[トップページ][平成18年一覧][地球史探訪][210.75 大東亜戦争][500 技術・工学・工業]

■■ Japan On the Globe(475)■ 国際派日本人養成講座 ■■■■

    地球史探訪: 零戦 〜 世界の航空常識を覆した3日間
    
                          1941年12月8日からの3日間に、
                         世界の航空史は新しい時代を迎えた。
■転送歓迎■ H18.12.10 ■ 34,925 Copies ■ 2,317,697 Views■


■1.世界の航空常識を覆した3日間■

     1941(昭和16)年12月8日からの3日間に、世界の航空史
    は新しい時代を迎えた。次の3つの出来事がそれまでの航空常
    識を覆したからである。

     第一に、12月8日、ハワイ・真珠湾に停泊中の戦艦8隻か
    らなる大艦隊を、航空母艦から飛び立った航空機のみの攻撃で
    壊滅させた。[a]

     第二に、12月8日から10日にかけて、台湾の台南、高雄
    両航空基地から飛び立った大編隊がフィリピンの米軍航空基地
    への渡洋攻撃を襲い、壊滅的打撃を与えた。米軍は、まさか戦
    闘機が台湾からフィリピンまで飛んで攻撃できるとは夢にも思
    わず、その後の数日間、フィリピン近海に航空母艦がいるはず
    と必死に探し回って、日本の航空隊指揮官たちを苦笑させた。[b]

     第三に、12月10日、南進する日本の大輸送船団を攻撃し
    ようと出撃したイギリスの誇る新鋭不沈艦「プリンス・オブ・
    ウェールズ」、巡洋戦艦「レパルス」を、日本軍は航空攻撃の
    みで撃沈した。当時世界最強と言われたドイツ空軍でも、2年
    3ヶ月もイギリス艦隊と戦って、戦艦はおろか、一隻の巡洋艦
    すら沈めていなかった。飛行機では大艦は沈められない、とい
    う世界の常識が覆された。[c]

■2.「神秘性を帯びた奇怪な飛翔物」■

     開戦劈頭の戦果は、当時の世界水準から抜きん出た日本の航
    空技術によって、もたらされたものである。その象徴が零式戦
    闘機(零戦)であった。たとえば12月10日のフィリピン攻
    撃では、渡洋攻撃した零戦34機を2倍近い米戦闘機群が包囲
    して、大空中戦が展開されたが、米軍機44機が撃墜され、零
    戦の被害は一機のみであった。

     米軍パイロットにとっては、まさに悪夢であった。彼らは圧
    倒的な工業技術力を誇るアメリカが作り出した戦闘機と、自分
    たちの優れた操縦技能からすれば、日本が物真似で作った戦闘
    機など、簡単に撃ち落とせると考えていた。

     しかし、目の前に現れた戦闘機は、見たこともない、ほっそ
    りした優美な姿をしていた。そして、遭遇したと同時に、驚く
    ほどのスピードで突き進んでくる。格闘戦に入った途端、呆れ
    るほどの上昇力と旋回性能で、すぐに自分の後ろについてしま
    う。そして、そのひ弱そうな機体からは想像もつかない大口径
    の機銃が火を噴くと、たちまち彼らの戦闘機は火災を起こし、
    一直線に落下していくのである。

     米軍パイロットにとって、零戦は戦闘機と言うよりも、神秘
    性を帯びた奇怪な飛翔物だった。あるパイロットは、その飛翔
    物と出会うと、友軍機がそれぞれ競い合うように、自ら墜落し
    ていったように思えた、と怯えて語った。

■3.「外国の超一流機を眼にしたようだ」■
    
     米軍パイロットたちが、日本の航空機など敵ではない、と考
    えていたのは、無理からぬことであった。大正5、6(1916,17)
    年頃まで、日本は外国機の製作権を入手し、外人技師を招聘し
    て、その技術指導のもとに機体やエンジンの設計製作を進める
    のが、せいぜいだった。

     その後、日本人自身の手で設計・製作するようになるが、欧
    米先進国の模倣に過ぎなかった。ようやく、昭和7(1932)年に、
    海軍の航空本部技術部長・山本五十六少将他の提案で、日本独
    自の航空技術を生み出すために、外国機の安易な模倣を禁じて、
    民間各社に自社設計を命じた。真珠湾攻撃のわずか12年前の
    ことである。

     昭和10(1935)年に三菱重工名古屋航空機製作所が完成させ
    た試作機は、当時世界の最新鋭機の最高速度410キロを破っ
    て、450キロを達成した。その試作機が、それまでにない高
    速で急上昇や急降下をして見せると、立ち会った海軍廠長・前
    原謙治中将は、感激に声をつまらせながら、こう語った。

         今日ほど感動したことはない。日本にもこうした飛行機
        が出現したことを思うとただ喜びだけだ。外国の超一流機
        を眼にしたようだ。[1,p25]

     翌昭和11年、紀元2596年の96を冠してこの戦闘機は96
    式艦上戦闘機として制式に採用され、約1千機が生産された。
    その設計主務者が、次に零戦を開発する堀越二郎技師であった。

■4.それはあまりに厳しすぎる要求だった■

     堀越のもとに海軍航空本部から、次期戦闘機の計画要求につ
    いて説明するので、至急出頭せよ、との緊急連絡がもたらされ
    たのは、昭和12(1937)年8月の事だった。ちょうど支那事変
    が始まった時期である。

     それはあまりに厳しすぎる要求だった。最大速度は500キ
    ロを要求していた。また外国でも実用機では例のない20ミリ
    機銃2挺の装備が要求されていた。さらに航続距離、旋回性能、
    上昇性能など、外国の一流機の水準を超えた要求が並んでいた。

     速度と機銃装備による重さ、航続距離などは、あちらを立て
    ればこちらが立たず、という関係にあるのに、それらがすべて
    欧米の戦闘機よりも優れた水準を求められていた。しかも、国
    産の小馬力のエンジンでそれを達成するには、至難の業と思わ
    れた。

     堀越は立ち上がって、これらの要求があまりに高すぎるとし
    て、幾分でも緩和してくれる余地はないのか、と聞いたが、海
    軍側の回答は「絶対に緩和の余地なし」というものだった。堀
    越たちはそれ以上、何も言えずに、出来るだけ要求に沿うよう
    努力することを約して、暗い表情で社に戻った。

     三菱重工とともに要求を聞いた中島飛行機は競争試作を下り
    てしまい、堀越たちの肩にすべての責任が降りかかってきた。

■5.「新鋭機を一日も早く第一線に送れ」■

     早速、設計にとりかかった堀越のチームは、軽くて強度のす
    ぐれた素材はないか、と探し回り、住友金属工業で、それまで
    の超ジュラルミンより抗張力を3〜40パーセント強めた超ゝ
    ジュラルミンを開発したことを聞いて、さっそく採用した。さ
    らに少しでも機体を軽くすべく、強度に関係ない部分に2、3
    ミリの穴を数多く開けることまでした。

     日本の飛行機としては初めての引き込み脚を採用し、空気抵
    抗を少なくして、航続距離を伸ばした。翼の面積は思い切って
    広く取り、旋廻性能を良くし、空母からの離着艦を容易にした。

     こうして設計された機体は、96式艦上戦闘機よりもスマー
    トな美しい形状をしていた。実物大の模型を堀越は満足そうに
    眺めた。

     昭和14(1939)年3月16日、第一号機が完成。詳細な各部
    の点検の後、段階的にテスト飛行が行われた。4月14日には、
    初めて脚の引き込め飛行が行われた。機が滑走路を離れ、両脚
    が引き込まれると、機体は見事な流線形を示した。美しい、と
    堀越は思った。

     6月12日には、海軍の熟練パイロットによる試乗テストが
    行われた。「96式艦上戦闘機に比べると、最高速度は相当増
    しているのに、着陸が容易なのは大いに良い」と好評だった。
    しかし、同時に問題点もいくつか指摘され、堀越たちは改良を
    続けた。

     最高速度は、海軍の要求を上回る時速533キロを記録した。
    当時のドイツとアメリカの最新鋭機の速度、それぞれ444キ
    ロ、426キロを、はるかに凌ぐスピードであった。

     この好成績の報告を受けた海軍側は沸き立った。その情報は
    中国大陸で戦う海軍航空実戦部隊にも伝わり、新鋭機を一日も
    早く第一線に送れ、という声が出始めた。

     その頃、日本の爆撃機は漢口の基地から、重慶まで飛んで爆
    撃を行っていたが、96式艦上戦闘機では航続距離が足りずに、
    護衛についていくことができなかった。そこに中国空軍の戦闘
    機の迎撃を受けて、被害が続出していたのである。

■6.「零式艦上戦闘機」■

     昭和15(1940)年7月末、試作機はすべての問題点が解決し
    たことを認められ、その年の紀元2600年を記念して、末尾の零
    をとって「零式艦上戦闘機」と名づけられた。

     8月19日、漢口から零戦12機が飛び立った。重慶を爆撃
    する陸上攻撃機54機の護衛である。その搭乗員たちは、初め
    て自分たちを援護してくれる戦闘機を得て、零戦に機上から手
    を振った。1500キロもの長距離を単座の戦闘機が編隊を組
    んで飛行するのは、世界航空史上でも例のないことであった。

     重慶では約30機の中国空軍の戦闘機で待ち構えているとい
    う情報が偵察機からもたらされていた。しかし、中国空軍は出
    てこず、陸上攻撃隊はゆうゆうと爆撃を行い、全機帰還した。
    中国空軍は日本の新鋭戦闘機が援護しているという情報を得て、
    身を避けている気配であった。翌日の爆撃にも姿を見せなかっ
    た。

     そのうちに意外な情報が重慶からもたらされた。中国空軍は
    日本の航空戦隊が帰った後に、重慶上空を飛行し「日本航空隊
    に大損害を与え、追い払った」と宣伝しているという。

■7.「なぜ、あんなに落ちていくのか」■

     その裏をかく作戦が立てられた。爆撃終了後、一度重慶から
    帰るふりをして中国空軍が出てきた所を、反転攻撃を仕掛ける
    という案である。

     9月13日、零戦13機は、爆撃終了後、重慶から50キロ
    戻ったところを急遽、反転した。果たして、重慶上空には27
    機の中国軍機が編隊を組んで飛んでいた。ソ連製の最新鋭機イ
    15、イ16である。零戦隊は相手より千メートル高い位置か
    ら、突っ込んでいった。中国軍機は気がついて、あわてて散開
    したが、零戦はスピードが速すぎて相手を追い越してしまった。

     27機対13機が入り乱れての空中戦となった。動きの緩慢
    なイ15、イ16の横を、零戦の高速の機影がかすめて通り過
    ぎる。落ちていくのは、中国軍機ばかりであった。20ミリ機
    銃の威力はすさまじく、敵機の主翼を飛び散らせた。「なぜ、
    あんなに落ちていくのか」と零戦パイロット自身が不思議に思
    えたほどであった。大空中戦はわずか10分ほどで終わった。

     鮮やかな夕焼けが、漢口上空を染める頃、13機の零戦が滑
    走路につぎつぎと着陸した。パイロットたちが搭乗機から降り
    立つと、彼らはたちまち大勢の将兵に取り囲まれた。「敵戦闘
    機、イ15、イ16、27機を確実に撃墜、または炎上破壊。
    只今全機帰着いたしました」と報告すると、周囲はどよめいた。

     二日後に、この空中戦のニュースが新聞報道されると、三菱
    重工・名古屋航空機製作所の内部は湧きに湧いた。その中で堀
    越は、ひとり机の前に無言で座っていた。その顔には、3年間
    の緊張が一時にゆるんだような疲労の色が浮かんでいた。

■8.「そんな戦闘機を日本が作れるはずがない」■

     重慶市街上空の衆人環視の中で、ソ連の最新鋭機イ15、イ
    16が、半分以下の機数の日本機に全滅させられたことに、中
    国空軍は戦意を著しく喪失し、さらに奥地の四川省成都まで後
    退した。零戦部隊はそれを追って、攻撃を続けた。

     日本国内では零戦の量産体制が整えられ、三菱重工と中島飛
    行機が毎月数十機という規模で続々と零戦を生み出し、前線に
    送り込んだ。

     中国大陸での零戦の作戦行動は、昭和16(1941)年8月末に
    完了した。大陸全体が、日本の航空兵力の制空下に納められた
    からである。約1年間で中国空軍に与えた損害は撃墜162機
    (不確実3)、地上での撃破264機。零戦の被害はわずか2
    機、それも地上からの防御砲火によるものであった。

     中国空軍は、アメリカのクレア・シェンノートという元陸軍
    航空大尉によって指導されていた。シェンノートは蒋介石から
    の厚い信任のもとに、アメリカ、ソ連、イタリアなどから最新
    鋭の戦闘機を購入し、多くの中国人パイロットを育てていた。

     零戦の登場にシェンノートは激しい恐怖を覚え、その客観的
    なデータとともに、世界航空界の先進国を自負する米英軍の最
    新戦闘機でも、零戦と交戦したら悲惨な結果となると警告した。

     しかし、その警告にアメリカもイギリスも全く反応を示さな
    かった。数年前まで日本は米英の航空技術をコピーしていた後
    進国であった。シェンノートが報告したような驚異的な性能を
    持つ戦闘機を、日本が作れるはずはない、と彼らは信じこんで
    いたのである。

■9.世界航空史に残した画期的な一頁■

     そうした米英の思いこみを一挙に粉砕したのが、冒頭に述べ
    た昭和16(1941)年12月8日からの3日間の出来事であった。
    米英軍は大恐慌に陥った。

     昭和17(1942)年6月のアリューシャン攻略作戦では、零戦
    隊は米軍機40数機を撃墜するなど、大きな戦果を上げたが、
    1機の零戦がガソリン・タンクに被弾し、無人島に不時着した。
    機体は裏返しとなり、パイロットは死亡した。その機体を入手
    した米軍は狂喜した。

     機体はアメリカに持ち込まれ、徹底的な分析が行われた。
    20ミリ機銃を装備しながら、極めて機体が軽く、米戦闘機で
    はとうてい敵わない運動性能を持っていた。しかも航続距離は
    1600キロという例のない水準である。アメリカの航空技術
    者は驚嘆した。その調査結果から、米軍は零戦1機に対して2
    機で急降下攻撃を加えること、それが失敗したらそのまま逃避
    して、決して格闘戦に入らないようにせよ、という指示が出さ
    れた。

     その後、米軍は新鋭機を続々と開発・投入したが、一騎打ち
    で零戦に対抗できるものはなかった。しかし、アメリカの巨大
    な工業力で大量生産される米軍機に取り巻かれると、多勢に無
    勢で、零戦も撃墜されることが多くなっていった。さらに「空
    の要塞」と呼ばれる爆撃機B17、B24、そして後のB29
    は、堅固な防御に覆われ、前後上下左右に銃座が設けられて、
    零戦でもなかなか撃墜できなかった。

     しかし大東亜戦争末期のフィリピンや沖縄での戦いでは、零
    戦を中心とした特攻作戦が大きな戦果をあげ、米軍を恐怖に陥
    れた[d]。結局、零戦は支那事変から大東亜戦争まで5年間も
    第一線で主役を務め続け、世界航空史に画期的な一頁を残した
    のである。
                                         (文責:伊勢雅臣)

■リンク■
a. JOG(168) 日米開戦のシナリオ・ライター
    対独参戦のために、日本を追いつめて真珠湾を攻撃させよう
   というシナリオの原作者が見つかった。
b. JOG(174) 大空のサムライ〜坂井三郎
    撃墜王の「苦難と勇壮の物語は、万人の胸にうったえる」と
   ニューヨーク・タイムズは評した。
c. JOG(270) もう一つの開戦 〜 マレー沖海戦での英国艦隊撃滅
    大東亜戦争開戦劈頭、英国の不沈艦に日本海軍航空部隊が襲
   いかかった。
d. JOG(214) ジャネット・デルポートと関行男大尉
    オランダ人女性ジャネットは不思議な体験から特攻隊員の心
   の軌跡を辿っていった。

■参考■(お勧め度、★★★★:必読〜★:専門家向け)
  →アドレスをクリックすると、本の紹介画面に飛びます。

1. 吉村昭『零式戦闘機』★★★、新潮文庫、S53

_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/ おたより _/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/
■「零戦 〜 世界の航空常識を覆した3日間」に寄せられたおたより

                                           けんいちさんより
     零戦(れいせん)についての3日間の記述は正確で納得でき
    るものです。新聞紙上にこの戦闘機が公開されたのは、登場後
    5年もたった昭和19年でした。当時国民学校4年生だった私
    達は零戦と0式戦は同じだろうか等・・議論したものです。

     教訓がいくつかあります。堀越さんが試作した最初の戦闘機
    は失敗作で、防御過剰でしたが、その次に96式艦戦という世
    界水準を抜く傑作機が生まれたのです。初心技術者に最初の失
    敗を許し、次に期待した事が大成功につながった事実は重要な
    教訓です。

     零戦は細く優美、米グラマンはずんぐりと樽のようで醜い、
    と私達はあざ笑いましたが、そこにおごりと見落としがあった
    ようで、大事な教訓です。ガソリンタンクは致命部で弾が当り
    発火すれば爆発の危険があり、米機は防弾タンク、零戦は無防
    弾だったのは知られていますが、グラマンの樽型はタンクをす
    べて胴体に収めていたためのようです。零戦は胴体と翼にもタ
    ンクがあり、真後ろから狙われたときに発火危険の面積が圧倒
    的にグラマンより大きかったのではないでしょうか?

    後日談
     12月8日、長躯して台湾から比島クラーク基地を襲った零
    戦隊の指揮官の一人が、後に御巣鷹山の日航機事故で救援に活
    躍した上野村の黒沢丈夫村長だったのは真に不思議な縁です。
    同じ日に真珠湾に殺到した日本海軍の全搭乗員の名簿と、その
    後の消息は手元にありますが、大部分が終戦までに相次ぐ航空
    戦、海戦で戦死し、生き残った少数の人々も4年後の終戦の日
    まで大空で戦い続けているのは感動的です。終戦時に米海軍の
    パイロットは真珠湾生き残りの日本のパイロットを探し求め、
    出会うとオーボーイ!と言って抱きついてきたと、零戦隊指揮
    官の一人、志賀淑雄さんは語っています。

                                           「Kazy」さんより
     以前に航空機に詳しい私の友人に聞いたお話を紹介致したく、
    筆を取りました。この零戦が非難される点として「格闘性能を
    高めるために防御を放棄して搭乗員の命を軽視した」というも
    のが有りますが、彼によると、それは、当時の戦闘機の設計上
    の常識である「自らの搭載兵器による攻撃を防ぐものを備える」
    ことが20ミリ機関砲の搭載によって不可能になったため、中途
    半端な防護兵器を備えるよりは運動性能による回避を重視した
    結果に過ぎないとのことでした。そして、現代の戦闘機は全て
    この方式を取っているとのことでした。

     現在の戦闘機が備えている機関砲は最大のもので30ミリにも
    なり、戦車の装甲すら打ち抜く威力を持っているので、そのよ
    うな威力のある銃撃を防ぐ装甲を航空機に搭載すること自体が
    非常識なものだとのことです。つまり、零戦の設計はその意味
    でも大変革新的なもので、ある意味では早すぎたものですらあっ
    たということです。

■ 編集長・伊勢雅臣より

    「格闘性能を高めるために防御を放棄した搭乗員の命を軽視し
    た」という批判が当たらないことは、当時の新鋭機を揃えた中
    国空軍との約1年の戦闘で、撃墜162機(不確実3)、地上
    での撃破264機。零戦の被害はわずか2機、それも地上から
    の防御砲火によるものであった、という事実が雄弁に語ってい
    ます。 

© 平成18年 [伊勢雅臣]. All rights reserved.