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  人物探訪: 光格天皇 〜明治維新の基を築いた62年の治世

                      その62年の治世で皇室の権威は著しく
                     向上し、尊皇攘夷運動の核となりえた。
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■1.御所を廻る数万の人々■

     それは、天明7(1787)年6月7日に始まった。京都の御所の
    築地塀の周りを廻る人々が現れた。ある記録によれば、どこか
    らか老人が来て、御所の周囲12町(1300メートル)を廻る「御
    千度(おせんど)」をしたのが、発端だという。

     7日には50人ほどの程度であったが、次第に数を増し10
    日には1万人もの老若男女が集まって塀の周りを廻った。その
    人数は、18日前後の数日間にピークを迎え、一日7万人に達
    したという。

     人々は南門にたどり着くと、その少し低くなった柵の垣根か
    ら、銭を南門前面の敷石に投げ入れ、その向こうにある紫宸殿
    (ししんでん、御所の正殿)に向けて手を合わせた。現代の初
    詣と同じ光景である。

     この「御所御千度参り」に集まったのは京都の人だけではな
    かった。噂は大阪や近国にまたたく間に広まり、大阪から伏見
    までの淀川を行く船の業者は、運賃を半額にした「施行船」を
    仕立てて、客を運んだ。沿道では参拝者に茶や酒、食事が振る
    舞われた。

     暑さの厳しい頃なので、御所では築地塀の周囲の溝に、冷た
    い湧き水を流して、手や顔を洗えるようにした。後桜町上皇は、
    3万個のりんごを配らせたが、昼前になくなってしまったとい
    う。隣接する有栖川宮家、一条家、九条家、鷹司家は、茶や握
    り飯を配った。菓子や、酒、トコロテン、瓜などを売る露天商
    が5百人ほども出た。

■2.幕府の威光は地に落ちた■

     人々は御所、すなわち天皇に何を祈ったのか。当時の資料で
    は「飢渇困窮につき祈誓」「米穀不自由につき」「米穀段々高
    値になり」などと記している。天明の飢饉で米価が高騰し、差
    し迫った生活苦からの救済と、五穀豊作を祈願したのである。

     米価が高騰し、餓死者まで出るという困難な事態に、人々は、
    幕府の京都所司代や京都町奉行所に繰り返し嘆願した。ところ
    が、これらの役所はいっこうに救済策をとらなかった。

     前月5月には、怒った大坂の町民が数十軒の米穀商人の家を
    襲った。堺、播磨、紀伊でも同様の打ち壊しが起こった。そし
    て5月19日から5日間、将軍のお膝元の江戸でも数百人が鉦
    (かね)や太鼓を打ち鳴らし竹槍で武装して、騒擾を起こした。

     江戸時代で最悪と言われる天明の大飢饉だが、いずれの地に
    おいても、幕府は有効な施策をとっていなかった。幕府の威光
    は地に落ちた。もはや幕府に頼んでも埒(らち)が明かないと
    悟った人々は、御所千度参りという形で、天皇に救済を訴えた
    のである。
    
■3.光格天皇の幕府への前例なき申し入れ■
    
     光格天皇は、これを見て、すぐさま行動に移った。御所御千
    度参りが数万人の規模に達した6月12日、関白・鷹司輔平を
    通じて、対幕府の窓口である武家伝奏に、幕府方の京都所司代
    に対して窮民救済に関する申し入れをするよう、命じた。

         世上困窮し、飢渇死亡の者数多これあるのよし、内院
        (天皇と上皇)ははなはだ不憫に思し召され、、、

     賑給(しんごう、古代の朝廷が毎年5月に全国の貧窮民に米
    や塩を賜った儀式)などはできないか、関東から救い米を差し
    出して貧窮を救うことはできないか、との申し入れであった。

     朝廷が江戸幕府の政治に口を出す、などという事は、それ以
    前にはまったく前例がなく、まさに前代未聞の申し入れであっ
    た。

     江戸の幕府は、申し入れ以前から米500石(7.5トン)
    を救済手当てに使っても構わないと京都所司代に指示を出して
    いたが、朝廷からの申し入れを受けて、さらに千石(15トン)
    の救い米放出を命じ、これを朝廷に報告した。

     この年の11月に挙行された大嘗祭では、光格天皇の次の御
    製(お歌)が世上に流布し、評判となった。

        身のかひは何を祈らず朝な夕な民安かれと思うばかりぞ

        (自分のことで何も祈ることはない。朝な夕なに民安くあ
        れと思うばかりである)

     飢饉に対して手をこまねいて民の打ち壊しに見舞われた将軍
    と、ひたすらに万民の安寧を祈り、幕府に救済を命ずる天皇と、
    鮮烈なコントラストが万民の目の前に明らかになった。

     後に明治維新として結実する尊皇倒幕の大きなうねりは、こ
    こから始まった。
    
■4.青天の霹靂の即位■

     光格天皇は9歳という幼少で、閑院宮家という傍系から、は
    からずも皇位についた方だった。閑院宮家は宝永7(1710)年に
    新井白石の意見により、皇位継嗣の安定のために創設された宮
    家であった。東山天皇の第6王子直仁親王が初代であり、その
    3代目の第6王子が佑宮(さちのみや)、後の光格天皇であっ
    た。

     そもそも傍系宮家のそのまた第6王子では、皇位につく可能
    性はほとんどないため、わずか2歳にして、いずれ出家し聖護
    院門跡を継ぐことが予定されていた。

     佑宮が9歳の時に、運命は急転した。当時の後桃園天皇が、
    病気のために急逝してしまった。わずか22歳の若さであり、
    子供もその年に生まれた女子しかいなかった。朝廷は幕府と秘
    密裏に交渉して、佑宮を後継とした。後桃園天皇の死から一月
    も経たないうちに、佑宮は御所に連れてこられ、新天皇となっ
    た。まさに青天の霹靂の即位であった。

     傍系から幼少にして皇統を継いだために、朝廷や幕府の中に
    は、光格天皇を軽んじる向きがあったという。それを案じたの
    か、先々代の後桜町院(*)は天皇に学問を熱心にするよう勧
    めた。光格天皇もその期待に応え、熱心に学問に励んだ。傍系
    として軽んぜられている、という事を幼少ながら感じ取ってい
    たのであろう。理想的な天皇像を追い求め、それを立派に演じ
    よう、という志をお持ちだったようだ。

        *先代・後桃園天皇の伯母にあたる。後桃園天皇は父・桃
          園天皇が亡くなった時、まだ5歳だったため、成長する
          までの中継ぎとして皇位についた。

     御所御千度参りが起きた天明7(1787)年には、光格天皇は数
    え17歳となったいた。関白として九条尚実がいたが、老齢に
    して数年前から病気となっていた。この頃には、近臣の補弼を
    得ながら、自ら朝廷の中心となって、政務を取り仕切っていた
    ようである。この点も、ここ数代の天皇とは異なっていた。
    
■5.天下万民への慈悲仁恵のみ■

     寛政11(1799)年、後桜町上皇から与えられた教訓への返書
    に、光格天皇は次のように書いている。

         仰せの通り、身の欲なく、天下万民をのみ、慈悲仁恵に
        存じ候事、人君なる物(者)の第一のおしえ、論語をはじ
        め、あらゆる書物に、皆々この道理を書きのべ候事、すな
        わち仰せと少しのちがいなき事、さてさて忝なく存じまい
        らせ候、なお更心中に右のことどもしばしも忘れおこたら
        ず、仁恵を重んじ候はば、神明冥加にもかない、いよいよ
        天下泰平と畏(かしこまり)々々々入りまいらせ候・・・

        (仰せの通り、自身の欲なく、天下万民への慈悲仁恵のみ
        を思うことは、君主たる者の第一の教えであると、論語を
        はじめ、あらゆる書物に、みなこの道理が書かれているこ
        とは、仰せと少しの違いもなく、さても有り難く存じます。
        さらに心中にこの事をしばしも忘れ怠ることなく、民への
        仁恵を重んずれば、神のご加護も得られて、いよいよ天下
        泰平と、つつしんで承りました)

     無私の心で、ひたすらに天下万民の幸福を祈ることが、皇室
    の伝統であり、光格天皇は学問を通じて、それを強く意識して
    いた。「身のかひは何を祈らず朝な夕な民安かれと思うばかり
    ぞ」という御製も、ここから出たものである。
    
■6.ロシア軍艦の来襲■

     天明の飢饉による各地での打ち壊しとともに、幕府の権威を
    さらに失墜させた事件が起きた。文化3(1806)年のロシア軍艦
    の北辺からの攻撃であった。

     寛政4(1792)年に来日したロシア使節ラックスマンに対して、
    幕府は通商許可をほのめかしていたが、文化元(1803)年に来訪
    した使節レザノフには、全面的な拒否回答を行った。

     これに怒って、ロシア軍艦が文化3年9月に樺太、翌年4月
    に樺太と択捉(エトロフ)、5月に利尻の日本側施設、船舶を
    攻撃し、幕府は東北諸大名に蝦夷地出兵を命ずるなど、軍事的
    緊張が一気に高まった。江戸ではロシア軍が東海地方から上陸
    するとか、すでに東北地方に侵入した、との噂が立っていた。
    また、外国との戦争で、わが国開闢以来の敗北を喫したことは、
    日本国の大恥だと、幕府を批判する言動も登場した。

     ロシアとの本格的な戦争に備え、幕府は諸大名に大規模な軍
    事動員を覚悟しなければならない情勢となった。そのための布
    石であろう、幕府は進んで朝廷にこの事件を報告した。いざと
    いう時には、朝廷の権威を借りて、国家一丸となって戦う体制
    を作ろうと考えていたのかも知れない。

     幕府が外国とのやりとりを朝廷に報告するのは、これが初め
    ての事であった。それだけ幕府も自信を無くしていたのであろ
    う。そしてこの先例が根拠となって、後に幕府が外国と条約を
    結ぶ場合は、朝廷の勅許がいる、との考え方が広まっていく。

■7.危機に立ちあがる天皇■

     この時期に、光格天皇は石清水八幡宮と加茂神社の臨時祭再
    興に熱意を燃やしていた。この二社は、伊勢神宮に継ぐ崇敬を
    朝廷から受けていた。石清水臨時祭は、天慶5(942)年に平将
    門・藤原純友の乱平定の御礼として始められたが、永享4
    (1432)年に中絶されたままであった。加茂神社は皇城鎮護の神
    を祀り、国家の重大事には、かならず皇室から奉幣、御祈願が
    あった。しかし、こちらの臨時祭も応仁の乱(1467-1477)後に
    中断していた。

     光格天皇は早くから、両社の臨時祭再興を願っていたが、ロ
    シア軍艦の襲撃のあった文化3年から幕府との交渉を本格化さ
    せた。開催費用がネックとなったが、幕府の老中は「禁中格別
    の御懇願」と光格天皇の熱意を受けとめた。その結果、文化
    10(1813)年3月、石清水臨時祭が約380年ぶりに挙行され、
    翌年11月には加茂神社臨時祭も約350年ぶりに再興された。

     この石清水八幡宮と加茂神社には、幕末に次々代の孝明天皇
    が将軍家茂を同道して、攘夷祈願のため行幸されている。

     こうした国家護持祈願に立つ天皇の姿は、危機の中で国を支
    えているのは皇室である、と改めて人々に印象づけたであろう。
    
■8.国土と国民は天皇が将軍に預けたもの■

     こうして、内憂外患に十分対応できない幕府の威光が低下す
    る一方、光格天皇の努力により朝廷の権威は徐々に輝きを増し
    ていった。この傾向を学問的にも定着させたのが「大政委任論」
    の登場だった。

     本居宣長は天明7(1787)年に執筆した『玉くしげ』の中で、
    「天下の御政(みまつりごと)」は朝廷の「御任(みよさし)」
    により代々の将軍が行う、すなわち国土と国民は天皇が将軍に
    預けたものであって、将軍の私有物ではない、と主張した。大
    坂の儒者・中井竹山、後期水戸学の祖・藤田幽谷も、同様の論
    を展開した。

     学者・思想家だけでなく、老中首座・松平定信は、天明8
    (1788)年に当時16歳の将軍・徳川家斉に対して「将軍家御心
    得十五カ条」を書いて、同様の主張をしている。

         六十余州は禁廷(朝廷・天皇の意)より御預かり遊ばさ
        れ候事に御座候えば、かりそめにも御自身の物に思し召す
        まじき御事に御座候。

        (日本全国は朝廷よりお預かりしたものであり、かりそめ
        にも将軍自身の所有と考えてはならない)

     若き将軍への戒めとして、大政委任論が説かれている。しか
    し、この論は、委任された大政を幕府がしっかり果たせない場
    合には、それを朝廷に奉還すべき、という主張に発展する。幕
    末の「大政奉還」論がここに兆していた。
    
■9.約900年ぶりの「天皇」号復活■

     天保11(1840)年11月、光格天皇は在位39年、院政23
    年という異例の長きにわたった70歳の生涯を終えた。この間
    に、天皇の権威は大きく向上した。

    「光格天皇」との称号は、崩御後に贈られたものである。これ
    は当時の人々を驚かせた。江戸時代、天皇のことは通常「主上」
    「禁裏」などと称し、そもそも「天皇」とは馴染みのない呼称
    だった。また第63代の「冷泉院」から先代の「後桃園院」ま
    で「院」をつけるのが通常であり、「天皇」号の復活は、57
    代約900年ぶりのことであった。皇室伝統の復活に捧げられ
    た光格天皇の御生涯を飾るにふさわしい称号であった。

     日本近世史を専門とする藤田覚・東京大学文学部教授は、も
    し江戸時代中期にペリーの黒船がやってきたならば、そもそも
    幕府が条約勅許を朝廷に求めることもなかったろうし、外様大
    名や志士たちが攘夷倒幕のために、尊皇を持ち出すこともなかっ
    たろう、と述べている。光格天皇以前の朝廷は、それに相応し
    い政治的権威を身につけていなかったからである。

     その場合、攘夷倒幕運動のエネルギーを「尊皇」のもとに結
    集できず、幕府と外様大名の間で長く内戦が続き、日本が植民
    地化されていた可能性が高い、と藤田教授は指摘している。
    [1,p5]

     光格天皇の孫にあたる孝明天皇が、幕末に尊皇攘夷のエネル
    ギーを結集し、曾孫にあたる明治天皇が、王政復古の旗印のも
    と近代国家建設の中心となった。9歳から70歳まで「朝な夕
    な民安かれ」と祈り続けた光格天皇が、その基を作られたので
    ある。
                                         (文責:伊勢雅臣)

■リンク■
a. JOG(149) 黒船と白旗
    ペリーの黒船から手渡された白旗は、弱肉強食の近代世界シ
   ステムへの屈服を要求していた
b. JOG(194) 「新しい歴史教科書」を読む
   〜共感とともにたどる我が父祖の歩み
    無味乾燥な暗記物と思っていた歴史が、これほど面白いもの
   だったのか! 

■参考■(お勧め度、★★★★:必読〜★:専門家向け)
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1. 藤田覚『幕末の天皇』★★、講談社選書メチエ、H6

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