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■■ Japan On the Globe(497)■ 国際派日本人養成講座 ■■■■

       地球史探訪: 冷戦、信長 対 キリシタン(上)
                           〜 信長の危機感
                       信者を増やし、キリシタン大名を操る宣
                      教師たちの動きに信長は危機感を抱いた。
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■1.「盗賊にして何かを得んと欲するか」■

     天正8(1580)年、信長は安土城において、いつものように多
    数の家臣たちを同席させて、宣教師オルガンチーノとその弟子
    ロレンソ(琵琶法師から宣教師の弟子になった盲目の日本人)
    と3時間にわたって宗教論議を楽しんだ。

     その後、信長は二人を別室に招いた。そこには、以前、宣教
    師から献上された地球儀があった。信長はオルガンチーノに乞
    うて、ヨーロッパから日本に至る道程を地球儀の上で示させた
    上で、「此(これ)の如き旅行は大なる勇気と強き心ある者に
    あらざれば実行すること能(あた)わず」と称賛し、笑いなが
    ら、こう述べた。

         汝らが此の如く多数の危険と海洋を超えるは、或(ある
        い)は盗賊にして何かを得んと欲するか、或は説かんとす
        る所重要なるに因(よ)れるか。

        (あなた方がかくの如き多くの危険と海洋を超えて日本に
          やって来たのは、盗賊として何かを得ようとするためか、
          あるいは説こうとする教義がよほど重要であるからか。)

■2.「我らは盗賊にして」■

     信長は記録に残っているだけでも永禄12(1569)年のフロイ
    スとの最初の会見以来、他の宣教師も含めて、14年間で31
    回以上の会見を行っている。そして彼らの説くキリスト教の教
    義や科学知識に興味を持ち、彼らと議論をすることを好んだ。    
    しかし、信長は宣教師たちが熱心に勧めるキリスト教に帰依す
    ることはついになかった。

     キリシタンたちは何のためにはるばる地球の裏側から、危険
    を冒し、万里の波濤を超えて、日本にやってきたのか。純粋な
    布教目的だけで、そこまでするだろうか。「盗賊にして何かを
    得んと欲するか」と疑うのは、戦国時代を戦い抜いた武将とし
    て当然の防衛本能であろう。
    
     信長の疑念に、オルガンチーノはこう答えた。

         ご尤(もっと)もである。何故なら、我らは盗賊にして
        日本人の魂と心を悪魔の手より奪ひて其(その)造主(つ
        くりぬし)の手に渡さんが為に来れるなり。

        (そう言われるのは、ごもっともである。何故なら、我
          われは盗賊にして、日本人の魂と心を悪魔の手から奪い
          取って、その造物主の手に渡すために来たからである。)

     冗談めかして「盗賊」に喩える信長と、それに巧みに応じた
    オルガンチーノとの間には、冷たい火花が飛び交っていた。

■3.ポルトガルの野望■

     1411年、ポルトガルはイスラム勢力下にあったアフリカ北岸
    の商業都市セウタを陥落させた。ローマ教皇はこれを称賛し、
    この地をキリスト教騎士団の所領としてポルトガルに与えた。

     当時、地中海からペルシャ湾を経てインド洋に至る海域はイ
    スラム帝国オスマン=トルコが支配し、インドや東南アジアと
    の交易を独占していた。

     ポルトガルはアフリカ大陸を迂回してアジアに至る交易ルー
    トを開拓することによって、オスマン=トルコの独占していた
    莫大な利益を奪おうとした。そこでセウタの所領から上がる潤
    沢な収益を使って、造船技術者、天文学者、地図制作者などを
    高給で雇い、海洋航海術を研究させて、大航海事業に乗り出し
    たのである。[a]

     ポルトガルはアフリカ西海岸および沿岸諸島を次々と攻略し
    ていったが、そこでの特権は1455年、ローマ教皇ニコラウス5
    世の勅書によって認められた。その勅書は、征服した土地の所
    有を認め、そこで法律を作り、税金を課し、「修道院、教会な
    どの宗教施設を建てることができ」「非キリスト教徒を永久に
    奴隷状態におくことができる」として、植民地支配することを
    教皇の権威によって正当化したのである。

     1488年、ポルトガルの探検家バーソロミュ=ディアスがアフ
    リカの最南端に到達し、それまで「嵐の岬」と呼ばれていたこ
    の地を「希望(喜望)峰」と改めた。その「希望」とは、ここ
    から臨むインドから東南アジアなどの異教徒の土地をキリスト
    教化して、その豊かな物産を神の名において獲得することであっ
    た。「希望」というより「野望」と言うべきだろう。

■4.東アジア争奪戦■

     一方、スペインは大西洋を横断して西回りにアジアに至ろう
    と、コロンブスの船団を派遣し、アメリカ大陸を発見していた。
    東回りのポルトガルと、西回りのスペインが競合したので、ロ
    ーマ教皇は地球を二分割して両国に支配を許す勅許を与えた。
    しかし、その解釈上の問題で、地球の反対側の地域では両方の
    勢力圏が重なりあう部分ができてしまった。そこにたまたま日
    本が入っていたのである。

     日本に最初に到達したのは、天文18(1549)年のポルトガル
    の宣教師フランシスコ=ザビエルであった。ザビエルは、日本
    を強力なキリスト教国家にしてポルトガルの支配下に置こうと
    した。

     一方、スペインは1565年にフィリピンのルソン島を実力支配
    し、そこから中国、日本に触手を伸ばそうとしていた。ポルト
    ガルの宣教師たちは、スペイン勢力がやってくる前に、是が非
    でも日本を植民地化しようと、信長に近づいていたのであった。
    
■5.長崎に誕生したキリスト教王国■
    
     ザビエルが日本での布教を開始して13年、永禄5(1562)年、
    肥前西部(長崎県)の大名・大村純忠は、宣教師トルレスの強
    い説得に応じて、自領内の横瀬浦を貿易港として開港し、港と
    その周囲半径10キロメートルの土地をイエズス会領として寄
    進した。またこの地に入港してくるポルトガル商人と、各地か
    ら集まってくる日本商人に対して、10年間、一切の税を免除
    する事を決定した。

     フロイスの『日本史』によれば、博多や山口、さらには京都
    からも大勢の日本商人が交易を求めてやってくるようになり、
    横瀬浦は貿易港として急速に発展した。

     大村純忠は、この地に仏教徒が住むことを禁止し、自らもキ
    リスト教に入信して、トルレスから「ドン=バルトロメウ」と
    いう洗礼名を授けられた。以後、家臣や住民にも洗礼を受ける
    者が続出し、横瀬浦と純忠の本拠地・大村(長崎県大村市)の
    領地で12百余名のキリシタンが生まれた。純忠が戦いに臨む
    際には、陣羽織には「JESUS(イエス)」の文字を入れた
    地球が描かれ、首には十字架のついた数珠を掛け、「聖なる十
    字架」を描いた旗を高々と掲げた。まさに十字軍の騎士さなが
    らの出で立ちであった。

     純忠は同時に仏門にも入ったが、宣教師コエリヨはこれを強
    く非難し、神仏と決別する証として、領内からあらゆる偶像崇
    拝を根絶し、一人の異教徒も住ませないよう強く迫った。純忠
    はこれに従い、寺社の破壊焼失、僧侶を含む全住民への洗礼強
    制、抵抗する僧侶の殺害、その他反対者の国外追放を強行した。

     この結果、領内では2万人の住民がキリスト教の洗礼を受け、
    仏像仏閣がすべて破壊され、その後に教会と十字架が建てられ
    た。小さな子どもまでも仏像の破壊に加わり、その顔に唾を吐
    きかけたという。また『郷村記』は、猛り狂ったキリシタンた
    ちによって純忠の養父・純前の墓が暴かれ、その骨は川に投げ
    捨てられた、と記している。

■6.キリシタン大名への軍事援助■

     キリシタン大名を得るための方策として、交易による利潤の
    他にもう一つの手段があった。軍事援助である。それを求めて、
    宣教師との結びつきを深めたのが、大友宗麟(そうりん)であっ
    た。

     宗麟は豊後(大分県南部)を治めていたが、日本に最初にキ
    リスト教を伝えたフランシスコ・ザビエルから直接、説教を受
    けており、キリシタン大名の中でも最も早くキリスト教に接し
    た人物である。

     永禄2(1559)年、宗麟は豊後の他に、豊前(大分県北部)、
    筑前(福岡県北部)、筑後(同・南部)の4カ国の守護職とな
    り、将軍・足利義輝から「九州探題」に任命されたため、宣教
    師たちの期待も高かった。

     宗麟はキリスト教の保護者を持って任じ、宣教師たちの布教
    活動を援助するとともに、その引き替えに軍事物資の提供を求
    めた。永禄10(1567)年、宗麟はマカオに滞在していた司教に
    あてて手紙を書き、中国地方を支配する毛利元就に打ち勝って、
    キリスト教を広げたいので、鉄砲の火薬の原料となる硝石の日
    本への輸入を禁止し、自分の領国にのみ販売するように依頼し
    ている。

■7.長崎と茂木の軍事要塞化■

     天正7(1579)年に、東洋地域全域を所管する巡察師アレッサ
    ンドロ・ヴァリニャーノが来日すると、その指導にとってキリ
    シタン勢力が急伸した。

     大村純忠は、ヴァリニャーノの来日を機に、長崎(長崎港周
    辺部)と茂木(長崎市茂木町)をイエズス会の永久教会領とし
    て寄進した。

     ヴァリニャーノは翌天正8(1580)年に、この長崎と茂木の地
    を、ポルトガル人を中心として軍事要塞化するように指示した。
    これに従って数年後には、同地は大砲・鉄砲などにより武装さ
    れ、軍艦も建造配備された。

     天正13(1585)年には、純忠の領土の全領民約6、7万人が
    キリシタンとなり、ここに完全なキリシタン王国が誕生したの
    である。

     大村純忠の縁戚で、島原を領有していた有馬晴信は、当時、
    肥前東部(佐賀県)の龍造寺氏から度々攻撃を受けて、窮地に
    陥っていた。晴信はヴァリニャーノから洗礼を受け、その見返
    りとして、食糧不足に苦しんでいた4つの城で、多量の糧食と
    金子(きんす)を受け取った。さらにマカオからやって来たポ
    ルトガルの交易船から、弾丸に使う鉛や火薬の原料となる硝石
    を送られた。こうした軍事援助で、晴信は龍造寺氏との戦いで
    危機を脱することができた。

     晴信はこの返礼として、ヴァリニャーノが自領に滞在してい
    た3ヶ月の間に、領内にあった40を超える神社や仏閣をすべ
    て破壊し、領民2万人を入信させた。さらに浦上(長崎市浦上)
    の地を、イエズス会の教会領として寄進した。

     宣教師たちは、これらのキリシタン大名を経済的軍事的に支
    援する一方、毛利氏、龍造寺氏、島津氏など反キリスト教の大
    名とは交易関係すら結ばなかった。
    
■8.「十字軍騎士」となったキリシタン大名■

     ヴァリニャーノは、キリシタン大名との政治的・軍事的連携
    を強化する一方、布教体制の改革を進めた。セミナリオ(神学
    校)、ノビシアド(修練院)、コレジオ(学院)の3種類の教
    育機関を設け、日本人司祭の養成に努めた。

     天正10(1582)年頃には、西日本各地に設けられた教会堂の
    数は大小合わせて200カ所、神父・神弟(日本人の伝道師)
    は75人に上り、急速な布教が進められた。信者数は京都から
    中国地方に2万5千人、大友宗麟の治める豊後で1万人、大村
    純忠・有馬晴信が支配する大村・島原・長崎地域に11万5千
    人、合計15万人ほどにも急増した。

     この年1月には、それぞれの教育機関で育成した日本人子弟
    の中から優秀な4人の少年を選び出し、大村純忠・有馬晴信・
    大友宗麟の3キリシタン大名の使節として、ローマ教皇とスペ
    イン・ポルトガル連合国国王の許に派遣した。

     翌年2月に少年使節たちはローマで教皇グレゴリオ13世に
    拝謁した。教皇が皇帝や国王を迎接する「帝王の間」で拝謁す
    るという異例の栄誉を受け、3人のキリシタン大名からの親書
    を手渡した。

     こうした儀式を通じて、キリシタン大名たちは、ローマ教皇
    に忠誠を誓い、日本の「異教徒」と戦う「十字軍騎士」とされ
    ていったのである。
    
■9.「我一生の不覚也」■

     信長が安土城で宣教師オルガンチーノと会見し、「盗賊にし
    て何かを得んと欲するか」と聞いたのは、こういう状況下であっ
    た。

     天下統一を目指す信長は、当時中国の毛利氏と戦っていたが、
    その背後から九州探題・大友宗麟も中国を狙っていた。九州か
    ら京都を目指すキリシタン勢力と、京都を押さえ中国・九州へ
    と全国統一事業を進めつつあった信長とは、早晩対決が運命づ
    けられていた。

    『切支丹来朝實記』には、この頃の信長の心境をこう記してい
    る。

         破天連方よりは便(たより)毎に今年は日本人何千人勤
        め、今年は何万人勤め入ると臺帳に記(か)きて、南蛮へ
        渡すとか。宣教師たちが貧民病者を慈しみ、尚(な)ほ此
        等(これら)の妻子眷属に一人前金一銭づつを與(あた)
        ふる等、弓矢を不用(もちいず)して日本を随(おと)さ
        んとの謀事、然るに信長、南蛮寺の取沙汰、あやしき宗門
        の様子及聞(ききおよんで)、心の内には後悔しけり。

        (日本に駐在している宣教師からの報告で、今年は日本
          人が何千人入信し、今年は何万人入信したかと、台帳に
          記して、本国のポルトガルに送っているとのうわさ。宣
          教師たちが貧しい者や病人を慈しみ哀れみ、それだけで
          なく妻子眷属に一人当たりの前金として一銭ずつ与える
          などして、弓矢を使わずに日本を征服しようと謀略を企
          んでいること。このため信長はキリストの教会内の活動
          や信者たちの怪しい所行について聞き及ぶ所があって、
          内心では後悔していたのである。[1,p8])

     さら『實記』が伝える所によれば、信長は前田徳善院玄以と
    いう仏僧に「自分は彼らの布教組織を破壊し、教会を打ち壊し
    て宣教師たちを本国に返そうと思うが、どう思うか」と諮問し
    たが、「もしそのようなことをすれば、たちまち一揆が起こる
    ことは間違いありません」と答えたので、信長は今まで宣教師
    たちを保護してきた政策について「我一生の不覚也」と漏らし
    た。(続く)
                                         (文責:伊勢雅臣)

■リンク■
a. JOG(454) 「大航海時代」の原動力
    「知識欲と探検への情熱」や「キリスト教布教の 志」が「大
    航海時代」をもたらしたのか? 
b. JOG(003) 悲しいメキシコ人
    日本がスペイン領になっていたら 

■参考■(お勧め度、★★★★:必読〜★:専門家向け)

1. 椛島有三『織田信長の国家戦略』★★★、明成社、H17

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