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■■ Japan On the Globe(454)■ 国際派日本人養成講座 ■■■■

            地球史探訪:「大航海時代」の原動力
    
                「知識欲と探検への情熱」や「キリスト教布教の
                志」が「大航海時代」をもたらしたのか?
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■1.「全ては欲得だけだった」■

    「大航海時代」とは、いかにも勇壮な響きを持つ。15世紀、
    ポルトガルはアフリカ南端の喜望峰を回ってインドに到達し、
    さらにマレー半島を回って、マカオに拠点を作った。負けじと、
    スペインはジェノバ商人クリストファー・コロンブスの提案を
    採用し、西回りにインドに到達しようと大西洋を横断し、アメ
    リカ大陸を発見する。この後、オランダ、イギリス、フランス
    とヨーロッパ諸国の世界進出が続いた。

    「大航海時代」にヨーロッパ人が全世界に進出して行った本来
    の動機は「知識欲と探検への情熱」であった、と語られる。あ
    るいは、「欧州の優れた文明を他の未開民族に普及するために
    海を渡った」と言う人もいる。「キリスト教を布教して、異教
    徒の魂を救済するためだった」という説もある。

     これらは「美しいお伽噺」であって、「全ては欲得だけだっ
    た」と言い切るのが、『驕れる白人と闘うための日本近代史』
    [1]を書いた松原久子氏である。

     この本はもともと日本人向けに日本語で書かれた本ではない。
    原著は『宇宙船 日本』というタイトルで、ヨーロッパ人のた
    めにドイツ語で書かれた。そのヨーロッパ人に向かって、彼等
    の「大航海時代」は、「全ては欲得だけだった」と言い切るの
    である。

     氏の『言挙げせよ日本』は、弊誌で紹介したことがある[a]。
    その「言挙げ」を自ら実践したのが、この『驕れる白人と闘う
    ための日本近代史』なのである。この中で松原氏は、白人が自
    らの歴史を飾るために考え出した様々な「美しいお伽噺」を木っ
    端微塵に粉砕している。本号ではそのいくつかを見てみよう。

■2.ヨーロッパの輸出商品「奴隷」■

     当時、酷寒の地ヨーロッパは貧しかった。そこにアラブ商人
    が、オリエントの豊かな商品を持ち込んできた。砂糖や香辛料、
    絹織物、宝石、珊瑚、真珠、陶磁器、、、豊かなオリエントの
    物産は、ヨーロッパの上流階級のあこがれだった。

     しかし、交易のためにヨーロッパがアラブ商人に提供できる
    ものは限られていた。羊毛、皮革、毛皮、蜜蝋などである。不
    足分は、金・銀で支払うしかなかった。莫大な金銀がアラブ商
    人の懐に流れ、ヨーロッパの金銀の貯蔵量は減少していった。

     金銀の払底を防ぐために、ヨーロッパからアラブ商人に特別
    な商品が提供された。白人奴隷である。

     中世初期に、北部のヴァイキングがロシアの川筋に沿って南
    下してきた時、彼らは、ポーランドからロシアのウラル山脈に
    いたる平原で、スラブ人の男女を捕らえては、アルメニアの黒
    海沿岸で、胡椒、砂糖、絹織物、宝石と交換した。奴隷は毛皮
    に次いで主要な商品だった。ここからスラブが「奴隷(スレイ
    ブ)」の語源となったのである。

■3.アラブ人に対する激しい怒り■

     アラブ商人と取引をしていたヴェネチアやジェノバの商人た
    ちは、クロアチアやペロポンネソス半島、クレタ島など、東地
    中海沿岸の住民をさらっては、奴隷としてシリアやレバノンで
    売りさばいた。奴隷は、そこからダマスカスやバグダッドの奴
    隷市場に運ばれた。

     ヨーロッパ内部での戦争に負けた都市の住民も奴隷として売
    られた。1501年、フランス軍とスペイン軍が南イタリアを攻撃
    した際には、占領されたカプアの男は全員殺され、女はローマ
    の奴隷市場で売買された。

     1550年頃、地中海のアフリカ大陸北岸にあるチェニスの街に
    は、約3万人のヨーロッパ人奴隷がいたことが記録に残ってい
    る。

     しかし、ヨーロッパ人はアラブ商人相手に、大人しく奴隷輸
    出で満足しているような人間ではなかった。

         今日、ヨーロッパ人のダイナミズムとよくいわれるもの
        は、元を正せば彼らの絶望と怒りの産物である。彼等が渇
        望している香辛料、絹、染料、薬、陶器、そしてインドや
        遠いアジアの国々の宝石や珊瑚と引き替えに、彼らから金
        ・銀、そして白い肌の女性を奪い取ったアラブ人に対する
        激しい怒りの産物なのである。[1,p127]

■4.アラブ商人を駆逐したポルトガル■

         こうしてヨーロッパ人のインド進出の先鞭をつけたポル
        トガル人は、アフリカの海岸に沿って拠点を次々と確保し
        ていった。コンゴの河口からアンゴラと喜望峰を経て東ア
        フリカ海岸へと進み、そこで彼らは、何世代にもわたって
        商売を続けていたアラブ商人たちと遭遇した。

         ヨーロッパの歴史書は、当時インドでヨーロッパ人が成
        功したのは、それまでその地域を支配していたアラブの商
        人たちが自ら手を引いたからであると、美しい言葉でさら
        りと触れている。もちろんアラブ商人たちは自ら手を引く
        ことなどしなかったので、ヨーロッパ人はアラブの商船を
        見つければ、予告することなく攻撃し、沈めた。

         こういったことを可能にした決定的な要因は、ヨーロッ
        パ艦隊の圧倒的な軍事力と乗組員たちの確固たる目的意識
        であった。・・・ポルトガル人は20年ほどでインド洋西
        側のアラブの商船をほとんど壊滅させ、攻撃して来たトル
        コの全艦隊を打ち破ってしまった。[1,p122]

     オリエントとの交易を独占してきたアラブ商人をポルトガル
    が駆逐すると、スペイン、オランダ、イギリス、フランスも負
    けじと参入してきた。最大の成功者はイギリスで、海の大国ス
    ペインを破り、ポルトガルの商船狩りをし、オランダ船を見つ
    け次第、攻撃した。

    「大航海時代」とは、「欲得」に駆られたヨーロッパ諸国が、
    世界中を「戦争の海」にした時代だったのである。

■5.「欲得」がもたらした産業革命■

     アラブ商人を駆逐すると、ヨーロッパでは以前より格安の値
    段で、オリエントの商品を入手できるようになった。綿織物や
    絹織物、砂糖、香辛料、宝石などが大量に流れ込んだ。彼らの
    消費は増大の一途を辿った。

     ここでヨーロッパ人は新しい問題に直面する。イギリスでは、
    インドの綿織物の輸入増加によって、毛織物が売れなくなり、
    1700年頃、手織物業者たちは、インドからの綿製品の輸入を禁
    止する法律を議会で無理やりに通してしまった。

     同時に、綿製品をなんとか国産化しようと、木綿を織る技術
    の習得が盛んになり、それに成功すると、今度は紡織機の開発
    が始まった。決定的な成功は1760年前後のジェームズ・ワット
    による蒸気機関の発明だった。石炭を焚いた蒸気機関が、十数
    台の紡績機を同時に動かせるようになったのである。

     10年ほどのうちに、イギリスで最初の本格的な紡績工場が
    誕生した。こうして始まったのが産業革命であるが、これも
    「大航海時代」と同様、「欲得」がもたらしたものであった。

■6.大英帝国の原動力■

     しかし、イギリス人の欲得は、綿織物を国産化するだけでは
    満足させられなかった。インド・ムガール帝国の内部抗争に乗
    じて、イギリスは、フランスと競争しながら、それぞれの土候
    を買収し、勢力を広げていった。そして1757年のプラッシーの
    戦いでフランスを破り、ベンガル地方を獲得した。これがイギ
    リスのインド支配の始まりとなった。

     肥沃な北部インドのベンガルとビハールを支配したイギリス
    の東インド会社は、この地の農民にイギリス輸出用以外の綿花
    を栽培することを禁じた。会社の命令を聞かない農民は追放さ
    れ、その土地は「合法的」に没収された。そのために、かつて
    楽園のような田園風景と謳われたベンガルやビハールの広大な
    土地は、10年足らずの間に単なる綿畑とされてしまった。自
    由で豊かな農民たちは日雇い労働者に身を落とした。

     次に東インド会社がやったことは、何百年の伝統を持つ全イ
    ンドの繊維産業の手工業をつぶすことだった。これは一石二鳥
    の効果を上げた。繊維産業がつぶされた事で原綿の需要が激減
    し、イギリスはほとんど無限の供給を受けられるようになった。
    同時に、インドはイギリスの繊維製品を購入する一大市場となっ
    たのである。こうして植民地から安価に原料を調達し、商品を
    売りつけるという地球規模の搾取システムが構築された。

     また新大陸アメリカで綿花が栽培できるようになると、アフ
    リカから大量の奴隷をアメリカに連れ込み、綿花を栽培させて、
    それをイギリスに持ち込み、綿布にしてアフリカに売る、とい
    う「大西洋の三角貿易システム」も作り上げた。[b]

     数千万人規模の奴隷をアフリカから調達し、アメリカの農園
    で使う、などという、日本人から見れば気の遠くなるような壮
    大なアイデアは、前例のない独創ではない。奴隷輸出とはヨー
    ロッパ人にとっては、なじみの深い手段だったのである。

     こうした地球規模の搾取システムを作り上げた大英帝国の原
    動力は、まさに「欲得」であった。

■7.アヘン戦争■

     イギリスの発明したもう一つの三角貿易が、中国の茶を買う
    ために、インドに工業製品を売り、その金で購ったインドのア
    ヘンを中国に売りつけるというものであった。[c]

     多くの欧米人は、中国がかつてアヘン中毒の国であった、と
    記憶しているが、それが彼らの先祖の仕業であったことは、都
    合良く忘れている。それどころか、中国がアヘンの悪習に終止
    符を打つことができたのは、自分たちのお陰だと信じ込んでい
    る人が少なくない。

     1664年前後に、東インド会社はイギリスの国王チャールス2
    世に茶を贈った。国王は茶の風味と気分を高揚させる効果に魅
    了され、お茶はやがて宮廷や議会、そして富裕階級のお気に入
    りの飲み物となった。1720年頃には、英国のお茶の需要は、絹
    と木綿を抜くほどになった。

     そして、またかつてと同じ問題が再浮上した。イギリスには
    中国が欲しがる商品は何もなかったので、銀で支払わなければ
    ならなかった。中国向けに特別に作らせた儒教や道教の奉納画、
    あるいは、ポルノ画集を売ろうとしたがうまく行かなかった。

     そこで東インド会社は、インドで栽培させたアヘンを、ポル
    ノと同様の非合法販売ルートを通じ、中国の役人たちを買収し
    て、売り込むようにした。これは爆発的な成功を収め、東イン
    ド会社は200年におよぶ中国貿易で初めて黒字を達成した。

     しかし、その成功も長くは続かなかった。アヘン販売の成功
    を嗅ぎつけたフランスやアメリカの商人たちが、続々と参入し
    てきたからである。

     一方、中毒患者の激増に手を焼いた清朝政府は、アヘン輸入
    を禁じたが、これがきっかけとなって、イギリスとのアヘン戦
    争が始まった。戦争に負けた清国は、多額の賠償金と香港を奪
    われた。そして、イギリスは中国に自由にアヘンを輸出する権
    利を得た。
    
■8.「先住民をタスマニア島の狼のように撃ち殺した」■

     インドや中国のように、住民が多く、ある程度の経済規模を
    持っている土地では、ヨーロッパ人は原材料の供給基地、およ
    び彼らの商品の輸出先として、グローバルな搾取システムに組
    み込んだ。しかし、北米やオーストラリアなど、原住民が搾取
    の対象にもならない土地では、どうしたのか。

         アメリカの子供たちは学校で、1620年に180トンのメ
        イフラワー号に乗って、イギリスから男女合わせてほぼ百
        人の清教徒がアメリカにやってきたことを教えられる。清
        教徒たちは、11月の半ばに今日のマサチューセッツ近郊
        に上陸した。すぐに最初の冬を過ごすことになったが、大
        陸の北東に位置するこの地域は、雪が非常に多く、冬が厳
        しい。もし先住民たちが持てる力の全てを傾けて彼らを助
        けてくれなかったなら、彼らはこの冬を生き延びることは
        できなかったであろうと、彼ら自身の記録が伝えている。

         それなのに、その半世代の後には、この地方にはもう一
        人の先住民も住んでいなかった。病死し、あるいは撲殺さ
        れ、射殺され、また追い払われたのだった。[1,p130]

     オーストラリアでも同様の事が起こった。松原氏は、オース
    トラリア大陸発見200年の式典の際に、現地の友人が、次の
    ような発言をした事を紹介している。

         この大陸に入植してきた開拓民たちは、先住民をタスマ
        ニア島の狼のように撃ち殺したのです。毎日曜日、牧師は
        開拓民たちに、オーストラリアの先住民は神が自分の姿に
        似せて造ったのではなく、悪魔の姿に似せて造ったのだと
        説教したのです。そのことを考えると心が痛むのです。
        [1,p130]

■9.黒船のもたらした不安■

     1853年、ペリー率いるアメリカ艦隊が江戸湾に入り、通商の
    要求をした。「太平の眠りを覚ます蒸気船たった4杯で夜も眠
    れず」という当時の狂歌を引いて、幕府の慌てぶりをからかう
    向きがある。

     今日から見れば、当時の日本人は、欧米諸国と通商関係を持
    つことをなぜ不安に思ったのか、理解できないだろう。しかし、
    それは幕末の日本人が、上述の欧米諸国の世界進出の実態を、
    今日の我々以上に正確に捉えていたからである。

     通商関係を持つ、ということを、我々は双方に利益をもたら
    す、良きものという先入観で捉えている。しかし、インドが植
    民地にされたのも、まずいくつかの沿岸都市に白人が現れ、慇
    懃に「アラブ人に代わって、インドから何かを買わせていただ
    きたい」という申し入れをした処から始まった。そして、それ
    からちょうど300年経って、白人は全インドを手中に収めた
    のだった。その一貫した欲得への執念には、驚かざるを得ない。

     通商関係を足がかりにインドは全国土を奪われ、中国はアヘ
    ン禁輸を口実に戦争を仕掛けられ、半植民地状態に陥った。こ
    うした白人の「欲得」の牙が日本に向かわない、と考える方が
    愚かだろう。

     黒船を迎えた我が先人たちの不安をあざ笑うような人々は、
    「大航海時代」というようなヨーロッパ人自身の創作による
    「美しいお伽噺」に目くらましをされているのである。
                                         (文責:伊勢雅臣)

■リンク■
a. JOG(172) 言挙げの方法〜松原久子氏に学ぶ
    国益貫徹の冷たさを美しく包む言語を豊かに発達させてきた
   国際社会を生き抜く方法とは。
b. JOG(090) 戦争の海の近代世界システム
    海洋アジアの物産にあこがれて、ヨーロッパと日本に近代文
   明が勃興した。
c. JOG(173) アヘン戦争〜林則徐はなぜ敗れたのか?
    世界の中心たる大清帝国が、「ケシ粒のような小国」と戦っ
   て負けるとは誰が予想したろう。
d. JOG(149) 黒船と白旗
    ペリーの黒船から手渡された白旗は、弱肉強食の近代世界シ
   ステムへの屈服を要求していた

■参考■(お勧め度、★★★★:必読〜★:専門家向け)
  →アドレスをクリックすると、本の紹介画面に飛びます。

1. 松原久子『驕れる白人と闘うための日本近代史』★★、文藝春秋、H17


_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/ おたより _/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/
■「『大航海時代』の原動力」に寄せられたおたより

                                               純夫さんより
     ヨーロッパの都市に行くと、どこでも街の真ん中に教会ある
    いは市役所の建物があって、そこには広大な広場があります。
    街の中心に広大な広場があるというのは日本の街作りではほと
    んどないことであり、何も知らないと、ヨーロッパの方が都市
    計画において日本よりはるかに優れていると思ったりする訳で
    す。

     ところが、この広場は何のために作られたかというと、奴隷
    市場のためなんですね。大量の奴隷を1か所に集めるとなると、
    それなりの広さが必要になる訳です。

     これは、4年前にプラハに行ったときに、4時間市内を歩いて
    回る英語の観光ツアーでの説明で、宇宙時計のある旧市役所広
    場がなぜ作られたかという解説でした。加えて、本文の記事で
    はアラブ商人と言うことが書かれていましたが、チェコ人のガ
    イド氏の説明によると、プラハで奴隷市場を開いていたのは、
    スペインからやって来たユダヤ人ということでした。

     そこで、歴史をひもとくと、スペインはアラブ人に支配され
    ていましたが、その時はユダヤ人も共存していました。ところ
    が、キリスト教徒が戦いに勝ってアラブ人からスペインを取り
    戻すと、同時にユダヤ人を追い出しにかかりました。その追い
    出されたユダヤ人がプラハ辺りまで流れて来たと考えられます。

     ヨーロッパ人のユダヤ人に対する反感は、記事にあるアラブ
    人に対するものと同様のものがあるのかもしれません。

■ 編集長・伊勢雅臣より

     ヨーロッパの街の広場が奴隷市場にも使われていたとは、知
    りませんでした。ただし、当然、他の用途にも使われていたそ
  うです。

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