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    地球史探訪: 島原の乱 〜 持ち込まれた宗教戦争の種子

                      欧州から持ち込まれた宗教戦争の種子が
                     突然、日本の地で芽を出した。
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■1.「立ち帰った」キリシタンたち■

     寛永14(1637)年10月、島原有馬村の二人の百姓が、天草
    へ行き、そこで「天の使」として布教を始めた益田四郎という
    16歳の少年(天草四郎)に帰依して、キリシタンが礼拝する
    絵像を持ち帰り、村人を集めて布教を始めた。

     四郎は習わぬのに文字を読み、キリシタンの講釈を行い、ま
    た海上を歩いて見せたという。そして、次のような檄文が流布
    されていた。

         キリシタンになり申さぬ者は、日本国中の者ども、デウ
        ス様(神)より左の御足にてインヘルノ(地獄)へ、御踏
        みこみなされ候間、その心得あるべく候。

     島原・天草地域は、30年ほど前まで有馬晴信、小西行長と
    いうキリシタン大名に統治され、領民の多くはかつてキリシタ
    ンであった。二人の百姓の布教で、10月23日の一晩だけで
    7百人あまりの男女がキリシタンに「立ち帰った」という。

     翌日、代官がこの二人を捕らえ、島原城に連行して処刑した。
    しかし、キリシタンたちは集会を止めず、殺された二人を「天
    上し(天国に行き)、自由の身になった」と礼拝した。この集
    会を解散させるために赴いた代官たちを、キリシタンたちは殺
    害し、「代官、僧侶、神官らを殺害せよ」と近隣の村々へ触状
    を回した。

     これに呼応して、各地で立ち返ったキリシタンたちが、代官
    はじめ、僧侶、神官、果ては行きがかりの旅人までを惨殺した
    り、磔(はりつけ)にした。「島原の乱」の始まりである。

■2.キリシタン大名・有馬晴信■

     そもそも島原の地の旧主・有馬晴信がキリシタンに改宗した
    のは、現実的な理由であった。近隣を支配する強大な龍造寺隆
    信に対抗するために、キリシタン大名の大友純忠と同盟する事
    を決意し、そのために改宗を願い出た、とルイス・フロイスは
    『日本史』に記している。

     洗礼の意思はイエズス会から派遣されていた巡察使ヴァリニャ
    ーノに伝えられ、晴信は領内の寺社を破壊し、領民を改宗させ
    るという約束の上で、洗礼を受けた。ヴァリニャーノは晴信に
    兵糧と鉛、硝石などの軍事物資を提供して、支援を行った。

     晴信は約束通り、領民たちに宣教師の説教を聞くことを要求
    し、どうしてもデウスの教えを理解しようとしない者は領国か
    ら出て行くように命じた。

     晴信の庇護のもとで、宣教師たちは日本の寺院の仏像を破壊
    し、仏教徒の目の前で放火したりした。またキリシタンと僧侶
    の間に争いが起きると、晴信は僧侶を処刑すると脅し、財産を
    没収した。領民はこれを聞いて震え上がり、たちまち千人を超
    える人々が改宗したという。

     晴信は宣教師の求めに応じて、領民から少年少女を取り上げ、
    インド副王に奴隷として送る、ということまでしている。
    
■3.持ち込まれた悪習■

     こうした仏教・神道迫害は、他のキリシタン大名の領地でも
    広く行われた。そのために天正15(1587)年、豊臣秀吉は伴天
    連(バテレン)追放令を出した。その理由は、第一に宣教師に
    よる信仰の強制、第二にキリシタンによる寺社の破壊と僧侶へ
    の迫害、第三に宣教師たちの牛馬の肉食、第四にポルトガル人
    による奴隷売買であった。

     日本の在来信仰では、領主が権力や武力を用いて、特定の信
    仰を領民に強制するようなことはなかった。最初に来日したイ
    エズス会宣教師フランシスコ・ザビエルは、いちはやくこの点
    に注目し、日本では男女共に「各人が自分の意思に従って」宗
    派を選ぶのであり、「誰に対してもある宗派から他の宗派に改
    宗するように強要することはしません」と報告している。
    [1,p207]

     同時期のヨーロッパでは、1618年から1648年まで、ドイツを
    舞台にして周辺諸国を巻きこんでプロテスタントとカソリック
    が戦った「30年戦争」が起こった。いわゆる宗教戦争の最大
    のもので、戦場になった地域では敵宗派の住民の虐殺、暴行略
    奪、住居の破壊などで人口の30パーセントから90パーセン
    トが失われたという。こうした悲惨な経験から、ヨーロッパで
    は、信教の自由と政教分離といった近代的概念が成立していく
    のだが、ザビエルの観察に見られるように、これらはすでに当
    時の日本社会では実質的には実現されていたものであった。

     また、有馬晴信、大村純忠、大友宗麟らキリシタン大名が竜
    蔵寺や島津との戦争で窮地に陥った時、副管区長コエリョは秀
    吉に遠征を進言し、そうすればキリシタン領主等を全員結束し
    て、秀吉の味方につけることを約束した。秀吉はこの発言から、
    イエズス会がキリシタン大名を糾合して、日本の支配者になろ
    うとしているのかもしれない、という警戒を抱いた。実際にコ
    エリョは長崎をマカオやマニラのような植民地拠点にしようと
    いう野望を持っていた。[a]

     キリシタン宣教師らは、権力者による信仰の強制、宗教を戦
    争に利用するというヨーロッパ中世の悪習を日本に持ち込んだ
    のである。

■4.「今から26年後に、必ず『善人』が一人出現する」■

     徳川幕府も慶長18(1614)年、禁教令を出して、「キリシタ
    ンの徒党」を追放することを宣言した。その理由は、第一に日
    本で「邪教」を弘めて日本の国を自分たちの手で領有すること
    を企んでいることであり、第二に「神国・仏国」日本の信仰、
    道徳、法に反し、罪人を崇めるような非道の行いをしているこ
    とであった。「非道の行い」とは、僧侶・神官への迫害や寺社
    の破壊を指すのであろう。

     有馬晴信の子・直純はこの2年前の慶長16(1612)年から宣
    教師に領内からの立ち退きを命じ、教会を破壊した。やがて直
    純は日向に転封され、大半の家臣を引き連れて移住したが、一
    部に牢人となって残ったキリシタンがいた。

     寛永14(1637)年、天草に山居していた旧・有馬家家臣の松
    右衛門ら5人の牢人は、26年前に追放された宣教師が書き残
    した予言を思い起こした。それは次のようなものであった。

         今から26年後に、必ず「善人」が一人出現する。その
        「幼い」子は習わないのに文字に精通した者である。その
        出現の印が天にも現れるであろう。

     松右衛門ら5人は当時天草にいた大矢野村の益田四郎が、こ
    の予言に記された「善人」に間違いないとし、彼を「天の使」
    として宣伝した。益田四郎は、キリシタン大名・小西行長に使
    えていたと伝えられる牢人の子であった。

■5.「宗門(信仰)のことで籠城しているのです」■

     従来の歴史研究では、島原・天草での一揆の原因は、キリシ
    タン信仰の迫害と、同地方の領民を苦しめていた飢饉と重税へ
    の反発であるとされていた。

     しかし、この説では説明のつかない事実がいくつもある。ま
    ず、キリシタン迫害は一揆の26年も前に開始され、10数年
    前にはキリシタン信仰はほぼ終息していた。キリシタン迫害に
    対する反発というには、時期が離れすぎている。一揆勢は一度、
    信仰を捨てたキリシタンたちが「立ち帰った」ものであった。

     また飢饉と重税に対する反発というにも不審な点がある。後
    で見るように、一揆勢は、同じく飢饉と重税に苦しんでいる民
    衆にキリシタンへの改宗を武力で強制し、改宗を拒んだ村々に
    は攻撃を加えている。後に籠城した際には、幕府軍から「将軍
    や島原藩主に何か恨みがあるのか、その恨みに理があるなら和
    談をしても良い」との矢文に対して、こう答えている。

         我々は上様(将軍)への言い分もなく、(藩主)松倉殿
        への言い分もございません。宗門(信仰)のことで籠城し
        ているのです。もし我々に憐みをかけて下さるなら、是非
        我々の宗門をお認め下さい。

     確かに、この地方では3年来の飢饉に見舞われていた。そこ
    で思い起こされたのは、天草大矢野でかつて旱魃(かんばつ)
    に襲われた時、キリシタン住民たちが、3日間の断食と十字架
    の前での苦行、祈祷を行った所、3度に渡ってたっぷりと雨が
    降り、救われたという経験であった。イエズス会宣教師は、こ
    のことによって「非常の場合はデウスにすがるという必須の信
    頼」が生じたと記している。

     この事を覚えている百姓たちは、現在の飢饉は、迫害に屈し
    てキリシタンの宗旨を「転んだ」事に対する「天罰」と捉えた
    のだろう。こういう意識のある所に、「天草四郎」が出現して、
    キリシタンへの「立ち帰り」が一気に広がったと考えられる。

■6.戦国の遺風■

     10月26日早朝、有馬村をはじめとする7ヶ村の立ち帰り
    キリシタンらが一斉に蜂起し、島原城下に押し寄せた。戦国時
    代の気風が色濃く残る時代らしく、各村は自治的に運用されて
    おり、一揆方につくか、藩方につくか、判断を迫られた。

     島原に近い安徳村(現・島原市)の村民たちは、荷物を牛馬
    に載せ、子供たちを抱きかかえて城に避難した。城下町の住民
    は藩側に味方するとして、武器の貸与を申し入れた。藩側は警
    戒して、人質をとったうえで、武器を貸し与えた。武士だけで
    なく、こうして百姓が戦に参加するのも、戦国の遺風である。

     押し寄せた一揆勢は、城下町で放火・略奪を行い、逃げ遅れ
    た女性を拉致した。城下の寺院、神社を焼き払い、住持の首を
    切り、指物にして、城の大手口に押し寄せた。藩方は城に立て
    こもり、防戦に努めた。

     26日の晩には、湯江村、多羅良村、茂木村、日見村、西古
    賀村の住民たちが、藩方に加勢すべく、応援を送り込んで来た。
    こうした加勢もあって、一揆勢は数日間に渡って城を攻め立て
    たが、落とすことはできず、それぞれの在所に引き揚げた。

■7.「百姓は草のなびき」■

     有馬地域の村々に立ち帰った一揆勢は、天草四郎に使いを送
    り、今後は四郎を「キリシタン大将」として従う旨を伝えた。
    四郎は「自分は大将として方々へ押し寄せ、キリシタンになら
    ないものは誅伐して宗門を守るつもりであるから、どこへ攻め
    るにも命令には従ってもらう」と指示し、それぞれの村から従
    軍する人数を申し出るよう、指示した。

     四郎は、長崎に1万2千ほどの軍勢を送って、キリシタンへ
    の改宗を迫り、拒否した場合は放火・殺害を行って制圧し、そ
    れから島原城を攻めるという作戦を立てた。長崎は最も近い幕
    府の拠点であった。

     そこに唐津藩の軍勢が天草に到着し、本渡で一揆勢と交戦し
    たが、惨憺たる敗北を喫し、富岡城に籠城した。唐津藩と言っ
    ても、少数の武士に多数の百姓が付き従うという、これまた戦
    国らしい構成だった。一揆方も多数の百姓が牢人に率いられた
    ものであり、武士対百姓という階級闘争史観では捉えられない
    構図であった。

     一揆方は勢いに乗って富岡城を攻め立てたが、落とすことは
    できず、退却した。この様子を見て、今まで一揆勢に荷担して
    いた村々は、今度は手のひらを返すように退却するキリシタン
    たちに攻撃を加え、多大な損害を与えた。戦国時代には「百姓
    は草のなびき」と言って、各村とも生き残るために優勢な方に
    加勢するというのが常態であったが、ここでもそれが見られた。

■8.戦って死ぬことで天国へ行ける■

     天草四郎率いる一揆勢は島原に引き揚げ、12月1日に南有
    馬地区にある廃城・原城(はらのしろ)に籠城した。その人数
    は一説に、3万7千人と言われている。ここから翌年2月28
    日の落城まで、4ヶ月に渡る幕府軍との攻防が繰り広げられる。

     四郎は「それぞれの持ち場をぬかりなく持ち固めよ。そうす
    れば天国へいけるであろう、しかしそれを怠れば地獄へ堕ちる
    であろう」と籠城の一揆勢に督戦した。戦って死ぬことで天国
    へ行ける、という教えである。

     幕府軍は当初、強引な攻撃をしかけて、総大将・板倉重昌が
    戦死するという大きな被害を受けると、その後は城を包囲して、
    兵糧攻めにする作戦に出た。上述の矢文のやりとりも、この時
    に行って、懐柔に出ている。この間に、一揆勢からは約1万人
    ほどが、水汲みなどで城を出た際に、幕府軍に投降している。

     また平戸にいたオランダ船にも、原城を砲撃させた。この作
    戦については幕府内からも「外国船を動員するのは、日本の恥」
    という批判が出たが、作戦を立てた幕府上使・松平信綱は次の
    ように答えている。

         拙者が異国船を呼び寄せたのは、一揆の指導者たちが、
        我々は「南蛮国」と通じているのでやがて「南蛮国」から
        援軍がやってくる、などといって百姓を騙しているから、
        その「異国人」(つまりオランダ)に砲撃させれば、「南
        蛮国」さえあの通りではないかと百姓も合点が行き、宗旨
        の嘘に気がつくのではないか、と思ったからであり、日本
        の恥になるとは思いもよらなかった。

     カトリック国ポルトガルからの援軍を頼むキリシタンたちを、
    プロテスタントのオランダ船が攻撃するというのは、まさに欧
    州における両宗派の代理戦争という趣である。

■9.持ち込まれた宗教戦争の種子■

     2月28日、幕府軍は総攻撃を仕掛け、原城を攻略した。激
    しい戦闘で、幕府軍総勢12万人のうち約1万2千もの死傷者
    を出した。従来の研究では、籠城したキリシタンたちは皆殺し
    にされたとされているが、「城中の者の生け捕りは多い」など
    という報告もあり、投降者も少なくなかった。

     翌年の寛永16(1639)年7月、幕府はポルトガルと断交し、
    国内での徹底したキリシタン取り締まりを命じた。異教徒を殺
    害し、その寺社を破壊することが神に奉仕する道である、など
    という中世的思想は、イエス・キリストの本来の教えとは異な
    るものと推察するが、いずれにしろ、それが欧州における悲惨
    な宗教戦争の原因であった。

     島原の乱は、欧州から持ち込まれた宗教戦争の種子が突然、
    日本の地で開花したものであった。それを初期の段階で根絶や
    しにした徳川幕府によって、以後、江戸日本は「各人が自分の
    意思に従って」宗派を選ぶ近代的社会を維持し、2世紀以上に
    わたる泰平の世が花開くのである。
                                         (文責:伊勢雅臣)

■リンク■
a. JOG(154) キリシタン宣教師の野望
    キリシタン宣教師達は、日本やシナをスペインの植民地とす
   ることを、神への奉仕と考えた。

■参考■(お勧め度、★★★★:必読〜★:専門家向け)
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1. 神田千里『島原の乱』★★、中公新書、H17

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