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■■ Japan On the Globe(518)■ 国際派日本人養成講座 ■■■■

             人物探訪: 武人の母・松尾まつ枝
    
                        武人の母の振る舞いはオーストラリア
                       国民の間に感動と称賛引き起こした。
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■1.日本海軍軍人を弔ったオーストラリア海軍葬■

     1942(昭和17)年6月9日、大東亜戦争が始まって半年ほ
    ど過ぎた頃、オーストラリアのシドニー近郊ロックウッド・ク
    リマトア斎場で海軍葬が挙行された。弔われるのは豪州の軍人
    ではない。敵国日本の海軍軍人4人であった。

     5月31日、特殊潜行艇3隻がシドニー港に潜入し、軍艦ク
    タバルを魚雷で撃沈したが、それぞれオーストラリア海軍の砲
    撃、爆雷、防潜網などにより、沈没した。オーストラリア海軍
    は、日本軍人の勇気に感銘を受け、引き上げられた2隻の4人
    を海軍葬の礼をもって弔うことにしたのである。

     葬儀の模様は、オーストラリア全国にラジオ放送された。そ
    の実況録音盤が残されている。アナウンサーはこう語っている。

         情景は静粛簡素そのものです。自分たちの国のために命
        を捧げた四人の勇敢な人びとの火葬の儀式が、今や挙行さ
        れんとしています。

         現在日本という国が行っている政策に対しては、我々は
        憎悪していますが、祖国のために勇敢に死んだ人たちは、
        別個のものであります。勇敢に戦って死んだすべての人た
        ちは、世界中で賞め讃えられなければなりません。

         この葬儀場では、死を悼む者(JOG注: 故人の遺族や友
        人)の姿はありませんが、多数の人びとは尊敬の念をもっ
        て列席しています。私(アナウンサー)の前に見えるのは、
        海軍高級将校、制服姿の特派従軍記者、新聞記者、放送関
        係者等と、それに一般参列者たちで、いずれの顔にも感激
        の表情が現れています。

         ただ今、二列の海軍儀仗隊が整列しました。そして号令
        がかけられました。「海軍儀仗隊! 捧げ銃(つつ)!」

         日本海軍将兵たちの柩が、二列の儀仗隊の中間を、ゆる
        やかに運ばれて行きます。

■2.日本軍人の勇気を讃えるオーストラリア軍人の騎士道精神■

     潜行艇を送り込んだ日本の潜水艦は、シドニーの近海で3隻
    の輸送船を撃沈し、市街に砲撃も加えていたので、恐怖に戦
    (おのの)いていた市民の間からは、敵国軍人への海軍葬に対
    して非難の声もあがっていた。

     海軍葬を進めたシドニー地区海軍司令官ムアヘッド・グール
    ド少将は6月下旬に、戦時公債募集応援演説に立ったとき、海
    軍葬を執り行った理由に言及した。この演説は全国に放送され
    て、大きな感銘を呼んだ。

         私は敵国軍人を海軍葬の礼をもって弔うことに反対する
        諸君に聞きたい。勇敢な軍人に対して名誉ある儀礼をつく
        すことが、なぜいけないのか。勇気は一民族の私有物でも
        なければ、伝統でもない。これら日本の海軍軍人によって
        示された勇気は、誰も認めるべきであり、一様に讃えるべ
        きものである。このように鉄の棺桶に乗って死地に赴くに
        は、最高の勇気がいる。これら勇士の犠牲的精神の千分の
        一でも持って、祖国に捧げるオーストラリア人が、果たし
        て何人いるであろうか。

     日本軍人の発揮した武士道精神に、オーストラリア軍人の騎
    士道精神が共鳴したのである。

     8月13日、オーストラリア政府は4人の遺骨を駐豪公使
    ・河相達夫氏に手に託した。公使は戦時交換船・鎌倉丸に乗っ
    て、10月9日、遺骨を横浜港に持ち帰った。遺族はじめ、軍
    官民にわたる各界の人々が遺骨を出迎えた。
    
■3.松尾中尉の千人針■
    
     オーストラリアの首都キャンベラ市の南郊エインスライ山中
    腹にオーストラリア戦争記念館がある。館内の青銅の壁には、
    戦死者10万2千名の名前が彫り込まれている。日本の靖国神
    社にあたる施設である。

     この記念館の正面左側の芝生に、特殊潜行艇が安置されてい
    る。引き上げられた2隻の前部と後部を組み合わせたものだ。

     記念館の中には、搭乗員・松尾敬宇(けいう)中佐(戦死後、
    大尉から特進)の搭乗帽や腹に巻かれていた千人針が展示され
    ている。千人針とは白または黄色のさらし布に、赤糸で一針ず
    つ千人の女性が縫う。その千人針には「祈武運長久」とあり、
    松尾中尉の家族の名前が墨ではっきり書かれていた。

     松尾中佐らの乗った潜行艇は軍港の奥深くに進入したが、豪
    海軍による爆雷攻撃で身動きがとれなくなったため、艇を自沈
    させ、拳銃で自決した。その時に腹に巻いていた千人針は松尾
    大尉の血に染まっていた。
    
■4.吾子(あこ)の香(か)の移りし布■

     昭和38年10月、戦争記念館・マックグレース館長は熊本
    在住の松尾中佐の遺族へのつてを得て、「ご子息の遺品は潜行
    艇とともに大事に保管してあります」という手紙を送った。

     手紙を受け取った松尾大尉の母・まつ枝刀自(とじ、年配の
    女性への敬称)は、その時に次の歌を詠んだ。

        吾子(あこ)の香(か)の移りし布のしのばれて温めずや
        と待ちにしものを

     まつ枝刀自は[1]の著者・名越二荒之助(なごしふたらのす
    け)氏にこう語った。

         この歌を作りながら、出撃の前夜、26歳の我が子を抱
        いて寝た時の思いが去来してどうすることもできませんで
        した。もう一度でよいから、「吾子の香の移りし布」を抱
        きしめて寝てみたいと思いました。

     昭和40年7月、マックグレース館長は来日して、松尾家を
    訪問し、松尾敬宇中佐の墓にも詣でた。まつ枝刀自は酒好きな
    我が子のために、特産の地酒を持ち帰って、記念館にある潜行
    艇に供えて欲しい」と願い出た。

     館長は快く引き受け、帰国後、地酒を特殊潜行艇に注ぎ、松
    尾中佐らの冥福を祈った。
    
■5.「勇者の母」来る■

     九州大学名誉教授の松本唯一博士は、昭和39年、地質学の
    研究でオーストラリアを視察したが、その際に戦争記念館に立
    ち寄った。そこで潜行艇と松尾中佐の遺品を見て、母堂のオー
    ストラリア訪問を実現させたいと決心し、78歳の高齢にも関
    わらず、資金集めに乗り出した。自分の家屋敷を売り払い、そ
    の美挙に心打たれた教え子や旧海軍関係者など2,452名も
    の人々が志を寄せて、408万円が集まった。

     こうして昭和43年4月、80余歳のまつ枝刀自、松尾中佐
    の実姉・佐伯ふじさん、松本博士の3人がオーストラリアに向
    けて出発した。この時の刀自の歌。

        とつ国(外国)のあつき情けにこたえばやと老いを忘れて
        いさみ旅立つ

     オーストラリアの新聞は、この歌を翻訳して、「勇者の母」
    を連日にわたって大きく報道した。そしてシドニーでの模様を
    次のように伝えた。

         28日シドニーに着いた一行は、オーストラリア海軍、
        日本総領事館代表の暖かい歓迎を受けた。29日朝オース
        トラリア海軍のランチで湾内を見学、当時特殊潜行艇が沈
        んだあたりで、付き添いの松本教授が和歌を朗詠、まつ枝
        さんが花束と日本酒と(JOG注: 歌の書かれた)色紙を海中
        に投げ入れて慰霊した。

     松本博士の朗詠した和歌は、まつ枝さんの次の2首である。

        みんなみの海の勇士に捧げばやとはるばるもちしふるさと
        の花

        花を追う色紙波間にみえかくれいつかは六つの霊に届かむ

     刀自は我が子だけでなく、3艇6人の慰霊に来たのであった。

     その後一行はシドニーの中心部にある戦争祈念碑に花束を捧
    げ、オーストラリア軍の英霊に長い間黙祷を捧げた。沿道を埋
    めた人々から割れるような拍手と、「なんという健気な母親だ」
    という声があがり、進み出て握手を求める女性もいた。
        
■6.「父をよぶこゑ母をよぶこゑ」■

      5月1日、一行はキャンベラに飛び、戦争記念館を訪れた。
     マックグレース氏の後任、ランカスター館長が出迎え、芝生
     に安置している特殊潜行艇に案内した。松本博士はその時の
     様子を次のように記している。

         刀自はカメラの放列の中を静かに艇に近づいた。なかに
        は仰向けになってまで刀自の顔をとらえようとするカメラ
        マンもいる。

         私は刀自の手をとって共々一歩一歩足を運んでいるうち
        に、刀自の五体の震い戦(おのの)きが私の体に伝わって
        くる。ブルブルとうち震ふ右手は恐る恐る艇に近づき、一
        指も触れてはならぬいとも尊きものに対してかの如く、触
        れんとして触れず、辛くも触れては艇を愛撫された。

         先ず外側を一周し、切断された処をS字型に曲がって潜
        望鏡の真下、恐らくは松尾艇長が座っていたであろう箇所
        を、刀自はしみじみと眼を見張られた。葉親会からの可愛
        い花輪と菊池の神酒は、そこに供えられた。

     その時の刀自の歌。

        愛艇に四つのたましい生き生きて父をよぶこゑ母をよぶこ
        ゑ

     刀自は名越氏に「艇を撫でておりましたら、本当に奥の方か
    ら、お父さん、お母さんという声が聞こえてきました。それを
    そのまま書きました」述べている。
    
■7.「カメラマンたちの、シャッターを切る音がとだえた」■

     続いて、記念館に入ると、松尾艇長が最期まで腹に巻いてい
    た千人針が差し出された。その様子は居合わせた人によって次
    のように描写されている。

         館長がまずまつ枝さんを椅子に座らせ、静かに千人針を
        抱かせた。白木の額ぶちに納められた、それは血染めの千
        人針だった。および腰でその額を握ったまつ枝さんは、小
        刻みにふるえ、椅子の中で大きく揺れた。

         千人針の上にポタポタと涙が落ち、椅子から転げ落ちそ
        うになって、館長の手にしがみつく。カメラマンたちの、
        シャッターを切る音がとだえた。静まり返ったその一室で、
        まつ枝さんを抱きしめている館長の嗚咽が、耳朶(じだ)
        を打った。・・・

         当時豪洲海軍が行った葬儀のとき、弔銃を射ちはなつ
        12名の水兵の右翼で、ラッパを吹奏したという、一人の
        元水兵が訪ねてきた。彼はまつ枝さんの頬に熱い口づけを
        し、両手をおし頂くようにしてから、松尾艇の勇気をほめ
        たたえた。
        
■8.折々かへれ母が夢路に■

     5月2日には海軍省にスミス幕僚長を訪ね、続いてゴートン
    首相とも会談した。刀自は「豪洲海軍が戦争のさ中に、わが戦
    士に示された行為は、英国騎士道の発露であり、心から感謝し
    ます」と挨拶した。

     幕僚長は「それ(海軍葬)は、日本人が示した勇敢さに対す
    る当然の義務です。それにしてもはるばる訪豪されたお母さん
    の勇気に、改めて敬意を表します」と答えた。

     続いて、ゴートン首相は「お母さんは、立派な子息を持たれ
    て、うらやましい気がします。あなたのお子さんは我々オース
    トラリア国民に、真の勇気とは何であるか、真の愛国心とは何
    であるかを、身をもって示してくださった。心からお礼を申し
    上げます」と述べた。

     続いて行われた記者会見では、ある若い記者が「お母さんは
    最愛の子供を失ってさぞ淋しいでしょう」と述べた。刀自は
    「日本では国に忠義をつくすことが本当の親孝行になるのです。
    私の子供は大きな孝行をしてくれました。すこしも淋しいとは
    思いません。心から満足しています」と答えた。

     武人の母としての言である。しかし、最愛の息子を失った時、
    刀自は次の2首を詠んでいる。

        君がため散れと育てし花なれど嵐のあとの庭さびしけれ
        靖国の社(やしろ)に友と睦むとも折々かへれ母が夢路に
        
■9.武人の母■

     5月8日、一行は羽田空港に帰着した。空港には松尾中佐の
    同級生や郷土の知人ら約50人が出迎えた。まつ枝刀自は空港
    特別待合室で、額に入った血染めの千人針を披露した。そして、
    次の歌を読み上げて、声をつまらせた。

        三十年(みそとせ)の長き願ひのお礼ごとはたして安しけ
        ふの喜び

     刀自一行の旅は、オーストラリアでは全国的な称賛と感動で
    迎えられたが、日本ではほとんど黙殺された。あるテレビ局が
    刀自に取材に来た時に、事前打ち合わせで「お母さん、取材の
    途中で何を言われてもよりしいが、最後は戦争は嫌だ、という
    言葉で結んでください」と頼んだ。

     刀自は「戦争が好きな者はいません。しかし外国から無理難
    題をいわれれば、やらなければならない場合もあります」と答
    えて、テレビ局の依頼を断った。刀自は後に「戦争がいやだと
    いうだけで、日本が護れましょうか」ともらしている。

     昭和55年1月23日、95歳になっていた刀自はベッドか
    ら起きあがると、孫の松尾和子さんに、紋付きの羽織を出して
    貰いたいと頼んだ。羽織を着ると、「どうやらお迎えがきたよ
    うだ」と言い、手をついて長い間世話してくれた松尾さんにお
    礼の言葉を述べた。そして横になるとそのまま深い眠りに入り、
    翌24日未明、永眠した。最期まで武人の母としての凛とした
    生涯であった。
                                         (文責:伊勢雅臣)

■リンク■
a. JOG(037) 恩讐の彼方に
    日本での強制労働中に無念の死を遂げた戦友の名を刻んだ立
   派な御影石の墓碑に驚き、感動したイギリス人元捕虜の一人は
   涙ぐみながらつぶやいた。「ようやく私の戦後が終わった」 
b. JOG(153) 海ゆかば〜慰霊が開く思いやりの心
    慰霊とは、死者のなした自己犠牲という最高の思いやりを生
   者が受け止め、継承する儀式である。
c. Wing(1352) シドニー沖での日豪慰霊祭

■参考■(お勧め度、★★★★:必読〜★:専門家向け)
  →アドレスをクリックすると、本の紹介画面に飛びます。

1. 名越二荒之助『大東亜戦争を見直そう―アジア解放の理想と花
   開く武士道物語』★★★、明成社、H19

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■「武人の母・松尾まつ枝」に寄せられたおたより

■信じるものを持たず、守るべきものを持たない社会■
                                               圭子さんより

     率直に、とても感動いたしました。まさに、日本人の素敵な
    心を持った家族のお話でした。

     明治生まれの我が祖父の「自分のもっとも輝いていた時期は、
    軍隊で出発を待っていた日々だった」との言。終戦を迎え戦地
    に赴くことはなかったのですが、幼少の私は正直、「何で戦争
    に行くことが輝いていた時期なのか」と意味が分からず、むし
    ろ不信に思っていました。

     大学時代に初めて、戦後の学校教育の実態に気付き、そこか
    ら色々勉強して、日本文化を初めて誇りに思うようになりまし
    た。

     現在小児科研修医として働いていますが、自分自身に自信が
    持てず、日常に価値を見出せず、「流行っているから」と自ら
    をリストカットする子どもの多さに、当初は困惑しました。子
    ども自身の所在の不明瞭感は、両親の不安にも起因します。現
    在の社会が全体として、信じるものを持たず、守るべきものを
    持たない。自らを愛せない者が、どうして他者を愛せるでしょ
    うか。今の日本では、世界平和も空しく響くだけです。

     そろそろ、真実に目を向ける時期が来ています。一人でも多
    くに、このような素晴らしいお話を伝えたいと思います。そし
    て、自らも日常の中で、できることを実行していきたいと思い
    ます。

 
■靖国を批判する勢力に向かって堂々と突きつけるべき言葉■
                                               新田さんより

     これまでも貴誌でオーストラリアで果てた特殊潜航艇の話は
    深い感動をもって読ませていただきましたが、今回も涙なくし
    ては読むことが出来ませんでした

     海軍葬を執り行った少将の

         勇敢な軍人に対して名誉ある儀礼をつくすことが、なぜ
        いけないのか。勇気は一民族の私有物でもなければ、伝統
        でもない。これら日本の海軍軍人によって示された勇気は、
        誰も認めるべきであり、一様に讃えるべきものである。こ
        のように鉄の棺桶に乗って死地に赴くには、最高の勇気が
        いる。これら勇士の犠牲的精神の千分の一でも持って、祖
        国に捧げるオーストラリア人が、果たして何人いるであろ
        うか。

     この一節こそ今の日本政府が靖国を批判する勢力に向かって
    堂々と突きつけるべき言葉だと思います。このような当たり前
    の事を口にも出来ない政治家やマスコミが日本国を跋扈して迷
    走させていると確信します。戦後六十有余年、いまはっきりと
    その膿が出始め心棒を失った日本は世界を漂流しつつあると思
    います。お国のために一命を捧げた全ての兵士の思いに報える
    ような日本にいつ成ることが出来るのでしょうか。松尾大尉は
    じめ名もなき一兵士の捧げてくださった尊き命が称えられる日
    本になる日が来るために少しでも力が尽くせればと思います。


■いまだ日本政府が気が付かない言葉■
                                        super-bingoさんより

     久しぶりに読んで泣けました。恥ずかしながらこの話は全く
    知りませんでした。

     騎士道精神に則ったオーストラリア人の懐の大きさがよく分
    かりました。シドニー地区海軍司令官ムアヘッド・グールド少
    将のような軍人がどれだけ日本軍にいたのか、考えさせられま
    した。

     しかし情けないのは、我国ではほとんど黙殺されていたとい
    うことと、事前打ち合わせで結びを頼んだTV局のクルー
    ・・・情けなさ過ぎです。刀自は後に「戦争がいやだというだ
    けで、日本が護れましょうか」ともらされた一言が、いまだ日
    本政府が気が付かない言葉ではないでしょうか?


■母をおもいだします■
                                       老元海軍士官さんより
     有り難く拝読しました。

     戦時体制にはいるや、息子は戦死したものとあきらめて、故
    意に、手紙もださず、私の写真を仏壇に飾ってしまった、母を
    おもいだします。これは、強力な責任感によるもののようでし
    た。

     本職の軍人の私に,後顧の憂いを持たせてはならぬ、人様の
    大事な息子を多くお預かりするのだから、心気明朗でなければ
    ならぬ、と考えた末、のことでしょう。心の中では,激悲して
    いたことでしょう。

     今、母を慕い、戦死された方々とご家族の悲しみに想いをい
    たし、涙しながらメールを書きました。


■武人の伝統のある国家、民族■
                                           トラネコさんより

    「日本海軍軍人を弔ったオーストラリア海軍」を読んで思った
    ことがあります。私は映画が好きで、第二次大戦の戦争ドラマ
    をよく観ています。そのなかには今回の記事のように本来殺し
    合う立場の敵同士が、時として相手に尊敬の念や人間愛を抱き
    あうような場面がしばしば出てきます。

     例えば、「眼下の敵」では名優ロバート・ミッチャムの駆逐
    艦艦長とクルト・ユルゲンスのUボート艦長の頭脳戦をたくみ
    に描き、最後は互いの艦が航行不能になるが、敵味方なく助け
    合う姿に熱いものがこみ上げてきたのを覚えています。この話
    はフィクションですが、これと似た話は実際にいくつもあった
    と思います。あったからこそ映画の題材にもなったのでしょう。

     殺し合いの極致である戦争の真っ最中においても人間性を喪
    失せず、憎き敵にも武人の崇高さを感じそれに対応できる精神
    は、武人の伝統のある国家、民族にしかないのだなと感じまし
    た。

     第二次大戦では日本はある意味世界を敵に回し孤軍奮闘した
    わけですが、日本は武士道の国であり、敵のイギリスは騎士道
    の国、同じアングロサクソンのアメリカ、オーストラリアも騎
    士道精神を引き継いでいたのでしょう。またドイツも同じく騎
    士道がありました。そういった武人の伝統文化のある国との戦
    いには記事のような戦場美談が生まれるのでしょう。

     ところが戦後の朝鮮戦争やベトナム戦争では、映画の描き方
    も悲惨そのものの描写が殆どで戦場での美談らしきエピソード
    につては私は知りません。おそらく共産主義と資本主義という
    イデオロギーが主体の戦争は、ある意味宗教戦争と同じで敵に
    対する寛容さ敬意や尊厳を否定した戦争だったのでしょう。

     また兵士の民度の差も戦争を一層残酷にする要素となったか
    もしれません。さらに兵器の進歩で人間不在の大量破壊が可能
    になったこともあるでしょう。

     物質文明の発展は精神文化の退化という反比例の図式を感じ
    てしまいました。

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