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■■ Japan On the Globe(483)■ 国際派日本人養成講座 ■■■■

           国柄探訪: 民主主義を支える皇室伝統
    
                   昭和天皇曰く「日本の Democracy 化とは、
                  日本皇室古来の伝統を徹底せしむるにあり」
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■1.孤独で不幸な日本国憲法■

         日本国憲法は、まことに孤独で不幸な憲法なのである。
        その意味は、それが真の護憲派を有していないという点に
        示されている。[1,p93]

     先年惜しくも亡くなられた坂本多加雄・学習院大学教授の
    『象徴天皇制度と日本の来歴』の一節である。

    「護憲派」がいるではないか、と思われるだろうが、たとえば
    護憲派の人々の多くは、憲法第一条「天皇は、日本国の象徴で
    あり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する
    日本国民の総意に基く」を、その条文のまま擁護しようとして
    いるであろうか。

     戦後の通説的解釈では、「主権の存する日本国民」にのみ焦
    点が当てられ、「天皇は象徴に過ぎない」と総じて消極的、否
    定的に解釈される。そして、天皇の存在は国民主権の不徹底の
    ためであり、「国民の総意」によって将来、天皇制度を廃止す
    る改憲も可能である、と考えている。

     これは本来の意味の「護憲派」であろうか。改憲による天皇
    制度廃止を狙う人々の「偽装」に過ぎないのではないか。

■2.「8月15日革命説」■

     これらの「偽装護憲派」の人々は、国民主権と君主の存在が
    相容れないものと考える。それは国民主権を最初に打ち出した
    フランス革命で王制が打倒されたからである。

     戦後の正統的な学説として広く通用してきた宮沢俊義・東京
    大学法学部教授の「8月15日革命説」では、大日本帝国憲法
    の「天皇主権」が昭和20年8月15日のポツダム宣言受諾を
    機に、日本国憲法の「国民主権」に転換するという「革命」が
    起こったというのである。

     しかし、その「革命」は不徹底なものであり、「天皇条項」
    が残ってしまった。そこで彼らはなんとか「真の革命」に解釈
    上だけでも近づけようと、「天皇は象徴に過ぎない」と主張す
    るのである。

    「天皇主権」と「国民主権」が対立するような構図が本当にあっ
    たのか、以下、歴史的な実態を追っていくが、その前にフラン
    ス革命における「国民主権」の実態を見ておきべきだろう。

     そこでは反対派の国民2百万人が虐殺されるという惨劇が起
    こった。またナポレオンが徴兵制度により、国民全体を兵士に
    仕立て上げ、ヨーロッパ全土を戦火に巻き込んだ[a]。フラン
    ス国民の総意に基づく真の「国民主権」が実現していたら、フ
    ランス国民はこういう事態を本当に欲しただろうか?

     こうした史実を素直に見れば、フランス革命とは「国民主権」
    というイデオロギーのもとに、一部の過激な勢力が権力を握り、
    反対派を弾圧・粛正・虐殺するという、後のソ連、中国、北朝
    鮮などの独裁国家に見られた全体主義の先駆的現象に過ぎない
    ように見える。

■3.幕末の「民主化」■
    
     偽装護憲派の賛美するフランス革命の「国民主権」がこのよ
    うな「偽装」に過ぎないのであれば、それに対比される「天皇
    主権」はどうか。

    「民主化」を「政治的決定の実質的主体が下降していく傾向」
    と捉えれば、幕府がペリーの来航に対して、従来の慣例を破っ
    て諸大名に意見具申を求めたことが、近代日本における「民主
    化」の始まりであった事は、戦前からの「憲政史」の研究など
    で広く認められていた。

     その後の幕末の動乱の過程で、この「民主化」の動きが本格
    化し、実質的な政治決定の主体は、幕府から諸大名、諸大名か
    ら上級の武士へ、さらには下級武士へ、そして「草莽の志士」
    へと、下降していく。同時に、幕府の権力低下の中で、国策の
    決定は「衆議」に基づくものでなければならない、とする「公
    議輿論」の考え方が広がっていく。

     ここで興味深いのは、この権力の下降現象を後押しする形で、
    権威が幕府から天皇へと上昇する現象があったことだ。もとも
    と将軍とは、天皇から征夷大将軍として任命される官職の一つ
    であるという史実を踏まえて、朝廷が幕府に「大政」を「委任」
    したのだ、という「大政委任論」が本居宣長などによって唱え
    られた。また、明治天皇の3代前に当たる光格天皇が、窮民の
    救済を幕府に命じられたのだが、そうした事実を通じて人々は
    改めて天皇の権威を認識した。

    「権力」の下降現象は、それだけでは正統性を得られず、人心
    の受け入れる所とならないために、政治の不安定を招きやすい。
    しかし我が国においては、それが天皇の権威のもとで行われる
    ことで、正統性を与えられ、国民全体の受け入れる所となった。
    すなわち、「尊皇」によって「公議輿論」という「民主化」プ
    ロセスを後押ししたのである。

■4.「天朝の天下にして、乃(すなわ)ち天下の天下」■

     この思想を端的に表しているのが、吉田松陰の次の言葉であ
    ろう。

         天下は天朝の天下にして、乃(すなわ)ち天下の天下な
        り、幕府の私有にあらず。

    「天下」とは日本という国家全体を指す。「天朝の天下」とは
    「偽装護憲派」流に言えば、「天皇主権」であろう。そして
    「天下の天下」は「国家は国民全体のもの」、言わば「国民主
    権」ということになる。「天皇主権」がすなわち「国民主権」
    であり、それが「幕府の私有」、「幕府主権」を否定する原理
    とされている。

     松陰はこれに続いて、幕末の対外的危機に際して、「普天卒
    土の人、如何で力を尽くさざるべけんや」(日本国中の国民が、
    力を尽くすべきである)と主張している。国民として一人一人
    が国家を守る義務を持ち、そのために「公議輿論」に参加する
    権利があるということであろう。

■5.天皇の名の下に進められた立憲議会制度確立■

     こうした「公議輿論」の考えを、国家として公的に宣言した
    のが「五箇条の御誓文」における「広ク会議ヲ興シ、万機公論
    ニ決スベシ」であろう。これはどう見ても、議会制民主主義の
    宣言である。そして、この宣言が、明治天皇が神に誓われた
    「御誓文」という形式で発せられた、という点に留意する必要
    がある。

     この宣言は、明治8年の「立憲政体の詔書」でより具体化し、
    明治14年の「国会開設の勅諭」で議会制度の創設が公約され、
    ついにはアジアで最初の近代的成文憲法である「大日本帝国憲
    法」へと結実していく。このいずれのステップにおいても、
    「御誓文」「詔書」「勅諭」と天皇の公的な意思表示という形
    式が採られた。我が国の立憲議会制度は、天皇の「錦の御旗」
    のもとで建設されてきた、と言える。

     一方、明治政府を批判する民権運動も、「五箇条の御誓文」
    を根拠に早期の議会制度設置の要求を行った。そして政府を攻
    撃するのに、「君」と「民」との意思疎通を妨げていると批判
    を行った。民権過激派による加波山事件(明治17年、16名
    の青年による栃木県令の暗殺未遂事件)の檄文には「奸臣柄を
    弄して、上聖天子を蔑如し(奸臣が権勢をみだりにして、天皇
    をないがしろしにし)」という一節がある。

     政府も民権派も、具体的方法論やスケジュールにおいては対
    立があったが、ともに天皇を国民統合の象徴として、そのもと
    での立憲議会制度を目指していた事に変わりはない。西洋諸国
    に見られたような「君」と「民」が権力をめぐって争うという
    構図は、我が国には見られなかった。

■6.武力クーデターを挫折させた昭和天皇のお怒り■

     明治22(1889)年2月11日、アジア最初の近代的成文憲法
    として大日本帝国憲法が発布された。当時の欧米の著名な政治
    家や学者は、この憲法が日本古来の伝統に根ざしつつ、近代的
    憲法学を適用したものと、きわめて高い評価を与えた。[b]

     そこでの天皇は「統治権」の「総攬」者とされているが、立
    法においては議会の「協賛」すなわち承認が必要であるとし、
    また行政についても、大臣の「輔弼」によってなされるとした。

     これが形ばかりのものでないことは、日露開戦という国運を
    賭した決定が、明治天皇の御心配を押し切った形で、内閣によっ
    てなされた、という一点だけでも窺えよう。大東亜戦争開戦も
    同様である。

     帝国憲法において、天皇を「統治権」の「総攬」者であると
    定めていた事から、この「天皇主権」が昭和期に軍部が台頭し
    て、軍国主義を生み出したと考えるのはどうだろうか。

     昭和11(1936)年2月26日に青年将校らが「昭和維新断行
    ・尊皇討奸」を掲げて、主要閣僚を襲い、斎藤実内大臣、高橋
    是清蔵相などを殺害した。

     昭和天皇はこの武力クーデターにお怒りになり、「朕自ら近
    衛師団を率い、これが鎮定に当たらん、馬を引け」とまで言わ
    れた。そして戒厳司令官・香椎中将がラジオ放送で、「天皇陛
    下に叛き奉り逆賊としても汚名を永久に受けるやうなことがあっ
    てはならない」と兵に原隊復帰を呼びかけた。

     武力クーデターを挫折させたのは、あくまで立憲君主制を守
    られようとされた昭和天皇のお怒りであった。もし本当に「天
    皇主権」で昭和天皇が直接、権力を振るわれていたら、逆に軍
    部の専横の余地はなかったであろう。

■7.斎藤隆夫の「粛軍演説」■

     事件の3ヶ月後、5月7日に開かれた第69特別議会におい
    て、斎藤隆夫・衆院議員は有名な「粛軍演説」を行った。その
    中にこういう一節がある。

         我が日本の国家組織は建国以来三千年、牢固として動く
        ものではない。終始一貫して何ら変りはない。また政治組
        織は明治大帝の偉業によって建設せられたるところの立憲
        君主制、これより他にわれわれ国民として進むべき道は絶
        対にないのであります。故に軍首脳部がよくこの精神を体
        して、極めて穏健に部下を導いたならば、青年軍人の間に
        おいて怪しむべき不穏の思想が起こるわけは断じてないの
        である。[1,p141]

     軍部の専横を批判し、立憲議会政治を守ろうとする人々にとっ
    て、「明治大帝の偉業によって建設せられたるところの立憲君
    主制」こそが、その寄って立つ根拠であった。

■8.「治安維持法」はソ連との冷戦■

     戦前の「天皇主権」をあげつらう人々が、軍国主義による人
    権弾圧の典型として持ち出すのが、「治安維持法」である。し
    かし、これはソ連による国際共産主義革命への防衛策として制
    定されたという面を忘れてはならない。

     もともとソ連は、国内外を問わず、「階級敵」「人民の敵」
    を抑圧・殲滅せしめ、共産主義を世界に広めることを国是とし
    た国家であった。そして、その国是は国内においては大規模な
    虐殺粛正や、政治犯の収容所送りとして実行された。国外にあっ
    ては、各国の共産党を手先として、その政治体制を内部から打
    倒する事を目指した。日本共産党もその一派であった。

     坂本多加雄氏は、治安維持法下の特別高等警察と日本共産党
    との闘争は、政府対人民の闘争ではなく、ソ連と大日本帝国と
    の「冷戦」であった、と述べている。これは戦後、日本の代わ
    りにソ連との冷戦を始めた米国においても、「赤狩り」という
    マッカーシズムが吹き荒れたことと同様の現象である。

     戦前の治安維持法による人権弾圧を批判する前に、当時のソ
    連における人権弾圧は、日本よりもはるかに大規模かつ徹底的
    なものであった事を知っておかねばならない。さらに、もし日
    本がソ連との冷戦に負けて、日本共産党の支配下におかれたら、
    議会制民主主義は根絶やしとされ、東欧諸国や中国、北朝鮮と
    同様の徹底的な粛正・虐殺が行われていたであろう。

     こうした背景を考えてみれば、治安維持法による人権弾圧が、
    「天皇主権」の独裁国家によって生み出された、という見方は、
    当時の国際環境を無視した一面的なものである事が判る。

■9.日本の"Democracy化"と皇室伝統■

     敗戦後、昭和21年年頭に「新日本建設の詔書」が発表され
    た。俗に「人間宣言」と言われているが、その冒頭には、昭和
    天皇の御意思により、「五箇条の御誓文」がそのまま引用され
    ている。戦後の再出発にあたり、近代日本の出発点が「万機公
    論に決すべし」にあったことを国民に思い起こさせるためであ
    る。

     詔書渙発からほどない1月18日、昭和天皇は次のように言
    われたと、侍従次長・木下道雄は『側近日誌』に記している。

         日本の Democracy 化とは、日本皇室古来の伝統を徹底
        せしむるにあり

    「和」を尊び、独断専横を嫌うのがわが国の文化的伝統であり
    [c]、その中で人民を「大御宝(おおみたから)」として、そ
    の安寧と幸福を祈り続けてきた[d]のが有史以来の皇室伝統で
    あった。こうした文化的・政治的伝統を基盤として、近代にお
    いては、天皇の名の下に議会制民主主義という政治制度が着々
    と築かれてきた。民主主義とはアメリカの専売物ではなく、広
    く近代国際社会の共有するものであって、わが国にはわが国な
    りの歩みがあった、と昭和天皇は主張されているのである。

     現行・日本国憲法は占領軍総司令部がわずか1週間程度で急
    拵えしたもので、文章、内容ともに細部には問題が多いが[e]、
    天皇を「日本国の象徴であり日本国民統合の象徴」とし、その
    もとでの議会制民主主義を採用するという立憲君主制の構造は、
    帝国憲法と同じである。そして日本国憲法は帝国憲法の改正と
    して、昭和天皇の次の「上諭」とともに発布された。

         朕は、日本国民の総意に基いて、新日本建設の礎が、定
        まるに至つたことを、深くよろこび、枢密顧問の諮詢及び
        帝国憲法第七十三条による帝国議会の議決を経た帝国憲法
        の改正を裁可し、ここにこれを公布せしめる。

     わが国の議会制民主主義の歩みは、明治元(1868)年の「五箇
    条の御誓文」以来、140年近くにもなる。未だ民主化の芽吹
    かぬ近隣諸国との外交においても、この事をよく踏まえた上で
    対応すべきである。
                                         (文責:伊勢雅臣)

■リンク■
a. JOG(058) 自画像を描く権利
    フランス革命と明治維新
b. JOG(242) 大日本帝国憲法〜アジア最初の立憲政治への挑戦
    明治憲法が発布されるや、欧米の識者はこの「和魂洋才」の
   憲法に高い評価を与えた。 
c. JOG(082) 日本の民主主義は輸入品か?
    神話時代から、明治までにいたる衆議公論の伝統。
d. JOG(074) 「おおみたから」と「一つ屋根」
    神話にこめられた建国の理想を読む。 
e. JOG(141) 仮設憲法、急造成功
    今週末までに、新憲法の概案を作れ、、、マッカーサーは、
   なぜそんなに急がせたのか? 

■参考■(お勧め度、★★★★:必読〜★:専門家向け)
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1. 坂本多加雄『象徴天皇制度と日本の来歴』★★、都市出版、H12

 

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