[トップページ][平成19年一覧][人物探訪][210.67 日露戦争][372 教育史]

■■ Japan On the Globe(479)■ 国際派日本人養成講座 ■■■■

          人物探訪: まごころの「軍神」橘周太
    
                 橘周太は、部下や生徒へのまごころの深さで
                人々の心に生き続けた。
■転送歓迎■ H19.01.14 ■ 34,946 Copies ■ 2,355,475 Views■

■1.「軍神橘中佐の面影」■

    「軍神橘中佐の面影」と題して、橘周太が名古屋陸軍地方幼年
    学校の校長を務めていた頃に師事した生徒が、その思い出を語っ
    た一文がある。

         明治36(1903)年9月1日、私は三河国の田舎の小学校
        から志願がかない、一生徒として入校の栄を荷うことがで
        きたのであります。然るに未だ一面識もない校長殿から入
        校第一日に校門で、泙野(なぎの)と私の姓を呼ばれたの
        であります。校長殿はすでに入校前日までに写真に依って
        全新入生徒の名を記憶せられて居たのであります。

         これは小さな事の様でありますが、茲(ここ)に教育者
        とし、熱烈なる真摯(しんし)の態度が窺われるではあり
        ますまいか。入校第一日から校長先生に其の名を呼ばれ、
        温かき言葉をかけられた生徒がどうして校長から離れるこ
        とが出来ましょうか。[1,p108]

     橘周太は、海の軍神・広瀬武夫中佐[a]と並んで、陸の軍神
    と呼ばれていた人物である。「軍神」というと、いかにも戦前
    の軍国主義において、勇猛な戦い振りで敵を撃滅した人物を戦
    意高揚のために持ち上げたもの、という先入観を抱く人もいる
    だろう。しかし事実はそうではない。

     広瀬中佐が旅順港閉塞作戦において部下の安否を気遣うあま
    りに自らの命を捧げたと同様、橘中佐も自ら先頭に立っての夜
    襲において壮烈な戦死を遂げた。二人とも部下への愛の深さに
    おいて、人々の思い出の中に生きてきたのである。

■2.「貧民生計の艱苦を忘るる勿(なか)れ」■

     橘周太は、慶応元(1865)年、長崎県南高来郡千々石村(現在
    の雲仙市)の豪農の家に生まれた。先祖は楠木正成の血統を受
    け継いだ武士で、尊皇の志篤く、父・季隣(すえちか)は維新
    の際に、西郷隆盛などに従ってしばしば京都にも上り、勤王の
    大道を訴えた。

     橘家は代々、村長の役割を果たしてきたが、「如何程(いか
    ほど)の資産家とならんにも、貧民生計の艱苦を忘るる勿(な
    か)れ」と代々の家訓に伝えてきた。こうした思いやり溢れる
    家柄の中で橘周太は育った。

     長崎中学校を卒業した後、東京に遊学し、明治14(1881)年、
    17歳にして、陸軍士官学校幼年生徒となる。23歳で士官学
    校歩兵科を卒業し、陸軍歩兵少尉として青森歩兵第5連隊小隊
    長に任ぜられた。

    「部下を愛するや深淵底なきが如し」と同僚から評された橘の
    部下思いは、この時から発揮されている。当時の日記には、

         将たる者は部下を愛するの至情を基礎とせざるべからず。

    として、自分が何か食べたい時には部下も空腹である、自分が
    眠いときは部下も眠い。部下を思う心が厚くなければ、将とし
    てその時々の状況に適合した判断はできない、と書いている。
    まさに「貧民生計の艱苦を忘るる勿(なか)れ」と同じ思いや
    りの心である。

■3.「膽(たん)は大にして心は小」■

     橘は第一小隊長だったが、ある時、第二小隊の一人の兵卒が
    病気で急死した。橘は日記の中で、隣の小隊の兵卒の突然の死
    を嘆き悲しんでいる。

     翌日、近くにある陸軍墓地で葬儀が行われることになったが、
    あいにくその日は中隊が守衛の番にあたっていたので、亡くなっ
    た兵卒の親しい同僚しか参列することができなかった。

     橘は中隊全部の者の心を手向けてやりたいと思い、葬式が行
    われる時間に、その陸軍墓地の近くで演習を行う事とした。そ
    して、休憩時間に兵たちに自由に焼香をさせた。

     橘は後の幼年学校校長になってから、求められて、青年士官
    の心得を説いた『老婆心』という一文を書いた。誠と愛情の籠
    もった書物として、長く陸軍の将校たちの心の糧とされてきた
    が、その中にこんな一節がある。

         隊付士官は、時に若干の金を軍用行李(こうり、荷物入れ)
        の底にしまっておく必要がある。戦時に際しては勿論であ
        るが、平時でも大いにこれを用いる時期があるものである。

         つまり部下の下士や兵卒等が、父母の病気危篤の電報が
        来たりしたときに、帰省しようと思ってもその旅費に困っ
        て大変苦しむことがある。こんなときに一時軍用行李を開
        いて貸してやると、部下たちの孝行を全うせしめることに
        なる。言いかえれば、安心してその本分を実行させること
        になるのである。[1,p192]

    『老婆心』の中で、橘は「膽(たん)は大にして心は小」でな
    ければならない、と説いている。自分の信念は百難を排して行
    わなければならないが、その際には細やかな心遣いが必要だと
    言う。兵卒の葬式にあたってのエピソードや、軍用行李の配慮
    などは、「心は小」の一例である。

■4.「さあ、殿下もお入りなさい」■

     青森に着任して1年半、橘は近衛歩兵第4連隊付へと抜擢さ
    れた。近衛連隊は皇居の守護役で、陸軍将校のあこがれの的だっ
    た。さらにその2年余り後の明治24年1月、今度は東宮武官
    に大抜擢された。皇太子殿下(のちの大正天皇、当時12歳)
    の教育係である。こうした相次ぐ抜擢は、橘の教育者としての
    人格が、陸軍内で高く評価されていたからである。

     殿下は、相撲がお好きだった。よく「橘、相撲をとろう」と
    言われた。他の侍従や武官は、わざと負けてやったりしていた。
    しかし、橘は対等に力をだして、手ごころを加えるようなこと
    をしなかった。殿下に体力とともに、強い精神力を持って欲し
    いと願ったからである。

     殿下が15歳の時、5時40分から1時間の剣道の寒稽古を
    1月14日から30日間続けてやろうと言い出された。橘はそ
    のお相手をして、殿下が30日間皆勤され、合計170回の試
    合をされた時には、涙を流さんばかりに喜んだ。

     夏には海で水泳を教えた。それも小船で沖まで連れて行き、
    侍従や武官が飛び込んで泳ぎ始めると、橘は「さあ、殿下もお
    入りなさい」と、殿下を抱き上げて、ザンブと海にほうり込ん
    でしまった。殿下が死にものぐるいで手足をバタバタさせ、精
    根尽きて沈んでしまいそうになると、船に引き上げられ、しば
    らく休んでいると「さあ、もう一度」と放り込まれる。こうし
    ているうちに、たった一日で2、3メートルは泳げるようになっ
    た。

     ある程度、泳げるようになると、イタズラ好きの橘は泳いで
    いる殿下の足を学友に海中から引っ張らせたりした。こういう
    手荒な訓練で、もともと体の弱かった殿下は、メキメキと丈夫
    になっていかれた。
    
■5.「軍人の鑑」■

     約5年、東宮武官を努めた後、近衛歩兵連隊に戻り、さらに
    明治30(1896)年、33歳にして陸軍戸山学校の教官に任ぜら
    れた。軍事の研究教育とともに、国民の体育・武道・射撃・音
    楽の向上に貢献した教育機関である。軍人精神の教育と、家族
    的な中隊の実現という年来の抱負を、直接生かせる場であった。

     橘は従来の精神教育では口先で説くだけでは不十分であると
    し、教官自身の言行によってそれを示す事を重視した。その教
    育体験から、のちにまとめた『新兵教育』という著書は、全陸
    軍必読の書とされた。同時に橘の勤勉と功績は「軍人の鑑」と
    して称賛され、時の『軍事新報』で幾多の人々が「橘に爵位を
    授けるべきだ」と口々に論じたほどだった。

    「軍人の鑑」という称賛が、勇猛果敢にして大きな戦功を上げ
    た人物ではなく、橘のような真の教育者に向けて使われたこと
    に留意する必要がある。また爵位も、功成り名遂げた人への論
    功行賞の一つではなく、国民の師表として尊敬に足る人間に与
    えるべきものという考えがあったのだろう。

■6.「教育は人格と人格との接触である」■

     明治35(1902)年、橘は38歳にして名古屋陸軍地方幼年学
    校長に任ぜられた。冒頭に紹介した、全生徒の名前を入学前に
    覚えていたというエピソードは、この時のものである。教え子
    の一人が、後にこう回想している。

         校長の家庭は楽園のようであった。ヱキ夫人が馬丁や女
        中をいたわり一子一郎左衛門を中心に和気あいあいとして
        いて一歩、校長宅の門をくぐれば、春風駘蕩、春がすみが
        たなびいているようであった。

         生徒は努めて校長に近接せよ、との訓示通り、日曜日に
        は生徒が校長宅を訪問するように誘う。生徒が弁当を持っ
        て交代で訪ねると、校長を始め、夫人、馬丁、女中まで一
        家総出で、おはぎ、おしるこ等を作ってもてなす。その時
        の校長の服装は、清潔な木綿の着物に古い小倉の袴姿であっ
        た。[1,p151]

     橘は乃木大将[b]の話をよく生徒にした。乃木大将は当時、
    中将で退役して、那須で農耕生活に入っており、将軍としては
    華々しい道を歩んでいなかったが、その誠忠、礼節、質素な人
    格を橘は敬慕していた。その乃木の「教育は人格と人格との接
    触である」という考えを、橘はそのまま実践したのである。
    「生徒は努めて校長に近接せよ」とは、こうした生徒との接触
    を通じて、己の人格によって、生徒の人格を育てようとしたの
    である。

■7.「祝いの印に煙草でもおごれ」■

     明治37(1904)年2月、日露戦争が始まり、橘は第二軍管理
    部長として出征。8月11日には遼東半島に上陸し、歩兵第
    34連隊の第一大隊長に任ぜられた。

     大隊書記であった内田清一軍曹は、こう書いている。

         夜に入り勤務を終え、月にあこがれてたまたま幕舎に戦
        友を訪(と)うに際し、橘大隊長殿の着任を喜ぶの声は各
        幕舎より起こり、直接麾下(JOG注: 指揮下)にある予等
        を羨むものの如く、祝いの印に煙草でもおごれなどと言え
        るも面白し。[1,p163]

     橘は「部下の統御」について、かつて『軍事新報』に寄せた
    論文の中でこう書いている。

         人はその心の底から、その人の誠心をうちあけて接する
        ときは、どんな部下でも、その上官の命に従わないことは
        ない。

         ある人は、部下を統御するのは一つの術であると言って
        いるが、自分はそうは思わない。統御するということは、
        その人の心によって行われることであり、その心は誠心の
        発露したものであらねばならぬからである。だから、統御
        は術だとは言えないのである。術であり得るはずがない。
        [1,p127]

     教育と同様、軍隊における統御も「人格と人格との接触」と
    考えていた。こうした橘の着任により、「将校、士卒の態度急
    に引きしまれるかの様、一般の士気益々旺盛となれり」と、内
    田軍曹は記している。

■8.「とうとう最期が来たようだ」■

     8月24日夜、大隊は首山堡(しゅざんぽう)目指して、前
    進を開始した。日露両軍主力計28万が初めて激突した遼陽会戦
    の始まりである。26日は豪雨が夜を徹してやまず、露営した
    全員がずぶぬれとなって一晩を過ごした。橘は「兵卒の苦労察
    せられ落涙せり」と日記に書いた。

     30日夜明け方、雨のように落ちてくる敵弾の中、夜襲を決
    行し、橘は光きらめく愛刀を抜いて敵数名を倒した。内田軍曹
    は、それに続いて大隊長旗を山上に立てて万歳を唱えた。

     しかし、橘は数発の弾丸を受け、軍曹が橘を背負って高地を
    下る途中、さらに7発の敵弾を受けた。窪地で敵弾を避けなが
    ら衛生隊を待ったが、橘の傷口からは鮮血がほとばしり出て止
    血のしようもなかった。

         残念ながら天はわれに幸いしなかったようだな。とうと
        う最期が来たようだ。皇太子の御誕生日である最もおめで
        たい日に敵弾によって名誉の戦死を遂げるのは、私の本望
        とするところだ。ただ、残念ながら多くの部下を亡くした
        のは、この上ない申し訳のたたないことだ。

     こう言い残して、眠るように橘は逝った。

■9.「橘少佐の神霊に拝告」■

     内田軍曹は「橘少佐の神霊に拝告」と題した書簡にこう述べ
    ている。

         翌々日に至り、遼陽は全く我が軍のものとなり、遼陽街
        の中国人の家の軒には日章旗がひるがえり、日本軍を歓迎
        する情は至れり尽くせりのすばらしいものでした。

         ここに遼陽の陥落の報告をなしたいと思っても、もうす
        でに隊長殿はこの世におられません。遼陽の歓迎ぶりがど
        んなにすばらしいものであったか、語ろうと思いましても
        この世におられません。・・・

         私が今日まで隊長殿の部下として光栄に浴してよりまだ
        日は浅いのですが、隊長殿から受けた親愛の情は誠に深く、
        まるでずっと昔からの部下であったように接してください
        ました。私はおかげさまで、いつも勇み励み、愉快な軍務
        に服することが出来ました。・・・

         崇拝、敬慕して止まない私たちの大隊長、故陸軍歩兵少
        佐橘周太殿、ご神霊にご報告しなければならないことがいっ
        ぱいありますが、眼は涙に曇り、胸ははりさけんばかりで、
        思うがごとく述べ切れません。

         ただ、願わくば、ご神霊を拝み、いつの日にか、再び地
        下において部下としての光栄をいただく時を待つだけであ
        ります。[1,p169]

     橘は着任後、わずか3週間にして、これほどの敬慕の情を部
    下に抱かせたのである。「軍神」とはかくの如き人物であった。
                                         (文責:伊勢雅臣)

■リンク■
a. JOG(228) 広瀬武夫とロシアの人々
    ペテルブルグの人々に深い敬愛の念を与えて、海軍大尉・広
   瀬武夫は帰っていった。
b. JOG(218) Father Nogi
    アメリカ人青年は"Father Nogi"と父のごとくに慕っていた乃
   木大将をいかに描いたか?

■参考■(お勧め度、★★★★:必読〜★:専門家向け)
  →アドレスをクリックすると、本の紹介画面に飛びます。

1. 坂憲章『明治の教育精神―橘周太中佐伝』★★★、出島文庫、H15

© 平成19年 [伊勢雅臣]. All rights reserved.