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■■ Japan On the Globe(508)■ 国際派日本人養成講座 ■■■■

            地球史探訪: インド独立に賭けた男たち(上)
                            〜 シンガポールへ
                 誠心誠意、インド投降兵に尽くす国塚少尉の
                姿に、彼らは共に戦う事を決意した。
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■1.アテンション(気をつけ)!■

     1941(昭和16)年12月、タイからマレーシアに入った国境
    近くのジットラの陣地はすがすがしい南洋の朝を迎えていた。
    英軍が構築したこの陣地を、シンガポール攻略を目指す日本陸
    軍第5師団が夜襲戦法で攻略したばかりだった。

     100人ほどの投降したインド兵を前に、参謀部付の通訳
    ・国塚一乗(かずのり)少尉が叫んだ。

        アテンション(気をつけ)!

     無気力状態だったインド兵たちは、急に目が覚めたように、
    軍靴をカチッとならして、「気をつけ」をした。さすがにプロ
    の軍隊、それもインドから選りすぐって派遣された兵たちであ
    る。緊張感を漲らせて、次の命令を待つ。

    「右向け右」「駆け足」と国塚少尉は、つぎつぎに命令を下し、
    インド兵たちは見事にそれに従った。彼らの顔に、畏敬の念が
    浮かぶ。「どうしてこの黄色い顔をした日本人は、あの英人将
    校と同じように号令をかけて、われわれを自在に動かせるのか?」

     訓練が終わると、国塚少尉はこう語りかけた。

        われわれは、けっして君たちを殺さない。敵性人とみとめ
        ない。友情をもって取り扱い、その生命と名誉を尊重する。

     英語のできるインド兵がこれをインド語に訳した。兵たちの
    顔にみるみる明るさがさしてきた。

■2.「なんといういい男たちだ」■

     日本軍はインド兵を殺さない、という噂が伝わると、どこか
    らともなく次々とインド兵が投降してきて、200名ほどになっ
    た。国塚少尉は、急に200人の部下を持つ隊長になってしまっ
    たわけである。

     まずは糧食を調達しなければならない。インド兵たちは、近
    くに英軍が置き去りにした兵舎があるという。行ってみると、
    食料、酒、衣料などが山のようにあった。

     国塚少尉が「皆で大宴会をやろう」と提案すると、皆は沸き
    立った。兵たちはインド料理を作って山のように盛り上げた。
    国塚少尉が、インド兵と同じように手づかみで食べ出すと、歓
    声があがった。英軍将校はこんな事はしなかったようだ。口が
    裂けるほど辛いカレーを食べて、目を白黒させると、爆笑が起
    こった。そのうちに踊りが始まり、国塚少尉も手拍子で和した。

    「なんといういい男たちだ。おれはこの連中のためなら、どん
    なこともしてやろう」と国塚少尉は決心した。

     その思いはインド兵たちも同じだった。近くの飛行場を修理
    する作業を始めると、彼らは「日本のこの若い少尉に手柄を立
    てさせてやろう」と、4時間労働という英軍規定など無視して、
    一心に働いた。仕事がおもしろいようにはかどった。
    
■3.F機関へ■
    
     そこにたまたま居合わせた中佐参謀が、インド兵たちを見事
    に指揮する国塚少尉の姿に感動して、声をかけた。「おまえは
    異民族を扱う天才だな。特務機関に入れてやる。明日午前10
    時、軍司令部へ来い。」

     翌朝、軍司令部に出頭すると、30代半ばのがっちりした体
    格で、軍人のくせに長髪の人物に引き合わされた。藤原特務機
    関長・藤原岩市少佐であった。少佐に与えられた任務は「イン
    ド独立連盟、マレー人、シナ人らの反英団体との連絡ならびに
    その運動の支援」だった。藤原少佐は陸軍大学で準恩賜賞を授
    与され、参謀本部作戦課という中枢に配属されたエリート中の
    エリートであった。

     少佐はわずか6名の部下を率いて、F(藤原)機関を創設し、
    マレー半島を南下する陸軍部隊の陰で、反英活動を支援してい
    たのである。特にマレー作戦の目的地であるシンガポールは、
    大英帝国の極東最大の要塞であり、護る英軍10万の半分はイ
    ンド兵である。彼らを敵にするか、味方にするかは、マレー作
    戦の成否を左右する重大な鍵であった。

     藤原少佐の国塚少尉への第一声は、こうだった。

         皇軍の行う謀略は、誠の一字あるのみだ。至誠、仁愛、
        情熱をもって任務を遂行しなくてはならぬ。広大な陛下の
        大御心を、身をもって戦地の住民と敵に伝えることだ。

     藤原少佐は、自らの使命を「アジア各民族が独立協和する大
    東亜新秩序の理念を実現するために、インドの独立と日印提携
    の開拓を図る」ことと受けとめていた。それが陛下の大御心で
    あり、それを「至誠、仁愛、情熱」をもって遂行しようとして
    いた。

     ちょうど「インド兵たちのためにどんなことでもしてやろう」
    と決心していた20代半ばの血気盛んな国塚少尉は、この言葉
    に心の支えを得た。
    
■4.ジープにはためくインド国旗■

     藤原少佐は開戦前に、バンコクでインド独立運動を展開して
    いるインド人グループと接触し、そのリーダーの一人、プリタ
    ム・シンをマレー戦線に連れてきていた。

     国塚少尉が藤原少佐を訪問する数日前、プリタム・シンと気
    脈を通じている現地のゴム園オーナーから、英印軍一個大隊が
    ジャングルを逃走中である、との情報がもたらされた。

     藤原少佐は非武装で、プリタム・シンと通訳を連れただけで、
    その大隊を訪れた。インドの敗残兵たちは、シープにはためく
    インド国旗を見て茫然として、戦意を失った。

     英印軍は大隊長のみがイギリス人で、中隊長以下はすべてイ
    ンド人だった。藤原少佐が投降を勧めると、インド兵達の戦意
    喪失のさまを見ていた英人大隊長は、受諾した。藤原少佐は、
    大勢のインド将兵たちに大声で語りかけた。

         諸君、私は、日本軍の藤原少佐である。ただいま、君た
        ちの大隊長は、私の勧告を容れて投降文書にサインをした。
        私は君たちを、インド独立連盟のプリタム・シン氏と一緒
        に迎えに来た。

     プリタム・シンが、これをインド語に訳すと、歓喜のどよめ
    きがあがった。
    
■5.モン・シン大尉の決意■

     投降した一個大隊の中隊長の一人、モン・シン大尉が、その
    後のインド将兵達のリーダーとなった。大尉は全将兵を集合さ
    せて、きびきびと投降処置をとらせた。

     国塚少尉がF機関に入って与えられた任務が、この大隊の世
    話と、モン・シン大尉との連絡役だった。藤原少佐はモン・シ
    ン大尉と連夜、懇談を重ねて、日本軍と共に立ち上がって英軍
    と戦うよう勧めたが、英軍から日本軍の残虐ぶりを吹き込まれ
    ていたモン・シン大尉は、藤原少佐の話を急には信じられなかっ
    た。自分たちを騙して英軍と戦わせるための謀略かもしれない、
    と疑った。

     国塚少尉は、モン・シン大尉の疑いを解くには、大隊と一緒
    に生活する自分が、身をもって日本人としての誠意を見せなけ
    ればならないと考えた。

     インド人は、古代の輝かしい精神文化やムガール帝国時代の
    文化を誇りに思っている。しかし、イギリス人が征服民族とし
    てなにかと優越感をひけらかして、彼らの自尊心を傷つけてい
    た。

     国塚少尉は、インド人の心を捉えようとするなら、彼らの文
    化伝統、生活習慣を尊重するしかない、と考えた。そこで毎日、
    カレーを主としたインド料理を手づかみで食べ、公務が終わる
    と、インド人将校と同様に白い腰巻きに着替えて、インド煙草
    を飲み、インド英語で話した。そして、献身的にインド将兵の
    世話をした。

     モン・シン大尉が急に発熱して病の床に伏した時には、国塚
    少尉は朝に夕に看病に努めた。額に手を当てる国塚少尉を、モ
    ン・シン大尉は感謝の気持ちで見上げるようになった。

     ようやく熱も下がった12月30日、モン・シン大尉は国塚
    少尉に、全員一致でインド独立のために立ち上がる決意を固め
    た、と語った。
    
■6.「インド国民軍と日本軍とは、同盟関係の友軍とみなす」■

     モン・シン大尉は、藤原少佐に日本側への希望事項を文書に
    して渡した。「インド国民軍を編成し、最高指揮官をモン・シ
    ン大尉とする」「インド国民軍と日本軍とは、同盟関係の友軍
    とみなす」など、あくまでも独立国の正規軍として立とうとい
    う決意に満ちていた。

     しかし、その希望事項を正式に約束するにはしかるべき手続
    きが必要なので、実質的に希望に応ずるよう、第25軍司令官
    の山下奉文(ともゆき)中将の認可を得た。

     立ち上がったインド国民軍の最初の任務は、英印軍内のイン
    ド将兵を投降させ、自軍に引き入れることである。そのために
    モン・シン大尉は、自ら厳選した兵をもって、70名の決死特
    殊工作隊を作った。5、6名を一班とし、これにF機関員一人
    がついて、最前線を通過して敵地に侵入し、インド兵を説得し
    て、投降させるという作戦である。前線を通過する際に、日本
    軍に間違って攻撃される恐れもあるし、また英軍からも攻撃さ
    れる危険な任務である。

     この作戦は成功し、投降するインド将兵は日を追って増えて
    いった。
    
■7.「さあ、俺のところに来い」■

     2月13日、英軍を撃破しつつマレー半島1千キロを南下し
    た日本軍はいよいよシンガポールを望むジョホールバルに陣取っ
    て、総攻撃を始めた。英軍の主要抵抗線の一つであるニースン
    兵営では、英軍のインド兵が必死の抗戦を続け、日本の近衛師
    団の猛攻にも関わらず、戦局は動かなかった。

     この状況を見て、インド国民軍の工作隊長アラ・ディッタ大
    尉は、単身、英印軍一個大隊の最前線へ乗り込んでいった。し
    ばらく前方を睨んだ後、急に意を決して、身体をかがめて走り
    出した。「危ない! 撃たれる」と日本兵が思った瞬間、大尉
    は仁王立ちになって、大音声で叫んだ。

         友よ。撃つな。俺は第22山砲連隊のアラ・ディッタ・
        カーンだ。日本軍はわれわれを殺さない、われわれの友人
        だ。戦闘を止めろ。

     意外な同胞の呼びかけに、敵陣は一瞬、射撃を止めた。この
    機を、彼は逃さなかった。

         俺たちは、インド国民軍を作った。日本軍は味方だ。敵
        ではない。マレーには数千の同志がいる。さあ、俺のとこ
        ろに来い。

     アラ・ディッタ大尉はポケットからインド国旗を出して、力
    一杯降り続けた。敵陣から2、3人が飛び出してきた。それに
    遅れまいと、多くのインド兵が続いた。ニースンの兵営の上に
    白旗があがった。
    
■8.「英軍降伏」■

     ニースンに駆けつける途中の藤原少佐は、副参謀長から声を
    かけられた。「おい、藤原。エライことをやってくれたな。こ
    れで英印軍は大動揺だ。もっとジャンジャンやれ」    

     激戦はまだまだ続いたが、その後、英軍はニースンの出来事
    に懲りて、白人兵のみで抵抗を続けた。

     2月15日、藤原少佐の伝令がやってきて、「英軍降伏」の
    報をもたらした。国塚少尉とモン・シン大尉が外に飛び出すと、
    ジョホールの方にゆらりと観測気球があがり、「敵軍降伏」の
    大文字をつり下げた。あちこちから、いっせいに遠雷のような
    万歳の声があがり、こだました。

     ゴム園に避難していたマレー人、中国人、インド人の老若男
    女が、歓喜の声をあげながら、家路に急ぐ。

     マレー・シンガポール攻略戦は、1200キロの距離を72
    日で快進撃し、兵力3倍の英軍を降伏させて、10万余を捕虜
    とした稀代の名作戦として、世界の兵家から賞賛された。その
    陰には、インド国民軍の活躍があった。

■9.「大尉とともに銃をとらん」■

     シンガポール陥落の翌々日、2月17日、まぶしいばかりの
    好天のもと、旧競馬場ファラ・パークに4万5千名のインド兵
    部隊が集められた。

     藤原少佐が演説壇上に立つと、すべての視線が集まった。自
    分たちは今後どうなるのか、と重苦しい空気が流れる。

         親愛なるインド兵諸君。私は日本軍を代表して、英軍当
        局から諸君を接収した。諸君と日本軍、さらにインド国民
        と日本国民との友愛を結ぶために参った藤原少佐でありま
        す。

     これが英語、さらにインド語に訳されると、怒濤のようなざ
    わめきが起こった。藤原少佐は続けた。

         日本の戦争目的は、一に東亜民族の解放にあり、日本は
        インドの独立達成を願望し、誠意ある援助を行う。ただし、
        日本はいっさいの野心ないことを誓う。インド国民軍、イ
        ンド独立連盟の活動に敬意を表し、日本はインド兵を友愛
        の念をもって遇する。もし国民軍に参加したいものがあれ
        ば、日本は俘虜のとり扱いを停止し、運動の自由を認め、
        いっさいの援助をおこなう。

     数万のインド兵は歓声をあげて乱舞した。幾千という軍帽が
    大空に舞い上がった。

     興奮の静まるのを待って、モン・シン大尉が壇上に立った。
    大尉はインド国民軍の今日に至るまでの活動を報告し、いまこ
    そこの天与の好機に乗じて祖国のために奮起することを望むと
    訴えた。全員総立ちになって、大尉とともに銃をとらん、と呼
    号した。
                                         (文責:伊勢雅臣)

■リンク■
a. JOG(002) 国際社会で真の友人を得るには
    インド独立のために日本人が血を流した 

■参考■(お勧め度、★★★★:必読〜★:専門家向け)
  →アドレスをクリックすると、本の紹介画面に飛びます。

1. 国塚一乗『インパールを超えて F機関とチャンドラ・ボース
   の夢』★★★、講談社、H7

_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/ おたより _/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/
■「インド独立に賭けた男たち(上)」に寄せられたおたより

                                             弥公夫さんより
     私自身、F(藤原)機関の関連の情報は以前から耳にしてお
    り、インド独立など民族運動を支援という大きな動きに貢献さ
    れたと伺っております。

     藤原特務機関長・藤原岩市少佐は戦後もGHQの顧問のよう
    な立場になったりしたり、自衛隊に入隊後も情報機関の立ち上
    げや強化に尽力されると共に政界や財界、そしてアジア諸国に
    も顔がきくことからいろいろ活発に活動されたそうです。

     まるでイラクのサマーワでの日本も活動と基本的に同じスタ
    ンスで活動したのがF機関の成功へとつながったのでしょうか。

■ 編集長・伊勢雅臣より

     イラクでの自衛隊の活動は、まさに藤原少佐の言う「誠の一
    字あるのみ」で成功した例ですね。 

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