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■■ Japan On the Globe(413)■ 国際派日本人養成講座 ■■■■

            人物探訪: 石坂泰三の「奉公人生」

                自らは平凡無事な人生を望みながらも、88歳
               まで国家公共に奉仕し続けた幸福なる一生。
■■■■ H17.09.25 ■■ 33,818 Copies ■■ 1,780,733 Views■

■1.「度々ハイジャックに遭った乗客のような人生」■

     今日閉幕する愛知万博の入場者数は、目標の1500万人を大き
    く上回る2200万人を達成し、黒字額も100億円と見込まれて
    いる。見事な成功と言える。

     しかし、この成功も35年前の大阪万博に比べれば、まだま     
    だ小さく見える。大阪万博では当初予想の3千万人が6千万人
    となり、黒字額は2百億円。この運用益で、跡地には広大な万
    博記念公園が作られ、今も市民の憩いの場になっている。

     大阪万博の会長を務めたのが、当時84歳の石坂泰三であっ
    た。閉幕時の記者会見では「何が残念だと言っても、黒字になっ
    たことだ。赤字が出たら、総理のところへねじこんでやろうと
    思っていたのに」と煙に巻くような人物である。

     石坂泰三は第一生命保険の社長を務めた後、終戦直後に62
    歳にして労働争議で明け暮れる倒産寸前の東芝入りして、見事
    に再建を果たした。70歳から12年間は経済団体連合会(経
    団連)会長を務め、育ち盛りの日本経済をリード。そして見事
    に成人した日本経済を世界にお披露目した大阪万博の会長と、
    戦後の日本経済の歩みを象徴する人生を歩んできた。

     本人は「無事是貴人(何事もないのが最上の人生)」という
    禅僧の言葉を理想としてきたが、「まるで飛行機に乗っていて
    度々ハイジャックに遭った乗客のような人生だった」と語って
    いる。東芝社長も、経団連会長も、万博会長も、他に引き受け
    手がないために、引き受けさせられた仕事だった。

■2.最初の「ハイジャック」■

     石坂は明治19(1886)年、東京に生まれ、一中、一高、東大
    法を経て、逓信省に入った。順調なエリートコースが、崩れた
    のは4年目。たまたま第一生命の創業者・矢野恒太が石坂の上
    司に「誰か人間が欲しい」と持ち掛けた所、その上司が石坂を
    指名して、当時わずか70人ほどの小企業だった第一生命への
    移籍となった。これが最初の「ハイジャック」だった。

     第一生命では順調に出世して社長となり、昭和21年に60
    歳で社長を辞めるまでは、「無事是貴人」の人生が続いた。
    「わたしはね、非常に幸せでねえ、たまたま、わたしのときは
    生保の勃興時代で、ずっと成長していて、、、」と語るが、入
    社当時、業界12位程度だった第一生命をトップに肉薄する所
    まで伸ばしたのは、石坂の実力だろう。

     7人の子宝に恵まれたが、唯一の悲しみは次男・泰介がフィ
    リピン戦線で戦病死したことであった。

        子を亡(うしな)ひて夜ごと日ごとの悲しみにむせびてひ
        らく吾子(あこ)のふみかな

     家族への愛情を隠さない人物であった。

■3.「このままでは、もう一度負けることになる」■

     昭和23年、社長を引退していた62才の石坂に、東芝の社
    長として来て欲しいという話が来た。戦前の最盛期には80工
    場、10万4千人の規模を誇る東芝であったが、戦後は仕事ら
    しい仕事もなく、大量の人員整理か大型倒産か、の瀬戸際に立
    たされていた。

     しかし、共産党系の過激な勢力が「革命の拠点」として東芝
    を選び、労働組合を煽っていた。役員たちは、労使交渉でスリッ
    パで殴られたり、火のついたタバコを頭に押しつけられたりと
    リンチまがいの仕打ちをうけ、普段でも生命の危険を感じて、
    自宅に帰らずホテルを転々としていた。

     そんな東芝に入ることに友人達は大反対した。しかし、かつ
    て自分が作った日比谷の第一生命ビルが占領軍の本部とされて
    高々と星条旗が翻り、その占領軍の左寄りの政策で暴れ回る労
    働運動の姿は、石坂にとって、会社を失い、日本を失おうとす
    る光景であった。

         泰介。こんなことでいいのか。このままでは戦いに負け
        た上で、もう一度負けることになる。おまえの死はいよい
        よ空しく、報われないものになってしまう。

     石坂は東芝入りを決意した。第2のハイジャックであった。

■4.「社長が自動車に乗って、どこが悪いか」■

     東芝連合労組委員長の石川忠延は次のような証言をしている。

         ある日、見知らぬ人が一人のこのこ汚い労組事務所に来
        た。「近く社長になる石坂です」といきなりいう。私をは
        じめ居合わせた幹部一同、どぎもを抜かした。まだ社長含
        みのただの取締役であった。「この会社の再建が私の仕事
        です。ざっくばらんに話し合いましょう。いずれよろしく
        願います」と言って去った。[1,p129]

     石坂ははじめての団体交渉に臨んで「涙をしのぶ思いである
    が、人員整理を実行する他はない」と言い切った。労使は全面
    戦争に入ったが、石坂は逃げも隠れもせず、団体交渉には必ず
    出たし、ときには自分から労組の事務所を訪れた。

     会社の玄関先で組合員が集団で騒いでいる所に、石坂が車で
    乗りつけると、「ウワー、ウワーいっているところへ、自動車
    なんかに乗りやがって」などと組合員が怒鳴る。

         これだけの会社を、歩いておって間に合うか。社長が自
        動車に乗って、どこが悪いか。

     と、石坂が言い返すと、相手は「悪いとは言わねぇ」とつり
    こまれる。こんなやりとりをしている間に「結局、友達になっ
    ちゃったわけだな」と石川・労組委員長は語る。

     労組の激しい抵抗にも関わらず、任意退職者が整理予定数の
    9割を超え、5ヶ月後には新しい労働協約の調印にこぎ着けた。
    当時、日銀の許可があれば再建整備のための緊急融資が受けら
    れることになっていたが、東芝は労働争議中という事で、認可
    が下りなかった。石川委員長は「われわれも日銀に行ってお願
    いします」と申し出た。

■5.70歳、経団連会長に■

     その後、石坂は自ら走り回って資金を調達し、設備の更新を
    行った。その直後に朝鮮戦争が勃発し、業績は急激に好転する。
    「自分は運が良かっただけだ」と言うが、運を生かしたのは石
    坂の力量である。その後もテレビ・ラジオの生産、石川島芝浦
    タービン株式会社合併による重電部門の強化などを行い、東芝
    に急成長をもたらした。

     昭和31年、70歳。妻・雪子を亡くして気落ちしている石
    坂に、経団連会長を、との話が回ってきた。新聞記者たちが夜
    討ち朝駆けにやってきたが、初対面の記者にも妻の遺影を見せ
    て「いい女房だったよ」と何度も語る。亡き妻への思いは歌に
    託す他はなかった。

        声なきはさびしかりけり亡き妻の写真にむかひ物言ひてみ
        つ

     悠々自適の生活に戻りたかったが、財界からの要望があまり
    に強く、結局、断り切れずに、会長を引き受けることになった。
    第3のハイジャックである。

■6.「乳母車に乗って、風車廻して喜んでいていいのか」■

     石坂は、経団連会長として、一日も早く、日本経済を国際社
    会の中で独り立ちさせる事を夢見た。そして産業保護政策から
    の脱却、資本・技術・商品の自由化、対外経済協力と経済交流
    の推進など、自由経済を原則とする路線を打ち出していった。

     自由化反対派は「日本経済はまだ子供だから保護が必要」と
    主張したが、石坂はこう反撃した。

         子供だといっても、赤ん坊じゃない。もう学校に上がっ
        ている。それなのに乳母車に乗って、風車廻して喜んでい
        ていいのか。

     石坂は掛け声だけでなく、総論賛成各論反対の各業界の説得
    に、根気よく歩き回った。時には目立たぬようにホテルの部屋
    を借り、自動車業界首脳たちとの膝つき合わせての激論を重ね
    たりもした。

     育ち盛りの日本経済は、政府に規制された温室を出て、国際
    経済の厳しい競争の中で鍛えていかねばならない、という石坂
    の主張は、日本経済を健全な発展に向かわせていった。

■7.「池田内閣と日本とどっちが大事だ」■

     自由経済を信奉する石坂は、同時に政府の経済統制にも、と
    ことん反対した。

     池田内閣の高度成長路線が過熱気味になった時、本来なら公
    定歩合をあげて調整すべき所を、時の山際正道・日銀総裁は、
    経営者たちを集めて、設備投資の一割削減を求める講演をした。
    これが石坂の癇にさわった。早速、記者会見でこう反撃した。
    
         自由経済の元では、設備投資をどうするかは、われわれ
        経営者が考えればいいことで、政府が決める問題ではない。
        ましてや、日銀総裁の仕事なんかじゃない。日銀総裁は金
        融政策に取り組み、公定歩合をどうするかだけ考えればよ
        い。(こんな総裁より)むしろ、コンピュータ君を総裁に
        すればいいんだ。[1,p14]

     石坂と池田総理とは、共に高度成長路線を信奉して蜜月の仲
    であったが、日本経済という伸び盛りの少年を、業界の自主規
    制というような小細工で縛り上げようとするとは何事か、と怒っ
    たのである。

     ある人が「公定歩合を動かせば、政府の低金利政策は破綻し
    たことになり、池田内閣に致命傷を負わせる。それでもいいの
    か」と詰め寄ると、石坂は即座に「池田内閣と日本とどっちが
    大事だ」と言い返した。

■8.成長した日本経済の姿を、国の内外に堂々と展示したい■

     昭和40年、79歳となり、経団連会長もすでに10年近く
    も務めている石坂に、今度は、日本最初の万博の会長をという
    要請が、三木・通産大臣からあった。大阪で開催というので、
    当初は関西財界の大物を起用しようとしたが、みな逃げ腰で引
    き受けない。もう石坂に頼むしかない、というのである。

     石坂は一度は高齢を理由に断ったが、エジプトへの出張先ま
    で電話してくる三木の度重なる説得に、肚(はら)を固めた。

     行き場がなくなった川の流れのように、その役が自分の所に
    廻ってきた。あなたしか居ないと頼まれた以上、やってみるし
    かないではないか。もちろん、高齢のことであり、心身を消耗
    して命を縮めるかも知れない。だが、愛する日本のためになる
    仕事を思えばいまさら、どうということもない。天国では、妻
    も次男も待ちわびている。

     石坂は何としても万博を成功させたいと思った。自分の功名
    心などではない。成長した日本経済の姿を、国の内外に堂々と
    展示したい、との一念である。

■9.「ヘイ、さいなら」■

     万博会長を政府に頼まれて引き受けたものの、初年度の政府
    予算は論外の少なさであった。向こうから頼んでおいて、どう
    いうことかと、石坂は腹を立てて、佐藤総理のもとに乗り込ん
    だ。

         いいですか、総理。これはもともと政府の事業で、こち
        らはお手伝いするだけ。予算次第でどんな万博にもできる。
        そこで、うまく行ったら政府の手柄になるし、失敗したら、
        恥をかくのはあなたの方だ。こちらはどうでもいいんだか
        ら。

     と、一方的に怒りをたたきつけると、「ヘイ、さいなら」と
    腰を上げて、歩き出した。総理はあわてて後を追って「わかり
    ました、わかりましたよ。石坂さん」

     こうした一幕があって、万博予算は要求の95%認められる
    ことになったが、「なんだ。わざわざ行って頼んだのに、95
    %か」と石坂はなおも不満そうであった。官庁から出向した次
    長が「こういうものは糊代(のりしろ)があって、95%とい
    えば、120%ついたも同じです」と取りなすと、石坂はまた
    雷を落とした。「おまえら役人め。そういう税金の使い方をし
    て居るのか!」

     こんな調子で、政府を動かし、協会職員たちを率いて、大阪
    万博の大成功をもたらしたのである。

■10.「きみら、ボーイスカウトを応援しろよ」■

     84歳にして万博を成功させた後も、石坂にはまだ250近
    くもの肩書きが残っていた。その中でも、特に力を入れて務め
    た職が二つある。

     ひとつは「宮内庁参与」。お召しがあると、いつにない緊張
    ぶりで宮中に向かう。天皇との間でどのような会話が交わされ
    たのかは、石坂は一切話さないが、陛下については「ユーモア
    があって、まじめでたいした方だ」と感心するばかりであった。

     昭和49年、88歳にして、狭心症の発作で2度、合計4ヶ
    月ほども入院生活を送ったが、明けて昭和50年の元旦には、
    周囲の猛反対を押し切って、例年通り宮中への参賀に赴いた。
    無事、参賀を終えた石坂は「さあ、終わった。もう矢でも鉄砲
    でも持ってこい」と上機嫌だった。周囲の者は、石坂が天皇陛
    下に、黙ってお別れの挨拶をしてきたのだろう、と推測した。

     石坂がもう一つ、熱心に取り組んだのが、ボーイスカウト連
    盟総裁だった。自ら日本ジャンボリー大会に、半袖半ズボンの
    制服を着て参加した。きびきび行動する少年達の姿に、石坂は
    明日の日本を託す思いで、ボーイスカウト運動にのめり込んで
    いった。

     昭和天皇にお別れの挨拶をした3ヶ月後の昭和50年3月6
    日、石坂は88年9ヶ月の生涯を閉じた。「無事是貴人」を夢
    見ながらも、頼まれれば断れずに、国家公共のために尽くした
    「奉公人生」だった。

     武道館で行われた葬儀では、ボーイスカウトの少年たちが会
    場の整理に当たった。その様子に、「きみら、そんなことをし
    ているなら、ボーイスカウトを応援しろよ」という石坂の声を
    思い出す財界人もあった。
                                         (文責:伊勢雅臣)

■リンク■
a. JOG(103) 下村治
    高度成長のシナリオ・ライター。 

■参考■(お勧め度、★★★★:必読〜★:専門家向け)
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   (まぐまぐ版では、httpのあとに「:」を補ってください)

1. 城山三郎『もう、きみには頼まない 石坂泰三の世界』★★★、
   文春文庫、H10


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