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■■ Japan On the Globe(508)■ 国際派日本人養成講座 ■■■■ 地球史探訪: インド独立に賭けた男たち(上) 〜 シンガポールへ 誠心誠意、インド投降兵に尽くす国塚少尉の 姿に、彼らは共に戦う事を決意した。 ■転送歓迎■ H19.08.05 ■ 34,038 Copies ■ 2,579,715 Views■ ■1.アテンション(気をつけ)!■ 1941(昭和16)年12月、タイからマレーシアに入った国境 近くのジットラの陣地はすがすがしい南洋の朝を迎えていた。 英軍が構築したこの陣地を、シンガポール攻略を目指す日本陸 軍第5師団が夜襲戦法で攻略したばかりだった。 100人ほどの投降したインド兵を前に、参謀部付の通訳 ・国塚一乗(かずのり)少尉が叫んだ。 アテンション(気をつけ)! 無気力状態だったインド兵たちは、急に目が覚めたように、 軍靴をカチッとならして、「気をつけ」をした。さすがにプロ の軍隊、それもインドから選りすぐって派遣された兵たちであ る。緊張感を漲らせて、次の命令を待つ。 「右向け右」「駆け足」と国塚少尉は、つぎつぎに命令を下し、 インド兵たちは見事にそれに従った。彼らの顔に、畏敬の念が 浮かぶ。「どうしてこの黄色い顔をした日本人は、あの英人将 校と同じように号令をかけて、われわれを自在に動かせるのか?」 訓練が終わると、国塚少尉はこう語りかけた。 われわれは、けっして君たちを殺さない。敵性人とみとめ ない。友情をもって取り扱い、その生命と名誉を尊重する。 英語のできるインド兵がこれをインド語に訳した。兵たちの 顔にみるみる明るさがさしてきた。 ■2.「なんといういい男たちだ」■ 日本軍はインド兵を殺さない、という噂が伝わると、どこか らともなく次々とインド兵が投降してきて、200名ほどになっ た。国塚少尉は、急に200人の部下を持つ隊長になってしまっ たわけである。 まずは糧食を調達しなければならない。インド兵たちは、近 くに英軍が置き去りにした兵舎があるという。行ってみると、 食料、酒、衣料などが山のようにあった。 国塚少尉が「皆で大宴会をやろう」と提案すると、皆は沸き 立った。兵たちはインド料理を作って山のように盛り上げた。 国塚少尉が、インド兵と同じように手づかみで食べ出すと、歓 声があがった。英軍将校はこんな事はしなかったようだ。口が 裂けるほど辛いカレーを食べて、目を白黒させると、爆笑が起 こった。そのうちに踊りが始まり、国塚少尉も手拍子で和した。 「なんといういい男たちだ。おれはこの連中のためなら、どん なこともしてやろう」と国塚少尉は決心した。 その思いはインド兵たちも同じだった。近くの飛行場を修理 する作業を始めると、彼らは「日本のこの若い少尉に手柄を立 てさせてやろう」と、4時間労働という英軍規定など無視して、 一心に働いた。仕事がおもしろいようにはかどった。 ■3.F機関へ■ そこにたまたま居合わせた中佐参謀が、インド兵たちを見事 に指揮する国塚少尉の姿に感動して、声をかけた。「おまえは 異民族を扱う天才だな。特務機関に入れてやる。明日午前10 時、軍司令部へ来い。」 翌朝、軍司令部に出頭すると、30代半ばのがっちりした体 格で、軍人のくせに長髪の人物に引き合わされた。藤原特務機 関長・藤原岩市少佐であった。少佐に与えられた任務は「イン ド独立連盟、マレー人、シナ人らの反英団体との連絡ならびに その運動の支援」だった。藤原少佐は陸軍大学で準恩賜賞を授 与され、参謀本部作戦課という中枢に配属されたエリート中の エリートであった。 少佐はわずか6名の部下を率いて、F(藤原)機関を創設し、 マレー半島を南下する陸軍部隊の陰で、反英活動を支援してい たのである。特にマレー作戦の目的地であるシンガポールは、 大英帝国の極東最大の要塞であり、護る英軍10万の半分はイ ンド兵である。彼らを敵にするか、味方にするかは、マレー作 戦の成否を左右する重大な鍵であった。 藤原少佐の国塚少尉への第一声は、こうだった。 皇軍の行う謀略は、誠の一字あるのみだ。至誠、仁愛、 情熱をもって任務を遂行しなくてはならぬ。広大な陛下の 大御心を、身をもって戦地の住民と敵に伝えることだ。 藤原少佐は、自らの使命を「アジア各民族が独立協和する大 東亜新秩序の理念を実現するために、インドの独立と日印提携 の開拓を図る」ことと受けとめていた。それが陛下の大御心で あり、それを「至誠、仁愛、情熱」をもって遂行しようとして いた。 ちょうど「インド兵たちのためにどんなことでもしてやろう」 と決心していた20代半ばの血気盛んな国塚少尉は、この言葉 に心の支えを得た。 ■4.ジープにはためくインド国旗■ 藤原少佐は開戦前に、バンコクでインド独立運動を展開して いるインド人グループと接触し、そのリーダーの一人、プリタ ム・シンをマレー戦線に連れてきていた。 国塚少尉が藤原少佐を訪問する数日前、プリタム・シンと気 脈を通じている現地のゴム園オーナーから、英印軍一個大隊が ジャングルを逃走中である、との情報がもたらされた。 藤原少佐は非武装で、プリタム・シンと通訳を連れただけで、 その大隊を訪れた。インドの敗残兵たちは、シープにはためく インド国旗を見て茫然として、戦意を失った。 英印軍は大隊長のみがイギリス人で、中隊長以下はすべてイ ンド人だった。藤原少佐が投降を勧めると、インド兵達の戦意 喪失のさまを見ていた英人大隊長は、受諾した。藤原少佐は、 大勢のインド将兵たちに大声で語りかけた。 諸君、私は、日本軍の藤原少佐である。ただいま、君た ちの大隊長は、私の勧告を容れて投降文書にサインをした。 私は君たちを、インド独立連盟のプリタム・シン氏と一緒 に迎えに来た。 プリタム・シンが、これをインド語に訳すと、歓喜のどよめ きがあがった。 ■5.モン・シン大尉の決意■ 投降した一個大隊の中隊長の一人、モン・シン大尉が、その 後のインド将兵達のリーダーとなった。大尉は全将兵を集合さ せて、きびきびと投降処置をとらせた。 国塚少尉がF機関に入って与えられた任務が、この大隊の世 話と、モン・シン大尉との連絡役だった。藤原少佐はモン・シ ン大尉と連夜、懇談を重ねて、日本軍と共に立ち上がって英軍 と戦うよう勧めたが、英軍から日本軍の残虐ぶりを吹き込まれ ていたモン・シン大尉は、藤原少佐の話を急には信じられなかっ た。自分たちを騙して英軍と戦わせるための謀略かもしれない、 と疑った。 国塚少尉は、モン・シン大尉の疑いを解くには、大隊と一緒 に生活する自分が、身をもって日本人としての誠意を見せなけ ればならないと考えた。 インド人は、古代の輝かしい精神文化やムガール帝国時代の 文化を誇りに思っている。しかし、イギリス人が征服民族とし てなにかと優越感をひけらかして、彼らの自尊心を傷つけてい た。 国塚少尉は、インド人の心を捉えようとするなら、彼らの文 化伝統、生活習慣を尊重するしかない、と考えた。そこで毎日、 カレーを主としたインド料理を手づかみで食べ、公務が終わる と、インド人将校と同様に白い腰巻きに着替えて、インド煙草 を飲み、インド英語で話した。そして、献身的にインド将兵の 世話をした。 モン・シン大尉が急に発熱して病の床に伏した時には、国塚 少尉は朝に夕に看病に努めた。額に手を当てる国塚少尉を、モ ン・シン大尉は感謝の気持ちで見上げるようになった。 ようやく熱も下がった12月30日、モン・シン大尉は国塚 少尉に、全員一致でインド独立のために立ち上がる決意を固め た、と語った。 ■6.「インド国民軍と日本軍とは、同盟関係の友軍とみなす」■ モン・シン大尉は、藤原少佐に日本側への希望事項を文書に して渡した。「インド国民軍を編成し、最高指揮官をモン・シ ン大尉とする」「インド国民軍と日本軍とは、同盟関係の友軍 とみなす」など、あくまでも独立国の正規軍として立とうとい う決意に満ちていた。 しかし、その希望事項を正式に約束するにはしかるべき手続 きが必要なので、実質的に希望に応ずるよう、第25軍司令官 の山下奉文(ともゆき)中将の認可を得た。 立ち上がったインド国民軍の最初の任務は、英印軍内のイン ド将兵を投降させ、自軍に引き入れることである。そのために モン・シン大尉は、自ら厳選した兵をもって、70名の決死特 殊工作隊を作った。5、6名を一班とし、これにF機関員一人 がついて、最前線を通過して敵地に侵入し、インド兵を説得し て、投降させるという作戦である。前線を通過する際に、日本 軍に間違って攻撃される恐れもあるし、また英軍からも攻撃さ れる危険な任務である。 この作戦は成功し、投降するインド将兵は日を追って増えて いった。 ■7.「さあ、俺のところに来い」■ 2月13日、英軍を撃破しつつマレー半島1千キロを南下し た日本軍はいよいよシンガポールを望むジョホールバルに陣取っ て、総攻撃を始めた。英軍の主要抵抗線の一つであるニースン 兵営では、英軍のインド兵が必死の抗戦を続け、日本の近衛師 団の猛攻にも関わらず、戦局は動かなかった。 この状況を見て、インド国民軍の工作隊長アラ・ディッタ大 尉は、単身、英印軍一個大隊の最前線へ乗り込んでいった。し ばらく前方を睨んだ後、急に意を決して、身体をかがめて走り 出した。「危ない! 撃たれる」と日本兵が思った瞬間、大尉 は仁王立ちになって、大音声で叫んだ。 友よ。撃つな。俺は第22山砲連隊のアラ・ディッタ・ カーンだ。日本軍はわれわれを殺さない、われわれの友人 だ。戦闘を止めろ。 意外な同胞の呼びかけに、敵陣は一瞬、射撃を止めた。この 機を、彼は逃さなかった。 俺たちは、インド国民軍を作った。日本軍は味方だ。敵 ではない。マレーには数千の同志がいる。さあ、俺のとこ ろに来い。 アラ・ディッタ大尉はポケットからインド国旗を出して、力 一杯降り続けた。敵陣から2、3人が飛び出してきた。それに 遅れまいと、多くのインド兵が続いた。ニースンの兵営の上に 白旗があがった。 ■8.「英軍降伏」■ ニースンに駆けつける途中の藤原少佐は、副参謀長から声を かけられた。「おい、藤原。エライことをやってくれたな。こ れで英印軍は大動揺だ。もっとジャンジャンやれ」 激戦はまだまだ続いたが、その後、英軍はニースンの出来事 に懲りて、白人兵のみで抵抗を続けた。 2月15日、藤原少佐の伝令がやってきて、「英軍降伏」の 報をもたらした。国塚少尉とモン・シン大尉が外に飛び出すと、 ジョホールの方にゆらりと観測気球があがり、「敵軍降伏」の 大文字をつり下げた。あちこちから、いっせいに遠雷のような 万歳の声があがり、こだました。 ゴム園に避難していたマレー人、中国人、インド人の老若男 女が、歓喜の声をあげながら、家路に急ぐ。 マレー・シンガポール攻略戦は、1200キロの距離を72 日で快進撃し、兵力3倍の英軍を降伏させて、10万余を捕虜 とした稀代の名作戦として、世界の兵家から賞賛された。その 陰には、インド国民軍の活躍があった。 ■9.「大尉とともに銃をとらん」■ シンガポール陥落の翌々日、2月17日、まぶしいばかりの 好天のもと、旧競馬場ファラ・パークに4万5千名のインド兵 部隊が集められた。 藤原少佐が演説壇上に立つと、すべての視線が集まった。自 分たちは今後どうなるのか、と重苦しい空気が流れる。 親愛なるインド兵諸君。私は日本軍を代表して、英軍当 局から諸君を接収した。諸君と日本軍、さらにインド国民 と日本国民との友愛を結ぶために参った藤原少佐でありま す。 これが英語、さらにインド語に訳されると、怒濤のようなざ わめきが起こった。藤原少佐は続けた。 日本の戦争目的は、一に東亜民族の解放にあり、日本は インドの独立達成を願望し、誠意ある援助を行う。ただし、 日本はいっさいの野心ないことを誓う。インド国民軍、イ ンド独立連盟の活動に敬意を表し、日本はインド兵を友愛 の念をもって遇する。もし国民軍に参加したいものがあれ ば、日本は俘虜のとり扱いを停止し、運動の自由を認め、 いっさいの援助をおこなう。 数万のインド兵は歓声をあげて乱舞した。幾千という軍帽が 大空に舞い上がった。 興奮の静まるのを待って、モン・シン大尉が壇上に立った。 大尉はインド国民軍の今日に至るまでの活動を報告し、いまこ そこの天与の好機に乗じて祖国のために奮起することを望むと 訴えた。全員総立ちになって、大尉とともに銃をとらん、と呼 号した。 (文責:伊勢雅臣) ■リンク■ a. JOG(002) 国際社会で真の友人を得るには インド独立のために日本人が血を流した ■参考■(お勧め度、★★★★:必読〜★:専門家向け) →アドレスをクリックすると、本の紹介画面に飛びます。 1. 国塚一乗『インパールを超えて F機関とチャンドラ・ボース の夢』★★★、講談社、H7 _/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/ おたより _/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/ ■「インド独立に賭けた男たち(上)」に寄せられたおたより 弥公夫さんより 私自身、F(藤原)機関の関連の情報は以前から耳にしてお り、インド独立など民族運動を支援という大きな動きに貢献さ れたと伺っております。 藤原特務機関長・藤原岩市少佐は戦後もGHQの顧問のよう な立場になったりしたり、自衛隊に入隊後も情報機関の立ち上 げや強化に尽力されると共に政界や財界、そしてアジア諸国に も顔がきくことからいろいろ活発に活動されたそうです。 まるでイラクのサマーワでの日本も活動と基本的に同じスタ ンスで活動したのがF機関の成功へとつながったのでしょうか。 ■ 編集長・伊勢雅臣より イラクでの自衛隊の活動は、まさに藤原少佐の言う「誠の一 字あるのみ」で成功した例ですね。© 平成19年 [伊勢雅臣]. All rights reserved.