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■■ Japan On the Globe(509)■ 国際派日本人養成講座 ■■■■

           地球史探訪: インド独立に賭けた男たち(下)
                          〜 デリーへ
                 チャンドラ・ボースとインド国民軍の戦いが、
                インド国民の自由独立への思いに火を灯した。
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■1.マダガスカル島沖での邂逅■

     昭和18(1943)年4月26日未明、日本海軍のイ号潜水艦
    29号は、インド洋のマダガスカル島南東沖に浮上した。まだ
    夜明け前で、海は暗く波も荒かった。30分ほどたってやや明
    るくなった時、見張りの一人が「潜水艦発見」と叫んだ。

     ドイツのUボート80号である。2月8日、フランスのブレ
    スト港を出港して以来、79日もかけて大西洋を南下し、アフ
    リカの喜望峰を回ってやってきたのだった。

     2隻の潜水艦は互いに接近し、荒波の中でロープを渡して、
    10人乗りのボート3隻を組み立てて、物の受け渡しを行った。
    日本側からは長さ6メートルもある無航跡魚雷の実物、ドイツ
    からは対戦車砲の特殊弾やマラリアの特効薬キニーネ2トンな
    どの交換が行われた。次に日本側から造船研究の交流のために
    ドイツに渡る海軍士官2名、ドイツ側からは2人のインド人が
    相手の艦に移動した。

     インド人の2人は、インド独立運動の指導者スバス・チャン
    ドラ・ボースとその秘書であった。ボースはガンジー、ネール
    と並ぶインド政界の大立者で、一時ガンジーと衝突して、イン
    ド国民会議派の議長にもなった人物である。反英運動を理由に
    英国官憲に逮捕され、自宅に監禁されていたところを脱出し、
    アフガニスタンからソ連経由で、ドイツに逃れていたのである。

     日本軍がマレー、シンガポールを占領したので、やがてビル
    マに入り、インド国境に迫るようになる、とボースは考えた。
    そこで何とか現地に行って、日本軍と共に戦いたいと、日独双
    方に何度も要望し、ついに両国政府の同意を得て、今回の潜水
    艦による引き渡しとなったのであった。

■2.ボースに魅了された東条首相■

     ボースは、ペナン、サイゴン、台北を経て、5月16日に東
    京に到着した。6月に入って、ようやく東条首相との会見がで
    きた。ボースに会った首相は、いっぺんにその人柄に魅せられ
    た。烈々たる愛国の至情、卓越した識見、端正な挙措動作、明
    快なインド独立への主張は、東条首相の心をゆさぶった。

     6月16日、第82臨時議会の本会議では、ボースを招き、
    東条首相は次のような大演説を行った。

         インド独立のため、帝国のあらゆる手段をつくすべき牢
        固たる決意をしめし、インドの民衆の独立完遂はかならず
        や実現され、インドの自由と繁栄とがもたらされる日の遠
        からざるを確信し、大東亜戦争の完遂なくして大東亜の解
        放なく、大東亜の建設なくして大東亜の福祉なし、、、

     6月21日、ボースは東京からのラジオ放送で、はじめてイ
    ンド向けの第一声を発した。

         いまや私は東京にある。東条首相は議会において、イン
        ドに関する重要演説をおこなったが、これは劃期的宣言と
        して、永久に青史に伝えられるべきものである。

     シンガポールでは、インド国民軍の幹部が、食い入るように
    この放送を聞いていた。
    
■3.ボース万歳! 革命万歳!■
    
     10日ほど後の7月2日、シンガポール・カラン飛行場では
    美しく晴れ渡った朝空が広がっていた。飛行場ではインド国民
    軍の一個大隊が厳粛な面持ちでずらりと並び、ロビーには国民
    軍とインド独立連盟の幹部が続々と詰めかけていた。[a]

     東の空に一点、現れた飛行機はみるみる近づいて、着陸した。
    扉が開かれ、堂々とした体格ながら、理知的な風貌の男がしっ
    かりとした足取りでタラップを降りた。ロビーから大歓声があ
    がった。待ちに待ったボースがついにインド国民軍の前に姿を
    現したのである。

     歓迎の閲兵式が行われた。国民軍一個大隊は、号令一下、
    「捧げ銃(つつ)」の礼を行った、ラッパが高らかに鳴り響い
    た。ボースは、インド兵一人ひとりの顔を食い入るように見つ
    めながら、その前を歩いていく。その目から一条の涙がつたっ
    た。ボースが求めてやまなかった独立のための軍隊が、ここに
    こつぜんと出現したのである。

     閲兵が終わって、ボースが車の中に乗り込んだとき、兵士た
    ちはいっせいに左手をあげて叫んだ。

        ボース・キ・ジャイ!ボース・キ・ジャイ!
            (ボース万歳!、ボース万歳!)
        インクラブ・ジンダバア! インクラブ・ジンダバア!
            (革命万歳!、革命万歳!)

     将兵たちの心に、独立への炎が燃えさかった。
    
■4.「デリーへ、デリーへ」■

     3日後の7月5日、ボースのインド国民軍最高司令官就任を
    記念する大閲兵分列式がシンガポール市庁前でおこなわれた。
    長身で恰幅(かっぷく)のよいボースは、カーキ色の国民軍の
    制服に身を固めて、堂々たる将軍ぶりである。壇上に立ったボ
    ースは、低い、よくとおる声で演説を始めた。

         今日は、私の生涯においてもっとも誇りとする日である。
        インド国民軍の結成を世界に宣言する日である。この軍隊
        が、かつて英帝国の牙城たりしシンガポールに編成された
        ことは意義深いものがある。この英国の基地に立っている
        と、英帝国すでになしとの感が深い。

         同志諸君、わが兵士諸君。諸君の雄叫びは、チェロ・デ
        リー、チェロ・デリー(デリーへ、デリーへ)である。デ
        リーが、ふたたびわれらがものとなるまでは。

     ボースの声はしだいに熱を帯び、満場は逆に静まりかえって
    いる。

         私は、かならず諸君を勝利と自由に導き得ることを確信
        する。われわれのうち幾人が生きて自由インドを見るかは
        問題でない。われわれの母国インドが自由になること、イ
        ンドを自由にするため、われわれがすべてを捧げること、
        それで充分なのである。

     兵の中から「チェロ・デリー、チェロ・デリー」の叫びがあ
    がった。大群衆もこれに唱和して、爆発的な叫びとなった。
    
■5.インド仮政府樹立と対英米宣戦布告■

     インド国民軍最高司令官に就任したボースは、軍の増強に精
    力を傾けた。就任の際に1万3千名だった国民軍は、最終的に
    は4万人の規模となった。

     同時に、ボースは国民軍の最精鋭をビルマに進撃させること
    とした。将兵は争ってこれに志願し、最高の装備を持った一個
    連隊を組織した。連隊長にはシャナワーズ・カーン中佐(終戦
    後、ネール政権で鉄道省副首相)が任ぜられ、650キロを行
    軍して、ラングーンに到着した。

     ボースは同時に卓越した政治手腕を発揮して、体制作りを進
    めた。昭和18(1943)年10月21日、自由インド仮政府を樹
    立し、2日後、日本政府から承認を受けた。25日には自由イ
    ンド仮政府は、交戦権ある政府として、英米に対して、堂々と
    宣戦を布告した。
    
■6.「これこそ、私の宝です」■

     同年11月5、6日の二日間。東京にて大東亜会議が開かれ
    た。欧米勢力からの自由と独立を目指すアジアの国々の元首が
    一同に集い、大東亜共同宣言を採択して全世界に発表すると共
    に、相互の協力を緊密にしようという趣旨である。[b]
    
     参加者は南京政府の王兆銘首席、満洲国の張景恵総理、フィ
    リピンのホセ・ラウレル大統領、ビルマのバー・モウ総理、タ
    イ代表ワンワイタヤコーン殿下、そしてオブザーバーとして加
    わった自由インド仮政府のチャンドラ・ボース首席だった。

     ボースがオブザーバー参加としたのは、インド国内のガンジ
    ー、ネールにひきいられたインド国民会議派から、日本の傀儡
    (かいらい)との誹謗を受けないための用心であった。しかし、
    この会議は、インド仮政府の存在を全世界に印象づけ、また各
    国首脳との交流を図る上で、またとない好機であった。

     会議の二日目、「大東亜戦争を完遂し、大東亜を米英の桎梏
    (しっこく、足かせと手かせ)より解放」する事を謳った大東
    亜宣言を採択した。その後、ビルマのバーモウ総理の提案で、
    インドを英国から解放しようとしているボースに完全なる支援
    を与える、という宣言が追加された。

     これに応えて、ボースは「インド国民軍は一身の生死を省み
    ることなく、インドの自由を求める」との決心を語った。

     4週間後にシンガポールに戻ったボースは、国塚中尉を呼ん
    だ。ボースは日本で立派な美術品や日本刀などを贈られたが、
    インドが独立した時にまたいただく、とみな返しておいた、と
    語った。しかし、これだけは貰ってきた、と国塚中尉に見せた
    のは、青竹の一節で作った貯金箱で、振ってみると、たくさん
    の硬貨が入っている。中尉が怪訝な顔をしていると、ボースは
    「まあ、この手紙を読んでごらん」と、たどたどしい文字で書
    かれた便箋を渡した。

         コノオカネハ、ワズカデスガ、ボクガチョキンシタモノ
        デス。インドノヘイタイサンニアゲテクダサイ。

    「これこそ、私の宝です。大切にします」と言って、ボースは
    貯金箱を自分のキャビネットにしまった。
    
■7.「日本が負けないうちにインド侵攻作戦を」■

     ボースは、大東亜会議の最中に随員を駆使して、各国の代表
    から日本の戦争能力、占領地の統治能力を秘密裡に探らせた。
    その結果、「大東亜戦争での日本の勝利は到底おぼつかない、
    日本が負けないうちにインド侵攻作戦を進めさせて、独立まで
    持って行かなければならない」との決意をひそかに固めたよう
    だった。

     ビルマ方面軍高級参謀であった片倉衷(ただし)少将は、
    『インパールの悲劇』と題する語録のなかで、「チャンドラ・
    ボースが、インド国民軍を組織して、直接、間接にインド侵攻
    の企図を告げ、援助をしきりに頼むわけです」と、いかにも迷
    惑そうに書いている。

     しかし、ビルマを占領すれば、重慶の蒋介石軍に対する軍需
    物資補給路を断つことになり、中国大陸での抵抗を止めさせる
    という効果を期待できる。さらには、インドに侵攻すれば、反
    英運動を激化させ、英国をインドから駆逐する契機になるかも
    しれない。日本にとって起死回生の一策でもあった。
    
■8.「諸君の血のみが、独立を勝ち得る」■

     1944(昭和19)年1月9日、インパール作戦が開始された。
    インド北東部の都市で、イギリス軍の主要拠点であるインパー
    ルを攻略しようというのである。

     しかし、この作戦には、日本軍が経験したことのない多くの
    困難が待ちかまえていた。第一に、北ビルマから東インドは、
    千メートルから3千メートルの山並みが続く山岳地帯である。
    道路といえば、かろうじて牛車が通れる山道がある程度で、食
    料、弾薬の補給が難しい。しかも、大樹海やジャングルに覆わ
    れ、マラリアや赤痢などの巣窟である。さらに5月末から始ま
    る雨期には、雨量が8千ミリにも上り、道路は川と化してしま
    う。

     日本軍3個師団と、インド国民軍からシャナワーズ・カーン
    中佐率いる一個連隊が出発した。ボースはこの連隊に大いなる
    希望をかけ、こう激励した。

         諸君は、いま飢餓に苦しんでいるインド数億の、同胞を
        救う軍隊である。この軍隊には、英印軍のような快適さは
        ない。ただ渇き、飢え、行軍、最後に死があるのみである。
        しかし銘記せよ! 諸君の血のみが、独立を勝ち得るので
        ある。

     ボースの期待を受けたインド国民軍の連隊は、日本軍と協力
    して次々と敵陣を落とし、2月中旬にはついに国境を越えて、
    インド領のモードックの地に立った。はじめて自分の力で得た
    祖国の自由の地。インド国民軍の将兵は土を握りしめ、大地に
    転がり、地面に頬をつけて接吻した。期せずして愛国の詩人タ
    ゴールの作ったインド国歌が歌い始められ、全将兵は流れ落ち
    る涙をぬぐいもせずに、直立不動の姿勢で歌い続けた。

     しかし、航空機で補給を受ける英軍に対して、補給能力の限
    られた日印連合軍は弾薬や糧食が尽き、5月末にはついに撤退
    の命令が下った。すでに雨期に入り、土砂降りの雨の中の撤退
    で、日印軍10万のうち、3万の将兵が原野に屍を晒した。イ
    ンド国民軍も数千の死者を出した。
    
■9.「インドは遠からず、必ず独立する」■

     1945(昭和20)年8月15日、ついに日本は降伏した。ボー
    スはなおも屈せず、満洲に渡って南下してくるソ連軍に身を投
    じて、独立運動を続けることを決意した。まさに不屈の志士で
    ある。

     しかし、満洲への途上、台北を離陸しようとした陸軍の軍用
    機が墜落炎上した。全身に火傷を負ったボースは副官にこう語っ
    た。これがボースの遺言となった。

         君がインドに帰ったら、ボースは最後の息をひきとるま
        で、独立のために戦ったと伝えてくれ。私が死んでも、わ
        れわれ同胞はこの戦いをつづけてくれる。インドは遠から
        ず、必ず独立する。

     日本の降伏に伴って、インド国民軍も連合軍に降伏した。そ
    して英国が、インド国民軍の指導者たちを「反逆者」として軍
    事裁判にかけた時、インド各地で憤激した群衆が暴動を起こし
    た。さらに英海軍の一部であったインド人乗組員がボンベイ、
    カラチ、カルカッタなどで、一斉に反乱を起こし、これに呼応
    して各地でストライキが始まった。

     インド全土での反乱には英国もなすすべもなく、1947(昭和
    22)年8月15日、インドは独立を勝ち得た。当時のアトリ
    ー首相は後に、なぜ連合軍として勝利した英国がインドから撤
    退したのか、と聞かれて、こう答えている。

         英印軍のインド兵の、英人指揮官に対する忠誠心が、チャ
        ンドラ・ボースのやった仕事のために、低下したというこ
        とですよ。[1,p248]

     日本とともに立ち上がったチャンドラ・ボースとインド国民
    軍の戦いが、インド国民の自由独立への思いに火を灯したので
    ある。
                                         (文責:伊勢雅臣)

■リンク■
a. JOG(508) インド独立に賭けた男たち(上)〜 シンガポールへ
    誠心誠意、インド投降兵に尽くす国塚少尉の姿に、彼らは共
   に戦う事を決意した。 
b. JOG(338) 大東亜会議 〜 独立志士たちの宴
    昭和18年末の東京、独立を目指すアジア諸国のリーダー達
   が史上初めて一堂に会した。 

■参考■(お勧め度、★★★★:必読〜★:専門家向け)
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1. 国塚一乗『インパールを超えて F機関とチャンドラ・ボースの夢』
   ★★★、講談社、H7

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