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 地球史探訪 : 中国の覚醒(上) 〜 中国共産党の嘘との戦い
               
                      「毛主席の小戦士」から「民主派闘士」へ、
                      そして「反日」打破の論客へ。
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■1.「毛主席の小戦士」■

     石平(せき・へい)氏は、1980年に北京大学に入学した。そ
    こで人生最大のショックに打ちのめされた。物心ついて以来、
    「人民の幸福を願う慈悲の救世主である毛主席」の小戦士とし
    て育てられてきたのに、その毛主席がどんな悪事でも平気でや
    り通す権力亡者だ、と非難する人が大学には大勢いたのである。

     石少年の学んだ四川省成都市の中学校は「思想教育の重点模
    範校」に指定されていて、「毛沢東思想の徹底した教育によっ
    て毛主席の忠実な戦士を作ること」を基本方針としていた。

     学校の玄関から入ったところには、毛沢東の石像が聳え立ち、
    至る所に毛沢東語録を書いた看板が立てられていた。毎朝一時
    限目の授業では、クラスの全員が起立していて毛沢東の顔写真
    に敬礼した後、さらに3人の生徒を立たせて、毛沢東思想を勉
    強したことによる「収穫」を述べさせるのが日課であった。

     担任の女性教師は、教室の中で毛主席や共産党の「温情の深
    さ」を語る時、いつも喉を詰まらせながら泣き出してしまうの
    だった。そして毎週一度、生徒全員が「毛主席への決心書」を
    書かされるのだが、石少年は文章が上手だったので、時々模範
    文に指定され、クラス全員の前で朗読させられた。その一つは
    「敬愛なる毛主席は私たちの心の中の赤い太陽」というタイト
    ルだった。

■2.やり場のない怒り■

     ところが、北京大学のキャンパスには、敬愛する毛主席を非
    難する人間がたくさんいた。誤った大躍進政策で数千万の人民
    を餓死させ、自分の地位が危うくなると文化大革命という争乱
    状態を作り出して、多くの罪もない人びとを死に至らしめた独
    裁者だった、と彼らはいう[a,b]。

         最初は勿論、絶対に信じたくはなかった。私は小柄であ
        るにもかかわらず、「毛主席の悪口を言うやつ」に対して
        は、何度も食ってかかって、殴り合いの喧嘩をした。しか
        し、徐々に信じざるを得なくなった。示された根拠は、あ
        まりにも説得力のあるものであり、被害者とその家族たち
        の訴えは、あまりにも切実であった。

         大学の学生寮で同じ部屋に住むC君は、お祖父さんが無
        実の罪で処刑されたのも、お父さんが無実の密告で自殺に
        追い込まれたのも、お母さんがそれで気が狂って精神病院
        に入っていることも、C君自身は帰る家もなく夏休みも冬
        休みもずっと、この学生寮で暮らしていたことも、紛れも
        ない事実であった。[1,p32]

     そう言えば、と石氏は思い出した。中学生の頃、近所に乞食
    のお婆さんがいた。通りかかる生徒たちにいつも笑顔で「勉強
    がんばってね」と声をかけてくれた。そのお婆さんが、トラッ
    クで市中を引き回された後に、処刑場で銃殺されたのである。
    その罪は、毛主席の顔写真が掲載されている新聞紙を使って、
    拾った大根を包んだ事だという。今になって思えば、これこそ
    毛沢東政治の狂気と残虐性を示す一例だったのだ。

     自分が子供の頃から完全に騙されて育ってきた、と知ったの
    は、19歳の青年にとっては、あまりにも過酷な体験であった。

     石氏はやり場のない怒りに、毛沢東の肖像を何度もずたずた
    に引き裂いて、両足で力一杯踏みつけた。一人、大学構内の雑
    木林の中に入って、狂ったように木を蹴ったり、揺すったりし
    た。天に向かって「馬鹿やろう!」と大きな声で叫んだ。

■3.中国共産党の一党独裁の政治体制そのものが問題の根源■

     このような苦しみを味わったのは、石氏だけではなかった。
    程度の差こそあれ、周りの同級生たちも、皆このような受難を
    味わっていた。学生寮の狭い部屋で、安酒を酌み交わしながら、
    一緒に涙を流した。その中から、連帯感が生まれてきた。

     冷静になって考えてみると、毛沢東一人に怒りをぶつけてい
    れば済む問題ではない。確かに毛沢東は自分一人の権力欲のた
    めに、国家と人民とを地獄に陥れた。しかし、国全体がなす術
    もなく、一人の人間の横暴と狂気を十数年も許してきたのは、
    一体なぜなのだろうか。

     結局、中国共産党の一党独裁体制そのものが問題の根源なの
    だ。毛沢東のような暴君が二度と現れてこないようにするため
    にも、一党独裁の政治体制を打破し、国家の法制を整備して、
    人民に民主主義的権利を与えなければならない。

     そういう理念を確立し、信ずべき道を定めたことによって、
    石氏らの世代は、心の再生を味わい、未来への希望を得た。彼
    らは民主化運動の推進に、青春の情熱を傾けるようになった。

■4.日本へ■

     石氏は大学卒業後、地元四川省の大学講師となり、学生寮に
    入り浸っては、自由と民主化について、学生たちと語り合った。
    しかし、そうした活動が、共産党支部から「厳重注意」を受け
    た。教授からも、「僕の立場もあるから、もっと研究に専念し
    て欲しい」と言われた。

     こうして石氏の活動が封じ込めらているうちに、北京で政変
    が起こった。若者たちの民主化運動に一定の理解を示し、共産
    党内の開明派の代表格であった胡耀邦が党総書記を解任された
    のだった。それによって、民主化運動も低調期に入った。

     そんな時に、一通の手紙が日本から届いた。学生時代に民主
    化の理想を語り合った親友が、政府派遣の留学生として日本に
    渡り、石氏にも「日本に来ないか」と誘ってくれたのである。

     石氏は心を動かした。民主化を志す者として、実際の民主主
    義国家とは一体どういうものであるかを、自分の目で見てみた
    かった。また、どうしてアジアの中で日本だけが近代化に成功
    したのか、という問題には以前から興味を持っていた。

     こうして1988年、石氏は日本にやってきた。1年間、居酒屋
    で皿洗いのバイトをしながら、日本語学校に通い、「あいうえ
    お」から勉強した。そして翌年、神戸大学の大学院に入った。

■5.運命の6月4日■

     大学院に入って、指導教官のゼミが始まった4月15日、胡
    耀邦前総書記の死去のニュースが祖国から伝わった。それを機
    に、民主化運動は一気に蘇った。北京の仲間たちから、「今度
    こそ、いっせいに立ち上がって長年の夢を実現するぞ」という
    檄文が寄せられた。

     石氏も京阪神地方の中国人留学生の連帯組織を立ち上げて、
    日本において、中国国内の民主化運動に呼応する活動を開始し
    た。やがて、あの運命の6月4日がやってきた。[c]

         そして、毛沢東時代ですら見たことのない恐ろしい光景
        が現実のものとなった。共産党が、中華人民共和国政府が、
        兵隊と戦車を出動させて自らの首都を「占領」して、丸腰
        の学生や市民に手当たり次第に銃撃を浴びせ、次から次へ
        と倒していった。[1p49]

         あの日に、トウ小平の凶弾に倒れて、若い生命と青春の
        夢を無残に奪われたのは、自分たちの同志であり、自分た
        ちの仲間なのだ。後で知ったことだが、自分がかつて一緒
        に飲んで、一緒に語り合ったことのある仲間の数名が、そ
        の犠牲者のリストに含まれていた。

         彼らはかつて、この私の目の前に座っていて、この私に
        向かって夢と理想を語り、この私に、青春の笑顔の明るさ
        と、男同士の握手の力強さを感じさせた。彼らは確かに生
        きていて、存在していた。

         そしてあの日突然、彼らは殺された。[1,p47]

■6.「もう一度騙されていた」■

     この時になって、石氏は、自分がもう一度騙されていた事を
    知った。7、8年前に毛沢東時代の洗脳教育から覚めた時でも、
    トウ小平と彼の率いる党内改革派によって、共産党も生まれ変
    わっていくだろうと、信じて疑わなかった。

     しかし、民主化運動が共産党の独裁体制を脅かすような事態
    になると、トウ小平も共産党も、すぐさまその本性を剥き出し
    にした。そこには主義も哲学もない、法律も道理もない。ある
    のはただ、共産党が自らの独占的権力を何としても守りたい、
    という赤裸々な党利党略と、そのためには、手段を選ばない卑
    劣さと残酷さであった。

         ここまできて、私自身は完全に目が覚めた。自分の心の
        中で、中国共産党と中華人民共和国に決別を告げたのであ
        る。・・・

         この中華人民共和国にも、もはや用がない。何の愛着も
        義理もない、共産党の党利党略のための道具と成り下がっ
        たこの「共和国」は、もはや「私たちの国」ではない。そ
        れはただの「北京政府」であって、ただの「あの国」となっ
        たのだ。[1,p50]

■7.80年代の親日、90年代の反日■

     石氏はその後、6年間の大学院生活を終えて、日本の民間研
    究所に就職した。そこでは中国国内の大学や研究所と学術的交
    流を進めていたので、石氏も頻繁に中国に出張するようになっ
    た。

     久しぶりに見た中国社会で衝撃を受けたのは、すさまじい反
    日感情が蔓延しているということだった。食事の場などでも、
    かならず「原子爆弾でも使って、日本を地球上から抹殺すべき
    だ」「いや恨みを晴らすには一人ずつ殺した方がいい。東京大
    虐殺だ」などと、日本への罵倒合戦が始まる。

     石氏は何でこんなに中国人が反日になったのか、理解できな
    かった。自分が学生だった80年代の「改革開放」時代には、
    官民を挙げて日本との交流を全面的に推進することが国策とな
    り、「日中友好」「日本に学ぼう」が合い言葉として流行って
    いた。高倉健や山口百恵などは、中国人にとっての「国民的」
    アイドルになっていた。

     90年代の「反日青年たち」は、日本を憎むのは、過去の日
    本軍の「無道」や「虐殺」に原因があるというが、それなら、
    戦争の記憶がより鮮明な80年代の私たちの方が、もっと日本
    を憎んでいるはずだ。しかし、事実は正反対で、私たちの世代
    は日本に対して好感と親しみを持っていた。おかしいではない
    か、と石氏は思った。

■8.「おじさんは歴史を忘れたのか」■

     そのナゾがやっと解けたのは、2000年8月に夏休みを利用し
    て、四川省の実家に帰省した時である。大学1年生の甥が遊び
    に来ていたので、小遣いをやろうとした。しかし、甥は「要ら
    ない」と断った。「おじさんのお金は、日本人から貰った給料
    だろう。そんな金、僕は要らない!」ときっぱりした口調で言っ
    た。

     そして「今度、日本が攻めてきたら、僕は最前線へ行って、
    小日本を徹底的にやっつけるのだ」と気迫を込めて言った。石
    氏は「もう一人の反日青年の誕生か」と心の中で呟いた。

     さらに甥は誇らしげに、大学で共産党への入党申請書を出し
    た、と言った。石氏が「共産党はそんなによいのか」と聞くと、
    甥は少々、興奮状態になって、こう答えた。

         当たり前じゃないか。共産党の指導があるから、中国は
        日本の侵略を防げるんじゃないか。昔、日本侵略軍をやっ
        つけたのは共産党じゃないか。おじさんは歴史を忘れたの
        か。

    「そうか。やはり歴史か。それなら聞く。今から11年前、北
    京で起きた『6・4事件』(天安門事件)、あれも歴史だけど、
    君はどう思うのか」と、石氏は反撃に出たが、甥は冷笑しなが
    ら答えた。

         党と政府の措置は正しかったと思います。おじさんたち
        のやっていたことは、外国勢力の陰謀じゃないか。鎮圧し
        ないと、この中国は外国勢力の支配下に入ってしまうじゃ
        ないか。鎮圧してどこが悪いのか。

     丸腰の学生を虐殺した政府を正しい、と言われて、石氏は怒
    り心頭に発した。甥は「殺人と言えば、何千万の中国人を殺し
    た日本人こそ殺人者じゃないか」と言い捨てて、出て行った。

■9.「反日」とは世紀の大ペテン■

     甥が帰ってから、石氏は自分の気持ちが収まるのを待って、
    甥の言葉を吟味していった。甥はかつての民主化運動を「外国
    勢力の陰謀」と信じ込み、丸腰の学生たちを虐殺した共産党を
    全面的に擁護した。そして、「日本が再び中国を侵略してくる」
    という荒唐無稽な作り話を完全に信じて、それを防ぐために
    「共産党の指導」に従って、身を挺して「戦う」つもりなのだ。

     すべてが分かった。「反日」とは結局、中国共産党の党利党
    略から仕掛けられた世紀のペテンなのだ。80年代の親日と
    90年代の反日との間にあるのが、89年の天安門事件である。

     中国共産党は丸腰の若者たちを虐殺した「殺人政府」だと非
    難されて、窮地に陥った。そこから抜け出すために、日本を憎
    むべき「悪魔」に仕立て、国民の怨念を自分たちではなく「外
    敵」に向かわせようとした。その「外敵」がもう一度「侵略」
    してくるだろうというウソ偽りの危機感を煽り立てることで、
    「共産党の指導体制」に新たな正当化の根拠を、与えようとし
    たのである。

         人を馬鹿にするにもほどがある。子供時代の私たちを洗
        脳した時と同じ手口を使って、もう一度人を騙そうとする
        のか。私たちの世代だけでなく、私の甥の世代までもこの
        ような洗脳教育の犠牲者にする気なのか。そうはいかない、
        と思った。

         そして何よりも許せないのは、中国共産党政権はまさに、
        この反日教育という名の汚いマジックを用いることによっ
        て、私たちの世代の起こした、民主化運動への記憶を抹殺
        して、私たちの仲間に対する、彼らの殺人的犯罪を覆い隠
        したことである。[1,p89]

     石氏は、殺された同志のためにも、将来の中国のためにも、
    「反日」という世紀の大ペテンを打ち破らなければならない、
    と決心した。ここから『日中宿命』などの力作が次々と生み出
    されていく。
                                         (文責:伊勢雅臣)

■リンク■
a. JOG(109) 中国の失われた20年(上)
    〜2千万人餓死への「大躍進」 
b. JOG(110) 中国の失われた20年(下)
    〜憎悪と破壊の「文化大革命」
c. JOG(162) 天安門の地獄絵
    天安門広場に集まって自由と民主化を要求する100万の群
   衆に人民解放軍が襲いかかった。
d. JOG(461) 中国反日外交の迷走
    中国の靖国反日外交は迷走を続けつつ、国際社会にその無理
   無体ぶりをさらけ出してきた。 

■参考■(お勧め度、★★★★:必読〜★:専門家向け)
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1. 石平『私は「毛主席の小戦士」だった』★★★★、飛鳥新社、H18
 

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