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■■ Japan On the Globe(486)■ 国際派日本人養成講座 ■■■■

             地球史探訪: 経済封鎖に挑んだ日本

                 保護主義と植民地主義に屈することなく、戦前
                の日本は輸出市場を求めて苦闘を続けた。
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■1.新興工業国・日本の台頭■

     1932(昭和7)年、日本の総輸出のなかで綿製品が25%に達
    し、それまでの輸出の柱であった生糸の21%を超えた。同時
    に日本の綿製品の輸出量は、それまでの覇者英国を追い抜いて
    世界一となった。日本が原材料輸出国から、工業製品輸出国に
    成長した記念すべき年であった。

     日露戦争が近代戦争において黄色人種が初めて白色人種を打
    ち破った戦いだとすれば、日本が綿製品の輸出で世界一になっ
    たという事は、近代工業において黄色人種が白色人種を追い抜
    いたという世界史に残る出来事であった。

     新興工業国・日本の台頭は、綿製品ばかりではない。世界の
    工業製品輸出の中でのシェアを見ると、1926-29年の平均3.6
    %から、1936-38年には7.0%へと、ほぼ倍増している。同時
    に英仏米の合計が48.8%から40.9%へと落ちている。先
    進国が失ったシェアの半分ほどを日本が独り占めした形となっ
    ている。

     しかし、当時の国際環境は、新興工業国・日本にとって、あ
    まりにも厳しかった。米国は1930年に貿易収支をバランスさせ
    るために、スムート・ホーレイ法を制定して、外国製品に極め
    て高額の関税をかけた。これをきっかけに各国での関税引き上
    げ合戦が始まり、世界貿易は縮小していく。その中でも特に日
    本製品は高関税と輸入制限で狙い打ちされた。

     英国は1932年にオタワ会議を開き、英連邦内外からの輸入に
    関して高額の関税をかけた。世界経済は、このオタワ協定で
    「自由貿易」の幕を閉じ、保護主義の時代に入った。

     さらに重要な輸出市場であった中国においては、その数年前
    から国民党が反日デモと日本商品ボイコット運動を展開してい
    た。

     日本が近代工業国家として世界市場に登場した時には、すで
    にその力を自由に発揮できる舞台は、なくなっていたのである。

■2.対米輸出の急減■

     ペリー来航から始まった日米貿易は着実に拡大し、米国は日
    本の最大の輸出市場となっていた。1926年には日本の総輸出の
    42%が米国向けであった。しかし、わずか8年後の1934年に
    は、18%まで落ち込み、その後いくらかは改善したが、もと
    に戻ることはなかった。その原因として以下の3つが挙げられ
    る。

     第一に、米国経済が未曾有の大恐慌に見舞われたことである。
    米国は国内の失業対策として、スムート・ホーレイ法により、
    輸入品に極めて高率の関税をかけた。これは交易相手国からの    
    手厳しい反発を招き、米国の貿易量は1934年には1929年の水準
    の約3分の1まで減少した。

     第二に、日本の対米輸出の8割以上を占めていた生糸が、ア
    メリカでのレーヨン(絹に似せて作った再生繊維)の普及によっ
    て、価格急落に見舞われたことである。最高品質の繭でも市価
    は生産費の6割にしか達しなかった。このために、1932年秋ま
    でに日本の養蚕農民の1300万人が大打撃を受け、破産者が
    続出した。特に養蚕が盛んだった長野県では、約20万人の小
    学児童が昼の弁当を持って来られなかった。

     第三に、スムート・ハーレイ法の反省から、1933年以降は、
    ルーズベルト政権は関税軽減の方針をとったが、日本に対して
    は、逆に関税引き上げや数量制限が加えられた。たとえばシャ
    ープペンシルの平均的な関税は58.3%だったのに、日本製
    品のみは86%だった。こうした差別的関税により1934年には
    日本製シャープペンシルが米国市場の81%ものシェアを押さ
    えていたのに、1937年には0%となってしまう。

■3.日本を狙い撃ちにした差別的関税■

     ルーズベルト政権が日本を狙い撃ちにするような関税政策を
    とったのは、関税引き下げに反対する勢力の批判をかわすため
    に、特定国への関税を引き上げるポーズを取る必要があったか
    らだ。そして、その対象として、米国からの輸出の3%を占め
    るに過ぎない日本が選ばれた。また日本製品が集中豪雨的に輸
    出を伸ばした分野での米国内生産者の反発に応える面もあった
    であろう。

     さらに、非白人国として世界でただ一国、工業製品でアメリ
    カに挑戦してくる「小生意気」な国、という人種差別的感情も、
    あったと推察される。
    
     それでも陶器や白熱電球など、他国よりも10%から20%
    も高い関税をかけられながらも、米国市場でのシェアを守った
    製品もある。必死の思いでコストダウンに取り組んだ我が先人
    の姿が思い浮かぶ。
    
■4.英連邦からの日本製品の締め出し■

     1932年に日本の綿製品の輸出量は世界一となったが、これは
    当然、それまでの覇者・英国との間で様々な軋轢を引き起こし
    た。カナダ、オーストラリアなど、英連邦諸国では公然と対日
    貿易差別の圧力をかけた。

     英連邦の中でも、インドは、英国の産業革命以来、綿花を輸
    入し、綿製品を輸出するという重要な市場であった[a]。この
    インド市場で、日本製綿布は強い競争力で急速にシェアを伸ば
    した。1925-26年のシェア14%から、1931-32年には44%に
    達した。それとともに、英国製綿布は82%から46%へと後
    退した。

     1932年に結ばれたオタワ協定では、英連邦全体から外国商品
    を閉め出すことを目的として、外国商品に対しては高関税を課
    し、連邦内の商品に対しては無税または低関税とした。それま
    でもインド市場において日本製品は英国製品より5%高い関税
    をかけられていたが、1932年秋には、英国製品25%に対し、
    50%もの関税を課せられた。

     これにより日本製綿布の輸入拡大は止まったが、そのシェア
    を下げるまでには至らなかった。そこで1933年6月、インド政
    庁は英連邦諸国以外からのすべての綿製品の輸入関税を75%
    に引き上げた。「英連邦以外」としながらも、実質的にはシェ
    ア45%を持つ日本製綿布をターゲットとしたものであった。
    この極端な差別的関税により、日本製綿布の輸出は急減した。

     日本からインドへの輸出の柱は綿製品であったので、これに
    よって、インドへの輸出全体が大きく落ち込んだ。日本の輸出
    全体の中で、インド向けは1932年には13.6%を占めていた
    が、1937年には9.4%へと縮小した。

■5.オランダ領インドネシアでの日本製品輸入制限■

     オランダの植民地であったインドネシアは、当時、蘭印と呼
    ばれ、日本にとって、アメリカ、中国、インドと並んで、重要
    な輸出市場であった。インドネシアの全輸入の中で、日本のシェ
    アは1913(大正2)年にはわずか1.6%に過ぎなかったが、
    1929(昭和4)年には10.6%、そして1937年には25.4%と
    なった。同時期に宗主国オランダからの輸入は、33.3%か
    ら19.1%と減少した。

     日本からの輸入の半分が、やはり綿布であった。1933年には
    日本製綿布がオランダ製や英国製、米国製を退けて、綿布輸入
    量の8割を占めるに至った。オランダは緊急輸入制限を発動し、
    各国に割当量を課した。オランダ当局は割り当ては平等に行っ
    たと説明したが、許可が与えられる貿易会社はヨーロッパの
    商業組合の会員でなければならず、この条件にかなう日本の輸
    入業者は三井物産など、わずか3社だけだった。また輸入割当
    量は1930年の輸入高によって決められたため、日本からの輸入
    は半分に落ち込んだ。

     興味深い点は、日本からの輸入は落ち込んだが、オランダか
    らの輸入はさほど増えなかった点である。実は、廉価な日本製
    品は現地人の需要を開拓していた。その日本製品が制限されて
    も、現地人には高価なオランダ製品には手が届かなかったので
    ある。

■6.日本製品の差別的規制は、「国際的に了解ずみの事実」■

     インドネシアにおける日本製品の急成長ぶりに関して、1933
    年に英国外交官が本国に送った報告書がある。そこでは「日本
    人はダンピングしている」「彼らのやり方は汚い」「日本政府
    は繊維産業に補助金を与えている」と非難していた。

     しかし、東京の英国大使館からは、それに反駁する数通の報
    告書が送られた。その報告書は、日本ではいかなる輸出産業に
    も日本政府の補助金交付という違反行為を発見したことがなかっ
    た、と言明し、続けてこう述べていた。

         もし日本綿製品の輸出の成長が、ダンピングとか不法な
        補助金とか、また日本人の押しの強さだけを原因としてい
        るのであるならば、英国は日本の(綿工業の)強さを忘れ
        てもよいのである。そうではなくて、私達が心配している
        のは、日本が本当の競争力を身につけてしまったことなの
        である。[1,p186]

     オランダ政府は、綿製品以外にも、化繊、陶磁器、セメント、
    タイヤ、ガラス製品、ビールなど、次々と輸入制限を広げ、日
    本からの輸入を抑え込んでいった。

     日本政府はオランダ政府との交渉を行ったが、オランダ代表
    はその席上で、日本製品を差別的に規制することは、「国際的
    に了解ずみの事実」であり、「正当化」された仕打ちである、
    とまで述べた。すでにアメリカや英連邦が公然と行っているこ
    とを、オランダが追随して何が悪いのか、と言うのである。

■7.対中輸出の急減■

     中国は、1926年以前の20年間、日本の輸出の約20%を占
    める重要な市場だった。しかし、その後の対中輸出は急減し、
    1937年には5.6%に落ち込んでしまった。その最大の理由は
    日貨排斥であった。

     中国ではしばしば外国製品のボイコット運動が起きていた。
    その根底にはアヘン戦争後に西洋諸国と結ばれた不平等条約が
    あった。この条約のために、外国人には治外法権と租界が認め
    られ、対外貿易の関税率も5%に固定されていた。半植民地状
    態になった中国において、民族主義の高まりが、外国製品に対
    するボイコット運動として現れたのである。

     1926年頃までのボイコット運動は英国が対象であった。しか
    し、1915年の21カ条の要求、日本の満洲への勢力伸長に伴い、
    その矛先は日本に向けられていった。特に1926年以降は、国民
    党が対日ボイコット運動のリーダーシップをとり、日貨排斥が
    組織的に進められていった。
    
     1928年、長江中流の中心的都市・漢口において日本海軍兵士
    が中国人クーリー(苦力、天秤棒で荷を担ぐ労働者)をオート
    バイ事故で死亡させるという事件が起こり、それをきっかけに
    して、漢口は激烈な対日ボイコット運動の中心となった。

     多くの「抗日協会」が組織され、協会員は日本の商品を「敵
    国の品物」として保留し、罰金を科して、抗日協会や救国組織
    への献金とした。同時にストライキを指導して、日本の貨物の
    運搬、荷下ろし、運送、積み出しを拒否し、日本人のために働
    いた中国人を処罰した。日本商品の郵便小包さえも没収された。
    このため、漢口港への日本からの輸入は途絶えてしまった。

     1929年に入ると、綿花、麻、穀物などの対日輸出についても、
    50%の額を救国基金に献金することが決められたため、対日
    輸出もストップした。

     中国に進出していた日本の紡績企業の製品もボイコットの対
    象となった。日本商品のディーラーも店を閉めていった。大勢
    の中国人が失業し、日本のために働く中国人は食料の販売を拒
    否された。29年1月末には、日本商品は漢口の倉庫に溢れかえっ
    ていた。その大部分は砂糖と綿布であり、市中は中国の新年を
    控え、これらの商品は品不足で価格は高騰した。

■8.暴力的な日貨排斥■

     1931(昭和6)年、満洲事変が勃発すると、日貨排斥運動の波
    は中国全土に広がっていった。抗日協会は日本とのすべての経
    済関係を打ち切る事を決定し、日本人の工場、企業、および家
    庭で中国人が働くことをすべて禁じた。これに背く者には、死
    刑と私有財産の没収をも含む厳罰をもって当たった。

     さらに中国人は、日本船への乗船、日本の貨幣・銀行・保険
    会社を使うこと、日本の新聞雑誌を読むこと、私的にも公的に
    も日本人を訪問したり、招待することを禁じられた。

     こうして日本からの中支(上海を中心とするシナ中部)向け
    輸出は、1931年10月からの半年間で、前年同期の16%の水
    準に落ち込んだ。南支(広東を中心とするシナ南部)では、最
    も激しいボイコット体制が敷かれ、この地域向けの日本からの
    輸出はほとんど停止した。そのために地元経済は深刻な不況に
    陥った。日本人居住者は安全な地域へと避難した。

     1937(昭和12)年7月7日、北京郊外の蘆溝橋で日本軍と国
    民党軍の衝突が起きると、日貨排斥はもっと暴力的なものとなっ
    た。日本商品を扱った中国人の商店や職業組合には、恐喝の手
    紙と爆弾が送られ、実際に死傷者まで出た。

     日本からの綿布や機械類の輸出が激減するにつれて、英米か
    らの輸入が激増していった。
    
■9.二度の経済発展■

     こうして中国から暴力的に排斥され、米国には高関税の狙い
    撃ちをされ、英領インドやオランダ領インドネシアからも閉め
    出された日本は、中近東や南米にまで輸出市場を見出そうとす
    るが、いずこにおいても、先進欧米諸国のシェアを荒らす新参
    者として、差別的な取り扱いを受けた。

     それでもあきらめずに、地球の裏側までも出かけていった我
    が先人たちの労苦は報われることなく、最後には満洲を新天地
    として、そこに王道楽土の夢をかけるしかなかったのである。
    [b]

     わが国は戦前と戦後と、二度にわたって奇跡的とも言える経
    済発展を成し遂げた。その一度目は、非白人国家で初めての工
    業化に成功した国として、欧米諸国の植民地主義と保護主義に
    阻まれた。二度目はたまたまソ連との冷戦を戦うアメリカによっ
    て自由貿易体制が実現され、その中でようやく花開くことがで
    きた。

     戦後の高度成長も、ゼロからスタートしたものではない。そ
    の技術基盤は戦前の植民地主義と保護主義の厳しい国際環境の
    中で叩かれても叩かれて屈することなく工業化を進めた当時の
    先人たちに多くを負っているのである。
                                         (文責:伊勢雅臣)

■リンク■
a. JOG(454) 「大航海時代」の原動力
    「知識欲と探検への情熱」や「キリスト教布教の 志」が「大
    航海時代」をもたらしたのか? 
b. JOG(239) 満洲 〜 幻の先進工業国家
    傀儡国家、偽満洲国などと罵倒される満洲国に年間百万人以
   上の中国人がなだれ込んだ理由は? 

■参考■(お勧め度、★★★★:必読〜★:専門家向け)
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1. 池田美智子『対日経済封鎖』★★、日本経済新聞社、H4 

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