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■■ Japan On the Globe(514)■ 国際派日本人養成講座 ■■■■

         国柄探訪: 「ある」日本語と「する」英語
    
                     なぜ日本人は「私はあなたを愛します」と
                    言わないのか?
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■1.「来週月曜日から日本語の講師をしてくれないか」■

     9月初めの金曜日、電話が鳴った。カナダ東部の古都ケベッ
    クのラヴェル大学で言語学を学ぶ金谷武洋氏の人生を、大きく
    変えることになる電話だった。大学の教務課からだった。「至
    急会いたい」という。

     すぐに自転車で駆けつけると、「来週月曜日から日本語の講
    師をしてくれないか」という。予定していた講師と連絡がとれ
    なくなり、すでに24人の受講者も決まっているので、代理で
    教えて貰えないか、というのである。「どうせ子供の時から話
    している日本語じゃないか。それに去年から言語学の大学院生
    なわけだし」と二つ返事で引き受けた。

     最初の数回の授業は、日本語の挨拶や日本に関する基礎知識
    などで時間を稼ぎ、その間に寝食を忘れて、文法説明や練習問
    題のプリントづくりに取り組んだ。日本料理のパーティをやっ
    たり、ギターを弾いて日本の歌を教えたりもした。文字通りの
    自転車操業だったが、楽しい経験だった。その事件が起こるま
    では。

■2.なぜ「私はあなたを愛しています」ではないのか?■

     最初の事件は、ある日、クラスで学生の一人がこんな発言を
    したことだった。

         先生、ジュ・テームを日本語でどう言うか、本に書いて
        ありましたよ。えーと、「私は・あなたを・愛しています」
        ですね。

     その時、金谷氏の心に一つの大きな疑問符が浮かんだ。フラ
    ンス語の「ジュ・テーム」や英語の「アイ・ラブ・ユー」はよ
    く使われる表現だ。しかし、「私はあなたを愛しています」な
    んて、日本人はまず言わない。確かに文法的には正しいのに、
    なぜこの日本語表現はおかしいのだろう。

     次の事件は「日本語が分かります」という例文についてだっ
    た。ここには「私は」が省略されていると説明した時、別の学
    生が聞いた。「先生、この文の主語はどれですか。」

     主語は「私は」ですよ、と答えようとしたが、それでは「日
    本語が」は何なのだろう。「太陽が昇る」というように、「が」
    は主語を示す、と教えたのではなかったか。金谷氏は、言葉を
    失ってしまった。「I understand Japanese.」なら、なぜ「私
    が日本語を分かります」ではないのか。

     金谷氏の心の中には深い屈辱感と焦燥感が残った。自分の母
    語さえ上手く説明できないのに、エラそうに西洋の古典語なん
    か勉強するのは本末転倒もいいところではないか。
    
■3.「僕はウナギだ」■

    「今の日本語文法は日本語を教えるのに役に立たない」と日本
    の友人に手紙でぼやいた処、送ってくれたのが『象は鼻が長い』
    という本であった。それを一気に読み終えたときには、日本語
    文法への疑問が氷解し、「よし、これで修士論文も書ける」と
    胸が高まった。

     この本の著者・三上章は「街の言語学者」と呼ばれ、その研
    究は日本の学界から無視され続けて、昭和46(1971)年に不遇
    のまま世を去った人物である。

     三上の主張は、日本語には英文法から導入された「主語」の
    概念は不要かつ有害である、という点だった。たとえば、「は」
    が「主語」を表す、と考えると、以下の文章はどうなるのか。

        (昨日までは晴天だったが)今日は雨だ。
        (あなたは天丼を頼んだが)僕はウナギだ。

     "Today is rain."などと、そのまま「○○は」を主語として
    訳したら、珍妙な英語になる。"I am an eel(ウナギ)"では、
    カフカばりの変身譚だ。

     三上は、「は」の役割は「主題」を提示することであると主
    張する。だから「○○は」とは、「○○について言えば」であ
    り、英語に訳す場合、"As for"とすると、まだしも意味が通じ
    る。

        As for today, it (the weather) is rain.
        As for me, it (my order) is an eel.

     さらに英語らしくするには、"is" ではなく、「○○する」
    という動詞を使って、

        It rains today.
        I order an eel.

     とすべきだろう。

■4.「ある」表現と「する」表現■

     上記の例から、日本語が"is"、すなわち「ある」表現を基本
    構造としているのに対し、英語では「する」表現をベースにし
    ている、という事が窺われる。

     もう少し、例を見てみよう。

        I have a son. / 息子が一人いる。
        I understand Japanese. / 日本語が分かる。
        I see Mt. Fuji. / 富士山が見える。

     このように英語での「する」表現を、日本語での「ある」表
    現にすると、こなれた訳となる。

     英語は「する」表現が中心なので、主語としての行為者が先
    頭に立つ。それに対して、日本語は「ある」表現中心であり、
    行為者は、どうしても必要な場合以外は陰に隠れているのであ
    る。

■5.「私はあなたを愛します」?■
        
    "I love you." は直訳すれば、「私はあなたを愛します」だが、
    こんな「する」表現を使っていたのでは、すぐに「ガイジン」
    だと分かってしまう。日本語に近づけるために、まずは「ある」
    表現で「私はあなたを愛しています」とする。

     さらに「私は」と言うと、私が主題となってしまうから、
    「彼とは違って私は」などとことさら言う必要がない場合は、
    「私は」を除くべきである。これで「あなたを愛しています」
    と、かなり日本語らしくなる。

     また「する」動詞"love"は、文法上、目的語が不可欠なので
    たとえ、二人きりで親密なムードが盛り上がって、ことさら
    「あなたを」などと言う必要のない場合でも、わざわざ"you"
    をつけなければならない。「ある」表現の日本語では、そんな
    事はないので、「愛しています」で良い。これでかなり自然な
    日本語らしい表現となった。

     結局、「する」表現の英語では、主語"I"も、目的語"you"も、
    文脈上ことさら言う必要のない時でも、文法上の制約から、わ
    ざわざつけなければならないのである。"love."の一語では文
    章にならないのだ。
    
     文法上の理由で、わざわざ主語をつける最も無駄な例が、
    "It rains."である。日本語ならずばり「雨です。」で良い所
    を、"Rain."では文章にならないから、わざわざ"It" という意
    味のないダミーの主語をつけている。

     学校文法では「主語」+「述語」を基本中の基本としていて、
    これがあたかも地球上の全ての言語の従うべきグローバル標準
    であるかのように教えられているが、日本語は明らかにそれに
    従っていないのである。
    
■6.英語はヨーロッパにおいてさえ「全く例外的」な言語■

     そもそも西洋文法に「主語」が登場したのは、12世紀に
    なってからである。16世紀のシェイクスピアでも、「・・
    と思われる」という意味で、主語のない "me-thinks","me-seems" 
    という動詞が使われていた。「ある」型の表現である。その後、
    前者はなくなり、後者はダミー主語をつけて、"It seems to
    me..."となった。

     現代でも、スペイン語やイタリア語では、動詞の格変化で主
    語が"私"か "我々"か、などは分かるので、強調する時以外は
    人称代名詞は、わざわざ付けない。[1,p64]

     ヨーロッパの諸言語はその歴史を通じて、一貫して「する」
    言語への道を歩んできた。その中でも英語は、最先端に位置す
    る言語であろう。世界の古今東西の言語に通じた言語学者・泉
    井久之助によれば、英語はヨーロッパにおいてさえ「全く例外
    的」な言語である。[2,186]

     そのような英文法をあたかもグローバル標準であるかのよう
    に考え、それでもって「日本語はよく主語を省略する、曖昧で
    非論理的な言語だ」などと言うのは、あまりに「英語セントリッ
    ク(金谷氏によるエゴセントリック、自己中心主義、の洒落
    [1,p24])」な謬見である。
    
■7.「止まる」と「止める」■

     「する」表現中心で行為主としての「主語」がかならずある、
    という英文法の「特殊性」を離れて、日本語そのものを見てみ
    れば、そこに日本人の物の考え方が浮かび上がってくる。

     その一つが、多くの自動詞と他動詞がペアとなっていること
    である。

        止まる(tom-ARU)   /  止める(tom-ERU)
        始まる(hajim-ARU) /  始める(hajim-ERU)
        変わる(kaw-ARU)   /  変える(kaw-ERU)
        伝わる(tutaw-ARU) /  伝える(tutaw-ERU)

     英語では「止まる」も「止める」も"stop"であり、「始まる」
    も「始める」も"start"である。自動詞と他動詞がこれだけ豊
    かに、かつ体系的に揃っているのは、日本語の特長である。

     英語は「する」表現中心だから、自分を止めようと、他者を
    止めようと同じ"stop"で、自他の区別はあまり気にしないのだ
    ろう。逆に、日本語では「ある」と「する」を厳密に区別する。

     ローマ字表記だとよく分かるように、日本語の自動詞には
    「ある -ARU」が潜んでいる。一説によると「ある」の語源は
    「生(あ)る」で、「生まれ出る」という意味である。

     物事が自然に生まれ出る、あるいは、自ずからある状態にな
    る、という事を尊ぶ日本人の世界観が窺われる。
    
■8.「受身」「尊敬」「可能」「自発」に共有されているもの■

    「ある」は受身形にも潜んでいる。

        止める(tom-ERU)   /  止められる(tom-ER-ARERU)
        始める(hajim-ERU) /  始められる(hajim-ER-AREURU)
        変える(kaw-ERU)   /  変えられる(kaw-ER-ARERU)
        伝える(tutaw-ERU) /  伝えられる(tutaw-ER-ARERU)

     末尾の「-ARERU」に、また「ある」が潜んでいるのである。
    この点は、英語での受動文が、"The train is stopped."など
    と「ある」表現のBe動詞を用いて表現されるのと似ているが、
    そのニュアンスは微妙に違う。

        能動文: 熊が太郎を殺した / A bear killed Tarou.
        受身文: 太郎は熊に殺された / Tarou was killed by a bear.

     英語では受身文は能動文の単純な裏返しだが、日本語では
    「その状況下では太郎は無力だった」という無念さが籠もる。

     日本語の受身形の持つ、自らの意志や能力を超えたものに何
    事かをなされる、というニュアンスの例としては、以下が典型
    だろう。

        祖母に死なれた。/ 赤ん坊に泣かれた。/ 雨に降られた。

     これらをそのまま、英語に直訳してたら、とんでもない事に
    なる。
        
     さらに日本語の受身形である「れる」「られる」は、

        尊敬(先生が話された)
        可能(その野菜は生のまま食べられる)
        自発(亡父のことが思い出される)

    にも使われるが、これらは「ある行為が人間のコントロールを
    超えたところでなされる」という共通のニュアンスがあると考
    えると、「受身形」と同じ表現を持つ理由がよく理解できる。
    [1,p184] 
    
■9.「日本語にはやはり和服がいい」■

     英語、広くはヨーロッパ諸言語では「する」表現が中心であ
    り、その行為者が主語となる、というきわめて能動的・主体的
    な性格は、ヨーロッパ人が、科学技術をもって自然を征服し、
    世界中を植民地にしていった歴史と重なって見える。

     一方、日本語の方は「ある」表現を中心として、なるべく行
    為者を表に出さず、常に人智・人為を超えた世界を強く意識し
    ている点は、自然の中の「生きとし生けるもの」の一員として
    生きてきたわが祖先のつつましやかな人生観を連想させる。

     金谷氏は、世界中の日本語学習者が200万人を超えるとい
    う未曾有の日本語ブームであることを指摘した後、こう述べる。

         そのお祭り騒ぎの真っただ中で、しかし、実は多くの日
        本語教師が困っている。学習者にも不満が高まっている。
        何故か。日本語文法がいまだに日本語の感性を、語感を反
        映したものになっていないからだ。明治以来、百年の学校
        文法は、その基本的発想が日本語でなく英語だからである。
        それを抜本的に改正することなしに今日まで来てしまった
        結果だ。自分の背丈に合わない、だぶだぶ(あるいはツン
        ツルテン)の燕尾服を百年の長きにわたって着せられてき
        た日本語をやはり著者は不幸だと思う。日本語にはやはり
        和服がいい。[1,p19]

     こうした「和服の日本語文法」ができたら、それを通じて現
    代の日本人も、自分の心の底に潜む先祖の世界観・人生観をよ
    く理解することができよう。それによって、「する」中心の世
    界観を基に環境破壊と闘争に明け暮れる現代世界において、独
    自の文化的発信ができるだろう。
                                         (文責:伊勢雅臣)

■リンク■
a. JOG(070) フランスからの日本待望論
    現代人をして守銭奴以外の何者かたらしめるためには世界は
   日本を必要としている。
b. JOG(240) 日本語が作る脳
    虫の音や雨音などを日本人は左脳で受けとめ、西洋人は右脳
   で聞く!? 

■参考■(お勧め度、★★★★:必読〜★:専門家向け)
  →アドレスをクリックすると、本の紹介画面に飛びます。

1. 金谷武洋『日本語に主語はいらない』★★、講談社選書メチエ、H14
2. 金谷武洋『日本語文法の謎を解く』★★★、ちくま新書、H15
3. 金谷武洋『主語を殺した男 評伝三上章』★★★、講談社、H18


_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/ おたより _/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/
■「『ある』日本語と『する』英語」に寄せられたおたより

    ■ 日本語は「悪魔の言語」? ■
                                               政史さんより

     私は工学系の大学院生で現在米国におりますが、以前から日
    本語の文法にも興味を持っておりました。ときどき日本語は非
    論理的な言語だとか言って、分かったような顔をしている日本
    人がいますが、私は言語そのものの論理性以前に、学校で習う
    ような文法の説明に問題があると考えておりました。

     一般論として、ある現象を説明するためにある法則をつくっ
    たときに、その説明が非常に複雑になりうまくいかないとした
    ら、その法則が不十分だと考えるのがまともな学術的思考です。
    ところが、日本語文法の場合は、なぜか矛先が、文法でなく言
    語そのものに向いてしまい、「日本語なんか非論理的なんだ」
    という自虐的な結論に満足している人がいます。

     欧州のある言語学者が日本語の複雑さに辟易して、日本語を
    「悪魔の言語」とよび、悪魔がキリスト教の布教を妨げるため
    に発明した言語であると述べたそうです。最近、友達のアメリ
    カ人の日本語の勉強を手伝っている(教えているというほどで
    はない)のですが、私が日本語は「悪魔の言語」だから難しい
    よと時々言っていたら、彼は古英語やラテン語の複雑さをあげ
    て、別に日本語が一番複雑ではないと反論してきました。そこ
    で、私はこう切り替えしました。

     私が「悪魔の言語」という表現を使うのは、私自身がそう思っ
    ているからではない。そもそも、「悪魔の言語」と言われた理
    由は、日本語がヨーロッパの言語にない特徴を多く有し、ヨー
    ロッパ言語にある特徴がないからだ。つまりヨーロッパを基準
    にして、そこから外れるものを、余計だとか不足だとか非論理
    的だとか言って悪魔に関連付けるのが彼らのいつものやり方だ。
    彼らは自分のことをGOODであると定義するので、その他のもの
    は自動的にBADとなる。これが二元論の恐ろしさだ。私が「悪
    魔の言語」と言ったとき、こういった認識があるんだと言って
    おきました。(別に喧嘩になったりはしていません。念のため。)

     こういった「彼ら」の方法論を理解することがまず大切だと
    思います。斎藤隆夫JOG(282)がキリスト教国について述べたこ
    とも、これに近いと理解しております。このことが分からない
    人たちが、「彼ら」の結論を鵜呑みにして、自虐的な言動に終
    始しているように、私には思えます。しかし、それを理解した
    上で、自分の方法論を展開することが、日本について日本人と
    しての視点を持つ上で必要なことだと考えています。

     また、学校で英語という外国語を勉強する上で英文法の勉強
    をたくさんするのに対し、日本語は母語であるため、あまりそ
    の法則を云々することはありません。そのため、特に日本語に
    興味を持った人以外は学校英文法で日本語を考えているような
    感すらあります。思考の基盤である言語を、よそからの借り物
    の文法に無理矢理当てはめたのでは、きちんとした文章も書け
    ず、思考にも影響を及ぼします。他言語との比較は研究手法と
    しては有用なものですが、本来、日本語は、日本語によって自
    己完結的に記述すべきであり、その他の言語に依存するような
    説明は本物ではありません。

     こういった問題意識は、学部生のころからあり、大学院を終
    えたら趣味として日本語文法の勉強をして、ましな文法理解が
    広まるようにしたいと考えていたのですが、非専門家が文法解
    説をホームページに書いてみたところで大したことにはならな
    いだろうと思い、具体的な方法が見つからないままでした。し
    かし、米国に来て家庭教師として日本語を教えた経験から、辞
    書に改良の余地が大幅にあることに気づきました。日本語の構
    造の理解に役立つ辞書です。辞書なら、うまくできれば、多く
    の人が繰り返し使ってくれます。ものになるかどうかは全く分
    かりませんが、とりあえず自分で行動を起こそうと思っている
    次第です。


    ■ 日本語の「SOV型」は世界の主流 ■
                                               功成さんより

     日本語教師になるべく昨年まで勉強していましたので、今回
    の記事は懐かしくもあり改めて日本語の持つおおらかさを認識
    した次第です。以前中国に留学していた頃に、自動詞と他動詞
    の区別を中国人に聞かれてまともに答えられなかったことなど
    があって、日本語教師を目指す気になりました。

     実際のところ、日本語の文法をまず日本人自身がきっちりと
    理解しないと説明できないですよね。当たり前のことですが、
    話せるからといって教えられるわけではない、ということに気
    付かない人がまだまだ多いように感じます。日本語教師の待遇
    が未だに悪いの理由の一つには、そういったこともあるのでしょ
    う。

     英語がヨーロッパの中で特殊ということですが、世界の言語
    から見ても英語を始めとする「SVO型」は、日本語などの
    「SOV型」より少ないそうです。日本人が特殊だと思ってい
    る形は、実は世界の主流であって、欧米以外の地域に目を向け
    れば、仲間はたくさんいるということなのでしょうね。


    ■ 日本の言語学者もふがいない ■
                                       言語学愛好家さんより

     今回の文法のお話、興味深く、というか、感慨深く読ませて
    いただきました。

     実は小生、日本語のいわゆる無主語文の主語は「省略」され
    ているのではなく初めからないのだ、といった趣旨の論文をさ
    るインターナショナルなジャーナルに投稿したことがあります。

     2年近く待たされた挙句に送られてきたコメントが「勉強不
    足で論理にあやまりがある」でした。当然ジャーナルへの掲載
    はなし。これを読めとあったのが、米国でご活躍の大先生(日
    本人)のお名前。しかもたった一名。小生は明治の山田孝雄、
    大正の松下大三郎、昭和の三上章などの理論を紹介し実例も当
    然交え論じたのですが、学問の世界も英語的イデオロギーに汚
    染されていると感じた次第です。

     しかしながら、日本の言語学者もふがいない。新しい理論が
    西洋から(特にアメリカから)もたらされることを期待し、連
    中が書いた入門書を読み、その理論を文法分析に用いるだけで
    あとは何もしないのですから。日本の学問的自立が求められて
    います。拙見を聞いていただき感謝いたします。


    ■ 「〜する」表現に見る日本語の懐の深さ ■
                                               亮平さんより
                                               
     私も、中学生から学校の授業を入り口に英語をはじめ、早や
    10数年ですが、一向に英語の実力が上がらない、「典型的な
    日本人」なのかなと、そう思っているのですが、英語を勉強す
    ればするほど、「学校で習った文法」というものに疑問を感じ
    ております。

    「この表現、英語でどうやって、表すのだろう」と疑問に思っ
    たとき、まず最初に引っかかってくるのは、主語です。英語で
    はまず最初に主語が来るのが大原則であることもあり、一番最
    初に引っかかってしまい、結局最初から放棄してしまうという
    のがほとんどなのですが、たしかに「英語は「する」表現が中
    心なので、主語としての行為者が先頭に立つ。それに対して、
    日本語は「ある」表現中心であり行為者は、どうしても必要な
    場合以外は陰に隠れているのである。」という考え方を、持っ
    てないと一生英語からは見放されたままなんだろうと、納得し
    ました(納得したからといって、出来るようにはならないのが、
    悲しいところですが)。

     私が個人的に、「日本語のこれは」という表現では、「〜す
    る」というのがあります。日本語は、「〜する」という言い方
    をしてしまえば、何でも出来てしまうというのがあると思いま
    す。「学校に行きます」でも「通学します」でも同じ意味です
    けど、「通学」のように名詞をつけて、「する」といえばいい
    というのは、名詞さえ覚えてしまえばいいわけですから、ごく
    簡単だと考えます。しかもこの「通学」という名詞は、名詞と
    してちゃんとどこに当てはめても通用します。

     英語にはこの表現がないばかりに、英語ではわざわざいろん
    な動詞をを覚えなくては話せないということになります。しか
    も英語は、アルファベットの羅列であるため、機械的に暗記せ
    ざるを得ないという、なんとも非効率な感じがするわけです。
    「通」と「学」とそれぞれ意味を持っていて、「通勤」「交通」
    「流通」、「学生」「留学」などと別のところに持ってこられ
    るというのも一度覚えてしまえば、日本語の場合、どんどん言
    葉が広がっていくわけですから。

     ただ、これに関しては、日本人に生まれたから日本語が簡単
    に感じるのかもしれませんけど、この「する」という表現は、
    日本語の、さらに言えば日本の懐の深さをも感じるわけです。

     このするという表現さえ使えば、外来語ですら日本語として
    使えてしまいます。「メールする」なんていうのは、ちょうど
    今の私の状況ですが、どんな言語の言葉が入ってきても、日本
    語化してしまう便利さを考えてみれば、海外から取り入れたも
    のをどんどんと日本化してきて、更なる高みへと発展させてき
    た日本人の特性を感じます。よくよく考えれば「通学する」だっ
    て昔の人が、中国から輸入した言葉を、日本語化した結果です
    が。

     私は、言語学者でもなんでもないので、上のはあくまで個人
    的な思い込みで書いてますので、おおいに間違いがあるとは思
    います。

     最後に、外国語を勉強して常々思うのは、すべての基本は母
    国語にあるのかなということです。たとえば英語の文章を読ん
    でいて、意味を理解しようと思うとき、必ずその英語の文章と
    日本語とを対比させるという作業があるわけで、日本語をきち
    んと操れる人ほどよりその英語の文章を豊かに理解できるので
    はと思っております。今の日本の英語教育での「直訳日本語」、
    それは文章中で言う「日本語には英文法から導入された『主語』
    の概念は不要かつ有害である」という部分に大きく表されてい
    ると思いますが、これを辞めない限り、英語教育の低年齢化は、
    正しくない日本語を蔓延させるだけで、そのうちに我々も「私
    はあなたを愛してます。」と言うようになっているかもしれま
    せん。


    ■ 言語は文化と不可分 ■
                                             Yutakaさんより

     言語はその言語を使用する人間の持つ文化と不可分な関係に
    あり、極端なことを言えばある日本語の単語に完全に相当する
    外国語はないと言えます。何故ならどのような言葉にもその
    意味と同時にCONNOTATIONと呼ばれる暗示的な意味や感情的な
    含みがあるためです。

     良く引かれる例として、鶴と言う言葉を聴いたとき、日本人
    は清楚で凛とした鳥を思い浮かべ、また目出度い鳥と理解しま
    すが、欧米では鶴は縁起の悪い鳥とされてい ます。要するに
    言語の学習とは同時に文化の学習でもあるわけで、この点をま
    ず学習者も指導者も理解しておく必要があると考えます。

     言語はどの言語であってもその優劣はなく主語があるから進
    んでいるなどと言う議論は噴飯物です。文法について言えば、
    どのような文法的な説明にも例外があることや単語に男性女性 
    中性の区別が何の論理的根拠も無く存在することからしても余
    り文法を重視することは如何かと考えます。

     小生は大学で外国語を専攻しましたが、言語の習得にあたっ
    て文法書がそれほど役にたったとは思えません。所詮文法は存
    在する言語に後から理屈をつけるものでしかないことを知るべ
    きと思います。個人的な経験ですが文法に拘泥するタイプの人
    は言語習得がうまくゆかなかったように思います。
 

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