、見て地獄、こりゃ、こりゃ

        錦飾って帰る日は これじゃまったく夢の夢
        すえは蕃地で野たれ死に
        オンサ(豹)に食われりゃ 世話がない

     テルコは働き者で、昼間は黙々と働き、その後も二人の所に
    来て炊事・洗濯をすべてやってくれた。そんなテルコに峯夫は
    次第に惹かれ、いつしか二人は事実上の夫婦として暮らすよう
    になった。結婚式もなければ、披露宴もなし。日本領事館への
    結婚届け出もしている余裕はなかった。

     こうして同じ村から地球の裏側までやってきた二つの家族が
    肩を寄せ合い、助け合って生きていった。

■8.イーリャ・グランデ(大きな島)■

     3年目の1916年はまずまずの収穫で、借地料と来年一年分の
    自給米を差し引いても、まだ余裕があった。次の年には、二家
    族はリオ・グランデをさらに40キロほど遡った所にあるイー
    リャ・グランデ(大きな島)という川中の島に移った。島と言
    っても千ヘクタールほどもあり、黒い粘土質の土は米作りに向
    いているとして、すでに日本人移民が入植を始めていた。

     また同様の開墾作業を一から繰り返す。しかし、ここでの稲
    の発育はずっと速かった。土地が肥えていたため、雑草が抜い
    ても抜いても生えてきた。雑草取りは単調できつい作業だった
    が、それが米の増収につながると思えば楽しかった。

     もう一つ喜ばしい出来事があった。テルコに子供ができたの
    である。「故郷に錦を飾るためにも、生まれてくる子供のため
    にも、頑張らにゃいけんな」と峯夫は思った。

     11月の雨期に入ると、稲穂が黄金色に輝きだした。丹誠込
    めて育てた稲が豊かな収入をもたらそうとしている。島に入っ
    た日本人移民たちの表情も明るくなった。

■9.病魔■

     その矢先に、病魔が移民たちを襲った。マラリアが発生した
    のである。雨期の到来とともに、蚊が発生し、マラリアを伝染
    させた。

     繁行は、2、3日前から寒気と倦怠感を感じていたが、突然、
    極度の悪寒と激しい震えに襲われた。そのあと、40度近い熱
    が出る。このサイクルが3、4日毎に繰り返す。キニーネを飲
    むと一時的に熱が下がるが、継続的に服用しないと慢性化して
    しまう。

     峯夫は京一と相談して、女、子供は島から出した方がよいと
    考え、河を渡った所にあるミゲロポリスという町のはずれに空
    き家を借りて、住まわせた。臨月を迎えたテルコ、京一の妻と
    幼児、それにまだフラフラの繁行が移り住んだ。

     京一と峯夫は島に残って、田を守った。二人ともマラリアに
    かかったが、予防にキニーネを飲んでいたので、軽い症状で済
    んだ。

■10.合掌■

     しかし、キニーネを買うだけの余裕のない日本人家族には病
    魔が容赦なく襲いかかった。熱が下がった時に無理に農作業を
    して、体力を消耗して死亡する移民が少なくなかった。もとも
    と体力のない子供も犠牲となった。

     夫を失い、子供を背負いながら刈り入れの鎌を振るう母親。
    子供を失い、名前を記しただけの墓標の横で、刈り入れに汗を
    流す夫婦。家族をほとんど失い、島を逃げ出す移民もいた。ほ
    とんどの田の横には墓標が立ち、また密林の中にひっそりと立
    つ墓碑もあった。島は日本人の墓標であふれていた。イーリャ
    ・グランデは死の島と化した。

     土は良かったが、限られた男手だけでは収穫も限られていた。
    峯夫らは島を離れることにした。小舟でリオ・グランデ河にこ
    ぎ出すと、峯夫はつぶやいた。

         こんなところまできて、ぼろきれのようになって死んで
        ・・・。野たれ死に同然じゃ。どんなに無念なことじゃっ
        たか。こんな島じゃ、だれも墓に詣でてくれる人間もおら
        んじゃろう。待っていてくだせえ。いつか、必ずあんた方
        が安らかに眠れるような墓を作らせていただきますよ。

     峯夫と京一は島に向かって合掌し、志を果たすことなく死ん
    でいった同胞たちの冥福を祈った。
                                      (続く、文責:伊勢雅臣)

■リンク■
a. JOG(016) 国際親善をそこなうマスコミ報道
    ブラジルの日系紙を怒らせた日本の報道陣 

■参考■(お勧め度、★★★★:必読〜★:専門家向け)
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1. 高橋幸春『蒼氓の大地』★★★、講談社文庫、H6

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